2015年

第18期 同期会の詳細がきまりましたので、掲載情報を更新します。(2015.03.26)
 
 日時   2015年 6月27日(土)
 第一部15:00~17:30 第二部17:30~20:00 (両方とも 同じ会場です。)
 会場    

 ホテル精養軒 〈TEL〉044-711-8855  (会場は禁煙,2Fに喫煙ル-ム有り)

 川崎市中原区小杉町3-10(武蔵小杉駅南口5分)
 (当日の会場は 本館建替え工事のため,HPの外観写真とは かなり違います。) 
 JR南武線から いらっしゃる方は JR改札を出たら,
 東横線の「南口」改札を目指してください。案内人を置く予定です。
 

 会費  当日現金でお支払の場合:11,000円
 事前に お振込みの場合:10,000円(お振込手数料はご負担願います)
 お振込みの場合 6月12日までに次の口座へお振込み ください。
 三井住友銀行 川崎支店 普通預金 7237526
 カナガワケンリツタマコウコウ18キドウキカイ
 振込人名の頭には必ず組の番号を入れてください。
 (8組ヤマダタロウ氏なら → 8ヤマダタロウ)

今回は 座ってゆっくり お話しができるように,テーブル+椅子席にいたします。
尚、二次会へ移行時には軽食を追加いたします。

●ご出欠の返信期限 :5月17日 までに返信メ-ルをお送りください。
(ご欠席の方は 近況のメモを添えてくだされば 嬉しく存じます。)


※写真は、前回の2012年7月7日(土)第6回18期同期会のものです。

 「みんな変わってないよねぇ~!!」、久しぶりの再会。平成27年3月14日、大雑把に言うと「30年ぶりの会話」に花が咲きました。それは、「横須賀先生の還暦祝いをしよう!」という小高先生のお声がけからスタートしたイベントでした。横須賀先生が担当されていた生物部、ワンゲル部を中心に有志が声がけをして集まったのは総勢29名。多摩校訪問が “卒業して以来” という人の中には「体育館が無い」という事実に涙する人まで…。一人ひとことづつの自己紹介のはずが、当然ひとことで終わるはずもなく、当時の暴露話にまで発展したり、人の話を聞いていたら忘れていたはずの当時の記憶が鮮明に蘇ったり。リアルな出会い/再会は本当に不思議な力を呼び起こすものです。皆が予め持ち寄った写真をムービー形式で上映し、全員がより一層盛り上がって年代を超えて一つになることができました。参加者一同から、横須賀先生の第二門出を祝ってプレゼントが贈呈されると、お返しに塚原先生が書かれた、多摩校の思い出『時分の庭』が全員に配られました。またひとつ、宝物が増えた感じです。皆で、最後の多摩校校舎を惜しみながら見学し、話し足りない時間を補うかのように、二次会へ場所を移したのでした。遠くは北海道や大阪から参加して下さった方もいらっしゃいました。参加された皆さん、本当にお疲れ様でした。そして、今回も、貴重なキッカケをつくって下さった小高先生に感謝です。きっと、この日の出来事も思い出の1ページに加わることでしょう! 是非、また会いましょう!!(文責: 梶野 晋)


<参加者>(50音順、旧姓)
新井好子、井上陽子、鵜沢玲子、遠藤明里、尾崎 由佳、梶野晋、加藤厚、小髙邦夫、菊池久美子、北川勝敏、今野雅夫、斉藤真由美、斉藤祐子、佐野優子、篠原真子、渋谷輝雄、首藤歩、武井由起子、田近奈津子、知名まやこ、中島智恵子、登里民子、橋本由紀子、菱沼恵美、福田直子、松本章子、矢崎まり、山田昌宏、横須賀真


第57期生の皆さん

ご卒業おめでとうございます。
それぞれの希望に満ちた春をお迎えのことでしょう。
これからも、同期生、部活動の先輩、後輩方と多摩高同窓生としての交流を続けていただけることを願っております。

以下のリーフレットは、卒業式当日に配布させていただいた、同窓会からのお知らせです。

コミュニケーションの場として、
本同窓会ホームページ https://www.tamadou.jp/
多摩高卒業生の集いFacebookページ https://www.facebook.com/tamakoukou
もぜひ、ご活用ください。


第1回 鎌倉ウォーキング 散策地解説
(鎌倉七切通し)
 源頼朝が、鎌倉に幕府を開いた最大の理由は、鎌倉が一方は海に臨み、三方は山に囲まれて、敵の攻撃を守る城塞都市を築ける軍事的要害の地だったからでした。そして都市への人々の往来や物資の運搬のため最小限の道は必要でした。そこで源頼朝は山を最小限度だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作りました。これが「切通し」です。幕府の防衛意識は相当に周到なもので、曲がりくねった狭い道にして、加えて、山腹を垂直に切り落とした「切岸」や道の上に兵士たちを待機させた「平場」、道の真ん中に大きな自然石を置いた「置石」、亀ヶ岡団地に行く手前では狭い道幅に左右から大きな石が覆い被さり、敵を立ち往生させた「大空洞」、「小空洞」等複雑な防御機構などを設けていました。万が一、敵軍が攻め込んで、この切通しを抜けようとすると、その間に種々な仕掛けなどあり、その障害の為に大幅に戦力をそがれる、こうして外敵の不法侵入を防ぐ役割を果たしたのです。鎌倉には主要な切通しが、7つあり、これを「鎌倉七口」とか「七切通し」と呼びます。
 1、 坂ノ下と極楽寺を結び、藤沢、京都と鎌倉を結ぶ西の玄関口の「極楽寺坂切通し」
 2. 長谷と打越を結び、現在も大仏坂トンネルの山上に残る「大仏坂切通し」
 3. 藤沢からの出入口で扇が谷と佐助の間にある「化粧坂切通し」
 4. 亀ケ谷と山之内を結び険しい難所の為、亀も諦めて引返したと云う「亀ヶ谷坂切通し」
 5. 雪ノ下と山之内間を結ぶ「巨福呂坂切通し」。ここは現在、通り抜けは出来ません。
 6. 金沢、六浦と鎌倉を結び、物資の輸送のほか軍事的要路だった「朝夷奈坂切通し」
 7. 三浦半島と鎌倉を結ぶ海上貿易のための重要な幹線道路であった「名越坂切通し」
この他に都市内部の切通として岩壁を刳り貫いて作った「釈迦堂の切通し」がある。
1. 稲村ガ崎
 稲村ケ崎は霊仙山の丘陵が海中に突き出た岬の部分で標高は60mある。稲村ケ崎の名前は岬を海上から眺めると稲叢に似ているところから呼ばれたと云う。岬は急峻な絶壁で、人が通るのは危険を伴う難所になっていた。元弘3年(1333)朝廷方 新田義貞が鎌倉を攻めるさいこの岬で竜神に祈願して黄金の剣を投じたところ、海岸はにわかに引き潮になり、軍勢が攻め込んで、鎌倉攻略のきっかけになったと太平記で語られている。公園入口には「稲村ケ崎新田義貞徒渉伝説地」「明治天皇御製の歌」、七里ケ浜に面した公園西には「逗子開成中学生ボート遭難供養」そして丘陵の丘の上には「ドイツ人細菌学者コッホ博士来訪」の碑が建っている。

2. 十一人塚
 十一人塚の辺りは、極楽寺切り通しに向かう道の入口にあたり、交通の要所であった。新田義貞の鎌倉攻めの折り激戦の場となったが、鎌倉方の勇将本間山城左衛門の抵抗にあって、新田方の武将大舘宗氏ら11名が戦死した所と云われている。のちに、ここに十一面観音堂が置かれ、十一将を弔(とむら)ったことから十一人塚と呼ばれるようになった。

3. 日蓮袈裟掛けの松
 ここは日蓮上人が竜の口の刑場に連れて行かれるとき自ら着ていた袈裟を掛けたと伝わるところで近年まで古い松が残っていたが、現在は新しい松に植え替えられその名残を伝えている。




