未分類



2019年多摩高祭

8/31、9/1 文化祭
9/7 体育祭 が行われました。

多摩高同窓会では、毎年審査員をさせていただいております
今年は、山田大輔副会長(39期)野球部、秋組団長が審査員をつとめました。

写真は、文化祭の支援、体育祭の審査員をさせていただいた時に撮影したものです。
※高校生には配慮しておりますが、問題ありましたらご連絡ください。

体育祭



文化祭




 

平成30年度 臨時幹事会(2018.11.04)のお知らせ

日頃より同窓会運営にご協力いただきまして有難うございます。
以下の通り平成30年度臨時幹事会を開催いたします。
ご多忙中とは存じますが、万障お繰り合わせの上、ご出席くださいますようお願い致します。


*************** 臨時幹事会のご案内 *****************

日時:2018年 11月4日(日)
   幹事会 15:00~17:00
   懇親会 17:20~19:20
      
場所:幹事会 川崎市総合自治会館 第1会議室

〒211-0063 川崎市中原区小杉町3-1 (武蔵小杉駅 徒歩7分)
電話 044(733)1232 
         
親睦会 串駒 川崎市中原区小杉町3-430 (武蔵小杉駅近く)       
    電話  044(711)3929
(会費 3,000円 55期~60期は1,000円)

議事
1.講演 
   講師: 株式会社JALUX(防衛担当顧問)石崎 敦士氏(22期)
   演題: パキスタン国際緊急援助隊の所見
        
2.会費・寄付金のコンビニ振込について
3.創立60周年記念事業について
4.同窓会に対するご意見希望についての意見交換
5.参加者の自己紹介

※誠に恐縮ですが、座席・資料等の準備の都合がありますので、
10/25(木)までに 下記ご記入の上 返信をご送付くださいます
ようお願い致します。
なお、欠席の方も必ず返信をお願いいたします。


※当日の連絡先は、事務局 080-5540-1948にお願いします。


*******************************************
神奈川県立多摩高等学校同窓会幹事会に
〔  〕出席します
〔 〕欠席しますので 議決に関しては
            議長に委任します

〔   期〕 
氏名:
連絡先に変更のある方はお書き込み下さい 
***************************************
 神奈川県立多摩高等学校同窓会事務局
 044-920-9811(TEL・FAX)
 事務局:info☆tamadou.jp
  ※☆を@に変換して送信をお願いします。
 URL: https://www.tamadou.jp/
@-----------------@


※前回の幹事会(2018.05.27)開催時の集合写真です

8月上旬より、同窓会事務局より会報誌と会費・寄付金の振込用紙を送らせていただいています。  

 コンビニ振込の用紙も同封させていただいてます。コンビニの振り込み取り扱い期限は9月末日になります。

 便利なコンビニ振込でご協力お願いします。  なお、郵便局振込は10月以降も受け付けております。  

 本年度の同窓会の事業計画、収支計画は、こちらをご参照ください。  
 https://www.tamadou.jp/?p=1074

 
  どうぞよろしくおねがいします。








 
3期生第17回同期会開催のお知らせ

三期生の皆様、今年のこの厳しい夏を恙なくお過ごしですか。
三期生皆様全員が「後期高齢者」になりました。昨年参加の皆様からの
ご好評につき、「みなとみらい-21」の同じ会場で開催いたします。
人生100年と言われております。大勢の参加を頂き、人生談義、そして飲み
食べて、楽しいひと時を過ごしたいと思います。
 
「第17回三期会開催」
日時:平成30年11月1日木曜日 13時~16時
場所:県民共済ビル、メルベーユ(6階ヴァランセ)
   JR根岸線、市営地下鉄桜木町駅徒歩8分

※写真は昨年2017.11.01開催時のものです。

 
◎ご案内状は、9月初旬に発送致します。
幹事長:天野明彦、事務局:塚越 勲
 幹事:安藤敏子、林 昭子、森井幹男、大隅和子、高野安正、井上菖子
    石垣英樹、大久保武夫、岩間和彦
                            文責:塚越 勲
 3月17日(土)、母校会議室で若手幹事会が開催され、卒業したばかりの60期生の同窓会幹事12名および59期生5名の参加がありました。

 冒頭、同窓会長から自身の高校卒業後、同窓会とのかかわりをもつにいたった経験をふまえ、同窓会の目的・ネットワーク活動の意義などを織り交ぜた挨拶のあと参加者の自己紹介、60期生の同窓会幹事代表・副幹事を選出しました。

 いうまでもなく同窓会を持続的に活性化させるためには、若い世代の同窓会への積極的な参加がかかせません。ここ数年、卒業生の同窓会加入率がほぼ100%を達成し、若手幹事会も活況を呈していることは喜ばしいことです。若い世代の同窓会での活躍が期待されます。
 
参加者 (◎:代表 ○:副代表)
(60期生)
鶴崎弘晃 内藤 毅 仁藤晴暉 ◎城戸口健太 中垣槙悟 鳥居佳央 ○渡邊悠介 
横須賀恵 高橋英也 北沢 葵 ◎島田美加子 中村瑠衣
(59期生)
◎船木創太 ○山口泰暉  嵯峨伊吹  櫻井萌々香  安井亮暢 


 


 
第13回 多摩高等学校4期同期会開催の報告 
 
実施日 2017(平成29)年11月18日(土) 12:00~15:30
会場   武蔵小杉:ホテル精養軒(川崎市中原区)
出席者 【来賓】    恩師      古谷嘉邦先生 
                同窓会    殿川一郎会長 
     【同期生】  30名 (計32名)
 
 第13回の4期同期会が武蔵小杉ホテル精養軒にて開催されましたので、報告します。
三浦先生(3年7組担任)は別件と重なりご欠席との連絡がありました。
会場のホワイトボードに多摩高改築完成予想図の写真、多摩高近景写真、所在不明者
&物故者リスト、櫻井義英先生(3年5組担任)、同期生訃報などが掲示されました。
 
 今回は6組の児玉伸一君、竹内碩郎君、貝原紘一君、辻伸君、安藤(安藤)裕子さん、
の5名が開催幹事となり、4回の幹事会を重ね、企画実施の準備をしてきました。
助っ人として7名の方々に加わっていただきました。1組の石垣(庭山)悠子さん、関口(朝
比奈)サトミさん、森田(高橋)詔子さん、5組の木原(持田)さん、斉藤(松井)朋子さんには
受付を、2君の吉原汪哲君には集合写真、スナップ写真撮影を、3組の林三男君には
ADを担当いただき、それぞれ会の運営に携わっていただきました。
 
 一次会をコース料理の食事会および懇親会、二次会をイベントタイム(ビンゴゲーム、
記念写真撮影)の二本立ての構成としました。
テーブルの着席位置は今回もランダムにすることし、受付時抽選にて決定しました。
 一次会は竹内君のアドリブのきいた臨機応変な司会により進められました。
幹事代表児玉君の開会挨拶、7組の西村洋三君の乾杯の音頭で始まり、しばらくして、
来賓のスピーチです。まず恩師の、古谷嘉邦先生(保健体育)から健康第一、思い出、
近況などをお話しいただきました。同窓会の殿川一郎会長(16期)からは校舎建て替え、
同窓会内ネットワークの重要性などのお話しをいただきました。
 美味しい料理と楽しいお喋りを続けている中、受付時不幸にも?抽選に当たってし
まった方々7名からのスピーチがあり、日常の暮らし、多摩高の思い出、健康などの
近況を話していただきました。急なご指名にもかかわらず、快く応じていただき感謝
してます。
懐かしくも楽しい語らいの中で、和気藹々の一次会が終了しました。
 
