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第6回 鎌倉ウォーキング 和田塚、和賀江島~披露山公園ー解説版 
1, ラングドン・ウォーナーは、アメリカの東洋美術研究家。親日家。 太平洋戦争が勃発すると、日本の三大古都の歴史遺産に戦禍が及ばぬよう訴え、芸術的歴史的建造物を空爆から救ったといわれている。 碑には、ウォーナーのレリーフがはめられ、碑文には「文化は戦争に優先する」と書かれている。昭和62年(1987)、古都保存法の制定20周年を記念して、社団法人 鎌倉同人会によって、ウォーナー博士の記念碑が建てられた。
2. 鎌倉市役所の裏にある御成小学校は、明治天皇の皇女のために造られた御用邸の跡地に建てられている。大正12年(1923)の関東大震災で御用邸は崩壊し、再建されることはなかった。正門は、コンクリート造に建て替えられたが、格好は御用邸の門が受け継がれている。門標は高浜虚子が書いた。地名ともなっている「御成」の名は、御用邸にちなんで付けられた。
3, 問注所跡と裁許橋
この一角は、かって問注所があったところである。問注所は鎌倉幕府の裁判機関で、元暦元年(1184)に設置され、当初は源頼朝の屋敷内(大倉幕府)にあったが、言い争いや喧嘩が絶えなかったことから、二代頼家のときにこの場所に移転されたといわれる。執事(長官)は学識にすぐれた三善康信(善信)が就任した。三善康信は、伯母が頼朝の乳母だったという縁で、京都に住み、伊豆に流されていた頼朝に京の情報を送り続けて、頼朝から信頼されていた。以後、三善氏が問注所執事を世襲している。 問注所での裁判の結果、無罪放免となった者が渡った橋を裁許橋と呼んでいる。一方、有罪となった者は六地蔵辺りにあった刑場で処刑された。

 
4, 六地蔵
由比ヶ浜通りと今小路の交差点に並ぶ六体の地蔵を云う。鎌倉時代、この北側には刑場があり、そのため「
飢渇()畠(けかちばたけ)()」と呼ばれる荒地であった。罪人の供養のために生死を繰り返す六つの迷いの世界(六道)から救うといわれる六体の地蔵が祀られた。江戸時代、俳人松尾百遊が、芭蕉を偲んで「夏草や兵どもが夢のあと」と刻んだ句碑を建てた。そのため、ここを「芭蕉の辻」とも呼ばれている。
 
5. 和田塚
かつて、この辺りは向原古墳群と呼ばれる古墳があった。その中には采女塚と無常堂塚があり、塚には多くの五輪塔が転がっていた。明治22年(1889)の道路改修工事によって采女塚が削られ、続いて、明治25年(1892)には無常堂塚が削られた。その時、無常堂塚からは多くの人骨が発見され、中には刀を握ったままの骨も発見されたという。調査の結果、その人骨が建暦3年(1213)に起こった和田合戦の戦死者のものだったことが分かり、無常堂塚を「和田塚」と呼ぶようになったという。明治42年(1909)、塚の上に「和田一族戦没地」と記された碑が建てられた。和田合戦は、執権 北条義時と幕府の軍事面の長官であった侍所別当 和田義盛との間で起きた権力闘争で、和田は三浦一族であったが三浦の助成を得られずこの地で敗退し滅亡した。この戦い以降、北条の権勢は強まり、義時の子、3代執権 泰時のとき盤石となった。
6. 下馬
鎌倉時代、現在の下馬四ツ角から鶴岡八幡宮までは、馬の乗り入れが許されず、参拝するときはここで馬を下りた。また、若宮大路を横切るときもここで馬を下りて礼拝したことから「下馬」と呼ばれるようになった。現在も地名として残されている。下馬橋は3つあって、源平池にかかる橋を「上の下馬橋」、二の鳥居付近の扇川に架けられていた橋を「中の下馬橋」、そして下馬四ツ角の橋が「下の下馬橋」と呼ばれていた。文永8年(1271)9月12日、龍ノ口刑場へと護送される日蓮は、下馬橋で鶴岡八幡宮に向かい、「法門のために霊験を現わしたまえ」と大音声で請願したといわれている。元治元年(1864)11月20日、下馬で江ノ島・鎌倉見物にきていた英国軍人ボールドウィン少佐とバード中尉の二人が殺傷されるという英国人殺害事件が起きた(鎌倉事件)。事件の犯人は、攘夷浪士の清水清次と間宮一で、二人はすぐに逮捕され、横浜西区にある「くらやみ坂」の刑場で斬首された。首は吉田橋に3日間晒されたのち、願成寺に葬られた。
7. 畠山重保の墓
 鶴岡八幡宮一の鳥居の傍らに建つ宝篋印塔は、畠山六郎重保の墓と伝えられ、明徳6年(1393)の銘のある石塔。重保は、頼朝の御家人畠山重忠の嫡男で、屋敷は、大鳥居の近くにあったと伝えられている。元久元年(1204)、三代将軍源実朝と公家坊門家息女との縁談が整ったことから、姫を迎え入れるため15人の若武者が京都へ差し向けられた。畠山重保もその一人に加わっていた。その折、京都守護の平賀朝雅と重保は些細なことから喧嘩となり、それを根に持った朝雅が、義父・北条時政に「畠山父子が謀叛を企てている」と讒言したことにより、畠山父子は討たれることになる。元久2年(1205)6月22日早朝、重保は、「由比ヶ浜に謀叛人が集結している」との報を耳にすると、従者3人とともに浜に向かった。しかし、待ち構えていた三浦義村の手の者が重保を取り囲み、重保は訳のわからぬまま討ち取られてしまった。同日、父重忠も北条義時らの軍に攻められ武蔵国二俣川で討死している。頼朝の側近で、幕府創設以来有力御家人として、幕府を支えてきた畠山一族は、比企一族に続いて、北条に滅ぼされた。

 
8. 一の鳥居
寛文8年(1668)江戸幕府第4代将軍徳川家綱によって、若宮大路に石造明神鳥居の一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居の三基が建て替えられて、寄進された。高さは約8.5mあった。しかし、大正12年の関東大震災のとき三基とも損壊してしまった。その後、昭和12年(1937)、一の鳥居だけが石造で元通りに再建されたが、二の鳥居、三の鳥居は鉄筋コンクリートで再建された
9. 元八幡宮(由比若宮)
元八幡宮(由比若宮)は、康平6年(1063)、源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を勧請して創建された。頼義の子・義家も社殿を修復するなどして源氏と鎌倉の結び付きを強くした。その後、鎌倉に入った源頼朝が、由比若宮を小林郷北山に遷座し、現在の鶴岡八幡宮が造営された。祭神は鶴岡八幡宮本宮(上宮)と同じく、応神天皇(第15代)・比売(神)(15代の妻)・神宮皇后()(15代天皇の母)。授けられる「破魔矢」は、源頼義が奉納した弓矢に因むものという。境内には、石清水ノ井、源義家「旗立の松」がある。
10. 妙長寺
正式には日蓮宗海潮山妙長寺という。創建は正安元年(1299)開山の日実は、伊豆で日蓮を救った漁師舟守弥三郎で、のちに鎌倉を訪れ一堂を建立した、これが妙長寺の始まりと云われている。境内には日蓮の法難を記念して建立された相輪搭、法難御用船の模型などがある。明治時代には鎌倉、逗子、三崎の漁師や魚商たちの手による鱗供養塔が建てられた。明治24年、作家泉鏡花は尾崎紅葉の弟子になる前、夏の2か月間を当寺で過ごし、この時の体験をもとに小説「みだれ橋」を書いた。のちにこの小説は「星あかり」と改題した。

 
11. 九品寺
九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西によって開かれた浄土宗の寺。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。鎌倉では、唯一義貞が建立した寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。本尊阿弥陀如来立像は宋元風様式を伝えるもので市の重要文化財。その他、石造薬師如来坐像(永仁4年銘の県重要文化財)、石造閻魔大王像、石造奪衣婆像があるが、鎌倉国宝館に
寄託()されている。九品寺の山門と本堂に掲げられた「内裏山」「九品寺」の額の字は新田義貞の筆跡を写したもので,当初の額は本堂に保存されている。
 


12. 光明寺
光明寺は、四代執権北条経時が然阿良忠を招いて開いた浄土宗の大本山(末寺56ヶ寺を有していた)。寛元元年(1243)の創建と伝えられ、鎌倉四大寺にも数えられる(他は建長寺・円覚寺・遊行寺)。良忠は浄土宗第三祖で、良忠が鎌倉に住まいしたことで浄土宗が関東以北へ広がったといわれる。
光明寺は朝廷との関係が深く、三門(山門)の扁額(天照山の文字)は後花園天皇の直筆と伝えられ、後土御門天皇からは「関東総本山」の称号を受けるとともに「お十夜法要」も勅許された。お十夜法要とは、三日三晩にわたり本堂で念仏や御詠歌を唱える法会のことで関東一円の浄土宗寺院の僧侶が一堂会して行われる当寺最大の行事である。江戸時代には、徳川家康によって念仏信仰と仏教研鑽の根本道場(僧侶の学問所)として「関東十八檀林」(浄土宗十八ヶ寺)が定められ、その筆頭寺院として栄えた。戦後には、新しい時代の教育を目指す自立大学「鎌倉アカデミア」が開校されている。光明寺記主庭園内に聳そびえる大聖閣は,宗祖法然上人800年大遠忌を記念して建てられた堂。鎌倉で唯一、鳳凰が乗せられた堂です。

 
13. 和賀江嶋
 現存する日本最古の築港遺跡として国の史跡に指定されている和賀江嶋は貞永元年(1232)、第3代執権北条泰時が、九州筑前でも港を築いた実績のある往阿弥陀仏という勧進僧に命じて築かせました。材木座の古名である和賀の地は、遠浅で、風波は強く難破、破損する船が多かったが、日本各地からの物産の集積、宋との交易などから大型の船が安全に出入りできる港湾の建造が求められていた。貞永元年(1232)往阿弥陀仏という勧進僧が、三代執権北条泰時の許しを得て造り上げた。相模川や酒匂川などから運ばれた石が海中に200メートル程積み上げられ、1か月ほどで完成したといわれる。材木座(由比ヶ浜)は、遠浅で風波が荒く、難破・破損する船が多かったため、防波堤の役割を果たしたと考えられる。積まれた玉石は、漬物の押石や石垣用としてよく盗まれたため、警官が巡回していた時代もあった。材木座海岸には、当時運ばれてきた陶磁器などの破片が今でも流れ着く。鎌倉時代には、極楽寺の管理下に置かれ、関料徴収の権利も極楽寺に与えられていた(港を利用する人や貨物から津料と呼ばれる税金を徴収していた)。

 
14. 住吉城跡
 この断崖の背後に続く丘陵と谷戸を含めた一帯は、自然の地形をうまく利用した山城で住吉城と呼ばれ、三浦半島に勢力を持っていた三浦氏が再興し、盟主・三浦道寸が出城としていた。三浦道寸はその後、平塚の岡崎城をも奪い、相模に勢力を拡大していった。永正9(1512)、小田原を本拠として、関東制覇をめざした北条早雲は果敢な攻撃で、道寸が篭もる岡崎城を攻略し、落城させた。続いて、逃げた道寸を追撃し、弟の道香とともに立て篭もる住吉城も昼夜を分かたぬ激しい攻撃を行い圧倒的な勢いで攻略した。城を抜け出し、三浦の本拠地に退却する弟道香は逗子延命寺近くで家臣たちとともに自刃したと云う。兄の三浦道寸は、本拠地・新井城(油壷湾に面した所)まで逃れ、北条に包囲されて籠城したが、3年後の永正13年(1516)、早雲の攻撃に耐えきれずこの城で自刃し、三浦氏は滅亡した。以降、三浦半島は小田原北条氏の勢力下になった。

 
15. 大崎公園
大崎公園は披露山高級住宅地奥の突き出した岬の上にあります。遊歩道とベンチしかない簡単な公園ですが、この公園からは江ノ島や富士山を眺望でき、 逗子マリーナ・小坪港を見下ろすことができます。一番奥に一段高い展望台があり、葉山の山々や葉山マリーナも見降ろすことができます。途中の休憩所には兎のモニュメントに刻まれた泉鏡花文学碑があります。


16.  披露山公園
披露山公園は、昭和33年(1958)に開園された。逗子市の西側に位置し、高さ100mほどの台地にある。ここからは東に逗子湾、北西には江の島とその背後に富士山、伊豆箱根連山、南には伊豆大島を望む絶景の景勝地になっている。披露は「ひらきあらわす」というめでたいこと、良いことを公表する意味があり、献上の品物を披露する役人が住んでいた所とも云われています。披露山公園の広場は戦時中、海軍の高射砲陣地があったところで、3つの高射砲座(直径12m)と監視所の地下室が残されていた。現在、これらを利用して砲座には展望台、円形花壇および猿舎になっている。監視所跡にはレストハウスが造られている。駐車場には終生逗子を愛した「憲政の神様」尾崎行雄の記念碑があり、「人生の本舞台は常に将来にあり」と刻まれている。

 


17.  高養寺(浪子不動) 今から600年以上も昔のこと、披露山あたりの山から毎晩ふしぎな光がさすようになり、それまで沢山獲れていた魚がとれなくなった。鎌倉の補陀落寺の住持頼基法印が人々の嘆きを聞き、周辺を調べると、岩の洞穴の中に石の不動尊を発見し、村人に大切に祀るようにさせたところ、また魚が獲れるようになったという。この祠は、小坪の船を暴風雨から守ったところから「浪切不動」とか、後ろに滝があるので「白滝不動」とか呼ばれ、漁村の信仰を集めるようになった。明治に入り、徳富蘆花の小説「不如帰」が、この地を舞台にしていたので主人公の「浪子」にあやかり、「浪子不動」と呼ばれるようになった。高養寺という名は、寺の建物を作るのを援助した政治家、高橋是清・犬養毅の名を取って付けられたものである。御堂の傍らにあった重要文化財指定の石造五輪塔は神武寺駅近くの東昌寺に移されている。また、昭和8年(1933)、御堂前の海中に蘆花の兄、蘇峯の筆による「不如帰」の碑が建てられた。引き潮時には、この碑のまで行くことができる。碑に使われた石材は江戸城を築くために九州鍋島藩が伊豆から運んできた石垣用の石が、船の難破で大崎の海に落ちたと言い伝えられている。
『不如帰』は、明治31年(1898)から32年(1899)にかけて国民新聞に掲載された徳冨蘆花の小説。のちに出版されてベストセラーとなった。 なお徳冨蘆花自身は『不如帰』の読みとして、少なくとも後年「ふじょき」としたが現在では「ほととぎす」という読みが広まっている。
「片岡中将の愛娘浪子は、実家の冷たい継母、横恋慕する千々岩、気むずかしい姑に苦しみながらも、海軍少尉川島武男男爵との幸福な結婚生活を送っていた。しかし武男が日清戦争へ出陣してしまった間に、浪子の結核を理由に離婚を強いられ、夫を慕いつつ死んでゆく。浪子の「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」、「ああつらい! つらい! もう女なんぞに生まれはしませんよ」は日本近代文学を代表する名セリフとなった。家庭内の新旧思想の対立と軋轢、伝染病に対する社会的な知識など当時の一般大衆の興趣に合致し、広く読者を得た。