4. 極楽寺
 鎌倉第3代執権 北条泰時の異母弟の重時が、真言律宗の教えを鎌倉に広めようと大和国から高僧忍性を招いて、この地に極楽寺が建立された。忍性は単なる僧ではなく、貧民を救済するため、施薬院、療病院、薬湯院などの医療施設を作り、20年間で6万人も救済したと云う。その他、重時の山荘を建てるさい、資材運搬のための道路敷設工事の指導まで行っている。忍性の行動は重時やその子長時からも信頼され、極楽寺は隆盛していった。今日の寺の姿からは想像できないが、最盛期には七堂伽藍を備え、子院49、堂塔270が立ち並ぶ壮大な大寺院であったと云う。その大伽藍を誇った極楽寺も、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡とともに多くの堂塔が兵火につつまれ、壮大な寺容は失われてしまった。現在、わずかに吉祥院の建物が極楽寺の本堂として名残りを留めている。宝物館には本尊の釈迦如来立像や十大弟子像が保存されている。本堂前の製薬鉢と千服茶臼は、忍性が寺で活動していた時の遺品である

 
5. 極楽寺切通し
 極楽寺切通しは、極楽寺住職の忍性が鎌倉と腰越・片瀬へ通じる道として、正元元年(1259)に開いた。この切通しができる前は、海岸の崖っぷちを歩いていたので、危険で、不便であった。切通しの完成は藤沢方面、さらには京都と鎌倉を結ぶ西の玄関口となり、人の往来が活発になるばかりでなく、鎌倉を敵の攻撃から守る軍事的要害の
役割を果たすことになった。

 
6. 成就院
 成就院は真言宗大覚寺派の寺院で極楽寺の子院。山号は普明山(ふめいさん)。寺号は法立寺。本尊は不動明王。アジサイの寺として知られる。鎌倉七口の一つである極楽寺坂切通しの途中に位置する。弘法大師が諸国巡礼の折、百日間にわたり、虚空蔵菩薩の真言を百万回唱える虚空蔵求聞持法の修行を行った所と伝わる。 承久元年(1219)、三代執権の北条泰時がこの寺を創建し、北条一族繁栄を祈ったという。元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失したが、江戸時代に再建された。境内には弘法大師像や聖徳太子1300年忌に建てられた八角の小堂がある。寺には平安時代末から鎌倉時代初期の僧・文覚の荒行像がある。彫刻家荻原碌山は明治時代末期にこの像を見て感銘を受け、自身の代表作「文覚」を制作した。また参道には般若心経の文字数と同じ262株のアジサイが植えられている。

 
7. 星の井と虚空蔵堂
 鎌倉十井の一つ星の井は星月夜ノ井とも呼ばれ、昼間でも星影が見え、井戸の中に三つの明星が輝き、夜も付近を照らした。この現象が七夜も続いたことを全国行脚の途中立ち寄った高僧行基が聞き、村人の力を借りて、井戸水を汲み出してみると黒く輝く石があった。行基は「虚空蔵菩薩が石になって降りて来られた」と直感した。この事は、都の聖武天皇の耳にも入り、行基に虚空蔵菩薩の像を彫って祀るように命じたのだという。この菩薩は虚空蔵堂に安置され、行基はここで頭脳明晰、記憶力増進をはかる「虚空蔵求聞持法」を修行したと云う。本尊虚空蔵菩薩は、鎌倉時代には源頼朝の命により秘仏とされ、35年に一度だけの開帳だったが、現在では、1月、5月、9月の13日に開帳されている。虚空蔵菩薩は丑年と寅年生まれの守り本尊と云われ、13歳になった子が知恵を授かるための「十三まいり」が現在も行われている。

 
8. 御霊神社
 御霊神社は勇者の誉れ高い鎌倉権五郎景政を祀っている。平安後期、後三年の役に16歳で出陣した景政は,八幡太郎義家を助けて大いに奮戦した。敵将鳥海弥三郎に右目を射られたが、矢を突き刺したまま戦い敵を倒した。目の奥深くまでつき刺さった矢を、従兄弟の三浦為嗣が抜こうとしたが、なかなか抜けぬ矢に困りはてた為嗣が、景政をあおむけに寝かせ顔を踏みつけて抜こうとした。その時、景政は為嗣の足を払いのけ、「矢に当たって死ぬは武士の本望、なれど生きながら土足で顔を踏まれるは恥だ」と激しく怒った話は有名です。この英雄は神として祀られたが、その後も様々な災難にも厄払いの霊験が現れ、将軍の参詣や奉幣使の派遣が行われるようになったと云う。鎌倉権五郎景政の子孫には、源頼朝が北条時政とともに石橋山で旗揚げをして敗走した際に、平氏側に属しながら潜伏中の頼朝を故意に見逃し、のちに頼朝に臣従した梶原景時がいます。また、浅草寺境内にある市川団十郎の「暫」の像は、この鎌倉権五郎の勇者ぶりを演じたシーンである。

 
9. 長谷寺
 坂東三十三ケ寺の第四番札所として知られる長谷寺の観音は高さ9.18mという日本最大級である。木像の十一面観音像で右手に錫杖を持って死後の世界を導き、左手に蓮華の花瓶を持って、現生利益を約束する独特の像で、両方の功徳を合わせ持つことで多くの人々から信仰を集めている。金箔は足利尊氏が施し、光背は足利義満が納めたと伝えられている。徳川家康は、関ヶ原に出陣する際に参詣し、その後、観音堂を修復した。1300年ほど前、大和長谷寺の徳道上人がクスノキの大木で一体の観音像を造り、一体を奈良の長谷寺に安置し、もう一体は人々を救うように祈り、海に流した。この仏像が16年後に三浦半島に漂着した。その観音像を藤原房前が、鎌倉の地に移し、徳道上人を招いて天平8年に新長谷寺を開山したと伝わる。境内には観音像、阿弥陀堂、大黒堂、経堂などが建ち、四季折々の花が咲いている。山号が海光山と呼ぶにふさわしく、境内からは由比ヶ浜、遠く三浦半島まで一望できる。

 
10. 光則寺
 光則寺は第5代執権北条時頼の家臣宿屋光則によって開かれた。宿屋氏は法華信者を取締る役人で、「竜の口法難」で日蓮が佐渡に流された時は、弟子の日朗上人や信者の四条金吾を自宅裏の土牢に閉じ込める役を任じていた。日朗上人の人柄や日蓮の教えに触れるうち熱心な信者になったと云う。のちに上人の為に屋敷を提供し、文永11年(1174)寺院としたのがはじまりと伝わる。境内には、天然記念物のカイドウの古木や2つの土牢がある。

 
11. 高徳院
 鎌倉の大仏で有名なこの寺は真言宗大異山高徳院清浄泉寺と云う。開基、開山は不明である。本尊は建長4年(1252)に青銅で鋳造された座高11m、重量 120トンの阿弥陀如来像。当初は仏殿に安置されていたが、仏殿は、地震や台風でたびたび倒壊し、建武2年(1335)北条時行の兵が出陣前に仏殿に集まっていたところ大風で仏殿が倒れ、500余人が死んだと云う。その後、再建されたが明応4年(1495)の津波で流されてしまい、それ以降再建されないため、520年間、露座のままである。仏殿の回廊には、2.8mの大わらじが飾られているが、茨城県の児童が寄進したものである。仏殿裏の観月堂わきには、与謝野晶子が詠んだ「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな」の歌碑が建っている。

 
12. 大仏切通し
 大仏切通は鎌倉七口のひとつ。現在の鎌倉市長谷から梶原・深沢に抜け藤沢方面に通じる道。現在の大仏坂トンネル上の山道を歩き、切り立った岩肌、やぐら群、石塔などを眺めながら、歩みを続けると火の見下のバス停に出る、この道が往時の切通しである。この切通しのできた年は不明であるが、朝比奈、亀ヶ谷坂、巨福呂坂の切通しが造られた仁治元年(1240)~建長2年(1250)頃と云われている。