 二次会は、貝原君のユーモア溢れる司会により進められました。
お待ちかねのビンゴゲームの開始です。辻君と安藤さんがゲーム進行、ゲームマシ
ン操作を担当しました。開始直前に抽選機より抽選玉がこぼれ出るというハプニン
グもありましたが、大騒ぎの中で進められました。
始めは静かに進行していましたが。しばらくして、「リ-チ」「ビンゴ」の声が上がる
ようになり、続いて「ダブルリーチ」「○○番』を出して!」など大声が飛び交い、
おおいに盛り上がりを見せていました。賞品数は20人分個ですので、ビンゴ達成者の
早い者順に渡されました。賞品は、児玉君が特別に近所のメーカーより直接調達した
クッキーの詰合せ20セットでした。 
 続いて、プロカメラマン吉原君による記念写真撮影です。
全員集合、1・7組、2・3組、4・5組、6組、旧1年7組の順で撮影しました。
宴たけなわではありましたが、そろそろ二次会の終了時間が迫ってきました。
ここで、幹事達が中心で歌唱指導のもとで、多摩高校歌を高らか歌いあげました。
 その後、次回幹事候補として、今回出席の7組の西村洋三君、吉浜彰啓君が紹介さ
れ、それぞれより挨拶をいただきました。
 楽しい語らいアトラクションの時間はアットいう間に過ぎてしまい、おひらきの時
間がきてしまいました。6組の高岡信雄の締めで「第13回4期同期会」が事終了しま
した。 
 

『懐かしい 話飛び交う 同期会』  また会いましょう!

 
                                               
          2017.12 吉日       貝原 紘一
          第13回4期会       児玉 伸一 (代表)
          開催幹事           竹内 碩郎
                        辻  伸                   
                        安藤 裕子
 
                                             
    末筆になりましたが、恩師の櫻井義英先生(3年5組担任)、
   1組の高橋(高木)功子さん、長谷川(福島)恵美子さん、3組の芦木正男君、
   4組の本郷(中村)光子さんのご逝去が確認されました。
   ご冥福をお祈りいたします、               
 
3年1組/7組 3年2組/3組
3年4組/5組 3年6組
旧 1年7組 校歌斉唱

 
60周年記念式典が、下記のとおり行われます。

記念事業は、学校側が主体となり、同窓会、PTAの協力のもとに、60周年記念事業実行委員会が立ち上げ、準備をすすめてきました。

記念式典は学校行事ですが、同窓会、PTAの列席用に川崎市教育文化会館の2階席800席を用意いただいております。列席希望の方は是非、お越しください。※事前申込みは不要です。席は先着順自由席です。

また、60周年記念誌(「思い出の旧校舎」動画-静止画DVD付、1,000円)の現地販売も予定しております。
この機会に是非、お買い求めください。
※在校生は無料配布

——————————————————-
多摩高の60周年記念式典、記念講演が開催されます。
時間:14:00~16:00
場所:川崎市教育文化会館
内容 
第1部 記念式典 14:00~14:50
    休憩
第2部 記念講話 15:00~16:00
講演会講師:森川亮 C Channel株式会社代表取締役社長
      元LINE代表取締役社長、多摩高27期
——————————————————-


※以下は「60周年記念誌」より引用


 
川崎のアジサイ寺と偉人 泉田二君をたずねて  
1. 妙楽寺
川崎のアジサイ寺として知られる天台宗妙楽寺は、鎌倉幕府の外郭の境界として、多摩川を眼下に見下ろす長尾丘陵の一角に建てられ、軍事的位置としても重視されていた威光寺の一塔頭が妙楽寺の前身と云われています。この寺院には、頼朝の異母弟であり、源義経の実兄であった阿野全成が住持として入山していた時があった。阿野全成の母は常盤御前。幼名は今若と言った。全成は、平治元年(1159)の平治の乱で父源義朝が平清盛に敗れると醍醐寺に預けられた。時を経て、治承4年(1180)、源頼朝が挙兵すると寺を抜け出し、兄弟のなかで真っ先に頼朝の下に駆けつけた。『吾妻鏡』によれば、平家追討の令旨が下されたことを京都で聞くと、寺を抜け出し修行僧を装って、頼朝の居る下総国へ下ってきた。これを聞いた頼朝は涙を流して喜んだという。幕府成立後、全成は頼朝に、武蔵国長尾山威光寺を与えられた。その後、北条時政の娘保子(阿波局・政子の実妹)を妻とし、駿河国阿野荘が与えられ「阿野」を名乗った。建久3年(1192))8月、頼朝の次男実朝が誕生すると阿波局が乳母となり、全成は乳母夫として養育係となっている。源頼朝の死後、嫡男頼家がその跡を継ぐと、北条時政が、弟の実朝を擁立しようと画策し、全成もそれに加わった。しかし、建仁3年(1203)5月、全成は頼家の命を受けた武田信光に捕らえられ、常陸国へ流された後、6月に誅殺された。全成の跡継ぎは僧門に入ったり、武家になった者は、のちに北条と対立して滅ぼされ絶えた。しかし、娘は藤原北家公佐の室となり、その子実直は阿野を名乗って数代続いた。のちに後醍醐天皇の寵愛を受けた阿野廉子はその末裔である。

 
2、県立東高根自然公園
 川崎市の北部、かつては豊かな森林が広がっていた多摩丘陵の東端近くに位置する。また、多摩川とその支流である平瀬川に囲まれた場所で、古くから森林の中に人々が生活する里山的環境が形成されていた。それを今に伝えるように、周辺では今でも新興住宅地や団地等の中に混じって昔ながらの民家が点在する。しかし、昭和以降の東京圏への人口集中の影響を受け、当公園の立地する多摩丘陵東部にも急速に開発の手が入り、たとえば東名高速道路が造られる際には当公園北部の山を切り通し、または宅地造成なども相次ぎ、その風景は大きく変貌した。そのような開発の過程で、当公園北部(現在の古代芝生広場付近)にて、弥生・古墳時代(推定3〜6世紀頃)の遺跡として、約60軒分の竪穴式住居跡や、ドングリなどの食糧貯蔵穴跡、貝塚などが発見された。また遺跡周囲にはシラカシ林が自然林に近い形で残っており、これが学術的にも非常に価値の高い植物群落であると判明した。それを受けて神奈川県では、これら遺跡とシラカシ自然林を文化財として保護するため、昭和46年(1971)に、史跡および天然記念物に指定。当時の人々が耕作を営んでいたと推測される周囲の谷(現在の湿生植物園)や、里山的環境の様相を色濃く残す雑木林などを含め一体として保全するため、当地は都市公園として整備されることになった。かつて、豊かな自然と多様な生態系を誇っていた多摩丘陵は、近年の急速な開発で様相が激変しているが、ここ東高根森林公園と緑ヶ丘霊園、向ヶ丘遊園跡、生田緑地は概ね東西方向に尾根続きになっており、この一帯で往時の貴重な自然環境を今に伝えるとともに、近隣住民に憩いの場を提供している。春のサクラと新緑、梅雨のアジサイ、秋の紅葉、冬のサザンカは、来園者の目に彩りと季節感を与えている。