 
18. 亀岡八幡宮
 亀岡八幡宮は、第15代の応神天皇を祭神とする神社。応神天皇は文明開化に意欲をもち、大陸文化の製鉄・製陶・機織・皮革加工・金工などのすぐれた技術をもつ帰化人を迎え入れ、幾内やその周辺に居住させ、我が国の産業・文化の発展に貢献した。また天皇の時代には、百済から王仁が「論語」と「千字文」を献上され、以後漢字を用いて記録や外交文書なども作製されるようになった。このように、応神天皇は日本の文明史上に重要な御事績を残されている。天皇は百才を越える長寿を保たれたと伝えられ、崩御後、豊後国宇佐の地に、八幡大神として祀られた。それが現在の宇佐神宮であり、全国7800ある八幡宮の大元である。亀岡八幡宮の勧請の年月は明らかではないが、「新編相模風土記稿」によれば江戸時代初期には延命寺を別当寺として村の鎮守に八幡宮があったと記されている。明治維新の神仏分離令により延命寺の管理から脱し、明治6年逗子の鎮守と定められ、境内がなだらかな岡で、亀の背中のようであったというところから、鎌倉の「鶴岡八幡宮」に対し「亀岡八幡宮」と名付けられたと云う。社殿は、大正12年2月に新築され、その年9月1日の関東大震災に遇ったが辛うじて倒潰を免れ、修覆を加えて現在に至っている。

 
第4回 鎌倉ウォーキング  解説版
1. 覚園寺
  真言宗泉涌寺派の寺院で山号は鷲峰山、開山は智海心慧。第2代執権北条義時が建立した大倉薬師堂を前身に、永仁4年(1296)第9代執権北条貞時が「元軍襲来が再び起こらぬ」ことを祈願し、寺院に改めた。奥深い境内は静寂としていて古都鎌倉の面影をよく残している。鎌倉最大の茅葺(かやぶき)の薬師堂には足利尊氏が書いた棟札(むなふだ)がある。本尊の木造薬師三尊坐像(国重文)は十二)神将立像(国重文)などの仏像彫刻の多彩さは鎌倉有数のものである。また黒地蔵(くろじぞう)として親しまれる木造地蔵菩薩立像(国重文)の黒地蔵縁日(8月10日、0時~12時)は鎌倉の夏を代表する宗教神事で、地蔵菩薩が、地獄に落ちた罪人にも情を示し、苦しみから助けようと獄卒に代わって火を焚いたため黒くすすけたと云われる。当日の寺はお盆を前に先祖供養のために訪れる参拝客のために午前0時から開聞しており、多数の参拝者が訪れる。また、この寺院に、2月~3月にかけて咲く椿は「太郎庵」と呼ばれ、英勝寺の「侘助」とともに「鎌倉の名花」として知られている。

 
2. 鎌倉宮
  祭神は大塔宮護良親王。大塔宮とも呼ばれる。護良親王は後醍醐天皇の皇子として生まれ、11歳のとき、比叡山延暦寺の大塔に入室したことから「大塔宮」と称された。20歳で天台座主になったが、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すと宣下したとき、挙兵に応じて、還俗して護良と名乗った。元弘元年(1331)元弘の変により、後醍醐天皇が隠岐の島に流されたが、元弘3年(1333)天皇を補佐する足利尊氏や新田義貞らによって、鎌倉幕府は滅ぼされた。天皇は親政を復活し、護良親王は征夷大将軍になった。しかし、親王は足利尊氏らと対立し、捕えられ鎌倉に幽閉された。幽閉されていたという土牢が現在境内裏手に残されている。その後、北条の残党が幕府復活を計って鎌倉を攻略して来た(中先代の乱)とき、鎌倉を守っていた尊氏の弟直義は、親王を北条方に奪われると面倒なことになると考え、鎌倉を脱出する際、家臣淵辺義博に命じて護良親王を殺害させた。明治2年(1869)護良親王の意志を後世に伝えることを望んだ明治天皇の勅命により、幽閉されていた地に神社が創建された。「鎌倉宮」も明治天皇自らが命名された。
3. 永福寺跡(ようふくじ)
  源頼朝は鎌倉に3つの大きな寺院を建立した。一つ目は鶴岡八幡宮、二つ目は勝長寿院、三つ目は永福寺(ようふくじ)である。現在、残っているのは鶴岡八幡宮だけで後の2つは焼失してしまった。永福寺のあった所は、広大で周辺約9万平方メートルあり、国指定史跡に指定されている。建立の目的は、源義経や藤原泰衡を初め、奥州合戦の戦没者の慰霊の為であった。文治5年(1189)12月に工事を着手した。頼朝は、奥州・藤原一族を征討した際、平泉中尊寺の二階大堂(大長寿院)のすばらしさに心をうたれ、それを模して永福寺を建てている。二階の堂があった為「二階堂」と呼ばれ、付近一帯の地名にもなった。堂は左右対称に配置され、二階堂を中心に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂が配され、東を正面にした全長が南北230mの大伽藍であった。また、前面には、南北200m以上の池が作られていた。室町期の応永12年(1405)に焼失してしまったが、二階堂という地名だけが残っている。

4. 瑞泉寺
  臨済宗円覚寺派の寺院。山号は錦屏山。創建は嘉暦2年(1327)。
開山は夢窓疎石(国師)。疎石は背後の山が屏風のように迫る地形が禅院に相応しいとしてこの地を選び、寺院を建立した。のちに足利基氏をはじめ代々の鎌倉公方の菩提寺となり、塔頭も10を超え、関東十刹第一位の格式を誇った。後醍醐天皇や足利尊氏が帰依した疎石は瑞泉寺の石庭にも心血を注いだ。岩盤を削り出した岩の作庭は本堂裏に発掘保存され、国の名勝に指定されている。この庭は書院庭園の起源ともなった。本堂には徳川光圀が寄進した千手観音像や夢窓疎石像(国重文)などが祀られている。また、裏庭には「お塔やぐら」「瑞泉寺やぐら群」があり、境内には吉野秀雄の歌碑、大宅壮一評論碑、久保田万太郎句碑などがある。境内入口には、「松陰吉田先生留跡碑」がある。これは第25代住職竹院和尚が松陰の母「たき」の実兄であったことから、松陰は3度同寺を訪れている。最初は松陰22歳のときで、池田屋騒動で新撰組に斬られた宮部鼎蔵と一緒だった。叔父である和尚竹院とは、世を徹して談論したと云う。そのとき和尚から「一切名聞利禄の念を断って国家に尽くせ」と諭されたという。瑞泉寺一帯は紅葉谷とも呼ばれるように紅葉の美しさは鎌倉随一とも云われている。

 
5. 荏柄天神社
  荏柄天神社は荏柄山天満宮とも称され,京都の北野天満宮,福岡の太宰府天満宮とともに日本三天神の一つに数えられる。創建は長治元年(1104)。祭神は学問の神様として知られる菅原道真と須佐男尊である。源頼朝は鎌倉幕府開府にあたり、鬼門の守護社として崇敬し社殿を造営している。幕府滅亡後も鎌倉公方足利家の尊崇を受け、江戸期に入っても鶴岡八幡宮とともに徳川家に庇護されてきた。本殿は鎌倉最古の神社建築(国重文)で、社宝には、憤怒の表情で「怒り天神」と呼ばれる木造天神坐像(国重文)がある。境内には推定樹齢900年の御神木の大銀杏が聳えている。天神社には付き物の梅の木も「古代青軸」や「寒紅梅」など100本以上植えられている。漫画家清水崑の「かっぱ筆塚」があり石碑の裏の文字は,作家川端康成が揮毫している。また、平成元年(1989)に完成した絵筆塚は、「フクちゃん」で知られる横山隆一を始め,漫画家154人の漫画で飾られている。

 
6. 歌の橋
  建保元年(1213)和田義盛が黒幕の謀反の疑いで捕えられた御家人渋川兼守は、無実を訴えたが斬首されることになり、辞世の歌を十首読み荏柄天神社に奉納した。将軍実朝は、その和歌を詠んで感心し、罪を許して釈放した。兼守は、そのお礼に荏柄天神社の参道近くに橋を架けて、謝意を示した。この逸話から、歌の橋と呼ばれるようになった。

 
7. 勝長寿院跡
  勝長寿院は、源頼朝が鶴岡八幡宮の次に造営した寺院である頼朝の父、源義朝は平治元年(1159に起こった平治の乱に敗れ東国に逃れる途中、尾張国野間で長田忠致の裏切りに遭い、郎党の鎌田政長と共に殺された。頼朝は父義朝の菩提を弔うため、この谷戸一帯に大御堂を建立した。大御堂にはのちに北条政子や源実朝もこの寺に葬られたというが、その存在は不明である。本堂の阿弥陀堂には、頼朝に招かれて、奈良から来た仏師成朝に依って彫られた「黄金の阿弥陀仏」が本尊として安置され、藤原為久によって壁画の浄土瑞相二十五菩薩像が描かれた。のちに、五仏堂には運慶の五大尊像が安置されていた。正嘉2年(1258)の再建時には、本堂・弥勒堂・五仏堂・三重塔・惣門が建てられたといわれているが、その後度重なる火災に遭い、16世紀前期頃に廃寺となったと伝えられている。

 
8. 文覚上人屋敷跡
  この地は文覚上人の屋敷があったところと伝わる。 文覚上人はもと上皇の身辺を警護する遠藤盛遠と云う北面武士であったが、同僚の渡辺渡の妻袈裟御前に懸想し、誤って殺してしまった。これを悔いて出家して僧侶になった。熊野山で荒修行を積み、都に戻って神護寺を再興するために、後白河法皇に勧進したが、その額が大きいので法皇に断られると、法皇を非難するような言動を吐いたため、法皇の怒りを買い、伊豆に流刑になった。その頃この地には源頼朝が流されていたことから頼朝と文覚は親交を深めるようになった。文覚は頼朝のブレーンとして働き、平家打倒を勧め、自らも関東各地の豪族を訪ね、頼朝に加担するよう暗躍したと云う。頼朝は平家打倒の旗揚げを興し、石橋山の合戦に挑んだという。この縁から頼朝が幕府を開き、奥州平泉の藤原泰衡・源義経征伐の際には、江の島に琵琶湖竹生島から軍神としての弁財天を勧請して、戦勝祈願の祈祷を行っている。頼朝が死去すると
さまざまな政争に巻き込まれ、佐渡へ配流される。のちに許されて京に戻るが、元久2年(1205年)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬へ流罪となる途中、筑前で客死している。大御堂橋下を流れる滑川のことを文覚の法名に因んで坐禅川ともいう。

 
9. 土佐坊昌俊屋敷跡
  ここはかって頼朝の近臣土佐坊昌俊が住んでいた所である。『吾妻鏡』によれば、文治元年(1185)10月源頼朝は勝長寿院での父義朝の供養を終えると、その席に参列した御家人たちに義経討伐を宣言し、名乗り出る者を募った。多くの者が辞退する中、頼朝の近臣土佐坊昌俊は、もしものときに年老いた母や幼い子供たちに情けを掛けてやって欲しい旨を頼朝に嘆願したうえで、この役を引き受けた。土佐坊昌俊は、平治の乱で源義朝に従い、平清盛に敗れて義朝が東国へと落ちびる際も同行していた人物である。昌俊は手勢を率いて京に上り、堀川の館にいる源義経に夜襲をかけたが、義経は事前に叔父の源行家から聞いて、「昌俊の襲撃」を事前察知していた。逆襲され、昌俊は捕らえられて、六条河原で梟首にされた。
余談ながら、土佐坊昌俊は渋谷重国の子で名を渋谷金王丸ともいわれ、東京渋谷区にある金王八幡神社の地は、かって、山城があり、昌俊がこの山城を治めていたという。渋谷の名はこれに因んでいると伝わる。神社境内の金王桜は、一重と八重が混じって咲くもので、頼朝が金王丸を偲び植えたのだと神社は伝えている。

 
9. 宝戒寺
  宝戒寺は、正式には天台宗金龍山釈満院円頓宝戒寺という。この地は北条高時の屋敷があったところで、代々、北条徳宗家が住んでいた。徳宗とは第2代執権北条義時以降、執権を務める北条氏の惣領を云う。鎌倉幕府滅亡後、建武2年(1335)後醍醐天皇の命で、北条一族の霊を弔うために足利尊氏が当山を建立した。建立にあたっては、国家的人材の育成と円頓大戒(すべての物事を丸く治める戒律の意)の修行の場となるようにと天台密教四宗見学の道場が置かれた。江戸時代には大僧正天海の推挙で、徳川将軍家から庇護を受け、今日に至っている。本尊は重要文化財で仏師 三条法印憲円作の木像地蔵菩薩像で鎌倉地蔵尊第24番札所の第1番に置かれている。境内にある太子堂には、職人の守護神として崇敬されている聖徳太子の2歳尊像が祀られていて、毎年1月22日には市内の建築関係者、植木屋、石屋などが集まり、護摩を炊いて読経し、木遣唄などを奉納する「聖徳太子講」が行なわれている。鎌倉・江の島七福神の1つでもあり、病魔退散、財宝富貴の神― 毘沙門天が祀られている。また、萩の寺としても名高く、10月初旬には境内一面に咲くシロハギは見事である。
11.  東勝寺橋
  第5 代執権北条時頼の治世のとき、評定衆の1人であった青砥藤綱は,ある夜幕府に出向く途中,東勝寺橋の上で,袋に入れておいた10 文の銭を滑川に落としてしまった。藤綱は家来に50 文で松明を買ってこさせ,川床を照らして捜し出した。この話を聞いた同僚が「藤綱は勘定知らずだ。10 文捜すために50 文を使って損をしている」と笑った。すると藤綱は「常人の勘定はそうだろう。しかし,銭が川に沈んだままでは,永久に使われることはない。50 文で松明を買えば,それを作っている町民や,商っている商家も利益を得られる」と笑った人々を諭したと云う。実際、幕府内部の動きなどを記した「弘長記」のなかで、藤綱は「謹厳実直で富んで奢らず、威あって猛けからず、私利私欲なき賢者」と評されているという。因みに、評定衆とは執権の下にあり、立法・行政・司法の実務に携わる幕府の重要職務である。