13. 常盤八雲神社
 常盤一帯は、鎌倉幕府の初期の重臣梶原景時の領地であった。景時はこの地に除災を祈願して社殿を建立し、これがのちに八雲神社として祀られることになったと云う。また、一説には慶長年間(1596~1615年)に、この地域を支配していた矢沢光広という人物が熊野社を勧請し八雲神社に合祀したとも伝わる。神社は、明治に入り、近くの御嶽神社と諏訪神社が合祀され、現在の地に社殿が建立された。余談ながら、梶原景時は源頼朝の側近として、万事にそつがなく、才気があり、洗練された教養と器量を備えていた。吾妻鏡には「文筆に携わらずと言えども言語巧みにする士なり」と書かれている。しかし、弁舌で巧みに人を陥れることもあり、頼朝の側近ということで他の御家人たちは内心苦々しく思っていたようだ。頼朝が、落馬が原因で死んだ1年後の正治2年(1200)、景時は「結城朝光に陰謀の疑いがある」と2代将軍頼家に讒言した。これを契機に景時追放を求める機運が一斉に吹き上がり、御家人66人が追放嘆願の連判状を将軍に提出するなどの混乱が起きて、景時は失脚してしまう。後に、京都に向かう折り駿河の国で地元の武士団と争い、その地で落命した。墓は常盤の深沢にある。

 
14. 北条氏常盤亭跡
  第7代執権北条政をはじめとする北条氏(政村流)は、鎌倉の防衛の要衝である常盤に別邸を構えた。この場所は、大仏切通の北に位置し約11万m2が国の指定史跡となっている。史跡内では、「法華堂跡」や「やぐら」が確認さている。「常盤」の名は政村の常盤院覚崇に由来している。
現在、円久寺が建てられている辺りが常盤亭の入口に当たる場所で、昔から「殿入」と呼ばれていた。また、常盤亭辺りには、親鸞の弟子唯善の草庵「一向堂」があったといわれ、現在も地名として残されている。北条政村は、第2代執権北条義時の後妻伊賀の方の子。伊賀の方は、義時が死ぬと政村を執権に据えようと画策したが失敗に終わっている。その後政村は、若い北条時宗の代わりとして第7代執権となったが、文永5年(1268)、蒙古襲来の危機に時宗が第8代執権となり、政村は連署となっている。「吾妻鏡」によると、弘長3年(1263)には、「相州常盤亭」で一日千首の和歌会が開かれたとある。北条政村は、和歌にいそしむ文化人でもあった。

 
15.  日野俊基墓所
  日野俊基は後醍醐天皇の側近で、正中元年(1324)、天皇の倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、同じく側近の日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。この時、俊基は許されたが、資朝は翌年、佐渡に流された。後醍醐天皇は権中納言の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)を鎌倉へ派遣し、「告文(こうぶん)」をもって弁明したため罪に問われなかった。告文とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。元弘元年(1331)、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑された(元弘の変)。俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。同じ頃、佐渡に流されていた日野資朝も処刑され、後醍醐天皇は隠岐に流された。日野俊基の家臣後藤助光は、俊基の妻の手紙を持って鎌倉に来たが、幕府の警戒が厳しくなかなか渡せずにいた。処刑の日、俊基の乗り物が仮粧坂にさしかかったとき、役人に懇願しやっと渡すことができたという。

 
16.  葛原岡神社
葛原岡神社は、後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社です。鎌倉時代、葛原岡一帯は刑場だったといわれており、 後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府の倒幕に関わった日野俊基もこの場所で処刑された。その墓といわれる宝篋印塔がある。明治天皇は日野俊基に従三位を贈り、地元有志と全国の崇敬者の協力により明治20年(1887)に創建された。日野俊基は鎌倉幕府の倒幕の謀議に加わり、正中の変(1324)で捕らえられ許されたが、元弘の変(1331)で再度捕らえられ、翌年ここで処刑された。辞世の句「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらむ」を残している。また、葛原岡神社の鳥居の傍らに藤原仲能の墓碑が建てられている。藤原仲能は、鎌倉幕府の評定衆を勤めた人物で、建長5年(1253)、六代将軍 宗尊親王の命によって、七堂伽藍を有する寺院を建立し、海蔵寺の中興に尽くした。

17. 源氏山公園(頼朝像)
 源氏山は、奥羽を舞台とする後三年の役(1083~1087年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから源氏山とか旗立山といわれるようになったという。 区域内には源頼朝像や大小の広場などがあり、 桜の名所にもなっている。銭洗弁天、佐助稲荷は、山を南に下ったところにある。

 
18. 化粧坂切通し
 化粧坂の名は捕虜にした平家の大将の首を死化粧して実検した所で、ここはあの世への旅支度の場所だったのである。日野俊基も葛原ケ岡に連行されるとき、ここで処刑された。平景清と人丸姫親子の最後の出会いもここで、坂の下に景清が捕らわれていた洞窟が残されている。新田義貞の鎌倉攻めのとき坂を防備していた13代執権だった北条基時は昼夜五日の戦いの末、手勢20騎とともにここで自害して果てた。基時は直前に跡継ぎの仲時が、近江番場で討ち死にしたことを聞いていたという。

 
19. 景清の土牢
  謡曲でも有名な平家の残党・平景清が死んだと伝わる土牢跡。化粧坂と山王ケ谷の分岐にあった。平景清の一族は皆、頼朝暗殺に並々ならぬ執念を燃やしていた。父は平氏滅亡後捕えられ、京都六条河原で斬首された。その子である忠光と景清は屋島、壇ノ浦で戦ったのち、戦場を離れて頼朝暗殺に執念を燃やす。忠光は建久3年(1192)に永福寺の工事現場で、頼朝暗殺を計画したが、失敗して捕縛され六浦海岸で梟首にされた。残された景清は、建久6年(1195)頼朝が東大寺供養に参列するために上洛するさいに、平氏の残党たちと一緒に暗殺しようとしたが、発覚して捕えられ、土牢に入獄中病死したという。勇猛果敢な平景清は平氏の中でも武勇者として語られている。

 
20. 海蔵寺
  扇谷山海蔵寺は、建長5年(1253)鎌倉幕府第6代将軍 宗尊親王の命によって、幕府の最高政務機関の評定衆だった藤原仲能が七堂伽藍を建立した。しかし、鎌倉幕府滅亡のとき、鎌倉防衛拠点の化粧坂に近かったため戦火の犠牲になり灰燼に帰してしまった。その61年後、明徳5年(1394)に、第4代鎌倉公方足利氏満の命で、扇谷上杉氏定が源翁禅師を招いて再建した。この寺院には、門前の道端には鎌倉十井の一つ「底脱の井」がある。仏殿の本尊薬師如来像は、俗に「啼薬師」とも呼ばれ、薬師如来の胎内には地中から掘り出されたと云われるもう一体の薬師像の面を収めている。子育てにご利益があると云う。また、境内奥に、水を湛えた直径70cm、深さ50cmの穴が16ケ所あり「十六井戸」と呼ばれる窟がある。この穴は納骨穴とも井戸とも云われ、穴の水は弘法大師のために用意した「金剛功徳水」で飲めば悪病が癒えると伝えられている。当寺は、境内の荻の花が美しいことで知られるが、梅、水仙そしてカイドウなども季節ごとに咲き、隠れた人気スポットでもある。

 
21. 英勝寺
  鎌倉で唯一の尼寺。開基の英勝院尼は太田道灌の子孫で、お勝の方と呼ばれた徳川家康の側室であった。家康の11男、水戸家初代藩主徳川頼房の養母をつとめた。家康の死後出家して英勝院と号した。1636年、三代将軍家光から祖先道灌の土地を賜り、英勝寺を建立した。頼房の息女・玉峯清因を開山に迎えて以降、代々の住持を水戸家の息女が務めたことから水戸御殿ともいわれた。水戸光圀(黄門)は第2代住持の清山尼が、黄門の養女であったことから、この寺院を訪れている。総門の屋根には徳川家の三葉葵の紋を掲げている。創建時の面影を残す仏殿、鐘、祠堂、唐門は神奈川県の重要文化財であり、仏殿には、家光が寄進した運慶作阿弥陀三尊像が安置されている。山門は2011年に修復された 四季折々の花が見られ、花の寺としても知られている。