 
3 女躰神社
「江戸時代の頃より南河原の「大女様」(おおめさま)として親しまれ、多摩川の鎮めの神様として崇敬されてきた。社伝によれば多摩川と鶴見川に挟まれたこの地は、たびたび大大水に見舞われてきたが、ある年これまでにも無いような大洪水に遇い、田畑も水没し、村人たちの窮状に胸を痛めた一人の女性が、水中に身を投じ、水神の怒りを静めたといわれる。その後は水害も収まったので、村人たちは感謝し、ほこらをまつり遺徳を偲んだのが始まりとされている。」このようなことから、女性の悩みを解決し、願いを叶えてくれる神様、安産の神様として親しまれている
4  妙光寺
日蓮宗妙光寺には、『民間省要』を著し、幕臣に取り立てられた人物として著名な田中休愚の墓があります。田中休愚は、寛文2年(1662)、武蔵国多摩郡平沢村(現・秋川市)の旧家窪島八郎左衛門の次男に生まれ、本名は喜古と言いました。農業の傍らに絹織物の行商なども行ない、やがて武州橘樹郡小向村の田中源左衛門家へも出入りするようになり、これが縁で川崎宿本陣田中兵庫の養子になりました。 宝永元年(1704)には、家督を継いで本陣の当主となり、まもなく問屋・名主も兼帯し、宝永6年には川崎宿財政の建て直しのために、六郷川渡舟権の取り扱いを関東郡代伊奈忠順に上申して許可され、川崎宿の復興と繁栄をもたらす基を築きました。しかし、休愚の活躍は、むしろこの後に本格化します。正徳元年(1711)問屋役などを子の休蔵に譲り、やがて江戸に遊学し、儒学者 荻生徂徠や成島道筑(両人ともに将軍の侍講・相談役)などに学び、享保5年(1720)には、西国行脚にも出ました。50歳を過ぎてからのことです。そして、休愚は同6年にみずからの経験に基づく民政上の意見書『民間省要』を完成させたのでした。同書は翌年、儒学者 成島道筑や町奉行大岡忠相によって将軍吉宗へ献上され、休愚が民政へ従事する契機になりました。享保8年には、早速、十人扶持が給され、その当時の普請関係の役人として天下に名の知られていた井沢弥惣兵衛(見沼代用水・運河を完成させた幕臣)の指揮のもと、荒川、多摩川、六郷用水・二ヶ領用水の普請に従事しました。さらに享保11年には、これらの事績が認められ、町奉行 大岡忠相の指揮下に入り、宝永の富士山噴火後、水災害に悩む酒匂川の治水工事を行うことを命じられます。この工事は難工事で関東郡代 伊奈忠順や小田原藩も手をこまねいていたものです。しかし、休愚は地元農民の力を巧みに引き出し、伊那の期待に応える成果を収めました。 幕府は、これを高く評価し、享保14年7月、休愚を、武州多摩川周辺3万石余を支配する勘定(かんじょう)支配(しはい)格(かく)(代官)に抜擢しました。しかし、惜しいことに5ヶ月後の12月22日には、江戸の役宅に没したのでした。享年68歳。妙光寺の休愚の墓の周辺には、彼の手代達なども発起人に加わり建立された灯籠や、彼の子で跡を継いで代官となった休蔵による休愚の碑文、そして、その休蔵の墓をはじめ、田中家代々の墓があります。

 
5  稲毛神社
稲毛神社は、明治以前は「川崎山王社」と称し、現在も氏子の間では「山王さん」の名で親しまれています。社伝では欽明天皇の時代(6世紀頃)に鎮座したといい、平安時代には近江坂本の日吉大社の御分霊を勧請し、河崎庄の鎮守社であったと云われている。江戸時代に編さんされた『新編武蔵風土記稿』では、源頼朝の頃、佐々木高綱が奉行となって社殿を造営したと伝えています。室町時代の応永11年(1404)に草稿された「長弁私案抄」には「武州河崎郷山王社」へ大般若経書写奉納の勧進を行ったと記されています。江戸時代に入ると、天正20年(1592)に代官頭伊奈忠次の検地によって、朱印地20石が安堵されています。江戸時代を通し、東海道川崎宿の総鎮守として人々の崇敬を集め、師走27日には境内に市が立って賑わいました。 安政5年(1858)夏、コレラ流行のさい、宿民が昼夜裸参りをして無事を祈願しています。夏の例祭は山王祭と呼ばれ、「東都歳時記」には町中に花出しや踊りが繰り出される賑わいを見せた大祭だったことが記されています。境内には享保14年(1729)、田中休愚の手代衆らによって奉納された手洗石や、寛保2年(1742)の洪水で破損した小土呂橋の一部が保存されています。
6  妙遠寺
妙遠寺境内には二ヶ領(稲毛・川崎)用水を完成させ、部落民の定着も図った小泉次大夫夫と川崎中興の祖といわれた田中休愚の、偉業を讃える「泉田二君功徳碑」・小泉次大夫夫婦の逆修塔があります。
小泉次大夫(天文 8年(1539)~ 元和 9年(1623)は、今川義元家臣・植松泰清の長男・吉次として、現在の静岡県富士宮市小泉付近で、出生しました。もともと植松家は樋(とい)という代官(用水奉行)を務めていて、徳川家康が、姓の植松と呼ばず、居住地の小泉と呼んでいたことから、小泉次太夫と名乗るようになりました。 天正18年(1590)、小泉次大夫は多摩川から農業用水を引く用水路敷設を進言して徳川家康により採用され、以降、稲毛・川崎領(現・川崎市)に居を移して住み、用水奉行の任に就いた。 そして、慶長 2年(1597)、二ヶ領用水、六郷用水(現・狛江市、世田谷区、大田区の農業用水)の建設に着手しました。二ヶ領用水は、多摩川に2箇所の堰(せき)を設けて一つは上河原堰、もうひとつは宿河原堰から取水しました。取水した水は、今日の川崎市全体に枝分かれし、その幹線水路の全長は約32kmに及んでいます。 慶長16年(1611)、二ヶ領用水、六郷用水は完成しました。この用水により、川崎領と稲毛領(二ヶ領)での米の栽培は盛んとなり、ここで作られた米は稲毛米と呼ばれ、味もよく、江戸近郊のお米として評判になりました。元和 5年(1619)、小泉次太夫は、川崎領砂子(現・川崎区砂子)の妙遠寺に隠居し、余生を送りました。
元和 9年(1623)没、享年85歳。

7 宗三寺
曹洞宗瑞龍山宗三寺は、13世紀 鎌倉時代に僧 領室玄統が開いた禅宗勝福寺を起源と伝わる。河崎庄の地頭だった近江源氏の名将佐々木高綱が砂子一帯を領したとき、菩提寺にしたと云われ、孫の泰綱のとき檀越となり、寺は頗る繁栄したと云います。16世紀に入り 天正年間には、小田原北条氏の家臣 間宮豊前守信盛がこの地を領した。信盛は、この地をよく治めたのち杉田(磯子区)に隠居し、瑞龍山雲谷宗三の法号を得た。この法号に因んで、勝福寺は宗三寺と呼ばれるようになったと云う。本堂左手の六地蔵の先の大公孫樹の下に信盛の供養塔があり、表面には「当寺開基雲谷宗三居士」、側面には「天和三年(一六八三)」と書かれている。この墓は江戸幕府の大番衆(治安職務)・間宮盛重父子が施主になって建てたものである。その他、墓地には大阪夏の陣で豊臣方の武将で、元和元年(1615)川崎に土着して、馬込屋という油商を営んだ波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合が建立した飯盛女(遊女)の供養碑がある

 
第27回 お江戸散策 原宿・千駄ヶ谷・青山  (解説)
01. 代々木公園
現在の代々木公園一帯は江戸時代、大名や旗本らの下屋敷などが点在していた。明治維新後、これらは民有地となり、一面の茶畑・桑畑となった。新政府の陸軍省はこの地の買収を進め、明治42年(1909)7月、陸軍練兵場と陸軍刑務所を設置した。この陸軍省用地は広く、南はNHK放送センターや宇田川町の渋谷区役所周辺一帯までに及んでいた。この代々木練兵場では、明治43年12月19日、陸軍大尉・徳川好敏が日本史上初めて航空機の飛行に成功している。また、陸軍刑務所は練兵場南端の現在の渋谷区役所付近に置かれていて昭和11年(1936)に起こった二・二六事件の主謀者15名の死刑(銃殺)がここで執行されている。練兵場は演習のないときには一般に開放され、草野球や凧揚げなども行われていたが、昭和10年代になると中止され、練兵場は太平洋戦争(大東亜戦争)末期、学徒の教練場としても使われた。戦後は、GHQ将校たちの宿舎が作られ「ワシントンハイツ」と呼ばれるアメリカンスタイルの住居が立ち並んでいたが、東京オリンピックを契機に彼らの宿舎は福生市の横田基地に移転され、ここはオリンピック選手村となり、その後、代々木公園として今日に至っている。