 
12. 東勝寺跡、腹切りやぐら
  東勝寺は3代執権北条泰時が開基し、開山は栄西の弟子 退耕行勇が開山したと伝わるが創建の時期などは不明。元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めで敗退した、北条一門は、寺に火を放ち、第14代執権高時ら北条一族283人、総勢約870余名が自害したと云われる。東勝寺は全焼し、室町時代に復興して再建されたが、その後廃寺となった。近くの滑川が濠の役割をもち、城郭としての意味を持つ寺であったと思われる。この葛西ガ谷の北条一族が葬られたやぐらは「腹切やぐら」と呼ばれ国指定の史跡になっている。先祖が名越北条氏という「高倉健」さんは、文化勲章受賞後、管理する宝戒寺に先祖供養に参られてお塔婆を奉じたという。

 
13.   妙隆寺
日蓮宗の寺院。山号は叡昌山。この辺り一帯は鎌倉幕府の有力御家人・千葉氏の屋敷跡と云われ、この寺は一族の千葉胤貞が日英上人を迎えて建立しました。第二代目の日親上人は宗祖日蓮上人にならい「立正治国論」で室町幕府第6代将軍足利義教の悪政を戒(いまし)めましたが、弾圧され、数々の拷問を受けました。ついには焼けた鍋を頭に被せられたので「鍋かむり日親」と呼ばれました。本堂前右手の池は寒中・百日間水行をした池とされ、厳しい修行の跡と云われています。また、同寺は鎌倉・江の島七福神の1つで、不老長寿の神―「寿老人」を祀っている。また、本堂脇には、広島で被爆死した「新劇の団十郎」こと丸山定夫の顕彰碑がある。

 
14.  日蓮上人辻説法跡
  日蓮上人は建長5年(1253)安房から鎌倉に来て、松葉ケ谷に草庵を持った。鎌倉時代、ここ小町大路辺りは武士の屋敷と商家が混在した地域と考えられ、毎日のように、日蓮はこの辺りを訪れて法華経の功徳を説く、辻説法を行っていたと伝えられている。説法では震災、干ばつ、疫病などの原因は他宗にあるとして舌鋒鋭く非難をしたという。文応元年(1260)5代執権北条時頼に提出した「立正安国論」が原因で、怒りをかい、松葉ケ谷の草庵は焼き討ちされた。明治時代の日蓮宗学者、田中智学は跡地に腰掛け石や石碑を建てて整備を行った。辻説法の場所は、ここから小町大路を800mほど南に下ったところの本興寺にもある。

 
15.  蛭子神社(ひるこじんじゃ)
  小町の鎮守。祭神は大己貴命。かって、現在の夷堂橋付近に夷三郎社という神社があったが永享(1429~1441)の本覚寺創建の際に境内に移され、夷堂となった。明治の神仏分離令で現在地に移り、同地の七面大明神、宝戒寺境内の山王大権現とともに合祀され、蛭子神社と改称され、小町の鎮守として村社に列格された。

 
16. 妙本寺
  比企大学三郎能本が日蓮のためと比企一族の霊を弔うため、日朗を開山として文応元年(1260)に創建された。妙本寺が開山される50年前、この一帯には比企能員の屋敷があった所であった。比企能員は頼朝が旗上げしたときからの側近で、妻は2代将軍頼家の乳母であった。このことから頼家が将軍になると比企一族は重用されるようになり、比企の娘 若狭局が頼家の寵愛を受けて一幡を産んだ。その後、頼家は原因不明の病となり床に伏した。頼家が亡くなると一幡が将軍になり、比企がますます権勢を強めることに危機感を覚えた北条時政は、謀って比企能員を誅殺し、大軍を擁して比企の館に攻め入り、若狭局と頼家の子一幡をはじめ一族をことごとく滅ぼした。比企一族の墓と一幡の袖を埋めたと云う袖塚がある。また、祖師堂には日蓮の生前の姿をうつした三体の像の一つといわれる座像が安置されている。寺北面には若狭の局の霊を慰めるために建てた蛇苦止堂がある。
17. 本覚寺
  本覚寺は、永享8年(1436)日蓮宗の高僧日朝が日蓮上人の遺骨を身延山から分骨してきたことから東身延とも云われている。この場所は鎌倉幕府の守護神として祀られていた夷堂のあった所で日蓮が流刑地の佐渡から戻ったとき滞在していたと云われる。本堂には南北朝期に作られた釈迦三尊像や日蓮像が安置されている。境内にある夷堂には鎌倉・江の島七福神の恵比寿さまが祀られており毎年1月に行われる「初えびす」は多くのひとで賑わう。仁王門を出た所の滑川に掛る橋は夷堂橋である。墓域には、名刀工岡崎五郎正宗の墓がある。

 
第3回 鎌倉ウォーキング 朝夷奈・名越切通  解説版

1. 朝夷奈切通
朝夷奈切通しは、執権北条泰時が仁治元年(1240)六浦と鎌倉を結ぶ道の改修を和田義盛の三男・朝夷奈三郎に任務させてできたという。名称も彼の名が付けられた。六浦港は、当時塩の産地であり、安房、上総、下総などの関東地方をはじめ海外(唐)からの物資集散の重要港でした。工事に際しては、泰時自らが監督して、自らの乗馬にも土石を運ばせて普請工事を急がせたと云う。この切通しができたことで、六浦に集積した各地の物資は速やかに鎌倉に入ることになり、政治的・経済的な価値は倍増しました。また、鎌倉防衛上に必要な防御施設を考慮した平場や切岸なども痕跡が残されている。この切通しは鎌倉七口のなかでも最も険阻な道です。公文書名「朝夷奈」が「朝比奈」と呼ばれるのは、江戸時代の歌舞伎で「曽我物語」の題目のなかで「朝比奈」が使われたことにより、現在では、地名は「朝比奈」と表記している。

2.梶原太刀洗い水
鎌倉五名水のひとつと云われるこの近くで事件があった。寿永2年(1183)12月、この地からほど近い明王院付近に住む頼朝の側近梶原景時は、同じくこの一帯に屋敷を構えていた上総介広常を訪れて、双六を遊興した。そのうち些細なことで口論となり、景時はやにわに太刀を抜いて広常に斬り掛った。これは双六に事寄せての謀殺で、頼朝の命を受けての仕業であったと云う。その背景は、日頃上総介広常が頼朝に対して、臣下の態度を取らず、謀反を起こす気配を感じていたからとも云う。広常を討った太刀の血塗りを洗ったのが、このしたたり水であったことから呼ばれるようになった。その後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に一族を赦免したという。
3.明王院
当院は正しくは「真言宗飯盛山寛喜寺明王院五大堂」と云う。鎌倉4代将軍源頼経が宇都宮辻子幕府の鬼門除け祈願所として、この地に嘉禎元年(1235)建立した寺院で五つの大きな御堂があり、それぞれの御堂に不動明王は祀られていたので五大堂とも呼ばれた。鎌倉時代から祈願所として重んじられ、元寇の際には、異国降伏祈祷が行われた。寛永年間(1624~44)の火災では4つの御堂を焼失し、一堂が焼失を免れ、不動明王が残され、現在に至っている。当院は、現在その面影はないが、将軍の御願寺として鶴岡八幡宮寺、永福寺、勝長寿院と並ぶ高い格式であった。頼経は五摂家の一つ九条家の出身で、頼朝の遠縁にあたり、わずか2歳で鎌倉に迎え入れられ尼将軍北条政子に養育された。嘉禄元年(1225)に元服し、翌年、13歳で鎌倉幕府の4代将軍となる。その年に2代将軍頼家の娘で15歳年上の竹御所を妻に迎える。2人の間に子供ができたが、死産と云う不運で、世継ぎを設けることができず、竹御所も数年後に病で死去したため頼朝の血筋は完全に消滅した。頼経が年齢を重ね官位を高めていくにつれ、反得宗家の北条朝時らが接近してきて、幕府内での権力基盤を徐々に強めてくるようになると、これを警戒する4代執権北条経時に将軍退位を迫られ、寛元4年(1246)、五代執権北条時頼によって鎌倉を追放されている。これを宮騒動と云う。
4.足利公方屋敷跡
鎌倉幕府が滅亡のとき、尊氏が朝廷側に寝返ったのを怒った北条高時は、この地にあった足利邸を焼き討ちした。その後、建武2年(1335)足利義詮が鎌倉公方になったとき再建された。義詮が2代将軍になり、京都に引き上げると義詮の弟基氏が鎌倉公方になり、以降氏満、満兼、持氏と代々引き継ぎここに住んだ。室町時代後期には廃墟になったが土地の人々は、いつか公方様が帰ると信じ、畑にもせず、芝野にしていたという。
 
5.青砥藤綱邸跡
第5代執権北条時頼の治世のとき、評定衆の1人であった青砥藤綱は,ある夜幕府に出向く途中,東勝寺橋の上で,袋に入れておいた10 文の銭を滑川に落としてしまった。藤綱は家来に50 文で松明を買ってこさせ,川床を照らして捜し出した。この話を聞いた同僚が「藤綱は勘定知らずだ。10 文捜すために50 文を使って損をしている」と笑った。すると藤綱は「常人の勘定はそうだろう。しかし,銭が川に沈んだままでは,永久に使われることはない。50 文で松明を買えば,それを作っている町民や,商っている商家も利益を得られる」と笑った人々を諭したと云う。実際、幕府内部の動きなどを記した「弘長記」のなかで、藤綱は「謹厳実直で富んで奢らず、威あって猛けからず、私利私欲なき賢者」と評されているという。因みに、評定衆とは執権の下にあり、立法・行政・司法の実務に携わる幕府の重要職務である。
 

6.浄妙寺
文治4年(1188)、源頼朝の重臣・足利義兼が高僧退耕行勇を招いて創建した。そのときは真言宗で、名は極楽寺であった。その後、建長寺を開山した蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職になってから臨済宗に改宗し、寺名も浄妙寺に変えた。足利義満が五山の制度定めた至徳3年(1386)には、七堂伽藍が完備し、塔頭・支院23院を数えたが、火災などのため、次第に衰退し、現在は総門、本堂、客殿、庫裡などで伽藍を形成している。本堂には本尊の南北朝時代に作られた釈迦如来像や子宝と婦人病にご利益があるという淡島明神象が祀られている。国の重要文化財に指定されている退耕行勇坐像は開山堂に安置されている。本堂左手には茶室 喜泉庵があり枯山水庭園を眺めながら抹茶を楽しめる。

7.杉本寺
天台宗大蔵山杉本寺は、鎌倉最古の寺院で、開基は藤原不比等の娘で聖武天皇妃になった光明皇后、開山は日本で初の大僧正となった行基と伝わる。東国の旅をしていた行基は、天平3年(731)、大蔵山からみて「この地に観音さまを置こう」と決め、自ら彫刻した観音像を安置した。その後、天平6年(734)光明皇后が夢の中で受けた「財宝を寄付し、東国の治安を正し、人々を救いなさい」というお告げにより、本堂を建立したと伝えられている。 寺の前を馬に乗って通ると必ず落馬するというので「下馬観音」とも、また建長寺の蘭渓道隆(大覚大師)が袈裟で顔を覆ったので「覆面観音」とも云われる。坂東三十三所観音霊場の第一番札所として知られる。本尊の十一面観音像が三体安置され中央は鎌倉初期の作で、右手は鎌倉後期の作、左手は奈良時代で行基作と云われそれぞれ国の重要文化財である。内陣の前には頼朝が寄進した運慶作という十一面観音像が安置されている。本堂前には多くの五輪塔がある。
8.衣張ハイクコース
 大切岸を通ってお猿畠・名越切通に至るハイキングコースである。このコースは、5年前に集中豪雨で、釈迦堂谷切通しが通行止めになって以来、開発されたコースで、山頂からの見晴らしが良く、近年、人気が高まっている。「衣張山」という名称は、源頼朝が夏の暑い日に、この山を白い絹で覆わせて雪景色に見立てて涼を楽しんだことから付けられたといわれている。そんな関係から「絹張山」と書かれる場合もある。頼朝ではなく、北条政子が父の北条時政に頼んで白絹を覆わせたという説もあります。別名は「衣掛山」。一説には、ある尼層が松の木に衣を掛けてさらしたことから付けられた名だといわれている。
9.大切岸
800mにもおよぶ遺構 「大切岸」は、北条氏が三浦半島の雄「三浦氏」の攻撃に備えるために築いた防禦施設だといわれてきたが、近年の発掘調査では、石切場として使用され、その堀り残された姿が現在の「大切岸」だとされている。「大切岸」の下は「お猿畠」と呼ばれ、3匹の白猿が松葉ヶ谷法難の際に、日蓮をここまで連れてきたという伝説が残されている。

 
10.名越切通
 名越切通は、武家の都として経済的にも発展してきた鎌倉と三浦を結ぶ往還路として整備された古道。鎌倉七口の一つ。切り開かれた時期は不明だが、『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条に「名越坂」の記述があることから、それ以前に開通していたものと考えられている。鎌倉七口の中でも当時の面影をよく残した切通で、北方の尾根にある「まんだら堂やぐら群」には、多くのやぐらや石塔が残されている。また、古くは、日本武尊が東夷征伐の際に通った古東海道筋だったとも考えられている。
11.まんだら堂
 鎌倉七口の一つ名越切通の北尾根の「まんだら堂やぐら群」には、約150穴の中世の「やぐら」が残されている。鎌倉市内でもこれだけの「やぐら群」の存在は珍しい。やぐら内に置かれている五輪塔は、後に動かされたものが多いらしいが、古い書籍やガイドブックの写真等によると、以前は、やぐらの前に並んでいたのかと思われる。かつて、この場所には、死者を供養するための「曼荼羅堂」があったというが、その「曼荼羅堂」がどのような建物で、いつの時代まで存在していたのかは不明。「名越切通」と「まんだら堂やぐら群」は、国の史跡に指定されている。
12.長勝寺
日蓮に帰依していた石井藤五郎長勝が、伊豆に流されていた日蓮が鎌倉に戻ったとき庵を寄進したのがはじまりという。室町期に入って日静上人が中興し、石井長勝に因んで、山号を石井山(せきせいさん)、寺号を長勝寺にした山門を入った左側高台にある祖師堂は禅宗様式の建築で県重文になっている。境内の正面には帝釈堂があり、帝釈天が祀られている。堂前に辻説法姿で聳えるように立つ日蓮上人像は名工高村)光雲の作で洗足池から移築したものである。上人像を守護するように立つ四天王像(持国天、増長天、多聞天 毘沙門天・・・東南西北)は圧巻である。千葉県にある法華経寺で荒行を終えた僧たちが毎年2月11日に冷水を頭から浴びる水行の儀式は、大国祷会(だいこくとうえ)成満祭と呼ばれ鎌倉の風物詩になっている。
13.安国論寺
開山は日蓮上人として創建。妙法寺と同じく松葉ヶ谷法難の跡と伝えられる。日蓮が鎌倉にきて初めて道場とした岩窟がこの寺がつくられるもととなり、「立正安国論」もこの岩窟で書かれたという。この場所に寺ができたのは日蓮の弟子日朗が岩窟のそばに建てた安国論窟寺が始まりで、のちに安国論寺とよばれるようになったといわれる。境内には、日蓮の直弟子日朗上人の御荼毘所がる。日朗は、「日蓮六老僧」の一人で、文永8年(1271)、日蓮が捕らえられて佐渡流罪となったときには、一緒に捕らえられ、光則寺にある土牢に幽閉された(龍ノ口法難)。幽閉から解放された後は、佐渡に流されている日蓮のもとに8度も訪れ、赦免された日蓮を迎えに出向いたのも日朗だったという。御荼毘所脇の石段を登ると日蓮が富士に向かって法華経を唱えたという富士見台がある。庭には日蓮の桜の杖が根付いたという妙法桜やサザンカ・カイドウの巨木があり、墓域には行政改革で「増税なき財政再建」「三公社(国鉄・専売公社・電電公社)民営化」などに貢献した「土光敏夫」の墓がある。
14.安養院
正式には祇園山安養院田代寺と云う。安養院とは北条政子の法名。昭和3年再建の本堂には本尊の阿弥陀如来像、その後ろに1,85mの千手観音像が安置されている。坂東三十三所観音霊場の第3番札所になっている。本堂裏の3.3mの宝篋印塔は開山の尊観上人の墓で重要文化財になっている。その左脇には北条政子の供養塔と云われる宝篋印塔が並んでいる。地蔵堂には日限地蔵と呼ばれる鎌倉期の石の地蔵尊があり、その脇の槇の大木は樹齢700年と云われている。寺院をつつむ石垣の上には躑躅が植樹されていてつつじ寺とも呼ばれている。
 