 
22.  寿福寺
  亀谷山寿福寺のある地は昔、奥州征伐に向かう源頼義が勝利を祈願したと云われる源氏山を背にしている源氏父祖伝来の地であり、源頼朝の父義朝の館があったところである。頼朝は鎌倉入りしたとき、この地に自らの居館を設けようとしたが、すでに三浦一族の者が館を建てて居住していたことと、土地が狭かったことから大倉に館を構えた。頼朝が没した翌年の正治2年(1200)、妻政子は京より臨済宗の開祖栄西(ようさい)を招いて、頼朝の菩提を弔うために鎌倉五山の第3位に位置する寿福寺を建立した。栄西は日本に初めて茶を伝えた人物で、寿福寺を開山したのち、2代将軍頼家の庇護を受け、京都に建仁寺を開山している。創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院であったが、宝治3年(1247)、正嘉2年(1258)に火災を起し一堂すら残さぬまで焼失している。寿福寺には栄西の弟子で浄妙寺を開山した退耕行勇、建長寺を開山した蘭渓道隆など、多くの名僧が入寺して、鎌倉の禅宗文化を後世に伝えた重要な存在の寺院である。
境内裏手の墓地には、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、鎌倉地方特有の横穴式墓所の「やぐら」には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある

 
 源頼朝が、鎌倉に幕府を開いた最大の理由は、鎌倉が一方は海に臨み、三方は山に囲まれて、敵の攻撃を守る城塞都市を築ける軍事的要害の地だったからである。こうした外敵の不法侵入を防ぐ役割を果たした切通しが7つあり、これを「鎌倉七口」とか「七切通し」と云う。この切通しを、3回のウォーキングで辿り、その周辺の寺社仏閣の散策を企画した。
 第1回は極楽寺坂、大仏坂、化粧坂の切通しを取り上げた。2月28日は快晴に恵まれ、稲村ガ崎からの江の島、富士山を望む景観を楽しむことから始めた。稲村ゲ崎と近くにある十一人塚の遺跡がある界隈は、朝廷方新田義貞が幕府方を攻略したときに激戦が行われたところであるが今日は静かな住宅地になっている。江の島電鉄沿いに鎌倉方面に歩む道は、鎌倉と藤沢方面を結ぶ古道で、極楽寺坂切通しはこの先にある。坂の途中には、日蓮上人が竜の口の刑場に連行されるときの休息の際、袈裟を松に掛けたとの碑がある。極楽寺駅の北側には真言律宗の高僧忍性が、幕府の庇護のもと建てられた極楽寺がある。壮大な伽藍が築かれていたと言うが度重なる火災で堂塔の多くが焼失し、今日ではその面影はない。忍性が貧者に対して施しを行ったという遺品の製薬鉢や茶臼にその幻影を見ることができる。
 極楽寺を出て、坂を下ると材木座海岸を望める眺望のよい所があり、その右手アジサイ寺として知られる成就院、少し下った所にある奈良時代の高僧行基が虚空蔵求聞持
法の修行をした虚空蔵堂と暗闇の夜の辺りを昼間のように輝かせたと伝わる星の井を見学した。次に向かう御霊神社の参道の角に、300年の歴史を誇る名店「力餅家」がある。この店の名物「権五郎餅」を食してしばしの休息を取る。
 御霊神社は、勇将鎌倉権五郎景政を祀る神社で参詣者も多い。この境内に江の電が走っているのも興味深い。ここからほど近い所に、巨大な木造観音で知られる名刹長谷寺がある。何度も訪れたことのある寺なので拝観を割愛し、昼になったので、人気そば処「以志橋」に入り、腹ごしらえとした。
  昼食後の最初は以志橋の裏手にある日蓮宗光則寺を散策した。境内には天然記念物のカイドウの古木が本堂前にあるが、ザンネンながら開花はまだ先なので美しい花を見ることが出来なかった。
次に鎌倉大仏で有名な高徳院に向かう。晴天に恵まれた青空を背景にした大仏は、歌人与謝野晶子が詠ったように、誠に“美男”であった。1495年の津波で仏殿が流されて以降520年間、露座のまま、慈悲深い姿を見せ続けて、人々の心に響くものを感じさせてくれている。ここから大仏坂トンネル方面に進み、トンネル手前を登ったところから大仏切通に入る。
  現在の、鎌倉七切通しの中でも、一番鎌倉時代の姿を彷彿できると云うだけあり、「切岸」「置石」「平場」などの遺構も見ることが出来大変興味深い。切通しを抜けた所は常盤という地で、八雲神社や7代執権北条政村の邸宅があったところを散策した。ここからは、笹をかき分けるような山道に入り源氏山公園へのハイキング道を歩む。源氏山公園には、後醍醐天皇の側近で、足利尊氏らと戦った日野俊基を祀る葛原岡神社や墓所があり、歴史の学習に訪れた地元の中、高校生たちが来ていて人が多かった。この源氏山は別名旗立山といい、遠く源氏の総帥八幡太郎義家が奥州遠征に行くとき、戦勝祈願をして、この山に源氏の白旗を立てたことに由来している。公園に建っている頼朝像は、頼朝がこの地から全国を統治し、睨みを利かしているようにも見える。ここから啼薬師で名高い海蔵寺への坂道が、化粧坂切通である。化粧の名は捕虜にした平氏の将の首を死に化粧して実検したことから呼ばれるようになったという。日野俊基もこの地で斬首されている。
  坂を下った所には、平景清が幽閉されたという土牢跡も見られる。海臧寺は本堂裏手にある庭園は見事であるが、花も咲いていないこの時期は拝観できず、啼薬師をお参りして退出した。鎌倉駅方面に向かう途中、江戸期水戸家によって建てられた英勝寺を 時間の都合で素通りし、隣接する寿福寺へ向かった。この寺院は、北条政子が主人源頼朝の菩提を弔うために臨済宗の開祖栄西を招いて建立した寺院である。当初は七堂伽藍を擁する大寺院で、鎌倉五山第3位の格式を持っている。この寺の奥にある墓地には、北条政子や3代将軍実朝の墓があり、墓参して、寿福寺を後にした。
  本日のハイキングは23,000歩を超え相当疲労したが、元気の余る有志とともに、小町通の居酒屋で今日を振り返えった。(石井義文)
多摩高ワンダーフォーゲル部OB会では、下記のとおり平成27年4月19日(日)にOB会(奥多摩山行)を計画しています。
今のところ8期~22期のメンバー10人前後が参加予定です。
さらに幅広い年代のOB・OGの参加を募集します。
お誘いあわせの上、ご参加ください。どうぞよろしくお願いします。
 

 
開催日: 平成27年4月19日(日) 
行き先: 奥多摩(御岳山~大楢峠~もえぎの湯)難易度初級(歩程約8km)
行程案:
8:19 JR新宿駅発 ホリデー快速おくたま5号
8:47 JR立川駅発 同上
9:36 JR御嶽駅改札口外(集合場所)
 
JR御嶽駅 → (バス10分280円) →滝本駅 → (御岳山ケーブルカー6分590円)→山頂駅
→ (徒歩5分)→御岳山ビジターセンター→ (徒歩10分)→御嶽神社(昼食休憩)
→ (徒歩75分) → 大楢峠 → (徒歩70分) → もえぎの湯(入浴780円、懇親会)
→ (徒歩10分)→JR奥多摩駅(解散場所)
 
(エスケープルート)御岳山荒天時は往路を戻ってケーブルカーで下山し、JRでもえぎの湯へ
(補足)山歩きに自信のない方は、15:00頃にもえぎの湯の懇親会から合流可
 
16:57 JR奥多摩駅発 ホリデー快速おくたま6号
17:56 JR立川駅発 同上
18:22 JR新宿駅着
 
(参考情報)
http://www.geocities.jp/hmrmyamada/yamaaruki/mitakesanmoeginoyu.html
http://www.okutamas.co.jp/moegi/
 