02. 1  代々木八幡宮
代々木八幡宮は鎌倉時代初期に創建された寺院である。
二代将軍・源頼家の家来であった荒井外記宗(げきむね)祐(ひろ)が、伊豆修善寺で頼家公が暗殺された後、この代々木野原にやってきて、隠遁し、主君の菩提を弔って、建暦2年(1212)、鶴岡八幡宮を勧請したのが創始とされている。祭神は、鶴岡八幡宮同様、朝廷や武家からの崇敬をあつめ、国家鎮護、破邪(はじゃ)顕正(けんせい)の神・応神天皇それに、応神天皇の母上である神功皇后が「安産」「子育て」「家内安全」の神として祀られている。

02.2  福泉寺(ふくせんじ)
福泉寺は、代々木八幡宮の別当寺である。
比叡山の僧・伝養律師が中興開山として入山して浄土宗から天台宗に改めた。江戸時代に入って、三世の長秀法師の代に社殿、植林などの整備を行い、社殿が整ったといわれている。これは長秀法師の叔母が紀州家大納言頼宣の側室・延寿院殿であったことから、彼女の支援を受け、社地6000坪を始めとする数々の寄進を受けたことで寺運は隆盛したと伝わる。幕末期になると地震・火災に被災に遭い、寺運は衰え始めた。明治に入ると廃仏毀釈の余波をも蒙り、その寺領も政府に没収され、寺宝も四散して、寺運は衰退した。第62世住持は本堂庫裡を改築し復興に努めたが、関東大震災に耐えた堂宇も昭和20年の戦災で全焼、その後昭和34年本堂再建し、その後、客殿の復興、擁壁の修復、庫裡の再建などを行い、戦後50年をかけてようやく寺風が整って今日にいたる。 当寺には、幕末の剣客 斎藤弥九郎の墓がある。

02.3 齋藤弥九郎
  斎藤弥九郎は、寛政10年(1798)に越中国(現在の氷見市)で農民の子供として生まれた。小さい頃、高岡で油屋の丁稚や薬屋の小僧をしていたが、一念発起して、16歳のとき、銀一位分をもって江戸に出て、旗本能勢家の家僕として働きながら、19歳の頃、神道無念流の岡田十(じゅう)松(まつ)に入門した。岡田十松は神田猿楽町で撃剣館という道場を開いていて、弟子には、伊豆の代官の江川英龍、水戸藩の藤田東湖、田原藩の渡辺崋山、新撰組局長の芹沢鴨ら有名人が大勢いた。弥九郎は剣の腕をあげ、28歳の時、師範代となり、十松の没後には、その岡田道場「撃剣館」の後継となった。撃剣館の経営を軌道に乗せた彼は文政9年(1826)、九段下に自分の道場「神道無念流・練兵館」を構えて独立した。独立に際しては、江川太郎左衛門が多大な援助をしたが、このような援助を得られたのも、江川太郎左衛門が幕府の命で江戸湾の測量、品川砲台の建設取り組んでいるとき、進んで参画し、何事にも一途に取り組む弥九郎の人間的な魅力を江川が見抜いたからと云われている。練兵館は現在の靖国神社の一角に移転し、門下生は長州の木戸孝允、高杉晋作を含む3000名いたと云われる。幕末当時、江戸には、北辰一刀流千葉周作の玄武館、鏡新明智流桃井春蔵の士学館などの有名道場があり隆盛を極めていた。この三道場は、後に江戸三大道場と呼ばれ、「力の斎藤」「技の千葉」、「位の桃井」と云われた。千葉道場には清河八郎、山岡鉄舟、桃井道場には武智瑞山・岡田以蔵がいた。斉藤は、明治4年10月没した。 注:(位というのは桃井が公儀与力で講武所教授方の役職であったことによる)














 
03. 明治神宮
 明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする神社で、清らかで森厳な内苑を中心に、聖徳記念絵画館を始め数多くの優れたスポーツ施設を持つ外苑と、結婚式とセレモニー、パーティー会場の明治記念館とからなっている。鬱蒼と茂った緑したたる常緑の森は、神宮御鎮座にあたり、全国から献木されたおよそ10万本を植栽した人工林である。面積は70万平方メートル、豊かな森に成長し、国民の心のふるさと、憩いの場所として親しまれている。初詣は例年、日本一の300万人の参拝者数を集める神社としても知られている。そのほか、大相撲横綱土俵入りや、こどもの祭まで幅広い祭典と行事、厄祓い、祈願を執り行っている。加藤清正が掘ったと言われる清正井や明治天皇のおぼしめしにより昭憲皇太后のために植えられた、美しい花菖蒲など、多くの見どころがある。明治45年7月30日に明治天皇、大正3年4月11日には昭憲皇太后が崩御されたが、国民から御神霊をお祀りして、御聖徳を永遠に敬い、お慕いしたいとの熱い願いが全国で沸き上がり、大正9年(1920)11月1日に両御祭神と特にゆかりの深い、代々木の地に御鎮座されることになった。

04. 新井白石屋敷跡
 新井白石は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、「正徳の治」と呼ばれる輝かしい一時代を実践した人物であった。しかし、その生涯は波乱に満ちた栄光と挫折の人生であった。新井白石は、明暦3年(1657)、新井白石は江戸で誕生した。幼児から学問の才があった。父は上総国久留里藩という小藩に仕えていたものの、白石が20歳の頃、藩の内紛に巻き込まれたすえ、追放され、浪人となった。数年後、佐倉藩堀田家に仕官できた。藩主政俊は、後に、幕府の大老になり、白石も前途洋々と思えたが、それも束の間、何と堀田正俊が間もなく暗殺されてしまい、堀田家は没落してしまうのである。その後も白石は堀田家に仕えていたが、主家が財政難のこともあり、三十代の半ばに堀田家を離れた。この波乱の中にあっても、白石は学問に精励し、浪人となっても儒学や歴史学を独学で習得することを怠らなかった。江戸に出て、五代将軍綱吉を教えたほどの高名な儒学者木下順庵に弟子入りした。木下順庵は彼の才能を高く評価し、仕官を世話した。仕官先は甲府藩。この藩主が徳川綱豊のちに6代将軍になる徳川家宣であった。家宣に信任されていた白石は幕府の侍講として将軍の側近になったのである。振り返れば、藩を追われ、主君を殺され、苦難の前半生を送った白石でしたが、ここに至り、ついに幕政の中枢に立ったのである。6代将軍・家宣は思慮深く英明で、綱吉時代の遺物である生類憐みの令を廃止し、浪費により逼迫しつつあった財政の改革も進めた。白石はその将軍の補佐役として献身的に仕えたが、その家宣は将軍位についてからわずか三年余りで病死してしまう。後継の七代将軍家継は幼かったため、結局、事実上、白石が幕府の最高責任者として新たな政策を打ち出してゆくこととなったのである。
新井白石が行った政策には、
① 生類憐みの令の廃止 
  5代将軍綱吉が遺言で、この法の存続を命じていたが、将
  軍就任1週間後に廃止された。
② 正徳の貨幣改鋳 
  当時、日本はインフレで庶民は苦しんでいたが、その原因
  は綱吉時代に、金銀の含有量を減らした貨幣改鋳にあるとし
  て、貨幣価値を戻す新貨幣・正徳小判を発行したが、インフレ
 は治まったが、かえってデフレ状態になり、景気は後退した。
③ 年貢の増加
  綱吉の時代に廃止されていた勘定吟味役という会計監査役
 を復活させ代官の不正を調べさせたり、幕府の役人を幕府の
 直下地に派遣して見張らせることで年貢を43万俵あまり増加
 させた。