15.八雲神社
大町の鎮守さまと親しまれている古社で、厄除けにご利益があると云われている。永保年間(1081~1084)源義光(新羅三郎)は後三年の役で、安部貞任と戦っている兄、八幡太郎義家の助成に向かうため、この地に立ち寄った。その際、疫病に苦しむ人々の姿を見て、京都祇園社の祭神を勧請して、人々を救ったという。ご神木の下には新羅三郎手玉石という土地の人々が力比べをしたという力石がある。

 
16.妙本寺
比企大学三郎能本が日蓮のためと比企一族の霊を弔うため、日朗を開山として文応元年(1260)に創建のが始まりといわれる。妙本寺が開山される50年前、この一帯には比企能員の屋敷があった所であった。比企能員は頼朝が旗上げしたときからの側近で、妻は2代将軍頼家の乳母であった。このことから頼家が将軍になると比企一族を重用するようになり、比企の娘若狭の局が寵愛を受けて一幡を産んだ。その後、頼家は原因不明の病となり床に伏した。頼家が亡くなると一幡が将軍になり、比企がますます権勢を強めることに危機感を覚えた北条時政は、はかって比企能員を誅殺し、大軍を擁して比企の館に攻め入って若狭の局と頼家の子一幡をはじめ一族をことごとく滅ぼした。比企一族の墓と一幡の袖を埋めたと云う袖塚がある。また、祖師堂には日蓮の生前の姿をうつした三体の像の一つといわれる座像が安置されている。同寺は、花の寺としても知られており、本堂前のシダレサクラやカイドウは名高い。また、寺北面には若狭の局の霊を慰めるために建てた蛇苦止堂がある。
解 説


地図
1. 大巧寺
大行寺は、かつて真言宗の寺院として十二所にある梶原屋敷内にあったが、頼朝がある戦いのときこの寺で練った作戦で平家に大勝したため大巧寺と改め、1320(元応2年)に現在地に移された。若宮大路に面した朱塗りの門のところに「頼朝戦評定所」の碑が建っている。室町時代の終わり頃、日蓮宗の寺院に改宗している。本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。日棟上人が住職のとき難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を上人が鎮めたことから、安産の神として祀られ、以来、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになり、現在でも妊婦の参詣者が多い。

 
2. 若宮大路と段葛
鎌倉の都市計画は平安京の模倣にあり、源氏の氏神である鶴岡八幡宮は大内裏(御所)、内裏への参道は京の朱雀大路を模して造られたのが若宮大路である。若宮大路は海岸近くの一ノ鳥居から鎌倉八幡宮入口の三ノ鳥居まで一直線に走っている。二ノ鳥居から三ノ鳥居の下馬橋まで大路中央に一段高くなった道が段葛である。段葛は寿永元年(1182)頼朝が妻・政子の安産の祈願のために自ら指図し、北条時政をはじめ有力御家人たちが土石を運び、鍬をふるって造ったと云う。かって、段葛は、一の鳥居から続いていたが、横須賀線の開通に伴い取り払われた。段葛は両側を桜並木と躑躅が植え込まれており、季節にはフラワーロードとして人気があり多くの人で賑わう。二ノ鳥居は江戸時代の寛文8年(1668)に徳川4代将軍家綱が寄進した石造の鳥居であったが、関東大震災で倒壊し、その後、建て直されたものである。

 
3. 宇津宮辻子幕府と若宮大路幕府
鎌倉幕府は最初、頼朝が居住していた大倉に開いた。源氏三代が政務を執ってから50年近くが経った。北条泰時が第三代執権となった代になると大倉幕府の建物も老朽化してきて、荒れが目立つようになってきた。泰時は状況を改善するには所替えが適切と考え、嘉禄元年(1225)、頼朝の妻北条政子が亡くなると、御家人宇都宮頼綱の屋敷跡に幕府の移転を行い宇都宮辻子幕府が置かれた。幕府内に御所が造られ、この御所には、京都から迎えられた9歳の第4代将軍藤原頼経が入った。しかし、実際の政治は、執権北条泰時が北条館で行っていた。したがって、この御所内では、頼経の遊興的な行事ばかり行われていた。さらに、御所内では、些細ないざこざから武士同士の刃傷沙汰事件が起きたり、白鷺や黒鳥が多数死ぬといった不吉な事件が起きた。宇津宮辻子幕府が設立されてから、わずか12年間であったが、泰時は、再度幕府の移転を決め、鶴岡八幡宮に近いところの若宮大路に移した。不吉な怪奇事件から避けるために移転されてできた若宮大路幕府では事件も治まり、北条氏による執権政治は98年間ここで行われ、新田義貞に攻め込まれて幕府が倒れるまで続いた。

 
4. 源平池
三の鳥居をくぐり、鶴岡八幡宮の境内に入ると二つの池がある。この地はかって水田があった所で北条政子が、頼朝の側近大庭景義に命じて2つの池を造らせた。これが源平池である。源氏の池には島が3つあり、三」「産」に通じるとして白蓮が植えられ、平家の池には4つ島があり「四」「死」に通じるとして平家滅亡を祈ったものと云う。この人造池は、来世の極楽浄土の世界を模したもので、宇治の平等院に見られる極楽思想に影響されたものと云う。池には旗上弁財社が祀られている。これは頼朝が挙兵したときに弁財天の霊験があったからと伝わる。
5. 大倉幕府跡
治承4年(1180)、鎌倉に入った源頼朝は、ここ大倉の地に居を構えた。ここを御所として敷地の中央に母屋である寝殿を建て政務を執り行った。頼朝が右(う)近衛(このえの)大将(たいしょう)や征夷大将軍になるとこの御所は「幕府」と称された。鎌倉幕府の統治機構のひとつ政所(前身は公文所)は、ここに置かれ、一般政務・財政を司っていた。頼朝がこの地を選んだのには、当時の主要な港であった六浦と鎌倉を結ぶ六浦道に沿っていたことと、陰陽道による地理的立地が四神の存在に相応しいすぐれた土地であったからと云う。大倉幕府は、たびたび火災にあったが、頼朝、頼家、実朝三代の将軍と尼将軍政子が統治した時までの45年間、嘉禄元年(1225)、宇津宮辻子幕府に移転するまで続き、武家政治の中枢機能を果たした。現在は石碑のみしかないが、この敷地の東西南北には門が設けられていて、東御門には比企宗員(むねかず)邸、西御門には三浦邸、南御門には畠山重忠等、頼朝が信頼する側近の家臣たちの邸宅が御所を囲むように建っていた。

 
6. 源頼朝墓と白旗神社(法華堂跡)
白旗神社は頼朝を祀っている神社。明治の始め神仏分離令が発布されたとき、この地にあった法華堂が取り壊され、祭神が頼朝である白幡神社が創建された。石段の上に頼朝の墓がある。近年の発掘調査の結果、法華堂があったのは白旗神社のある所ではなく、頼朝の墓のある位置に建立されていたという。法華堂は、はじめ頼朝の持仏堂で文治5年(1189)聖観音を本尊として建立された。頼朝が正治元年(1199)に相模川の橋梁の落成供養に参列した帰路に落馬して53歳の生涯を閉じるとこの持仏堂に葬られた。法華堂と呼ばれ始めたのは頼朝一周忌後のことである。宝治元年(1247)頼朝挙兵以来、代々幕府の重臣として重用されてきた三浦氏は泰村の代に、反逆の風説を立てられ、その挑発に乗って、北条時頼と争い、戦に敗れ追い詰められて、法華堂に立て籠もり応戦したが包囲され、泰村以下一族郎党500余名がこの法華堂で自刃したと伝わる。三浦氏が滅び、ここから北条の独裁が始まったのである。

 
7. 大江広元墓と島津忠久墓
 大江広元の実兄中原親能は頼朝に信頼された人物で、その代官として貴族との交渉で活躍した。頼朝が幕府を開くにあたり、弟の広元を鎌倉に下向させて頼朝を補佐させた。広元は公文所(のちの政所)の別当として主に朝廷との交渉にあたるばかりでなく、頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるものであった。頼朝の死後も、幕府の地固めに貢献し、承久の変や和田合戦のときも北条義時と連携して幕府の安泰に貢献した。広元の墓所の入口の石柱には長州毛利家の家紋が施されている。これは毛利家が大江氏の末裔であるとして、先祖供養のために江戸期毛利家が大江広元の墓所を整備したことに因るものである。同じく、隣接して、島津忠久の墓がある。島津忠久は鎌倉の御家人で、九州豊後の地頭に任じられた。島津家では、忠久を頼朝の御落胤と称して格式を誇り、第25代島津家当主、島津重豪は先祖供養と称して鎌倉に来訪し、忠久の墓所の改装を行った。

 
8. 白旗神社
 祭神は源頼朝と実朝。北条政子と頼家が造立したと伝わる。天正18年(1590)7月17日、豊臣秀吉は後北条を降伏させ、意気揚々と鎌倉入りした。白旗神社では、扉を開かせて社殿に入り込んで、頼朝の木像に語りかけ「微小な身の育ちから天下に号令するまでになったのは、御身(頼朝)とわしのみだ」「だが、御身は先祖が関東で威を張り、挙兵すれば多くの兵が従い、天下をとるのも容易であったろうが、わしは名もない卑属から天下をとったのだから、わしの方が出世頭である」と云って笑ったそうである。しかし「御身と吾は天下友達である」といって像の背中を叩いたという逸話が残されている。

 
9. 若宮
 治承4年(1180)、鎌倉入りを果たした源頼朝は、材木座近くにある鶴岡若宮(元八幡)を現在地に遷座させた。当初の社殿はごく簡単な造りであったが、養和元年(1181)浅草から、有能な大工たちを集め本格的な若宮の造営に着手した。続いて、若宮参詣のための若宮大路と段葛の参道が整備され、源平池の造営も行われた。 文治2年(1186)4月8日に、有名な義経の愛妾静御前が舞を披露したのは、この若宮の回廊でした。また、同じ年の8月、奥州への東大寺勧進の旅の途中で鎌倉に立ち寄った西行法師と頼朝が出会ったのも若宮の前であったと云われている。現在の若宮は寛永元年(1624)徳川2代将軍秀忠によって造営され、様式は本殿に幣殿、拝殿をつなげた権現造りで屋根は銅板葺きになっている。八幡宮本宮を上宮と云うのに対し、若宮は下宮とも云われている

 
10. 舞殿
 舞殿は、源義経の愛妾で、京都で舞いの名手として知られる白拍子静御前が八幡宮の神前に舞いを奉納した所として知られるが、静が舞ったときには舞殿は出来ていなかった。舞ったのは若宮の回廊であったという。「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにしひとの跡ぞ恋しき」「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな(倭(し)文(ず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから、たえず糸が繰り出し、繰り返えされるように、どうか昔のあの時が今であったならば・・・)と頼朝や政子の前で、死を覚悟して、恋する義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、静の死を覚悟しての凛とした舞いの姿に感激した妻の北条政子は、若い頃、頼朝を慕って、父の反対を振り払って頼朝のもとへ飛び込んだ時のことが思い出され、あの時の自分の姿そのままの静を救いたいと思い、頼朝に嘆願して命を助けたという逸話が残っている。

 
11. 鶴岡八幡宮 楼門
 61段の石段を登った所に建つ重層入母屋造りの門で、随身門ともいう。随身とは貴人を護衛する武人のことで、本宮を背にして左の随身像(阿形)は刀を持って鎮座し、右の随身像(吽形)は矢を持って鎮座している。関東大震災で破損したが、その後修復され、今日に至っている。「八幡宮」の扁額は、江戸時代初期の寛永10年(1633)後陽成天皇の弟で書道、歌道に優れていた良恕親王による筆蹟で、「八」の文字は鳩二羽を向い合せて表現している。鳩は八幡大神の使者といわれ、八幡宮では白い鳩を飼育している。

 
12. 鶴岡八幡宮 本宮
 祭神は、応神天皇、神宮皇后である。流造りの本殿に幣殿、拝殿をエの字型に繋げた権現造り。現在の本宮は、11代将軍徳川家斉が文政11年(1828)に造営した。豪華な彫刻が施され、壁面には鳥獣草木が描かれている。建久3年(1192)頼朝への征夷大将軍宣下は当本宮で行われている。すなわち、675年間続いた武家政権は、この本宮から始まったのである。また、承久元年(1219)1月27日の夜、折からの大雪のとき、右大臣に任じられたことを神前に報告する拝賀の式を終えて、黒い束帯姿で石段を降りてきた第3代将軍実朝が、甥で八幡宮寺の別当(長官)であった公暁に襲われ、斬殺された惨劇事件もここで起こった。公暁は、斬り掛るとき「親の仇はかく討つぞ」と叫んだと云う。親の仇と叫ぶように、この事件には背後で三浦義村が公暁を唆したとも云われている。その推論は「三浦義村の妻は公暁の乳母で、公暁を乳飲み子の時から養育している。義村は、実朝とともに北条義時も公暁に誅殺させて、公暁を実朝の後の将軍にして、自らが幕府の実権を掌握しようとした。しかし、義時は拝賀の式の日、参列して太刀持ち役をするはずであったが、式の途中、白い犬の幻覚を見て気分が悪くなり、源仲彰に代わってもらい、参列しなかったため難を逃れた。義時が無事だったことを事件後知った三浦義村は、自らの身が危ないと思い、公暁を家臣長尾定景に成敗させ、公暁が持ち込んだ実朝の首は、同じく家臣 武常晴に秦野市にある金剛寺へ持ち込んで供養させた。このように三浦義村が「自らが黒幕であることを隠蔽するために公暁を亡き者にした」という推論である。征夷大将軍暗殺という歴史的大事件であるが実行犯死亡の為、事件は永遠の謎になったのである。