参加申込先:多摩高ワンダーフォーゲル部OB会幹事 三上哲史(22期) mikami040709@m.jcnnet.jp
締め切り日:平成27年4月16日(木)


※写真は、前回、平成24年に奥蓼科に行った時のものです。

Facebookページ「神奈川県立多摩高等学校 卒業生の会」のご紹介をします。
https://www.facebook.com/tamakoukou

SNSによる情報共有のしやすさを活かし、同窓会ホームページよりも気軽に、同窓会情報、現役生の活躍情報の共有に利用していければと考えております。
Facebookに登録していない方も閲覧することができます。


コメントを投稿したい場合は、登録が必要になります。
https://ja-jp.facebook.com/

同窓会情報、卒業生の活躍、功績など、気軽に投稿してください。

登録されている方は、左側「いいね!」をしていただければ、自分のタイムラインに記事が掲載されます。
 

第25回 お江戸散策 渋谷・恵比寿界隈 解説
1. 渋谷川
 渋谷の地形は、東から宮益坂、西から道玄坂が下って来る低地である。低地には川が流れ、その川は渋谷川と呼ばれ、江戸期には米や農作物の産地で、いくつもの水車が廻る、のどかな田園であった。この風景は歌川広重の浮世絵にも描かれている。渋谷川は北部の新宿御苑や天龍寺の池を水源として発し、暗渠になって渋谷駅まで流れている。駅南から開渠になって下流に行き、目黒川に合流して東京湾に注がれている。東急デパート食料品売り場の「デパ地下」が1階にあるのは、地下が川であるからである。また、渓谷のようになっているため、青山方面から地下を走ってきた銀座線の渋谷駅が地上3階にあるのは、このためである。地下鉄の高架橋は昭和13年(1938)に当時の技術の粋を集めた鉄筋コンクリートで作られ、レンガや石積みより堅固に築造され、今日にいたっている。

 
2. 金王八幡神社
 この神社は、八幡太郎源義家が後三年の役で勝利したとき、勝旗を当地に奉納して祀ったのがはじまりと云う。後に、源氏配下の河崎基家が寛治6年(1092) に八幡宮を創建し、その子重家が、相模国渋谷領(現綾瀬市)を有していたことから、渋谷姓で呼ばれるようになり、この地も渋谷になったといわれている。 現在の社殿は、徳川家光が3代将軍に即位したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに慶長17年(1612) に寄進したもので、江戸時代前期から中期の建築様式をとどめている貴重な建物である。 渡り廊下は、大正14年(1925)に造られ、宮大工の手に依る優れた意匠を持ち、社殿に附属してその価値をいっそう高めている。境内の金王桜は、一重と八重が一枝に混在して咲く珍しい桜として、江戸時代には郊外三銘木のひとつと数えられている。 傍らには「しばらくは花の上なる月夜かな」と刻まれた芭蕉の句碑がある。

 
3. 東福寺
 渋谷山親王院東福寺は、承安三年(1173)圓鎭僧正によって、当地に開創されたと伝わる。東福寺は開創当初から、隣接する金王八幡宮の別当寺で、渋谷区内最古の寺院である。金王八幡神社社記によると、開基は寛治六年(1092)といい、宝永元年(1704)に鋳造された東福寺鐘銘には、後冷泉天皇の御世(1045~1068年)と記されている。梵鐘の周りには、金王八幡宮の縁起など渋谷の歴史が刻まれている。その一部に「後冷泉帝のとき、渋谷の旧号谷盛の庄は親王院の地にして七郷に分る。渋谷郷はその一なり」とあることから、渋谷の地を谷盛の庄とも呼んでいたと思われる。

 
4. 渋谷氷川神社
 渋谷区最古の神社で境内の領域4000坪を要する大きさを誇る。創始は非常に古く、慶長十年に記された「氷川大明神豊泉寺縁起」によると第12代 景行天皇の御代の皇子日本武尊が東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したとある。江戸期には江戸郊外 三大相撲の一つの金王相撲が行われ大いに賑わったという。現在では、恋愛成就の縁結びの神社として知られ、若い人々の信仰を受けている。

 
5. 国学院大学
 国学院は1882年に神職養成や国学普及などを目的に創設された皇典講究所が、教育事業の拡大を図り、1890年に設立した国学系の学生養成機関である國學院を起源としている。 1920年の大学令によって大学に昇格し、戦後は1948年に現行学制によって大学となった。國學院大學には神社本庁の神職の資格が取れる神職課程があり、大学でこの資格を取得できるのは國學院大學と皇學館大学(伊勢市)のみである。近年、神社界に奉職したいという学生が増え、同大学への志望が増加しているという。皇典講究所の初代総裁は有栖川宮幟仁(たかひと)親王 有栖川宮の歴代当主同様、書道および歌道の達人であり、「有栖川流書道」を大成させた。さらに、昭憲皇太后に歌道を、明治天皇に書道と歌道を指南したほか、五箇条の御誓文の正本も幟仁親王によって揮毫されている。熾仁親王(たるひと)は第1子で、和宮の許嫁だった人。

 
6. 吸江寺
 吸江寺は、江戸時代初期に京都所司代を勤めた板倉周防守重宗の正室玉樹院が、慶安3年(1650)に帰依して建立された臨済宗妙心寺派の寺院で板倉家の菩提寺である。板倉重宗は2代将軍 徳川秀忠の娘・和子を後水尾天皇の中宮(後の東福門院)として入内させることに奔走したことでも知られているが、徳川家光の乳母の於福に「春日局」と命名させて、後水尾天皇に謁見させる手配もしている。当時、臨済宗妙心寺派は朝廷との結びつきが強く、幕府は朝廷工作の一環として妙心寺を京都五山並みに格上げさせたり、諸大名に臨済宗妙心寺派に帰依させる工作を行っている。斯様な背景から板倉家は国許では曹洞宗に帰依しているが、江戸の菩提寺は臨済宗妙心寺派になったのである。板倉家は、幕末期、上州安中藩三万石で明治を迎えたが、その藩士の中に同志社を作った新島襄がいた。その他、境内地蔵堂の脇には日本刀の保存に尽力した高瀬隠史の碑がある。
7. 日本赤十字社
 日本赤十字社は、明治10年(1877)に創立された博愛社が基となっています。博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の折、佐野常民(さのつねたみ)と大給恒(おぎゅうゆずる)が官軍と薩摩軍の間に多数の死傷者を出した悲惨な状況に対して救護団体による戦争、紛争時の傷病者救護の必要性を痛感し、ヨーロッパで行われている赤十字と同様の救護団体の設立を思い立った。当初、博愛社の規則の中に敵味方の差別なく救護する」条項があったので、西郷従道らの反対で認可されなかったが、征討総督有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の英断で博愛社の設立を許可された。佐野常民(さのつねたみ)と大給恒の献身的な博愛精神が赤十字社の設立を促したと言える。この日本赤十字社の初代院長が橋本綱常である。綱常は、幕末、安政の大獄で井伊直弼により斬首された橋本左内の末弟で、医学を志し陸軍省の軍医官のとき大山巌陸軍大臣に随行してヨーロッパの衛生制度や赤十字事業をつぶさに学び、修得して帰国する。その後、大給恒に招かれて、博愛社の設立に尽力していった。彼は救護員養成を奨める傍ら、軍医の臨床研究施設を建設するなどの功績を果たし、日本赤十字病院の前身を築いた。

