今回のお江戸散策は、第10回の節目を迎え、江戸の中心で、「朝昼晩三千両のおちどころ」と川柳に詠われた日本橋・人形町界隈を選びました。江戸時代、そして明治期に入ってからも日本の経済の中心であったこの界隈の散策はわれわれに新たな知識を与えてくれました。東京駅八重洲北口を出ると、前に幅広の道路が走っています。外堀通りです。名前のとおり此処は江戸城外堀があって北は日本橋川へ、南は銀座数寄屋橋まで壕になっていたところです。この辺りの名前「八重洲」は、三浦按針とともに豊後臼杵に漂着し、航海技術を備えた技量が徳川家康に認められたヤンヨースティンが、この辺りに屋敷を与えられて住まいしたことから呼ばれるようになったと言う。またこの辺りは江戸初期における火消し番所や秤の両目統一を図る器機製造や検査・販売などを行う江戸秤座もありました。ここから100m北に上がったところには、京都から出店した近江商人の高島屋があり、日本橋の象徴的な伊勢商人の三井越後屋(三越)と共に日本橋の大棚として数百年繁栄を維持してきている。他にも江戸期から今日続いている歴史を誇る店としては蚊帳の販売で成功した「西川産業」、ヒット商品梅干飴で繁盛した「榮太樓總本鋪」、玉露と江戸海苔の「山本山」、鰹節の「にんべん」、刃物の「木屋」などの名店がひしめいている。これらの店の隆盛ぶりは、地下鉄「三越前駅」の地下通路にある熈代勝覧絵巻からも、当時の様子を偲ぶことができる。徳川家康によって五街道の基点とされた日本橋は、その橋上からは、天下の江戸城、天下の富士山を望むことが出来るように作られ、両岸には魚河岸店が立ち並んでいて、その賑わいを知るとともに江戸幕府の威信と権威を表わしていることを絵巻が描いていました。日本橋の上流には、一石橋、常盤橋が続いて掛かかっていて、その威容を感じ取ることが出来ます。この常盤橋は関東大震災で破損しましたが、渋沢財団の支援で再建されました。橋の向かいには、日本銀行本店があり、この日銀旧館を見学することができました。日銀の機能、役割などを学習すると共に、内部の大金庫や台車に積み上げられた紙幣の塊は圧巻でした。日本橋からは江戸橋の袂にある郵便発祥の地や海運橋の袂にあった日本最初の銀行などの足跡を辿り、途中、東京証券取引所を見学してから証券界の守護神、兜神社と、日本橋七福神のなかで、運気が強と評判の小網神社で株価上昇を祈念するお参りをしました。(笑)この辺りは姫路藩酒井家の下屋敷があり、明治初期には西郷隆盛が住んでいましたが、現在、日本橋小学校になっていました。また、文豪谷崎潤一郎も,この近所で生まれ育ち、界隈の風情を随筆「ふるさと」で語っています。人形町界隈の見学場所には玄冶店跡、蛎殻銀座跡、元吉原跡などがあるが、今は中央区の歴史ガイド板で往時を偲ぶのみです。七福神で隆盛を誇っているのが明治期に赤羽橋の有馬藩邸内から移転してきた水天宮ですが、参道入口にあるブリジストン創業者石橋正二郎が寄進した狛犬像は風格を備えていて見事でした。 歩みを北に向けて、掘留町には、江戸三森の一つで富くじ興行で名の知られた椙森神社を参拝した後、伝馬町牢屋敷があった十思公園へ向いました。牢屋敷は大安楽寺や十思小学校を含む地域に及ぶ2700坪の広さであったそうです。明治維新の精神的指導者吉田松陰はここで斬刑に処され、その辞世歌が公園内の碑に刻まれています。また、この公園には、石町にあった時の鐘が残されています。次の散策地は長崎屋跡で、説明板のみですが、江戸期蘭学を志していた杉田玄白、前野良沢、平賀源内、中川淳庵らが長崎から江戸参府に来たシーボルトやオランダ商館員たちから先進的な外国の知識を得ようと真剣なまなざしで学んだ様子が思い描けました。ここで今回の散策を終了し、神田駅近くの居酒屋で、本日の反省懇親会を賑やかに行いました。(報告:石井義文) |
|
これより懇親会 |
|