 
13. 今宮
 今宮は新宮ともいい、鶴岡八幡宮の境外末社で、本宮の北西の山麓に造られた。小さな祠であるがここには後鳥羽上皇、順徳天皇が祀られている。上皇、天皇を祀る社がなぜ斯様なところに造られたか?
 これは承久3年に起きた、承久の乱で隠岐に配流となった後鳥羽上皇の祟りを怖れたことから建てられたのである。明治に入ってからは、土佐に配流になった土御門天皇、佐渡に配流になった順徳天皇も祭神に加えられ、3人の天皇の御霊を慰めるための社になっている。

 
14. 二十五坊跡
 鎌倉時代、鶴岡八幡宮裏の雪の下御谷(おやつ)一帯には、鶴岡八幡宮寺の塔頭・子院の他、仁和寺、紀伊根来寺の末寺の宿坊が二十五院あり、「二十五坊」と呼ばれていた。そして八幡宮寺長官の宿舎である別当坊もここにあった。承久元年(1219)、時の別当は2代将軍頼家の子公暁(19)であった。公暁は叔父実朝を暗殺し、その首級を抱えて、この二十五坊で夕餉をとり、裏山を越えて三浦義村邸に向かったと云われている。また、足利時代中期、応永23年(1416)に鎌倉公方の足利持氏と関東管領上杉禅秀(氏憲)との間で関東管領の後継に関して対立が起こり、上杉禅秀が立て籠もり自刃したのがこの地である。昭和に入り、鎌倉には土地開発の波が押し寄せた。空地になっていた二十五坊御谷一帯を、宅地化する計画が持ち上がったが、大仏次郎はじめ鎌倉風致保存会が反対運動を起して、「歴史的風土特別保存地区」として許可なく現状を変更することが出来ないようになり現在に至っている。
15. 道元来訪碑
 曹洞宗の開祖道元禅師は、師天童如浄禅師の遺戒を守り、政治の権門に近づくことを極力避け、越前永平寺に隠遁して、もっぱら禅道に身を置いていた。しかし寛治元年(1247)道元48歳のとき、5代執権北条時頼の命を受けた越前の地頭 波多野義重の懇願により、鎌倉幕府3代将軍源実朝の供養法会のため、鎌倉に下向することになった。鎌倉では高僧道元の来訪を歓迎し、約半年間滞在する間、鎌倉の有力諸将の求めに応じて説法授戒を説き、仏法を広めたと云う。そのとき諸将に説いた言葉が碑に刻まれている「只管打坐」であった。
(注)▽禅宗の語。「只管」はひたすら、ただ一筋に一つのことに専念すること。「打坐」は座禅をすること。
16.  巨福呂坂切通し
 巨福呂坂切通しは鎌倉七口の切通しの一つで、鎌倉幕府三代執権・北条泰時が安東光成に命じて、延応2年(1240)に、防衛と人の通行、物資の輸送の便を図るために建設された。現在の巨福呂坂はトンネルを通り抜けるようになっているが、昔はトンネルの西側の山を越えていく道であった。弘安5年(1282)3月に時宗の開祖一遍上人一行が鎌倉に入ろうとした際に、北条時宗と行き合って、鎌倉入りを阻止されたのが、この巨福呂坂と云われ、その時の様子は「一遍上人絵図」に詳細に描かれている。また、鎌倉幕府最後の日、元弘3年5月、攻める新田義貞軍の勇将・堀口貞満と守る北条軍の猛将・長崎高重の両軍が昼夜3日間にわたる烈しい攻防戦が展開されたのが巨福呂坂の戦いであった。

 
17. 青梅聖天社
 青梅聖天社は水戸徳川家、光圀が彰考館員らに命じて編纂させた「新編鎌倉志」によれば、病気になった将軍実朝が季節はずれの「青梅を食べたい」というので、家臣がこの社で祈願すると梅の木に実がついた。それを食べた将軍は快癒し、以来、青梅聖天と呼ばれるようなったと記述されている。社の本尊には双身歓喜天という男神と女神が相抱き正立して顔を見つめ合う姿に造られた珍しい像で貴重な文化財になっている。一般には夫婦和合の利益があり、巨福呂坂頂上付近に祀られたのは、峠を往来する人々の安全を祈願するため云う。

 
18. 浄光明寺
 浄光明寺は、源頼朝が文覚上人に建てさせた堂がそのはじまりであるといわれている。建長3年(1251)、六代執権北条長時が真言宗泉涌寺派の真聖国師を招いて再興した。鎌倉幕府滅亡後は、浄土・華厳・真言・律の四つの勧学院が建てられ、四宗兼学の寺院となった。最盛期には10の支院があったという。建武2年(1335)、北条高時の遺児北条時行が鎌倉奪還のため起こした中先代の乱では、足利尊氏が後醍醐天皇の許しを得ずして、弟の足利直義の援軍のため鎌倉に下り、時行を打ち破った。しかし後醍醐天皇の無断で出兵した尊氏への怒りは収まらず、尊氏討伐の綸旨を発した。浄光明寺に蟄居していた尊氏は、応戦か、恭順か悩んだすえ、弟直義の説得もあり、当寺院の阿弥陀堂で後醍醐天皇に反旗を翻す歴史的決断をしたといわれる。浄光明寺には、安山岩製の宝篋印塔がある。正二位権中納言冷泉為相のものと伝えられている。冷泉為相は、「十六夜日記」で知られる阿仏尼の息子で、「新古今和歌集」の撰者として知られる藤原定家の孫にあたる。為相と異母兄の相続争いで、為相の正当性を訴えるために鎌倉を訪れていた母阿仏尼のあとを慕って鎌倉に下り、嘉暦3年(1328)この地で没したと伝わる。墓は阿弥陀堂背後の丘陵にある。山門前の石碑に「藤谷黄門遺跡」と刻まれているのは、為相が藤谷殿中納言(黄門)と呼ばれていたからである。また、境内に楊貴妃観音があるのは京都泉涌寺の楊貴妃堂から分霊したものである。

 
19.  岩舟地蔵堂
 元禄3年(1691)海臧寺によって建て替えられた岩舟地蔵堂には頼朝と政子の最初の娘、大姫の守り本尊という銘札を胎内に納めた木造地蔵菩薩堂が祀られている。大姫(当寺6歳)は木曽義仲の長男義高(当時11歳)に嫁ぐ予定であったが、木曽義仲が京で乱暴狼藉を働いたため、後白河法皇は義仲追討の院宣を頼朝に発した。頼朝はこれに応えて義仲を滅ぼした。しかし、困ったのは人質にしていた義高の処遇である。義高と大姫は傍から見ても仲むつまじい間柄であった。頼朝は将来の幕府の行く末を思うと、義高を成敗しなければならないと考えた。このことを察知した妻政子は、大姫の心情を思いやり、義高を女装させて鎌倉を脱出させるが、義高は追っ手に捕まり入間川付近で捕えられ斬られてしまった。このことを知った大姫は、深く嘆き悲しみ、飲み物さえ喉を通らないほど心を痛めた。心の傷跡はその後も癒されず、うつ病状態が長くつづき次第に衰弱していった。頼朝もほとほと困り果て、朝廷との縁組などの話も進めて、気分転換を図るが、大姫の心は快癒せず、建久8年(1197)20歳で生涯を閉じた。この地蔵堂は、義高・大姫の悲劇を語る御堂である。

 
20. 薬王寺
 薬王寺は、もとは真言宗の梅嶺山夜光寺といったが、永仁元年(1293)、日像上人と住職の宗教論議の末、日蓮宗に改宗されたという。江戸時代には、徳川家との縁が深く、寺紋にも「三葉葵」が使われたため、庶民の埋葬は許可されない格式の高い寺であった。寛永年間(1624~1645)、徳川忠長室松孝院の援助で日蓮宗不受不施派の僧日達が再建し、大乗山薬王寺と改称した。境内には、江戸幕府三代将軍徳川家光の弟で駿河大納言忠長の供養塔がある。本堂に安置されている日蓮像は天保5年(1834)将軍家斉の命によって造られた裸像で、本物の法衣袈裟をまとっている。

 

21.  亀ヶ谷坂切通し
 亀ヶ谷坂は鎌倉七口のひとつ。現在の鎌倉市山ノ内から扇ガ谷を結ぶ坂道。別名、亀返坂といい急坂のため亀も引き返した、ひっくり返ったと云われた。吾妻鏡によると、仁治元年(1240)に北条泰時が開削したと書かれており、江戸時代初期の「玉舟和尚鎌倉記」には「亀ヶ井坂」、水戸光圀が命じて編纂させた1685年の「新編鎌倉志」以降は「亀ヶ谷坂」と書かれている。頼朝が武蔵国から鎌倉入りしたとき通ったのがこの亀ヶ谷切通しであった。

 

22.  長寿寺
 長寿寺は、足利尊氏が邸内に建武3年(1336)創建し、諸山第1位の列に定めた。尊氏没後、父の菩提を弔うために、足利公方基氏によって七堂伽藍を備えた堂宇が建立された。尊氏の法名を京都では等持院、関東においては長寿院と称している。開山は古先印元禅師。正面本堂に足利尊氏坐像と古先印元禅師坐像が祀られている。右奥の観音堂は奈良の古刹円成寺の多宝塔を大正時代に移築して改造したものである。境内奥に尊氏の遺髪を埋葬した墓がある。
23.  浄智寺
 浄智寺は第8代執権時宗の実弟で、蒙古襲来に備えて時宗の名代として九州の守護に就くが、若くして病死した北条宗政の菩提を弔うため宗政夫人が弘安4年(1281)に建立したと伝わる。鎌倉五山第四位の禅寺で、山号は金宝山と云う。元亨3年(1323)頃には堂塔も整い、伽藍も大規模になっていて、塔頭も11院を数えていた。室町時代は鎌倉公方との関係が深く、足利持氏や子の古河公方成氏が在住していた時もある。しかし鎌倉公方滅亡後は次第に衰退した。江戸期に入って徳川の庇護で伽藍が復興されたが、関東大震災で堂塔の建物はほとんど崩壊した。現在は、総門、楼上に銅鐘を置く重層の三門、曇華殿と称する仏殿、方丈、客殿などの建物が伽藍を形作っている。仏殿の本尊は木造三世仏坐像で、向かって阿弥陀如来像、釈迦如来像、弥勒菩薩像で、過去、現在、未来を顕わしている。境内は樹木が豊かで起伏に富み、鎌倉江ノ島七福神の一である布袋の石像をまつる洞窟もある。境内入口にある湧き水は鎌倉十井のひとつ「甘露の井」である。

 


 
24.  東慶寺
 東慶寺は女性を護るかけ込み寺、縁切り寺として知られている。現在は僧寺だが明治35年(1902)までは尼寺であった。8代執権北条時宗の妻である覚山尼が開山、時宗の長子9代執権貞時が開基して、時宗が没した翌年、弘安8年(1285)に創建された。覚山尼は朝廷の許しを得て縁切りの法を定めたという。歴代の住持は名門の出で、特に5世 用堂尼は後醍醐天皇の皇女で、弟の護良親王の菩提を弔うために入寺し、このときから「松岡御所」と呼ばれるようになった。用堂尼以降は、足利氏の息女が代々住持になり、室町時代には鎌倉尼五山の第2位に位置した。20世の天秀尼は、豊臣秀頼の側室の娘である。元和元年(1615)大阪城落城後、8歳の時に家康の命で入寺した。命を取りとめたのは、家康の孫娘で秀頼に嫁いでいた千姫が天秀尼の養母であったための配慮と云う。天秀尼は千姫を通じて、「縁切寺法」の存続を幕府に願い出て、許可を得た。これにより、縁切寺法は徳川幕府の庇護のもと幕末まで続き、約600年間、不幸な女性たちを救い続けてきたのである。離婚を望む女性が寺に駆け込み、髪を切り、経を読み、和裁などをしながら3年間の修行生活を終えれば離婚は認められ、再婚も出来たと云う。同寺のご本尊は本堂に安置されている釈迦如来坐像であるが、他に重要文化財になっている木造聖観音立像がある。これは鎌倉尼五山第1位の大平寺本尊であったが、里見氏が鎌倉を侵攻した折、持ち去られた仏像で、のちに北条氏康の強硬な後押しをいただいて東慶寺の塔頭蔭凉軒の要山尼が里見氏との交渉をして取り返した因縁の仏像である

 



 
第1回 鎌倉ウォーキング 散策地解説
(鎌倉七切通し)
 源頼朝が、鎌倉に幕府を開いた最大の理由は、鎌倉が一方は海に臨み、三方は山に囲まれて、敵の攻撃を守る城塞都市を築ける軍事的要害の地だったからでした。そして都市への人々の往来や物資の運搬のため最小限の道は必要でした。そこで源頼朝は山を最小限度だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作りました。これが「切通し」です。幕府の防衛意識は相当に周到なもので、曲がりくねった狭い道にして、加えて、山腹を垂直に切り落とした「切岸」や道の上に兵士たちを待機させた「平場」、道の真ん中に大きな自然石を置いた「置石」、亀ヶ岡団地に行く手前では狭い道幅に左右から大きな石が覆い被さり、敵を立ち往生させた「大空洞」、「小空洞」等複雑な防御機構などを設けていました。万が一、敵軍が攻め込んで、この切通しを抜けようとすると、その間に種々な仕掛けなどあり、その障害の為に大幅に戦力をそがれる、こうして外敵の不法侵入を防ぐ役割を果たしたのです。鎌倉には主要な切通しが、7つあり、これを「鎌倉七口」とか「七切通し」と呼びます。
 1、 坂ノ下と極楽寺を結び、藤沢、京都と鎌倉を結ぶ西の玄関口の「極楽寺坂切通し」
 2. 長谷と打越を結び、現在も大仏坂トンネルの山上に残る「大仏坂切通し」
 3. 藤沢からの出入口で扇が谷と佐助の間にある「化粧坂切通し」
 4. 亀ケ谷と山之内を結び険しい難所の為、亀も諦めて引返したと云う「亀ヶ谷坂切通し」
 5. 雪ノ下と山之内間を結ぶ「巨福呂坂切通し」。ここは現在、通り抜けは出来ません。
 6. 金沢、六浦と鎌倉を結び、物資の輸送のほか軍事的要路だった「朝夷奈坂切通し」
 7. 三浦半島と鎌倉を結ぶ海上貿易のための重要な幹線道路であった「名越坂切通し」
この他に都市内部の切通として岩壁を刳り貫いて作った「釈迦堂の切通し」がある。
1. 稲村ガ崎
 稲村ケ崎は霊仙山の丘陵が海中に突き出た岬の部分で標高は60mある。稲村ケ崎の名前は岬を海上から眺めると稲叢に似ているところから呼ばれたと云う。岬は急峻な絶壁で、人が通るのは危険を伴う難所になっていた。元弘3年(1333)朝廷方 新田義貞が鎌倉を攻めるさいこの岬で竜神に祈願して黄金の剣を投じたところ、海岸はにわかに引き潮になり、軍勢が攻め込んで、鎌倉攻略のきっかけになったと太平記で語られている。公園入口には「稲村ケ崎新田義貞徒渉伝説地」「明治天皇御製の歌」、七里ケ浜に面した公園西には「逗子開成中学生ボート遭難供養」そして丘陵の丘の上には「ドイツ人細菌学者コッホ博士来訪」の碑が建っている。