 
8. 聖心女子大学
 聖心女子大学の敷地は、江戸期、下総佐倉藩堀田家の下屋敷があった所である。堀田家は幕末に老中堀田正睦を輩出し、正睦が老中のときには安政の五カ国条約の締結に尽力したが、勅許の取得に失敗して、老中を罷免された。堀田家の敷地は隣の日赤の敷地にまで広大な領域を占めていて、今でも西麻布方面からの上り坂を堀田坂と称するなど痕跡は残っている。明治に入り1908年、この地に、フランスに設立された女子修道会「聖心会」を母体とした聖心女学校が開校した。第2次世界大戦を挟んで、聖心女学校は、1948年4月、新学制の実施に伴い、日本における最初の新制女子大学の一つとして発足した。
現在、聖心会は、イタリア・ローマに聖心会総本部があり、広尾の大学構内には聖心会日本管区本部のほか、付属研究機関としてキリスト教文化研究所、カトリック女子教育研究所が設置されている。なお、同大学のキャンパスは、元久邇宮邸があり、香淳皇后(昭和天皇皇后)が幼少を過ごし、結婚の折にはこの地から宮中に向かった。また、皇后美智子妃殿下も同大学の出身(7回生)であり、本大学は、二代続けて皇后を輩出したキャンパスということになった。また、元国連難民高等弁務官だった緒方貞子(1回生)作家 曽野綾子(4回生)も同校の卒業生である。正門とパレスと呼ばれる伝統的日本家屋は、当時のものがそのまま修復保存されている。
9. 有栖川宮記念公園
 この地は、江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷として使われていた。明治29年(1896)、有栖川宮威仁(たけひと)親王の新邸となった。有栖川宮が廃絶したのち、大正天皇のとき高松宮殿下に引き継がれた。児童福祉を目的とする遊び場に深い関心を寄せられていた高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる昭和9年(1934)にこの地を東京市に賜与され、記念公園として一般開放された。管理事務所近くには、威仁親王の養父にあたり、皇女和宮の許嫁であった有栖川宮熾仁(たるひと)親王の銅像が建っている。大小2つの滝から流れる水は公園西側に位置する池に流れ込みます。中島や石灯籠が池は日本庭園らしい情緒が感じられます。また渓流では、深山を彷彿とする静寂な世界を味わえます。また、隣接する愛育病院は皇室の婦人科病院として知られ、今上天皇が生まれ、文仁親王妃紀子が悠仁親王を出産したのも当病院です。
10. 香林院
 香林院は祥雲寺の塔頭の1つで大給松平家の菩提寺として寛文5年(1665)建立された臨済宗大徳寺派の寺院である。大給松平家の本拠は三河国(岡崎)であったが、文久3年(1863)信濃田野口に転封となった。信濃田野口の竜岡城は、若年寄であった藩主松平乗謨(のりかた)が、造ったもので、ペリー来航後、軍備の増強、革新の必要性から、函館の五稜郭と同様の星形要塞の形状をしている。明治に入ってから乗謨は大給恒(おぎゅうゆずる)と改名して、新政府の賞勲局の要職に就き、日本の勲章制度の基礎を築いた。彼の考案したデザインは今日も継承されている。恒はそのかたわら、佐野常民に協力し、橋本綱常を登用して、日本赤十字の前身、博愛社を明治10年(1887)に創設し、日本の医療・福祉制度に尽力した。墓所は、祥雲寺山内にある。また、香林院茶室は、大正8年(1919)茶室建築の第1人者第仰木魯堂によって作られ、戦災で多くが失われた今日、都心に残されたものとしては、香林院茶室が唯一のもので極めて貴重な茶室です。
11.  祥雲寺
 瑞泉山祥雲寺は江戸時代初期の元和9年(1623)福岡藩主黒田忠之が父長政の冥福を祈って建立した。当寺の特徴に参道が左右に曲がっていることが上げられる。これはいざ合戦となったとき、敵の弓、鉄砲を避けるための設計と云われる。墓域には、明治33年ころペストが大流行した際、予防処置として鼠が大量に処分されたことの慰霊碑や黒田家をはじめ多くの大名家の墓碑群が並んでいる。黒田長政の墓は大きく社に囲われている。その他、世界最古の診断書を書き残した曲直瀬玄朔やその高弟で3代将軍家光の疱瘡を快癒させて名声を上げ、玄冶店で有名な奥医師岡本玄冶の墓もある。

 
12.  東北寺(とうぼくじ)
 臨済宗妙心寺派の末寺で、山号は禅河山。元禄9年(1696)、この地に建立された。檀家に大名家を抱え米沢上杉藩、佐土原藩島津家の大名墓地がある。上杉藩の墓所には吉良上野介妻梅巌院の墓がある。東北寺は、江戸期から、施主の木村家の支援を受けている。木村とは、近江出身の日本橋呉服の大店 白木屋の創業者 木村彦太郎のことである。門前の三界萬霊塔と地蔵菩薩像は木村彦太郎百回忌を記念して建立されたものである。墓域、左手には白木屋従業員の整然と並んで建てられている。昭和7年12月に発生した日本橋本店のデパート火災では、従業員14名が死亡、500余名が負傷する大惨事が起きたが、その時の被災者も当墓所に眠っている。三界万霊塔の三界とは
仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている墓域、左手には白木屋従業員の整然と並んで建てられている。昭和7年12月に発生した日本橋本店のデパート火災では、従業員14名が死亡、500余名が負傷する大惨事が起きたが、その時の被災者も当墓所に眠っている。
13. 福昌寺
 曹洞宗の寺院で、山号は渋谷山。近代的な造りになっているが、1580年代(天正年間)に開山されている。慈覚大師作と伝わる阿弥陀如来立像を本尊として安置している。江戸時代には曹洞宗寺院の最高格式を有する寺格の寺院で、説法をする道場として旗(法幢ほうどう)を立て、仏教行事や布教教化の法事を修し得る地位を得ている。また、江戸期、閻魔堂への参詣者が多かったことから閻魔寺とも呼ばれている。本堂左手の石棺仏は石刻阿弥陀像で彫刻そのものが少ない15世紀ころの石仏で、和歌山県那智郡から当寺に寄進されたものである。しかも石材が6世紀頃の古墳の石棺の蓋として使われていた和泉砂岩である。これは奈良県に数例の発掘が見られるだけで、関東では極く稀で貴重な文化財である。

 

14.  恵比須神社
 恵比須神社は、大むかしより天津神社(大六天様)と称して家内安全、無病息災、五穀豊穣の神々として広く住民に崇められてきた。昭和34年(1959)、区画整理で駅前から遷座させた際、現在地に社殿を新築し、これを契機に商売繁盛、縁結びの恵比須神を兵庫県の西宮神社から勧請して合祀し、恵比須神社との社名に改称された。今日、若い人の参詣者が増えている。JR山手線 恵比須駅の名前は、この神社に起因しているのではなく、明治20年(1887)、この地に設立された日本麦酒酒造会社(サッポロビールの前身)で作られたエビスビールを運搬する駅として名付けられたものである

 第25回 お江戸散策は渋谷・恵比寿界隈を選びました。渋谷は地形的にも坂が多く、渋谷駅の辺りが低地になっているのがわかる。この低地の所には、新宿御苑の辺りを水源とした渋谷川が流れているのである。街を歩いても川は暗渠になっているのでわからないが、渋谷警察署付近で開渠しているので確認できる。川は、その先目黒川に合流して東京湾に注いでいく。この辺りをつぶさに見ると大変興味深い。渋谷警察署の南方面を歩むと、渋谷を代表する古社 金王八幡宮がある。平安時代中期頃、源氏配下の渋谷基家が、この丘陵に城を築き、支配していた。渋谷の名はここから呼称されるようになったという。金王八幡宮の東側に隣接して寺がある。八幡宮の別当寺であった天台宗東福寺で、かって八幡宮の上位にあったが、明治に入って発布された神仏分離令に端を発した廃仏毀釈により立場が逆転してしまいその存在も影のようになっている。寺院から南方へ数分歩いたところに、渋谷氷川神社がある。埼玉県大宮市にある武蔵一の宮氷川大社の分社で、都内に数か所ある氷川神社の1つであるが、境内は広く、参道も長く引かれていて、多くの参詣者を集めていると云う。
  氷川神社を出て道路を隔てたところに国学院大学がある。神職養成や国学普及などを大学の事業目的にしており、構内には神社も設置されている。大学の東側に臨済宗吸江寺がある。同志社大学を創設した新島襄を輩出した安中藩板倉家の菩提寺である。ここから広尾方面に向かう。正面ガラス張りで十数階建ての大きなビルディングの日本赤十字社医療センターが進行正面に見えてきた。 この赤十字社は西南戦争の折り新政府の重鎮 佐野常民と大給恒(おぎゅうゆずる)が尽力して、博愛精神の基に設立された病院で、当初、敵方の兵士を看護することに反対意見が多かったが、有栖川熾仁親王が負傷者に、「敵も味方もない」と英断して設立されたのである。
 医療センターに隣接しての入母屋造りの門が見える。聖心女子大学の正門である。この聖心女子大からは香淳皇后、美智子妃殿下と2代続けて天皇の后を輩出している。麻布台の方向に歩み続けると、区民の憩いの庭園、有栖川宮記念公園に辿り着いた。この公園は有栖川宮威仁親王の住居であったが、後に高松宮殿下の屋敷となってから東京市に賜与されて公園になったもので、日本庭園の情緒に加え静寂な世界を味わえる都内屈指の公園になっている。江戸期は、盛岡南部藩の下屋敷が置かれていた所でもある。ランチタイムになり、広尾駅周辺のレストランに分散して昼食を取ることにした。