④ 正徳新令
 1715年に、海外に流出する金の歯止めを掛けるために貿易
 額の制限を行った。この頃は、輸入ばかりで日本の保有する
 金の4分の1、銀では4分の3もが海外に流出していたため実施
 した。
⑤ 朝鮮通信使の接待儀礼の見直し
  将軍が代わると、朝鮮通信使が来るのが慣例になっていた
 が、一行は1,000人程の隊列を成して来ていて、その費用は
 100万両も掛っていたという。これを簡素化し、60万両くらいに
 削減している。また、それまで国書の中で日本の将軍のことを
 「日本国大君」としていたのを「日本国王」に改めた。「大君」と
 は、朝鮮では王子の嫡子の意味だったので朝鮮国王と将軍が
 対等となるように改めた。
⑥ 閑院宮家の創設
  皇室には、天皇家が途絶えたとき、代わりに天皇を輩出する
 宮家が伏見宮、有栖川宮、京極宮の三家 あったが、なおも用
 意周到にもう一家増やした。因みに、明治天皇以降の天皇は
 閑院宮家の血を引いていて今日に至っている。白石がリードし
 たこの改革時代は「正徳の治」と呼ばれ、高く評価されるが、
 活躍の期間はわずか6年半でした。その後、8代将軍になった
 吉宗からは罷免され、白石の行った改革はその多くが廃止さ
 れた。また、幕府に納めた著書や資料の類も破棄された。
 屋敷までも取り上げられてしまった。この失脚は、下層の身分
 から伸し上がった白石に対する幕閣の妬みや急激で堅苦しい
 改革に対する反発が背景にあり、新将軍吉宗は、能力を認め
 つつも、頑固で、周囲と和を作れない白石を罷免に繫がったと
 言われている。その後、白石は政治の世界に返り咲くことな
 く、享保10年(1725)月死去。享年68歳でした。白石は歴史学、
 言語学から随筆、漢詩まで多種多様な著書を残したが、有名
 なものに全国諸大名337家の由来と事績を集録し、系図をつ
 けた「藩翰譜」、思い出の記という意味の「折たく柴の記」など
 が挙げられる。折たく柴の記は、新古今和歌集にある“思ひ出
 づる折りたく柴の夕煙 むせぶもうれし忘れ形見に”の歌を引
 用したもので、「忘れ形見にうれしむせぶ」人は、6代将軍徳川
 家宣を差している。

05. 鳩森神社
  「江戸名所図会」によると大昔、此の地の林の中にはめでたいことが起こる前兆の瑞雲がたびたび現れ、ある日青空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然白鳩が数多、西に向かって飛び去った。この霊現に依り、神様が宿る小さな祠を営み鳩森『はとのもり』と名付けた。貞観2年(860)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水八幡宮に宇佐八幡宮を遷座し給うた故事にのっとり、神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられている。境内には、都の有形民俗文化財に指定されている「千駄ヶ谷の富士塚」がある。江戸時代において、江戸市中の著名な富士塚である「江戸八富士」の一つに挙げられている。山裾には浅間神社があり、また七合目の洞窟には身禄像、山頂には奥宮が安置されるなど富士山を再現している。大正12年(1923)の関東大震災の際には被災したが修復されている。都内に現存する富士塚の中では最古のものとなっている。六角形の御堂は将棋堂と呼ばれ、近隣の日本将棋連盟から奉納された大駒を納められている。

06. 榎稲荷
  榎稲荷は、通称「お万榎」と呼ばれ、仙寿院を創建した紀州徳川家初代徳川頼宣の生母・お万の方がこの榎の枝から作った楊枝で歯痛が治ったことから、この木を信仰して霊木としたことによる。この巨木は上部が二股に分かれており人間が逆立ちした形で、股の部分が空洞になっていたことから女陰に見られ、性的信仰・性器崇拝の対象となって内藤新宿周辺の遊女や女将などが多く拝みにきたという。女陰の形をしている榎なのであるが、決して猥褻な感じはなく、淫らな気持ちなどは少しも起こさせない。人々はこの榎の股の部分に白い布を巻き、この巨木を崇拝した。これはまじめな学術の研究資料に取り上げられ、加藤玄智博士の英文「日本人の性器崇拝」でロンドンに紹介され、学会では貴重な世界的名物として紹介された。しかし、残念ながら、この榎は戦災で焼失し、今日は見ることができない。

07. 瑞円寺
  瑞円寺は千駄ヶ谷の総鎮守である鳩森八幡神社の別当寺であった。よく整備された境内は広く、梅林があるほか、ツバキ、ツツジ、ハギなども植えられている。瑞円寺の梅園は早咲きで知られる。本堂右手の無縁塔(無縁仏)の最上段には六面に地蔵像を浮き彫りした笠付型の六面塔があるが、これは渋谷区内で唯一、六地蔵信仰をあらわすものである。また、無縁塔の左側には側面に稲穂をくわえた狐が彫られた庚申塔が2基設置されており、稲荷信仰を示している。庚申塔のひとつは享保5年(1720)に置かれたものである。

08. 仙寿院
仙寿院は正式には「日蓮宗法霊山仙寿院東漸寺」という。徳川家康の側室、養珠院(お万の方)ゆかりの寺社であり、養珠院が赤坂の紀州徳川家屋敷内に建立した草庵が始まりであるとされる。それが天保元年(1664)、養珠院の実子で紀州徳川家初代・徳川頼宣によって、現在地である千駄ヶ谷に移されたものである。仙寿院の境内、石段を上り詰めた本堂前の庭には、現在も養珠院の石碑が建っている。江戸時代、この地は谷中の日暮里に風景が似ていることから「新日暮里」とも称され、浮世絵や「江戸名所図会」にもしばしば紹介されている。また、桜の名所として知られ、桜の季節には遠方からも花見客が集まり、酒屋や団子・田楽の店などが並び、その中で竹の皮で包んだ古代餅の「お仲だんご」という団子屋が寺院前にあった。江戸名所図会や歌川広重の浮世絵にも描かれており、美人と評判の“お仲さん”が評判で仙寿院などを訪ねる人々などの間で人気を博していたと云う。

09. 龍巌寺
 龍巌寺は、勢揃坂の途中にあって古風な山門を持ち臨済宗の寺で山号を古碧山という。かつて龍厳寺には松の名木、「笠松(円座の松ともいう)」があった。この松は江戸時代には葛飾北斎の浮世絵や歌川広重に描かれ、「江戸名所図会」にも取り上げられた。龍巌時の山門を入って右手の奥には、八幡太郎義家が腰を掛けたと伝えられる石「腰掛石」が残っている。義家はこの寺の天満宮で出陣の連句をやって社前に奉納したことがあって、この天満宮は句寄の天神とも呼ばれた。また、龍巌寺の境内には松尾芭蕉の句碑「春もやや けしきととのふ 月と梅」もあるが、この句碑の上部は空襲によって破壊されたことから欠損している。本堂前の墓地には安芸広島藩主浅野家の墓所があり、浅野長勲など円墳型の墓が建っている。その他、江戸末期、尚歯会のメンバーで、渡辺崋山・高野長英と親交があり、蛮社の獄で長英が逮捕されたことを悲観して自害した蘭学者・小関三英の墓がある。
注)尚歯会: 江戸時代後期に蘭学者、儒学者など幅広い分野の学者・ 技術者・官僚などが集まって発足した会の名称。

10. 高徳寺
  ここが勝負事に御利益があると言われるのは河内山宗俊の碑がある故である。河内山宗俊は江戸の化政期に実在した人物らしく、坊主だが博徒を集めて賭場を仕切ったり武家を強請るなど、ヤクザの親分格のような存在であった。やがて女犯した出家僧を脅迫して金品を強請(ゆす)ったり、大名家の不正を掴んで恐喝するなどで、文政6年(1823年)捕縛され、程なく牢内で獄死した。後世になって権力と闘ったダークヒーロー的イメージを庶民が抱くようになった。明治期に入り劇作家・河竹黙阿弥がその物語を脚本化し歌舞伎として上演したところ人気を博しそのダークヒーロー像が定着した。河内山宗俊の勝負師的な親分性と、その歌舞伎や講談が大当たりしたことが開運の御利益があるといわれる由縁であろう。事実その碑の寄進者には歌舞伎役者や講談師の名がある。