2. 十一人塚
 十一人塚の辺りは、極楽寺切り通しに向かう道の入口にあたり、交通の要所であった。新田義貞の鎌倉攻めの折り激戦の場となったが、鎌倉方の勇将本間山城左衛門の抵抗にあって、新田方の武将大舘宗氏ら11名が戦死した所と云われている。のちに、ここに十一面観音堂が置かれ、十一将を弔(とむら)ったことから十一人塚と呼ばれるようになった。

3. 日蓮袈裟掛けの松
 ここは日蓮上人が竜の口の刑場に連れて行かれるとき自ら着ていた袈裟を掛けたと伝わるところで近年まで古い松が残っていたが、現在は新しい松に植え替えられその名残を伝えている。




4. 極楽寺
 鎌倉第3代執権 北条泰時の異母弟の重時が、真言律宗の教えを鎌倉に広めようと大和国から高僧忍性を招いて、この地に極楽寺が建立された。忍性は単なる僧ではなく、貧民を救済するため、施薬院、療病院、薬湯院などの医療施設を作り、20年間で6万人も救済したと云う。その他、重時の山荘を建てるさい、資材運搬のための道路敷設工事の指導まで行っている。忍性の行動は重時やその子長時からも信頼され、極楽寺は隆盛していった。今日の寺の姿からは想像できないが、最盛期には七堂伽藍を備え、子院49、堂塔270が立ち並ぶ壮大な大寺院であったと云う。その大伽藍を誇った極楽寺も、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡とともに多くの堂塔が兵火につつまれ、壮大な寺容は失われてしまった。現在、わずかに吉祥院の建物が極楽寺の本堂として名残りを留めている。宝物館には本尊の釈迦如来立像や十大弟子像が保存されている。本堂前の製薬鉢と千服茶臼は、忍性が寺で活動していた時の遺品である

 
5. 極楽寺切通し
 極楽寺切通しは、極楽寺住職の忍性が鎌倉と腰越・片瀬へ通じる道として、正元元年(1259)に開いた。この切通しができる前は、海岸の崖っぷちを歩いていたので、危険で、不便であった。切通しの完成は藤沢方面、さらには京都と鎌倉を結ぶ西の玄関口となり、人の往来が活発になるばかりでなく、鎌倉を敵の攻撃から守る軍事的要害の
役割を果たすことになった。

 
6. 成就院
 成就院は真言宗大覚寺派の寺院で極楽寺の子院。山号は普明山(ふめいさん)。寺号は法立寺。本尊は不動明王。アジサイの寺として知られる。鎌倉七口の一つである極楽寺坂切通しの途中に位置する。弘法大師が諸国巡礼の折、百日間にわたり、虚空蔵菩薩の真言を百万回唱える虚空蔵求聞持法の修行を行った所と伝わる。 承久元年(1219)、三代執権の北条泰時がこの寺を創建し、北条一族繁栄を祈ったという。元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失したが、江戸時代に再建された。境内には弘法大師像や聖徳太子1300年忌に建てられた八角の小堂がある。寺には平安時代末から鎌倉時代初期の僧・文覚の荒行像がある。彫刻家荻原碌山は明治時代末期にこの像を見て感銘を受け、自身の代表作「文覚」を制作した。また参道には般若心経の文字数と同じ262株のアジサイが植えられている。

 
7. 星の井と虚空蔵堂
 鎌倉十井の一つ星の井は星月夜ノ井とも呼ばれ、昼間でも星影が見え、井戸の中に三つの明星が輝き、夜も付近を照らした。この現象が七夜も続いたことを全国行脚の途中立ち寄った高僧行基が聞き、村人の力を借りて、井戸水を汲み出してみると黒く輝く石があった。行基は「虚空蔵菩薩が石になって降りて来られた」と直感した。この事は、都の聖武天皇の耳にも入り、行基に虚空蔵菩薩の像を彫って祀るように命じたのだという。この菩薩は虚空蔵堂に安置され、行基はここで頭脳明晰、記憶力増進をはかる「虚空蔵求聞持法」を修行したと云う。本尊虚空蔵菩薩は、鎌倉時代には源頼朝の命により秘仏とされ、35年に一度だけの開帳だったが、現在では、1月、5月、9月の13日に開帳されている。虚空蔵菩薩は丑年と寅年生まれの守り本尊と云われ、13歳になった子が知恵を授かるための「十三まいり」が現在も行われている。

 
8. 御霊神社
 御霊神社は勇者の誉れ高い鎌倉権五郎景政を祀っている。平安後期、後三年の役に16歳で出陣した景政は,八幡太郎義家を助けて大いに奮戦した。敵将鳥海弥三郎に右目を射られたが、矢を突き刺したまま戦い敵を倒した。目の奥深くまでつき刺さった矢を、従兄弟の三浦為嗣が抜こうとしたが、なかなか抜けぬ矢に困りはてた為嗣が、景政をあおむけに寝かせ顔を踏みつけて抜こうとした。その時、景政は為嗣の足を払いのけ、「矢に当たって死ぬは武士の本望、なれど生きながら土足で顔を踏まれるは恥だ」と激しく怒った話は有名です。この英雄は神として祀られたが、その後も様々な災難にも厄払いの霊験が現れ、将軍の参詣や奉幣使の派遣が行われるようになったと云う。鎌倉権五郎景政の子孫には、源頼朝が北条時政とともに石橋山で旗揚げをして敗走した際に、平氏側に属しながら潜伏中の頼朝を故意に見逃し、のちに頼朝に臣従した梶原景時がいます。また、浅草寺境内にある市川団十郎の「暫」の像は、この鎌倉権五郎の勇者ぶりを演じたシーンである。

 
9. 長谷寺
 坂東三十三ケ寺の第四番札所として知られる長谷寺の観音は高さ9.18mという日本最大級である。木像の十一面観音像で右手に錫杖を持って死後の世界を導き、左手に蓮華の花瓶を持って、現生利益を約束する独特の像で、両方の功徳を合わせ持つことで多くの人々から信仰を集めている。金箔は足利尊氏が施し、光背は足利義満が納めたと伝えられている。徳川家康は、関ヶ原に出陣する際に参詣し、その後、観音堂を修復した。1300年ほど前、大和長谷寺の徳道上人がクスノキの大木で一体の観音像を造り、一体を奈良の長谷寺に安置し、もう一体は人々を救うように祈り、海に流した。この仏像が16年後に三浦半島に漂着した。その観音像を藤原房前が、鎌倉の地に移し、徳道上人を招いて天平8年に新長谷寺を開山したと伝わる。境内には観音像、阿弥陀堂、大黒堂、経堂などが建ち、四季折々の花が咲いている。山号が海光山と呼ぶにふさわしく、境内からは由比ヶ浜、遠く三浦半島まで一望できる。

 
10. 光則寺
 光則寺は第5代執権北条時頼の家臣宿屋光則によって開かれた。宿屋氏は法華信者を取締る役人で、「竜の口法難」で日蓮が佐渡に流された時は、弟子の日朗上人や信者の四条金吾を自宅裏の土牢に閉じ込める役を任じていた。日朗上人の人柄や日蓮の教えに触れるうち熱心な信者になったと云う。のちに上人の為に屋敷を提供し、文永11年(1174)寺院としたのがはじまりと伝わる。境内には、天然記念物のカイドウの古木や2つの土牢がある。

 
11. 高徳院
 鎌倉の大仏で有名なこの寺は真言宗大異山高徳院清浄泉寺と云う。開基、開山は不明である。本尊は建長4年(1252)に青銅で鋳造された座高11m、重量 120トンの阿弥陀如来像。当初は仏殿に安置されていたが、仏殿は、地震や台風でたびたび倒壊し、建武2年(1335)北条時行の兵が出陣前に仏殿に集まっていたところ大風で仏殿が倒れ、500余人が死んだと云う。その後、再建されたが明応4年(1495)の津波で流されてしまい、それ以降再建されないため、520年間、露座のままである。仏殿の回廊には、2.8mの大わらじが飾られているが、茨城県の児童が寄進したものである。仏殿裏の観月堂わきには、与謝野晶子が詠んだ「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな」の歌碑が建っている。

 
12. 大仏切通し
 大仏切通は鎌倉七口のひとつ。現在の鎌倉市長谷から梶原・深沢に抜け藤沢方面に通じる道。現在の大仏坂トンネル上の山道を歩き、切り立った岩肌、やぐら群、石塔などを眺めながら、歩みを続けると火の見下のバス停に出る、この道が往時の切通しである。この切通しのできた年は不明であるが、朝比奈、亀ヶ谷坂、巨福呂坂の切通しが造られた仁治元年(1240)~建長2年(1250)頃と云われている。

13. 常盤八雲神社
 常盤一帯は、鎌倉幕府の初期の重臣梶原景時の領地であった。景時はこの地に除災を祈願して社殿を建立し、これがのちに八雲神社として祀られることになったと云う。また、一説には慶長年間(1596~1615年)に、この地域を支配していた矢沢光広という人物が熊野社を勧請し八雲神社に合祀したとも伝わる。神社は、明治に入り、近くの御嶽神社と諏訪神社が合祀され、現在の地に社殿が建立された。余談ながら、梶原景時は源頼朝の側近として、万事にそつがなく、才気があり、洗練された教養と器量を備えていた。吾妻鏡には「文筆に携わらずと言えども言語巧みにする士なり」と書かれている。しかし、弁舌で巧みに人を陥れることもあり、頼朝の側近ということで他の御家人たちは内心苦々しく思っていたようだ。頼朝が、落馬が原因で死んだ1年後の正治2年(1200)、景時は「結城朝光に陰謀の疑いがある」と2代将軍頼家に讒言した。これを契機に景時追放を求める機運が一斉に吹き上がり、御家人66人が追放嘆願の連判状を将軍に提出するなどの混乱が起きて、景時は失脚してしまう。後に、京都に向かう折り駿河の国で地元の武士団と争い、その地で落命した。墓は常盤の深沢にある。

 
14. 北条氏常盤亭跡
  第7代執権北条政をはじめとする北条氏(政村流)は、鎌倉の防衛の要衝である常盤に別邸を構えた。この場所は、大仏切通の北に位置し約11万m2が国の指定史跡となっている。史跡内では、「法華堂跡」や「やぐら」が確認さている。「常盤」の名は政村の常盤院覚崇に由来している。
現在、円久寺が建てられている辺りが常盤亭の入口に当たる場所で、昔から「殿入」と呼ばれていた。また、常盤亭辺りには、親鸞の弟子唯善の草庵「一向堂」があったといわれ、現在も地名として残されている。北条政村は、第2代執権北条義時の後妻伊賀の方の子。伊賀の方は、義時が死ぬと政村を執権に据えようと画策したが失敗に終わっている。その後政村は、若い北条時宗の代わりとして第7代執権となったが、文永5年(1268)、蒙古襲来の危機に時宗が第8代執権となり、政村は連署となっている。「吾妻鏡」によると、弘長3年(1263)には、「相州常盤亭」で一日千首の和歌会が開かれたとある。北条政村は、和歌にいそしむ文化人でもあった。

 
15.  日野俊基墓所
  日野俊基は後醍醐天皇の側近で、正中元年(1324)、天皇の倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、同じく側近の日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。この時、俊基は許されたが、資朝は翌年、佐渡に流された。後醍醐天皇は権中納言の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)を鎌倉へ派遣し、「告文(こうぶん)」をもって弁明したため罪に問われなかった。告文とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。元弘元年(1331)、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑された(元弘の変)。俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。同じ頃、佐渡に流されていた日野資朝も処刑され、後醍醐天皇は隠岐に流された。日野俊基の家臣後藤助光は、俊基の妻の手紙を持って鎌倉に来たが、幕府の警戒が厳しくなかなか渡せずにいた。処刑の日、俊基の乗り物が仮粧坂にさしかかったとき、役人に懇願しやっと渡すことができたという。

 
16.  葛原岡神社
葛原岡神社は、後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社です。鎌倉時代、葛原岡一帯は刑場だったといわれており、 後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府の倒幕に関わった日野俊基もこの場所で処刑された。その墓といわれる宝篋印塔がある。明治天皇は日野俊基に従三位を贈り、地元有志と全国の崇敬者の協力により明治20年(1887)に創建された。日野俊基は鎌倉幕府の倒幕の謀議に加わり、正中の変(1324)で捕らえられ許されたが、元弘の変(1331)で再度捕らえられ、翌年ここで処刑された。辞世の句「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらむ」を残している。また、葛原岡神社の鳥居の傍らに藤原仲能の墓碑が建てられている。藤原仲能は、鎌倉幕府の評定衆を勤めた人物で、建長5年(1253)、六代将軍 宗尊親王の命によって、七堂伽藍を有する寺院を建立し、海蔵寺の中興に尽くした。

17. 源氏山公園(頼朝像)
 源氏山は、奥羽を舞台とする後三年の役(1083~1087年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから源氏山とか旗立山といわれるようになったという。 区域内には源頼朝像や大小の広場などがあり、 桜の名所にもなっている。銭洗弁天、佐助稲荷は、山を南に下ったところにある。

 
18. 化粧坂切通し
 化粧坂の名は捕虜にした平家の大将の首を死化粧して実検した所で、ここはあの世への旅支度の場所だったのである。日野俊基も葛原ケ岡に連行されるとき、ここで処刑された。平景清と人丸姫親子の最後の出会いもここで、坂の下に景清が捕らわれていた洞窟が残されている。新田義貞の鎌倉攻めのとき坂を防備していた13代執権だった北条基時は昼夜五日の戦いの末、手勢20騎とともにここで自害して果てた。基時は直前に跡継ぎの仲時が、近江番場で討ち死にしたことを聞いていたという。