  祥雲寺の山門前に集合して、午後の散策をスタートした。午後の最初は、祥雲寺の塔頭香林院。日本赤十字社の設立に尽力した大給松平家の菩提寺である。東京は戦災で多くの茶室が失われたが、当院の茶室は被災を免れて現存している。祥雲寺。筑前黒田藩の菩提寺である。初代黒田長政の墓をはじめ、多くの大名家の墓が現存して残されている東京都の史跡にもなっている寺院である。ここから恵比寿方面に向かい、臨済宗東北寺(とうぼくじ)に向かう。当院も2,3の大名家が菩提寺としていて格式を感じるが、日本橋にあった白木屋の創業者一族の墓とその従業員の墓もある。墓には、火災で亡くなった従業員の墓も一族に列して安置されており、白木屋が如何に従業員を大事に扱ってきたか、会社の精神を読みとることができる。
  恵比寿に近づき渋谷橋の交差点にやって来た。その一角に、モダン建築の寺院がある。曹洞宗で仏教行事や布教教化などの説法道場を有する寺格を誇る福昌寺である、当院には門前に、貴重な文化財で、関東には稀な古墳の石棺仏が置かれている。続いて、本日最後の散策地、恵比寿神社に向かう。この神社は小粒ながら、商売繁盛、縁結びに大変ご利益があるとかで、多くの参詣者を集めているという。われわれが参詣中にもお参りに来た婦人がいて、呼び止めて伺ったところ、「数十年お参りに来ていておかげで家庭円満、商売順調」と嬉しそうに語るご婦人が印象に残った。恵比寿駅の名称はこの神社に由来すると聞いていたが、これは間違いで、恵比寿ビールに起因しているとのことである。 このあと恒例の懇親会に進み、和気藹藹に通飲し、早めに引き上げて散会とした。 (報告・石井義文)
 (解説

 恵比寿の居酒屋で、楽しい歓談をしたあと散会しましたが、誰かが「目黒川の光のページェントが素晴らしいよ」と言いました。酔い覚ましにちょうど良いと中目黒まで歩くことにしました。何と目黒川の川岸は天空の星空のような
ブルー一色の幻想的な世界になっていました。誠にすばらしい、圧巻でした!!。  まさしく本日のお江戸散策を天が祝ってくれたかのようで、程よい酔いとハッピーな気分で家路に着きました。

 
第24回 お江戸散策 旧吉原・浅草界隈 解説
1. 入谷 鬼子母神
 「おそれ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、そうで有馬の水天宮、志ゃれの内のお祖師様、うそを築地の御門跡」と語呂合わせで言われてきた入谷鬼子母神は、仏立山 真源寺と呼び、万治2年(1659)法華僧 日融が開山しました。雑司が谷の鬼子母神とともに出産、育児の神様として江戸市民に親しまれています。本尊は雑司が谷が立像なのに対し、当寺は座像。ここは朝顔市が有名で毎年7月6日~8日の3日間は境内から参道、沿道に朝顔を売る店がならび東京の風物詩になっています。語呂合わせを詠んだのは江戸狂歌界の中心人物大田南畝。別名は蜀山人。彼は清廉な能吏として、御徒・支配勘定役などを歴任した幕府の役人でした。幕府の人材登用試験では首席で合格する秀才でした。田沼時代には、文人として才能を発揮して、狂歌・漢詩文・随筆などの活動が大目に見られていたが、寛政期になってから、改革に対する政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」を詠んで、上司に目を付けられ、後に大阪銅座、長崎奉行所に転任させられたと云うがこの狂歌は別人との異論もある。彼は公務に関しては真面目、誠実で実務を淡々と務めたと伝えられている。

 
2. 小野照崎神社
 この神社の祭神は、百人一首で「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」と詠んだ小野篁。篁は法理に明るく、政務能力に優れているばかりでなく、漢詩文でも平安時代初期の屈指の詩人でした。小野篁は東国に下向した折、上野照崎の地(上野公園の一角)に留まり、里人たちを教化しました。里人らは彼を敬慕し、仁寿2年(852)小野篁が没すると、これを照崎の地に祀って小野照崎大明神と称しました。江戸期初期に、幕府が寛永寺を建立することになり、現社地に遷座(せんざ)を命じられて移転しました。江戸期、富士山を信仰・参拝する富士講が盛んになり、天明年間(1781~89)当社境内に富士塚(下谷富士)築造され、多くの参拝客を集めた。現在も当時のまま残り、国の重要文化財に指定されています。また、渥美清さんが、若いころに小野照崎神社に参詣して、いい役をくださいと祈ったところ、寅さんのオファーが来たということで、芸能の神様としての信仰も集めています。。

 
 3. 西徳寺
 真宗佛光寺派の寺院。山号は光照山。歌舞伎役者中村勘三郎の菩提寺として知られる。18代目中村勘三郎(波野哲明)は歌舞伎役者としては江戸の世話物から上方狂言、時代物、新歌舞伎から新作など、幅広いジャンルの役柄に挑み続けたことで知られた。コクーン歌舞伎や平成中村座を立ち上げ、現代劇の劇作家、演出家らと組んで、古典歌舞伎の新解釈版や新作歌舞伎の上演に取り組んだり、地方巡業や海外公演も精力的に行うなど、その演劇活動は常に進取的であった。2013年4月には新生・歌舞伎座こけら落としを控え、今後の歌舞伎界の牽引役の一人と目されていたが2012年12月に急性呼吸窮迫症候群のため57歳で死去した。早すぎる死は梨園にとどまらず多方面から大変惜しまれた名優であった。勘三郎の葬儀は築地本願寺で本葬が営まれ、多くの芸能関係者ばかりでなく一般の弔問客など1万2000人が訪れたという。2013年11月27日、当西徳寺に於いて18世勘三郎の一周忌追善法要と納骨式が執り行われた。

 
4. 鷲神社 (おおとりじんじゃ)
 浅草のお酉様で知られる。日本武尊が東国征伐の帰途、ここで熊手を掛けて戦勝を祝ったのが11月の酉の日で、以後この日を酉の市と定めたと云う。幸運や熊手を掻き込もうという縁起で、商売繁盛の神として信仰されている。江戸時代は近くに浅草寺、新吉原という盛り場を控えた地の利から多くの参詣者を集めた。蕉門十哲の一人 宝井其角は「春を待つ 事の始めや 酉の市」、高浜虚子は「人波に 押されて来るや 酉の市」と詠んでいる。
5. 吉原弁財天
 遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。池は現在の吉原電話局辺りにあり、ひょうたん池と呼ばれていた。大正12年の関東大震災では、囲い門のなかに閉じ込められた多くの遊女がこの池に逃れ、147人が焼死、溺死したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に建つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。往時を偲ばせる「花吉原名残碑」とともに、遊郭での仕事が、どのようなものだったか。貧困な農民層が、生きるために、そこで生涯を閉じていったことが看板に書かれている。