11. 持法院
寛文12年(1672)四代将軍徳川家綱公の時代に創建された法華宗の寺院。井伏鱒二が眠っている。

〔井伏鱒二〕
明治31年(1898)広島県福山市生れ。本名、満寿二。中学時代は画家を志したが、長兄のすすめで志望を文学に変え、大正6年(1917)年早大予科に進む。昭和4年(1929)年「山椒魚」等で文壇に登場。昭和13年(1938)「ジョン万次郎漂流記」で直木賞を、1950年「本日休診」他により読売文学賞を、1966年には「黒い雨」で野間文芸賞を受けるなど受賞多数。1966年文化勲章受賞。
井伏は川端康成とともに将棋が強かった。井伏の周りにはいつの間にか将棋を指す文士が集まり、井伏は阿佐ヶ谷将棋会の中心になっていた。近所に住む大山康晴とも親しく交流していたと云う。平成5年死去。95歳。




 

12.  梅窓院
美濃郡上八幡藩青山家の菩提寺。青山家は幕府草創期からの徳川家の重臣大名で「青山」の地名は同家の拝領屋敷がこの地にあったことから呼ばれるようになった。二代藩主幸成を葬るため、屋敷内に寺を建立して幸成の法号「梅窓院殿香誉浄薫大禅定門」から寺名が名付けられた。‏以来、12代に亘る当主と一族が葬られている。

〔岩谷松平〕
他に、明治時代、薩摩・川内の郷士に生まれ、東京に出て、煙草会社を設立して巨万の財を成した岩谷松平の、大名家をしのぐような巨大な墓がある。岩谷は自ら作った煙草に「天狗煙草」と命名し、それを奇抜なアイデアで宣伝を行い、「店頭に驚くなかれ、税金たつた百萬円」、「慈善職工五萬人」などと大きく書いて、自分の会社が国益に貢献しており、「国益に貢献している」ことを強く大衆にアピールして信用を高めていった。その後、日清戦争における、軍への煙草納入権を取得して事業をさらに大きく発展させた。この煙草がのちの「恩賜煙草」になって行く。岩谷は煙草産業以外にも、運輸会社、繊維会社、物産会社、飲料会社、銀行などの創立も行い、大実業家になって行った。1900年代はじめの長者番付では、服部時計店創業者の服部金太郎と共に常に最上位となっている。私生活も驚きで代官山の私邸内に20数人の女を囲い、男女21人の子を作っている。その子孫には優秀なものが多く、外交官、出版社創業者、声楽家、女優など当時、話題にあがった人たちが居り、映画監督 山本嘉次郎、作家 安部譲二なども子孫の一人と云われている。しかし1904年3月、専売法制定によって営業権を政府に奪われて、1905年11月に廃業。その後は不遇となり、脳卒中のために半身不随となって晩年を過ごした。1920年死去。享年70歳。

 

 



 
お江戸散策 湯島・本郷 (解説版)
1 駿河台・御茶ノ水
 神田川の対岸を本郷台(湯島台)、手前を駿河台といいます。もとは神田山(神田台)と呼ばれた地続きの丘陵でした。1603年天下統一をした徳川家康は、江戸城の防衛と城下の町作りのため、神田山の南を切り崩し、それにより発生した土を用いて、遠浅の海や干潟であった現在の浜町から新橋地域までを埋立造成しました。駿河台の名称は、徳川家康の死後、江戸に帰ってきた駿河詰の旗本をこの台地に住まわせたことによります。旗本屋敷が多かったため、駿河台は学業、武芸の学校も多くなり、それが明治以降に継承されて、この界隈は学校などの教育、武芸館が多くなり、学生も増えて、その学生や教師を相手にした古本屋街が発展しました。また、御茶の水の由来は、2代将軍秀忠が鷹狩りの帰りに、いまの順天堂医院辺りから水道橋付近まで敷地があった高林寺の庭の湧水でお茶を飲んで美味かったので、将軍御用達の「御茶の水」になったことによります。その名水「御茶の水」は、二度目の拡張工事で、水中に没してしまいました。

2 聖橋
 関東大震災後の帝都復興事業の一環として、昭和2年(1927)に完成しました。橋の長さ92m,幅員22mのアーチ橋で、「聖橋」という橋の名前は、この橋が「湯島聖堂」と「日本ハリストス正教会復活大聖堂(ニコライ堂)」の両聖堂を結ぶので、それに因んで、公募で決定されました。下を流れる神田川は、当初、現在の水道橋付近から江戸城の方に流れていましたが、寛永2年(1625)江戸城の災害防止と軍事上の目的から、神田台を掘削して浜町方面の海に注ぐ運河工事が行われました。幕府の命でこの工事を担ったのが伊達藩(仙台)でした。このことから神田川の谷は、仙台堀、伊達堀などとも言われております。この工事による伊達藩の内紛を題材にしたのが山本周五郎の小説「樅(もみ)の木は残った」です。
     伊達藩の労苦集めて川下り
  咲きほこる伊達の紫陽花神田川
江戸時代、神田川の谷は美しく、「三国志」にも出て来る中国の名勝「赤壁」にならい「小赤壁」と呼ばれました。下流の昌平橋(室町時代 に架設)からは、この渓谷と富士山が一緒に見えたことが、北斎の絵に描かれています。
その後、神田川は江戸湾から船がさかのぼって来られるようになり、江戸の経済発展に多大な成果を上げることになりました。

3 湯島聖堂
 徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に学問の聖堂を創建しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所」を開設しました。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、明治4年(1871)文部省が置かれることとなり、180年間幕府の儒学の中心であった講堂は、ここにその歴史を閉じました。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格して、のちの筑波大学、お茶の水女子大学へと発展して行きました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担っています。関東大震災では、すべてを焼失しましたが、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。

4 神田明神
 天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が祖神として祀ったのに始まる。承平5年(935)に敗死した平将門(まさかど)の首が当社の近くに葬られたことで東国の平氏武将の崇敬を受けた。延慶2年(1309)に当社の殿神とされ、祈願すると勝負に勝つといわれるようになった。江戸時代、江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として尊崇され、神田祭の山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったことから「天下祭」とも言われ、江戸三大祭りの一つと言われるようになりました。明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門は祭神から外され、境内摂社に遷されたが、昭和59年(1984)になって本社祭神に復帰しました。また、野村胡堂の銭形平次が当神田明神下の長屋に住んでいたという設定から、敷地内の本殿右手横に「銭形平次の碑」があります。

5 霊雲寺
 真言宗霊雲寺派総本山宝林山大悲心院霊雲寺である。幕府は五代目の綱吉の時代で、幕府の体制は堅固になっており、これを子々孫々まで武運長久を維持することを渇望していました。そこで江戸城の鬼門である丑寅の方角に幕府直轄の寺院を建立することになり、時の権力者柳沢吉保は、当代真言宗切っての学僧であると同時に民衆から尊崇され、かつ将軍綱吉の篤い信任を得た浄嚴和尚を招聘して、元禄四年(1691)霊雲寺を幕命により創建しました。時は元禄文化の最盛期、芭蕉が「奥の細道」のための深川の旅立ちをした頃です。霊雲寺は元禄期以降も国家の安寧の祈願所として役割を任じ、幕府の庇護の下、伽藍を整い、学寮も作られ、土塀をめぐらす名刹として大いに隆盛しました。