 
19. 景清の土牢
  謡曲でも有名な平家の残党・平景清が死んだと伝わる土牢跡。化粧坂と山王ケ谷の分岐にあった。平景清の一族は皆、頼朝暗殺に並々ならぬ執念を燃やしていた。父は平氏滅亡後捕えられ、京都六条河原で斬首された。その子である忠光と景清は屋島、壇ノ浦で戦ったのち、戦場を離れて頼朝暗殺に執念を燃やす。忠光は建久3年(1192)に永福寺の工事現場で、頼朝暗殺を計画したが、失敗して捕縛され六浦海岸で梟首にされた。残された景清は、建久6年(1195)頼朝が東大寺供養に参列するために上洛するさいに、平氏の残党たちと一緒に暗殺しようとしたが、発覚して捕えられ、土牢に入獄中病死したという。勇猛果敢な平景清は平氏の中でも武勇者として語られている。

 
20. 海蔵寺
  扇谷山海蔵寺は、建長5年(1253)鎌倉幕府第6代将軍 宗尊親王の命によって、幕府の最高政務機関の評定衆だった藤原仲能が七堂伽藍を建立した。しかし、鎌倉幕府滅亡のとき、鎌倉防衛拠点の化粧坂に近かったため戦火の犠牲になり灰燼に帰してしまった。その61年後、明徳5年(1394)に、第4代鎌倉公方足利氏満の命で、扇谷上杉氏定が源翁禅師を招いて再建した。この寺院には、門前の道端には鎌倉十井の一つ「底脱の井」がある。仏殿の本尊薬師如来像は、俗に「啼薬師」とも呼ばれ、薬師如来の胎内には地中から掘り出されたと云われるもう一体の薬師像の面を収めている。子育てにご利益があると云う。また、境内奥に、水を湛えた直径70cm、深さ50cmの穴が16ケ所あり「十六井戸」と呼ばれる窟がある。この穴は納骨穴とも井戸とも云われ、穴の水は弘法大師のために用意した「金剛功徳水」で飲めば悪病が癒えると伝えられている。当寺は、境内の荻の花が美しいことで知られるが、梅、水仙そしてカイドウなども季節ごとに咲き、隠れた人気スポットでもある。

 
21. 英勝寺
  鎌倉で唯一の尼寺。開基の英勝院尼は太田道灌の子孫で、お勝の方と呼ばれた徳川家康の側室であった。家康の11男、水戸家初代藩主徳川頼房の養母をつとめた。家康の死後出家して英勝院と号した。1636年、三代将軍家光から祖先道灌の土地を賜り、英勝寺を建立した。頼房の息女・玉峯清因を開山に迎えて以降、代々の住持を水戸家の息女が務めたことから水戸御殿ともいわれた。水戸光圀(黄門)は第2代住持の清山尼が、黄門の養女であったことから、この寺院を訪れている。総門の屋根には徳川家の三葉葵の紋を掲げている。創建時の面影を残す仏殿、鐘、祠堂、唐門は神奈川県の重要文化財であり、仏殿には、家光が寄進した運慶作阿弥陀三尊像が安置されている。山門は2011年に修復された 四季折々の花が見られ、花の寺としても知られている。

 
22.  寿福寺
  亀谷山寿福寺のある地は昔、奥州征伐に向かう源頼義が勝利を祈願したと云われる源氏山を背にしている源氏父祖伝来の地であり、源頼朝の父義朝の館があったところである。頼朝は鎌倉入りしたとき、この地に自らの居館を設けようとしたが、すでに三浦一族の者が館を建てて居住していたことと、土地が狭かったことから大倉に館を構えた。頼朝が没した翌年の正治2年(1200)、妻政子は京より臨済宗の開祖栄西(ようさい)を招いて、頼朝の菩提を弔うために鎌倉五山の第3位に位置する寿福寺を建立した。栄西は日本に初めて茶を伝えた人物で、寿福寺を開山したのち、2代将軍頼家の庇護を受け、京都に建仁寺を開山している。創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院であったが、宝治3年(1247)、正嘉2年(1258)に火災を起し一堂すら残さぬまで焼失している。寿福寺には栄西の弟子で浄妙寺を開山した退耕行勇、建長寺を開山した蘭渓道隆など、多くの名僧が入寺して、鎌倉の禅宗文化を後世に伝えた重要な存在の寺院である。
境内裏手の墓地には、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、鎌倉地方特有の横穴式墓所の「やぐら」には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある

 
第25回 お江戸散策 渋谷・恵比寿界隈 解説
1. 渋谷川
 渋谷の地形は、東から宮益坂、西から道玄坂が下って来る低地である。低地には川が流れ、その川は渋谷川と呼ばれ、江戸期には米や農作物の産地で、いくつもの水車が廻る、のどかな田園であった。この風景は歌川広重の浮世絵にも描かれている。渋谷川は北部の新宿御苑や天龍寺の池を水源として発し、暗渠になって渋谷駅まで流れている。駅南から開渠になって下流に行き、目黒川に合流して東京湾に注がれている。東急デパート食料品売り場の「デパ地下」が1階にあるのは、地下が川であるからである。また、渓谷のようになっているため、青山方面から地下を走ってきた銀座線の渋谷駅が地上3階にあるのは、このためである。地下鉄の高架橋は昭和13年(1938)に当時の技術の粋を集めた鉄筋コンクリートで作られ、レンガや石積みより堅固に築造され、今日にいたっている。

 
2. 金王八幡神社
 この神社は、八幡太郎源義家が後三年の役で勝利したとき、勝旗を当地に奉納して祀ったのがはじまりと云う。後に、源氏配下の河崎基家が寛治6年(1092) に八幡宮を創建し、その子重家が、相模国渋谷領(現綾瀬市)を有していたことから、渋谷姓で呼ばれるようになり、この地も渋谷になったといわれている。 現在の社殿は、徳川家光が3代将軍に即位したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに慶長17年(1612) に寄進したもので、江戸時代前期から中期の建築様式をとどめている貴重な建物である。 渡り廊下は、大正14年(1925)に造られ、宮大工の手に依る優れた意匠を持ち、社殿に附属してその価値をいっそう高めている。境内の金王桜は、一重と八重が一枝に混在して咲く珍しい桜として、江戸時代には郊外三銘木のひとつと数えられている。 傍らには「しばらくは花の上なる月夜かな」と刻まれた芭蕉の句碑がある。

 
3. 東福寺
 渋谷山親王院東福寺は、承安三年(1173)圓鎭僧正によって、当地に開創されたと伝わる。東福寺は開創当初から、隣接する金王八幡宮の別当寺で、渋谷区内最古の寺院である。金王八幡神社社記によると、開基は寛治六年(1092)といい、宝永元年(1704)に鋳造された東福寺鐘銘には、後冷泉天皇の御世(1045~1068年)と記されている。梵鐘の周りには、金王八幡宮の縁起など渋谷の歴史が刻まれている。その一部に「後冷泉帝のとき、渋谷の旧号谷盛の庄は親王院の地にして七郷に分る。渋谷郷はその一なり」とあることから、渋谷の地を谷盛の庄とも呼んでいたと思われる。

 
4. 渋谷氷川神社
 渋谷区最古の神社で境内の領域4000坪を要する大きさを誇る。創始は非常に古く、慶長十年に記された「氷川大明神豊泉寺縁起」によると第12代 景行天皇の御代の皇子日本武尊が東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したとある。江戸期には江戸郊外 三大相撲の一つの金王相撲が行われ大いに賑わったという。現在では、恋愛成就の縁結びの神社として知られ、若い人々の信仰を受けている。

 
5. 国学院大学
 国学院は1882年に神職養成や国学普及などを目的に創設された皇典講究所が、教育事業の拡大を図り、1890年に設立した国学系の学生養成機関である國學院を起源としている。 1920年の大学令によって大学に昇格し、戦後は1948年に現行学制によって大学となった。國學院大學には神社本庁の神職の資格が取れる神職課程があり、大学でこの資格を取得できるのは國學院大學と皇學館大学(伊勢市)のみである。近年、神社界に奉職したいという学生が増え、同大学への志望が増加しているという。皇典講究所の初代総裁は有栖川宮幟仁(たかひと)親王 有栖川宮の歴代当主同様、書道および歌道の達人であり、「有栖川流書道」を大成させた。さらに、昭憲皇太后に歌道を、明治天皇に書道と歌道を指南したほか、五箇条の御誓文の正本も幟仁親王によって揮毫されている。熾仁親王(たるひと)は第1子で、和宮の許嫁だった人。

 
6. 吸江寺
 吸江寺は、江戸時代初期に京都所司代を勤めた板倉周防守重宗の正室玉樹院が、慶安3年(1650)に帰依して建立された臨済宗妙心寺派の寺院で板倉家の菩提寺である。板倉重宗は2代将軍 徳川秀忠の娘・和子を後水尾天皇の中宮(後の東福門院)として入内させることに奔走したことでも知られているが、徳川家光の乳母の於福に「春日局」と命名させて、後水尾天皇に謁見させる手配もしている。当時、臨済宗妙心寺派は朝廷との結びつきが強く、幕府は朝廷工作の一環として妙心寺を京都五山並みに格上げさせたり、諸大名に臨済宗妙心寺派に帰依させる工作を行っている。斯様な背景から板倉家は国許では曹洞宗に帰依しているが、江戸の菩提寺は臨済宗妙心寺派になったのである。板倉家は、幕末期、上州安中藩三万石で明治を迎えたが、その藩士の中に同志社を作った新島襄がいた。その他、境内地蔵堂の脇には日本刀の保存に尽力した高瀬隠史の碑がある。
7. 日本赤十字社
 日本赤十字社は、明治10年(1877)に創立された博愛社が基となっています。博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の折、佐野常民(さのつねたみ)と大給恒(おぎゅうゆずる)が官軍と薩摩軍の間に多数の死傷者を出した悲惨な状況に対して救護団体による戦争、紛争時の傷病者救護の必要性を痛感し、ヨーロッパで行われている赤十字と同様の救護団体の設立を思い立った。当初、博愛社の規則の中に敵味方の差別なく救護する」条項があったので、西郷従道らの反対で認可されなかったが、征討総督有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の英断で博愛社の設立を許可された。佐野常民(さのつねたみ)と大給恒の献身的な博愛精神が赤十字社の設立を促したと言える。この日本赤十字社の初代院長が橋本綱常である。綱常は、幕末、安政の大獄で井伊直弼により斬首された橋本左内の末弟で、医学を志し陸軍省の軍医官のとき大山巌陸軍大臣に随行してヨーロッパの衛生制度や赤十字事業をつぶさに学び、修得して帰国する。その後、大給恒に招かれて、博愛社の設立に尽力していった。彼は救護員養成を奨める傍ら、軍医の臨床研究施設を建設するなどの功績を果たし、日本赤十字病院の前身を築いた。

 
8. 聖心女子大学
 聖心女子大学の敷地は、江戸期、下総佐倉藩堀田家の下屋敷があった所である。堀田家は幕末に老中堀田正睦を輩出し、正睦が老中のときには安政の五カ国条約の締結に尽力したが、勅許の取得に失敗して、老中を罷免された。堀田家の敷地は隣の日赤の敷地にまで広大な領域を占めていて、今でも西麻布方面からの上り坂を堀田坂と称するなど痕跡は残っている。明治に入り1908年、この地に、フランスに設立された女子修道会「聖心会」を母体とした聖心女学校が開校した。第2次世界大戦を挟んで、聖心女学校は、1948年4月、新学制の実施に伴い、日本における最初の新制女子大学の一つとして発足した。
現在、聖心会は、イタリア・ローマに聖心会総本部があり、広尾の大学構内には聖心会日本管区本部のほか、付属研究機関としてキリスト教文化研究所、カトリック女子教育研究所が設置されている。なお、同大学のキャンパスは、元久邇宮邸があり、香淳皇后(昭和天皇皇后)が幼少を過ごし、結婚の折にはこの地から宮中に向かった。また、皇后美智子妃殿下も同大学の出身(7回生)であり、本大学は、二代続けて皇后を輩出したキャンパスということになった。また、元国連難民高等弁務官だった緒方貞子(1回生)作家 曽野綾子(4回生)も同校の卒業生である。正門とパレスと呼ばれる伝統的日本家屋は、当時のものがそのまま修復保存されている。
9. 有栖川宮記念公園
 この地は、江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷として使われていた。明治29年(1896)、有栖川宮威仁(たけひと)親王の新邸となった。有栖川宮が廃絶したのち、大正天皇のとき高松宮殿下に引き継がれた。児童福祉を目的とする遊び場に深い関心を寄せられていた高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる昭和9年(1934)にこの地を東京市に賜与され、記念公園として一般開放された。管理事務所近くには、威仁親王の養父にあたり、皇女和宮の許嫁であった有栖川宮熾仁(たるひと)親王の銅像が建っている。大小2つの滝から流れる水は公園西側に位置する池に流れ込みます。中島や石灯籠が池は日本庭園らしい情緒が感じられます。また渓流では、深山を彷彿とする静寂な世界を味わえます。また、隣接する愛育病院は皇室の婦人科病院として知られ、今上天皇が生まれ、文仁親王妃紀子が悠仁親王を出産したのも当病院です。
10. 香林院
 香林院は祥雲寺の塔頭の1つで大給松平家の菩提寺として寛文5年(1665)建立された臨済宗大徳寺派の寺院である。大給松平家の本拠は三河国(岡崎)であったが、文久3年(1863)信濃田野口に転封となった。信濃田野口の竜岡城は、若年寄であった藩主松平乗謨(のりかた)が、造ったもので、ペリー来航後、軍備の増強、革新の必要性から、函館の五稜郭と同様の星形要塞の形状をしている。明治に入ってから乗謨は大給恒(おぎゅうゆずる)と改名して、新政府の賞勲局の要職に就き、日本の勲章制度の基礎を築いた。彼の考案したデザインは今日も継承されている。恒はそのかたわら、佐野常民に協力し、橋本綱常を登用して、日本赤十字の前身、博愛社を明治10年(1887)に創設し、日本の医療・福祉制度に尽力した。墓所は、祥雲寺山内にある。また、香林院茶室は、大正8年(1919)茶室建築の第1人者第仰木魯堂によって作られ、戦災で多くが失われた今日、都心に残されたものとしては、香林院茶室が唯一のもので極めて貴重な茶室です。
11.  祥雲寺
 瑞泉山祥雲寺は江戸時代初期の元和9年(1623)福岡藩主黒田忠之が父長政の冥福を祈って建立した。当寺の特徴に参道が左右に曲がっていることが上げられる。これはいざ合戦となったとき、敵の弓、鉄砲を避けるための設計と云われる。墓域には、明治33年ころペストが大流行した際、予防処置として鼠が大量に処分されたことの慰霊碑や黒田家をはじめ多くの大名家の墓碑群が並んでいる。黒田長政の墓は大きく社に囲われている。その他、世界最古の診断書を書き残した曲直瀬玄朔やその高弟で3代将軍家光の疱瘡を快癒させて名声を上げ、玄冶店で有名な奥医師岡本玄冶の墓もある。