 
6. 正法院(飛不動)
 享禄3年(1530)のこと。正法院の住職正山上人が、大和大峰山に本尊木造座像を持って修行に行ったところ、坐像が一夜にして正法院に飛び帰り、人々にご利益をもたらしたという。以来、本尊は飛不動と呼ばれ、一層の信仰を集めた。空を飛ぶ神様なので空の旅の安全祈願や「落ちない」ということで受験生の守り神として今日でも多くの参詣者が訪れる。また、境内の恵比寿神は下谷七福神1つとして信仰されている。10月10日の縁日には、近郊から菊の花が飾られ境内は菊の香りが漂う。

 
7. 樋口一葉旧居跡
 樋口一葉は吉原茶屋通り大音寺前と云われたこの地に明治26年(1893)7月から、1年程住んだ。母と妹の三人暮らしで、吉原通いの客や近隣に住む町人たちに、荒物、駄菓子を売る小さな店を営みながら文筆活動をつづけ、その生活体験が、名作「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの傑作を生んだ。1960年地元の人々によって、旧居跡の碑が建てられた。
 8. 一葉記念館
 明治の女流作家 樋口一葉の業績を保存、展示している記念館。24歳で亡くなるまでの生涯や代表作「たけくらべ」の草稿はじめ一葉の自筆原稿、朝日新聞の小説記者で師の半井桃水宛の書簡、衣類などの遺品、竜泉寺町旧居と周りの町並みの模型などが展示されている。記念館前の公園には、菊池寛の撰文、小島政二郎の補筆による樋口一葉記念碑が建っている。
 
9. 吉原大門 
 江戸時代初期までこの附近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、人形町付近にあった吉原遊郭がこの地に移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。この吉原へは、富裕層は柳橋から猪牙舟を仕立てて、隅田川を上り、吉原に通じる山谷堀を抜けて来た。一方、一般層は山谷堀に沿って築かれた日本堤の土手を歩くか駕籠で来た。舟は地方橋で降りて夜間であれば、岸辺の提灯屋(大島屋)で猫提灯を求めて夜道を歩いた。吉原遊郭へは外部から見られないようにS字に曲がった五十間道と呼ばれた衣紋坂が造られ、ここを抜けると吉原大門に辿り着く。吉原遊郭で唯一の出入り口で、入口には不審者を見張る四郎兵衛番所と呼ばれた見番があった。吉原遊郭は、南北245m、東西355mの敷地に造られ、その周囲は遊女の逃亡を防ぐばかりでなく外部から犯罪者を侵入させない機能を果たしたお歯黒ドブと呼ばれる水路で囲まれていた。吉原には、約8,000人が暮らし、そのうち2,000人が遊女であったという。煌びやかな花魁、太夫が闊歩する別世界で、太夫の着飾った衣装を見たさに女性の見学者も多かったという。しかし、遊女の生活は過酷で、ろくな食事は取れず、医療設備も貧弱ななかでの生活で、乙女たちは自由もなく、廓の中で年季明けまで働いたという悲しい物語が多く伝わっている。 
10.見返り柳
 見返り柳は、土手通り吉原大門交差点にある柳の木です。土手通りは、浅草寺の北側にある待乳山聖天から浄閑寺などのある三ノ輪へ向かう通りで、かつて遊客が浅草から吉原へ向かう道に当たります。吉原遊郭で遊んだ客が吉原大門を出て、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから「見返り柳」と呼ばれていたといいます。かつては山谷掘脇の土手にあったものの、道路や区画の整理により当地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられているといいます。

 
1. 東禅寺
 寛永元年(1624)に創建された曹洞宗寺院で、洞雲山東禅寺と云う。宝永3年(1706)江戸深川の地蔵坊正元は病気平癒を祈念して、幕府に発願し、江戸の6街道の出入口に1丈六尺(約2.7m)の地蔵菩薩坐像を造立した。江戸六地蔵である。奥州街道は第四番目に当たり、ここ東善寺に造立された。因みに、第一番は品川寺(東海道)、第二番 太宗寺(甲州街道)、第三番 真性寺(中山道)、第五番 霊厳寺(水戸街道)、第六番 永代寺(千葉街道)である。ただし、永代寺は明治元年に発令された神仏分離令により廃寺となり、地蔵座像も取り壊された。東善寺には、他に神田青物市場の符牒碑、日本麺麭祖由来を記した木村屋パンの始祖 木村安兵衛の墓がある。

 
12. 春慶院 (高尾太夫の墓)
 曹洞宗の寺院で霊厳寺の末寺。吉原の花魁、二代目高尾太夫の墓があることで知られる。高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は十一人いたとも云われるが、いずれも三浦屋の抱え遊女であった。当院に眠る高尾太夫は、幾多の伝説巷談を生んだ二代目で仙台高尾とか万治高尾と云われた。仙台藩第三代藩主 伊達綱宗は天下普請で小石川堀治水工事に関わっている折り、気晴らしに吉原に繰り出したが、そこで出会ったのが二代目高尾太夫。美貌と書画音曲に優れた才媛にぞっこん惚れ込み、連夜通いつめる入れ込み様になった。当然のことながら、身請けの話しにまで進むが、高尾本人は首をたてに振らない。破格の身請け金を提示して、晴れて大名家に受け入れるという最高の優遇をして、何とか身請けした綱宗だが、その後も高尾自身の心は開く事はなかった。結局、いつまで経っても、心底、自分の物にならない高尾の態度に怒った綱宗は、隅田川の船上で、高尾を縛り上げて斬殺したと云う。この横暴三昧は幕府の知るところとなり、綱宗は21歳の若さで隠居させられ、わずか2歳の嫡男=綱村が第4代藩主となる。これが伊達騒動の始まりと云われる。また、巷説には伊達綱宗との仲は相愛の関係であったといい、高尾が綱宗に宛てた手紙の一節「忘れねばこそ、おもい出さず候」、「君はいまあたりはほととぎす」の句が伝えられ、高尾太夫の墓は輝宗侯の内命によって建てられたと伝わる。墓は細部にまで意匠を凝らした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。高さ1.5m、正面に紅葉文様を表し、楷書で戒名、命日 万治2年(1659)12月5日が刻まれ、右面には辞世、「寒風に もろくも朽つる 紅葉かな」と刻まれている。

 
13. 待乳山本龍院 (まっちやまほんりゅういん)
 浅草寺の子院のひとつで通称 待乳山聖天という。当山の十一面観音菩薩像は、人々が旱魃で苦しんでいるのを救ったとして崇拝を受け、本尊として祀られるようになったという。境内随所にある紋章の砂金入り巾着は金銀財宝で商売繁盛、二股大根は健康で一家和合を表わし、大根を供えると聖天様が身体の毒を洗い清めてくれると言われている。ここの小高い丘は江戸時代筑波山や富士山も望まれる風光明媚な景勝地として知られ、安藤広重も描いている。また、大衆文学の作家 池波正太郎の生家は待乳山聖天公園の南側付近にありました。生まれた年の9月に関東大震災があり、生家は焼失してしまいましたが、その後も少年期、青年期を台東区で暮らしました。昭和35年「錯乱」で直木賞を受賞し、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」などの人気シリーズをはじめ、時代小説の傑作をつぎつぎと生みだし、このあたりもたびたび舞台として描いています。「生家」は跡かたもないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだと記しています。

 
14. 市川団十郎「暫(しばらく)」の銅像
 この銅像は、明治の名優、九代目市川団十郎が、歌舞伎十八番の演目で、皇位へ就こうと目論む悪党の清原武衡が、自らに反対する加茂義綱らを打ち首にしようとするとき、鎌倉権五郎景政が「暫く~」の一声で、さっそうと現われて助ける名場面「暫」のシーンを名彫刻家新海竹太郎が制作した傑作です。大正8年、浅草寺境内に建立されたが、戦時中の、昭和19年11月 金属類拠出令により撤去され失ったが、昭和61年11月第12代市川団十郎の襲名を機会に歌舞伎の象徴的な場面「暫」の像が復元された。九代目団十郎は歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めた功労者で「劇聖」と謳われた。