6 麟祥院
 臨済宗 妙心寺派 天沢山 麟祥院と言い、通称からたち寺として親しまれています。徳川三代将軍家光の乳母として知られている春日局は、功なり名をとげて幕府の恩恵に報いるために、本郷湯島に寺院を建立しようと思い立ちました。これを知った将軍家光は願いを叶えさせるために本郷湯島の土地に寺院を贈りました。寛永七年(1630)渭川という高僧を新しく住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺としました。寛永11年(1634)渭川和尚から受戒の時に師から授かる称号(戒名)「天沢山麟祥院」という法号を送られたことを家光は聞き、これを寺号とするように命じたため、同寺を斯く、号するようになりました。
春日局:名は福、父は明智光秀の重臣斉藤内蔵助利三、母は公家の女で、はじめ稲葉正成の妻となり、3人の男子をもうけましたが、慶長九年(1604)三代将軍家光公の乳母として召出され三千石を賜りました。家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽くしたことは有名です。また家光公が25歳のおり、疱瘡にかかり、瀕死の床にあるときは斎戒沐浴(心を清め身を洗うこと)して、将軍の病の平癒祈願をしたと言われています。将軍の病は回復し、お福を益々大事にするようになりました。そして寛永六年、京都へ上がり御所へ参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇の天盃を受けました。以後「春日局」と呼ばれるようになり、大奥での権勢をふるいました。寛永二十年(1643)65歳で没し、当院墓地に葬られました。

7 切通坂
 湯島の高台から御徒町への道を通すために開かれた坂。昔は急な石ころ道だったが、1904年に上野広小路から本郷三丁目への電車が通されてから坂が緩やかになりました。衣笠貞之助監督の「婦系図 湯島の白梅」でも歌われた。その中には湯島天神が登場します。また、東京朝日新聞社の校正係だった石川啄木は、夜勤終わりにこの坂を登って本郷三丁目の家に帰っていった。そんな状況を短歌にしたのが下の一作です。
「二晩おきに夜の一時頃に切通しの 坂を上がりしも勤めなればかな」

8 湯島天満宮(通称:湯島天神)
 第21代雄略天皇(458年)の勅命により天之手力雄命を祀る神社として創建されたと伝えられている。南北朝時代の正平10年(1355)、住民の請願により菅原道真を勧請(神仏の来臨を乞うこと)して合祀した。徳川家康が江戸城に入ってから徳川家の崇敬を受けました。江戸時代には多くの学者・文人が訪れ崇敬を集める一方、享保期には富籤(とみくじ)の興行が盛んになり庶民に親しまれた。本殿の建築様式は権現造で、社殿は明治18年に改築されたものであったが、老朽化が進んだために平成7年(1995年)に再建された。平成12年(2000)「湯島神社」から「湯島天満宮」に改称しました。江戸・東京における代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れるが、普段からも学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せている。また境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った「湯島の白梅」(1942年)は戦中時の歌として大ヒットしました。

  9 旧岩崎邸庭園
 この庭園は、越後高田藩榊原家江戸屋敷から元舞鶴藩知事・牧野弼成(すけしげ)邸そして岩崎家本邸へと変遷し、往時には、1万5,000坪余りに20棟もの建物が並んでいました。第二次世界大戦後、国有財産となり、最高裁判所司法研修所等として利用されました。平成6年(1994)に文化庁の所管となり、平成13年(2001)東京都の管理となりました。和館大広間は洋館東脇にある柚塀とともに宅地、煉瓦塀を含めた屋敷全体と実測図が平成11年(1999)に重要文化財に指定されました。 このような経緯をもつ旧岩崎邸は、明治29年(1896)に三菱創始者・岩崎家本邸として建てられました。現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。建築設計は、ジョサイア・コンドルで、彼は、大学で教鞭を執る傍ら、100を越える洋館を日本で建てました。旧岩崎邸は現存するコンドルの作品では最古の建物で、邸宅建築の中では傑作と言われています。大名庭園の形式を一部踏襲している岩崎邸の庭は、本邸建築時に池を埋めて芝を張り、庭石・灯籠・築山が設けられました。建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残し、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えました。

10 講安寺と無縁坂
 浄土宗講安寺は慶長11年(1606)の創建と伝えられ開山は重達上人。元和2年(1616)湯島天神下からこの地に現在地に移転しました。本堂は宝永5年(1708)頃の建築と伝えられ、社寺建築ながら防火のための土蔵造となっています。寺院の客殿、庫裏は江戸期の形式で作られ、文化財として貴重なものといわれています。無縁坂は鴎外の雁で東大生岡田とお玉の悲哀な恋の舞台であり、茶色のマンションが「格子坂の家」の場所です。昭和50年さだまさしが作詞・作曲したTVドラマ「ひまわりの詩」の主題歌『無縁坂』で有名になりました。

11東京大学
 東京大学は貞享元年(1684)に江戸幕府が設立した天文方と、安政5年(1858)に江戸の医者の私財によって設立された神田お玉ヶ池種痘所、寛政9年(1797)に創設された昌平黌を起源とされています。天文方はその後、蕃書調所(ばんしょしらべどころ)、開成所と変遷し、種痘所は文久3年(1863)に医学所へと変遷して行きました。これらの江戸幕府直轄の教育機関は、明治時代になってから、いろいろな呼称に変遷しますが、明治7年(1874)にそれぞれ東京開成学校、東京医学校と改称され、明治10年(1877)4月12日に両校が合併して東京大学となりました。これが日本で初めての近代的な大学の設立です。4月12日は東京大学記念日となっていて、毎年この日に入学式が行われています。東大キャンパスのシンボルとなっている銀杏並木や校舎は、6代総長の濱尾新 (1849-1925)が整備したものです。彼は女子教育の奨励、講座制を導入して、大学教授会自治の基礎も築いています。東京大学には校歌は存在せず、応援歌『ただ一つ』と運動会歌『大空と』が「東京大学の歌」として公認され、各式典で採用されています。

12 ジョサイア・コンドル(1852 – 1920)
 ジョサイア・コンドルはイギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、辰野金吾(日本銀行旧館、東京駅)、曽根達蔵(慶応大学三田図書館、)、片山東熊(赤坂迎賓館、東京国立博物館)ら、創生期の日本人建築家を育成し、建築界の基礎を築きました。のち民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計しました。鹿鳴館、ドイツ公使館、岩崎弥之助深川邸などは現存していないが、ニコライ堂、岩崎久弥茅町本邸、三菱開東閣、三井家倶楽部、清泉女子大学本館(島津邸)、旧古河庭園大谷美術館などが現存して輝きを放っています。また、彼は日本人の妻をめとり、日本文化に傾倒して、河鍋暁斎に師事して日本画を学び、日本に永住して、趣味に生きる生涯を送りました。
注):コンドル設計のニコライ堂は関東大震災で倒壊し、現存の堂は岡田信一郎氏の設計。

13 安田講堂
 安田財閥の創始者、安田善次郎の匿名を条件での寄付により建設されたが、大磯の別邸で右翼に暗殺された安田を偲び、一般に安田講堂と呼ぶようになりました。建築家でのち総長になった内田祥三が基本設計を行い、大正10年(1921)に起工、関東大震災による工事中断を経て大正14年(1925)7月6日に竣工しました。震災後に建てられた学内の各学舎の建築が茶色のスクラッチタイルで統一されているのに対し、本講堂が赤レンガなのはこのためです。昭和43年(1968)の東大紛争・東大闘争では、全学共闘会議によって占拠されとき以降、長期にわたり大講堂は荒廃状態のまま閉鎖されていたが、富士銀行をはじめとする旧安田財閥ゆかりの企業の寄付もあり平成6年(1944)に改修されました。1991年より卒業式が再び安田講堂で行われるようになっています。

14 三四郎池
 三四郎池の正式名称は、「育徳園心字池」といい、池の形が「心」という文字を象って名付けられました。山手台地を浸食した谷に湧出する泉であるこの池は、江戸時代は加賀藩邸の庭園の一部でしたが、明治に入って東京帝大に移管され、後に夏目漱石の小説『三四郎』にちなんで、「三四郎池」と呼ばれるようになりました。現在の赤門から池にかけての一帯の地は、大坂の役後に将軍家から賜ったもので、この屋敷は、明治維新後に大部分が新政府の官有地に転ぜられるまで存在していました。育徳園は、寛永十五年(1638)、豪奢で風雅を好んだという四代目藩主、前田利常の時に大築造され、五代目藩主綱紀が加賀藩の時にさらに補修され、当時は江戸諸藩邸の庭園中、第一の名園とうたわれた。園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数奇を極めたものだと言われている。