 
12.  東北寺(とうぼくじ)
 臨済宗妙心寺派の末寺で、山号は禅河山。元禄9年(1696)、この地に建立された。檀家に大名家を抱え米沢上杉藩、佐土原藩島津家の大名墓地がある。上杉藩の墓所には吉良上野介妻梅巌院の墓がある。東北寺は、江戸期から、施主の木村家の支援を受けている。木村とは、近江出身の日本橋呉服の大店 白木屋の創業者 木村彦太郎のことである。門前の三界萬霊塔と地蔵菩薩像は木村彦太郎百回忌を記念して建立されたものである。墓域、左手には白木屋従業員の整然と並んで建てられている。昭和7年12月に発生した日本橋本店のデパート火災では、従業員14名が死亡、500余名が負傷する大惨事が起きたが、その時の被災者も当墓所に眠っている。三界万霊塔の三界とは
仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている墓域、左手には白木屋従業員の整然と並んで建てられている。昭和7年12月に発生した日本橋本店のデパート火災では、従業員14名が死亡、500余名が負傷する大惨事が起きたが、その時の被災者も当墓所に眠っている。
13. 福昌寺
 曹洞宗の寺院で、山号は渋谷山。近代的な造りになっているが、1580年代(天正年間)に開山されている。慈覚大師作と伝わる阿弥陀如来立像を本尊として安置している。江戸時代には曹洞宗寺院の最高格式を有する寺格の寺院で、説法をする道場として旗(法幢ほうどう)を立て、仏教行事や布教教化の法事を修し得る地位を得ている。また、江戸期、閻魔堂への参詣者が多かったことから閻魔寺とも呼ばれている。本堂左手の石棺仏は石刻阿弥陀像で彫刻そのものが少ない15世紀ころの石仏で、和歌山県那智郡から当寺に寄進されたものである。しかも石材が6世紀頃の古墳の石棺の蓋として使われていた和泉砂岩である。これは奈良県に数例の発掘が見られるだけで、関東では極く稀で貴重な文化財である。

 

14.  恵比須神社
 恵比須神社は、大むかしより天津神社(大六天様)と称して家内安全、無病息災、五穀豊穣の神々として広く住民に崇められてきた。昭和34年(1959)、区画整理で駅前から遷座させた際、現在地に社殿を新築し、これを契機に商売繁盛、縁結びの恵比須神を兵庫県の西宮神社から勧請して合祀し、恵比須神社との社名に改称された。今日、若い人の参詣者が増えている。JR山手線 恵比須駅の名前は、この神社に起因しているのではなく、明治20年(1887)、この地に設立された日本麦酒酒造会社(サッポロビールの前身)で作られたエビスビールを運搬する駅として名付けられたものである

第24回 お江戸散策 旧吉原・浅草界隈 解説
1. 入谷 鬼子母神
 「おそれ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、そうで有馬の水天宮、志ゃれの内のお祖師様、うそを築地の御門跡」と語呂合わせで言われてきた入谷鬼子母神は、仏立山 真源寺と呼び、万治2年(1659)法華僧 日融が開山しました。雑司が谷の鬼子母神とともに出産、育児の神様として江戸市民に親しまれています。本尊は雑司が谷が立像なのに対し、当寺は座像。ここは朝顔市が有名で毎年7月6日~8日の3日間は境内から参道、沿道に朝顔を売る店がならび東京の風物詩になっています。語呂合わせを詠んだのは江戸狂歌界の中心人物大田南畝。別名は蜀山人。彼は清廉な能吏として、御徒・支配勘定役などを歴任した幕府の役人でした。幕府の人材登用試験では首席で合格する秀才でした。田沼時代には、文人として才能を発揮して、狂歌・漢詩文・随筆などの活動が大目に見られていたが、寛政期になってから、改革に対する政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」を詠んで、上司に目を付けられ、後に大阪銅座、長崎奉行所に転任させられたと云うがこの狂歌は別人との異論もある。彼は公務に関しては真面目、誠実で実務を淡々と務めたと伝えられている。

 
2. 小野照崎神社
 この神社の祭神は、百人一首で「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」と詠んだ小野篁。篁は法理に明るく、政務能力に優れているばかりでなく、漢詩文でも平安時代初期の屈指の詩人でした。小野篁は東国に下向した折、上野照崎の地(上野公園の一角)に留まり、里人たちを教化しました。里人らは彼を敬慕し、仁寿2年(852)小野篁が没すると、これを照崎の地に祀って小野照崎大明神と称しました。江戸期初期に、幕府が寛永寺を建立することになり、現社地に遷座(せんざ)を命じられて移転しました。江戸期、富士山を信仰・参拝する富士講が盛んになり、天明年間(1781~89)当社境内に富士塚(下谷富士)築造され、多くの参拝客を集めた。現在も当時のまま残り、国の重要文化財に指定されています。また、渥美清さんが、若いころに小野照崎神社に参詣して、いい役をくださいと祈ったところ、寅さんのオファーが来たということで、芸能の神様としての信仰も集めています。。

 
 3. 西徳寺
 真宗佛光寺派の寺院。山号は光照山。歌舞伎役者中村勘三郎の菩提寺として知られる。18代目中村勘三郎(波野哲明)は歌舞伎役者としては江戸の世話物から上方狂言、時代物、新歌舞伎から新作など、幅広いジャンルの役柄に挑み続けたことで知られた。コクーン歌舞伎や平成中村座を立ち上げ、現代劇の劇作家、演出家らと組んで、古典歌舞伎の新解釈版や新作歌舞伎の上演に取り組んだり、地方巡業や海外公演も精力的に行うなど、その演劇活動は常に進取的であった。2013年4月には新生・歌舞伎座こけら落としを控え、今後の歌舞伎界の牽引役の一人と目されていたが2012年12月に急性呼吸窮迫症候群のため57歳で死去した。早すぎる死は梨園にとどまらず多方面から大変惜しまれた名優であった。勘三郎の葬儀は築地本願寺で本葬が営まれ、多くの芸能関係者ばかりでなく一般の弔問客など1万2000人が訪れたという。2013年11月27日、当西徳寺に於いて18世勘三郎の一周忌追善法要と納骨式が執り行われた。

 
4. 鷲神社 (おおとりじんじゃ)
 浅草のお酉様で知られる。日本武尊が東国征伐の帰途、ここで熊手を掛けて戦勝を祝ったのが11月の酉の日で、以後この日を酉の市と定めたと云う。幸運や熊手を掻き込もうという縁起で、商売繁盛の神として信仰されている。江戸時代は近くに浅草寺、新吉原という盛り場を控えた地の利から多くの参詣者を集めた。蕉門十哲の一人 宝井其角は「春を待つ 事の始めや 酉の市」、高浜虚子は「人波に 押されて来るや 酉の市」と詠んでいる。
5. 吉原弁財天
 遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。池は現在の吉原電話局辺りにあり、ひょうたん池と呼ばれていた。大正12年の関東大震災では、囲い門のなかに閉じ込められた多くの遊女がこの池に逃れ、147人が焼死、溺死したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に建つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。往時を偲ばせる「花吉原名残碑」とともに、遊郭での仕事が、どのようなものだったか。貧困な農民層が、生きるために、そこで生涯を閉じていったことが看板に書かれている。

 
6. 正法院(飛不動)
 享禄3年(1530)のこと。正法院の住職正山上人が、大和大峰山に本尊木造座像を持って修行に行ったところ、坐像が一夜にして正法院に飛び帰り、人々にご利益をもたらしたという。以来、本尊は飛不動と呼ばれ、一層の信仰を集めた。空を飛ぶ神様なので空の旅の安全祈願や「落ちない」ということで受験生の守り神として今日でも多くの参詣者が訪れる。また、境内の恵比寿神は下谷七福神1つとして信仰されている。10月10日の縁日には、近郊から菊の花が飾られ境内は菊の香りが漂う。

 
7. 樋口一葉旧居跡
 樋口一葉は吉原茶屋通り大音寺前と云われたこの地に明治26年(1893)7月から、1年程住んだ。母と妹の三人暮らしで、吉原通いの客や近隣に住む町人たちに、荒物、駄菓子を売る小さな店を営みながら文筆活動をつづけ、その生活体験が、名作「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの傑作を生んだ。1960年地元の人々によって、旧居跡の碑が建てられた。
 8. 一葉記念館
 明治の女流作家 樋口一葉の業績を保存、展示している記念館。24歳で亡くなるまでの生涯や代表作「たけくらべ」の草稿はじめ一葉の自筆原稿、朝日新聞の小説記者で師の半井桃水宛の書簡、衣類などの遺品、竜泉寺町旧居と周りの町並みの模型などが展示されている。記念館前の公園には、菊池寛の撰文、小島政二郎の補筆による樋口一葉記念碑が建っている。
 
9. 吉原大門 
 江戸時代初期までこの附近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、人形町付近にあった吉原遊郭がこの地に移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。この吉原へは、富裕層は柳橋から猪牙舟を仕立てて、隅田川を上り、吉原に通じる山谷堀を抜けて来た。一方、一般層は山谷堀に沿って築かれた日本堤の土手を歩くか駕籠で来た。舟は地方橋で降りて夜間であれば、岸辺の提灯屋(大島屋)で猫提灯を求めて夜道を歩いた。吉原遊郭へは外部から見られないようにS字に曲がった五十間道と呼ばれた衣紋坂が造られ、ここを抜けると吉原大門に辿り着く。吉原遊郭で唯一の出入り口で、入口には不審者を見張る四郎兵衛番所と呼ばれた見番があった。吉原遊郭は、南北245m、東西355mの敷地に造られ、その周囲は遊女の逃亡を防ぐばかりでなく外部から犯罪者を侵入させない機能を果たしたお歯黒ドブと呼ばれる水路で囲まれていた。吉原には、約8,000人が暮らし、そのうち2,000人が遊女であったという。煌びやかな花魁、太夫が闊歩する別世界で、太夫の着飾った衣装を見たさに女性の見学者も多かったという。しかし、遊女の生活は過酷で、ろくな食事は取れず、医療設備も貧弱ななかでの生活で、乙女たちは自由もなく、廓の中で年季明けまで働いたという悲しい物語が多く伝わっている。 
10.見返り柳
 見返り柳は、土手通り吉原大門交差点にある柳の木です。土手通りは、浅草寺の北側にある待乳山聖天から浄閑寺などのある三ノ輪へ向かう通りで、かつて遊客が浅草から吉原へ向かう道に当たります。吉原遊郭で遊んだ客が吉原大門を出て、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから「見返り柳」と呼ばれていたといいます。かつては山谷掘脇の土手にあったものの、道路や区画の整理により当地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられているといいます。

 
1. 東禅寺
 寛永元年(1624)に創建された曹洞宗寺院で、洞雲山東禅寺と云う。宝永3年(1706)江戸深川の地蔵坊正元は病気平癒を祈念して、幕府に発願し、江戸の6街道の出入口に1丈六尺(約2.7m)の地蔵菩薩坐像を造立した。江戸六地蔵である。奥州街道は第四番目に当たり、ここ東善寺に造立された。因みに、第一番は品川寺(東海道)、第二番 太宗寺(甲州街道)、第三番 真性寺(中山道)、第五番 霊厳寺(水戸街道)、第六番 永代寺(千葉街道)である。ただし、永代寺は明治元年に発令された神仏分離令により廃寺となり、地蔵座像も取り壊された。東善寺には、他に神田青物市場の符牒碑、日本麺麭祖由来を記した木村屋パンの始祖 木村安兵衛の墓がある。

 
12. 春慶院 (高尾太夫の墓)
 曹洞宗の寺院で霊厳寺の末寺。吉原の花魁、二代目高尾太夫の墓があることで知られる。高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は十一人いたとも云われるが、いずれも三浦屋の抱え遊女であった。当院に眠る高尾太夫は、幾多の伝説巷談を生んだ二代目で仙台高尾とか万治高尾と云われた。仙台藩第三代藩主 伊達綱宗は天下普請で小石川堀治水工事に関わっている折り、気晴らしに吉原に繰り出したが、そこで出会ったのが二代目高尾太夫。美貌と書画音曲に優れた才媛にぞっこん惚れ込み、連夜通いつめる入れ込み様になった。当然のことながら、身請けの話しにまで進むが、高尾本人は首をたてに振らない。破格の身請け金を提示して、晴れて大名家に受け入れるという最高の優遇をして、何とか身請けした綱宗だが、その後も高尾自身の心は開く事はなかった。結局、いつまで経っても、心底、自分の物にならない高尾の態度に怒った綱宗は、隅田川の船上で、高尾を縛り上げて斬殺したと云う。この横暴三昧は幕府の知るところとなり、綱宗は21歳の若さで隠居させられ、わずか2歳の嫡男=綱村が第4代藩主となる。これが伊達騒動の始まりと云われる。また、巷説には伊達綱宗との仲は相愛の関係であったといい、高尾が綱宗に宛てた手紙の一節「忘れねばこそ、おもい出さず候」、「君はいまあたりはほととぎす」の句が伝えられ、高尾太夫の墓は輝宗侯の内命によって建てられたと伝わる。墓は細部にまで意匠を凝らした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。高さ1.5m、正面に紅葉文様を表し、楷書で戒名、命日 万治2年(1659)12月5日が刻まれ、右面には辞世、「寒風に もろくも朽つる 紅葉かな」と刻まれている。

 
13. 待乳山本龍院 (まっちやまほんりゅういん)
 浅草寺の子院のひとつで通称 待乳山聖天という。当山の十一面観音菩薩像は、人々が旱魃で苦しんでいるのを救ったとして崇拝を受け、本尊として祀られるようになったという。境内随所にある紋章の砂金入り巾着は金銀財宝で商売繁盛、二股大根は健康で一家和合を表わし、大根を供えると聖天様が身体の毒を洗い清めてくれると言われている。ここの小高い丘は江戸時代筑波山や富士山も望まれる風光明媚な景勝地として知られ、安藤広重も描いている。また、大衆文学の作家 池波正太郎の生家は待乳山聖天公園の南側付近にありました。生まれた年の9月に関東大震災があり、生家は焼失してしまいましたが、その後も少年期、青年期を台東区で暮らしました。昭和35年「錯乱」で直木賞を受賞し、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」などの人気シリーズをはじめ、時代小説の傑作をつぎつぎと生みだし、このあたりもたびたび舞台として描いています。「生家」は跡かたもないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだと記しています。

 
14. 市川団十郎「暫(しばらく)」の銅像
 この銅像は、明治の名優、九代目市川団十郎が、歌舞伎十八番の演目で、皇位へ就こうと目論む悪党の清原武衡が、自らに反対する加茂義綱らを打ち首にしようとするとき、鎌倉権五郎景政が「暫く~」の一声で、さっそうと現われて助ける名場面「暫」のシーンを名彫刻家新海竹太郎が制作した傑作です。大正8年、浅草寺境内に建立されたが、戦時中の、昭和19年11月 金属類拠出令により撤去され失ったが、昭和61年11月第12代市川団十郎の襲名を機会に歌舞伎の象徴的な場面「暫」の像が復元された。九代目団十郎は歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めた功労者で「劇聖」と謳われた。