15 赤門
 御主殿門のことをいう。江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女たちが居住する奥御殿を御守殿あるいは御住居と称し、その御殿の門を丹塗(にぬり)にしたところから俗に赤門とよばれました。東京大学の代名詞となった東京都文京区本郷の赤門は現存する唯一のものです。ここはもと加賀金沢前田家の上屋敷であり、明治10年(1877)東京大学に移管され、昭和36(1961)に解体修理が行われた。現在は国の重要文化財に指定されています。 加賀前田家の御守殿門は、文政10年(1827)11代将軍家斉の溶姫が13代藩主前田斉泰に嫁入りしたときに建てられました。赤門は、火災などで焼失してしまったら再建してはいけない慣習があり、この赤門は災害などを免れて現存している貴重なものです。建築様式的には、切妻作りの薬医門で左右に唐破風(とうはふ)の番所を置いています。赤門は、明治9年(1876)当時東京医学校(現東京大学医学部)が下谷和泉橋通りから本郷に移ってから明治17年(1884)に他の学部が本郷に移ってくるまでの間、医学部の門として使われていたこともあり、医学部には赤門をデザインした紋章があります。

16 法真寺 
 浄土宗の寺院で、樋口一葉(1872-1896)の作品「ゆく雲」で紹介されています。「上杉の隣家は何宗かの御梵刹(おんてら)さまにて、寺内広々と桜桃いろいろ植えわたしたれば、此方の二階より見下ろすに、雲はたなびく天上界に似て、腰ころもの観音さま濡れ仏にておわします。 御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」
文中の御梵刹が法真寺で、濡れ仏が本堂横に安置されている観音菩薩で、こなたの二階とは、境内のすぐ隣にあった一葉の家のことです。一葉は明治29年11月23日23歳の輝かしい、短い生涯を閉じましたが、この地に住んだ4歳~9歳まで5年間は、樋口家の最も豊かで、安定していた時期でした。一葉は病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」懐かしんでいました。桜木の宿は法真寺に向かって左手にありました。

17 燕楽軒跡
 この地にあった西洋レストラン店で、宇野千代が20歳の時にアルバイトをしていた。このレストランには、路地向かいにあった中央公論社の編集長をしていた瀧田樗陰(ちょいん)が芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、佐藤春夫らを連れて頻繁に食事に来ていた。宇野千代はその機縁から文学を志すようになった。作家で、後に平泉中尊寺住職になった今東光は、美貌の千代を目当てに頻繁に食事に来て、彼女を小石川の家まで送ったこともあるようだ。千代は結婚して、札幌に住むが、懸賞小説に当選してから、離婚して東京に住み、尾崎士郎、東郷青児、北原武夫ら多くの有名芸術家との波瀾な結婚遍歴をもち、1996年98歳の長寿を全うしました。

18 菊富士ホテル
 このホテルは、大正から昭和10年代にかけて、多くの文学者、学者、芸術家、思想家たちが滞在し、ここを舞台に数々のエピソードを残した所です。主な止宿者には、宇野千代、尾崎士郎、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、竹久夢二、大杉 栄、月形龍之介、高柳健次郎など当時のそうそうたる人達です。昭和20年3月10日の戦災に依り50年の歴史を閉じました。オルガノ敷地内に記念碑が建っています。

19 宮沢賢治旧居跡
 宮沢賢治は25歳の大正10年(1921)1月~8月までの間、当地、稲垣方の2階に間借りしていました。赤門前の文信社で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し、昼休みは街頭で日蓮宗の布教活動などをする傍ら、童話、詩歌の創作に専念していました。妹トシの危篤の知らせに伴い帰郷しました。賢治は盛岡高等農林学校卒業後、花巻農学校の教師として農村子弟の教育にあたり、多くの詩や童話の創作を続け、30歳の時に農学校を退職して独居生活に入りました。ここで農民講座を開設し、青年たちに農業を指導しました。質店を営む裕福な出自と郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神、良き理解者としてのトシの死が与えた喪失感は作品に特有の陰影を加えていきました。賢治の芸術の根底には、幼い頃から親しんだ仏教、特に後に帰依した法華経による献身的精神があります。また特異で旺盛な自然との交感力は作品に極めて個性的な魅力を与えています。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性から生み出されたもので、詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』に、その感性が表れています。これら以外にも、童話『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、『グスコーブドリの伝記』などにロマンに満ちた賢治の世界を見ることができます。有名な「アメニモマケズ カゼニモマケズ」の詩は、本人の遺稿の手帳に書かれていたものです。

20 炭団坂(たどんさか)と一葉旧宅跡
 本郷台地から菊坂へ下る急峻な坂で、名前の由来は「ここは炭団の商売をする人が多くいた」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」と言う事から付けられたと言われています。 台地の北斜面の下り坂であるため、常にじめじめしていて、今日のように階段や手すりのない時代の雨上がりの日には、炭団のように転げ落ちて、泥だらけになったそうです。この坂下の一角に、樋口一葉は18~20歳の時に住んでいて、「たま欅」、「五月雨」、「うもれ木」などを執筆しています。しかし、収入は5~6円程度で、家族一緒でしたから、大変貧しい生活でした。因みに、同じ頃、崖上住んでいた正岡子規は松山藩の給費生でしたが、月額7円が給付されていました。

21 鐙坂(あぶみさか)
 本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は、「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」とか、その形が「鐙に似ている」ということから名づけられたといわれている。この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地が右京山地区です。民俗学者で、石川啄木の先輩の友人であった金田一京助氏は同地に住んでいて、長男の言語学者金田一春彦氏は、大正2年(1913)にこの地で生まれたそうです


22.坪内逍遥旧居・常盤会跡
 坪内逍遥は安政六年尾張藩士の家に生まれ幼くして読本・草双紙などの江戸文学や俳諧(はいかい)、和歌に親しみました。東京大学を卒業後、東京専門学校(現:早稲田大学)の講師となり、のちに早大教授となりました。26歳で評論『小説神髄』を発表し、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで世態風俗の描写がこれに次ぐものであると論じました。この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献しました。また、その理論を実践すべく小説『当世書生気質』を著しました。しかし逍遙自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示されています。小説のほか戯曲も書き、演劇の近代化に果たした役割も大きく、明治39年(1906年)、島村抱月らと文芸協会を開設し、新劇運動の先駆けとなりました。早稲田大学の演劇博物館は、逍遙のシェイクスピア全訳の偉業を記念して建設されたものである。ここは逍遥が明治17年から3年間住んだところでのちに旧伊予藩主久松氏の育英事業として「常盤会」という宿舎になりました。この宿舎には正岡子規が同郷の後輩であり、門弟でもある河東碧梧桐と3年間住みました。また、この常盤会の舎監は、子規の10歳年上の先輩であり、門弟でもあった内藤鳴雪でした。
23. 啄木ゆかりの理髪店喜之床
 石川啄木は明治41年5月北海道の放浪生活を経て上京し、赤心館にいた同郷の先輩金田一京助を頼って同宿しました。朝日新聞の校正係として定職を得て、明治42年6月、新築間もない理髪店喜之床の2階2間を借りて家族と一緒に住みました。5人家族を支えるために生活苦とのたたかい、嫁姑とのいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌をつづることで癒しとなりました。社会の変動にも目を開いていき、ここ喜之床での2年半の生活は石川啄木の才能を開花させた時でした。明治44年8月小石川の播磨坂(はりまさか)近くに引っ越しますが、その8カ月後、26歳の若さで、その生涯を閉じました。理髪店喜之床は、現在明治村に移築されて、往時の姿を留めています。

24. かねやす
 享保年間(1716~1736)に、現在の本郷3丁目の交差点角に、兼康祐悦という歯科医が「乳香散」という歯磨き粉を売り出しました。これが大当たりして店が繁盛していたといわれています。享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、ここを境に南側を耐火のために土蔵造りの塗屋にすることを命じました。一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれました。