同期会

17期 還暦記念同窓会のご案内

 暑さの厳しい中、17期の皆さま、お元気ですか?

 我々多摩高校17期生は、本年度で還暦という大きな人生の節目を迎えます。
 そのような折り、昨年10月、1年8組の集まりをきっかけに、その中の有志がこの人生の節目の年に同窓会を呼びかけようと思い立ち、恐縮ではありますが、これまで検討・準備を重ねてきました。

 つきましては、下記日時日程で、17期記念同窓会を開催いたしたく思いますので、その旨ご案内させていただきます。
ご都合が良く参加することを決められた方をはじめ、久しぶりに昔の仲間に会おうという気持ちが湧いた方、今まであまり多摩高同窓会等に関わってこなかったので参加について迷われる方など、様々だと思います。

 私達多摩高17期生は、昭和47年入学、50年4月卒業であり、今から見れば高度成長と呼ばれた経済情勢の只中を多摩の地において過ごし、羽ばたくようにそれぞれの道に出発をしていきました。以後幾度かの社会の変遷、取り巻く環境の変化を体験しつつ、それぞれ様々な出来事を経て、あるいは試練を乗り越え今日に至っているものと思います。

 そうして40年を経、この節目に今あることを思うと、そろそろ高校時代を含め、立ち止まって自分の歴史を眺めてみるのも意味があり、また、そうすることでこれから充実した日々を送るヒントが生まれるかもしれません。
 遠い時代の旧友の変わらぬ笑顔を見つけ、昔の記憶を脳裏に刻むひと時を過ごしに参集するのも一興ではないでしょうか。幹事一同、皆様のご参加を願っております。




 

日 時: 平成28年9月17日(土)18:30~20:30
場 所: ザ クラシカ ベイリゾート (横浜駅北東口出口より連絡通路徒歩3分)
住 所: 横浜市神奈川区金港町1-10  ベイクオーター6F  ℡:045-663-4386 
会 費:  8000円   受付にて徴収させていただきます。 
受付・開場: 18:00より
申し込み: 住所がわかる方には往復はがきでご案内しております。8月13日(土)までご返信ください。
備 考:   残念ながら40名近くの方が住所不明ではがきを送信できていません。この記事をご覧になり参加をご希望される方は、幹事滝澤のところへご連絡ください。

連絡先:  幹事代表 滝澤雅雄 ℡ 09063036672
Eメール  masao_tk_1956_april_blue@palette.plala.or.jp
幹 事:  滝澤・古賀・大室・後藤(白井)・福田(渡辺)・小野(鬼沢)・市石(寺島)


写真は、前回2010年の17期同期会のものです。


 梅雨時のうっとおしい日々が続いていますが、
皆様にはいかがお過ごしでしょうか?
 
 第11回開催幹事と第12回開催幹事の引継会が無事行われ、
下記の通り第12回多摩高4期同期会開催日程が決まりましたので、
とりあえずお知らせいたします。 
皆様のご予定に組み入れていただき、お誘い合わせの上、
多くの方々のご出席をお待ち申し上げております。
 
                記 
  •    日時  2016(H.28)年11月26日(土) 12:00
  •    会場  武蔵小杉 ホテル精養軒        
  •    会費  8,000
 尚、詳細は後日、往復葉書にてお知らせいたします。
 
 
2016.06.25

【第12回開催幹事(5組)
 西山忠宏  044-555-3739   
 堀内 直  044-755-7622  
 村上陽一  090-2659-1771  
 木原寿美子 044-829-3973 (持田) 
 赤塚光子  044-811-8835 (吉崎)
 清宮梅子  044-911-2768 (吉澤) 
 (他に数名が予定されています。)

4期同期会開催幹事幹事引継会:2016.2.1 (11回→12回)ホテル精養軒

 今回の散策は、はじめて江戸川を越えた。市川市にある本八幡に集合し、この地域の古社・古刹をめぐることとした。まづ、白幡天神社を訪れる。源頼朝が房総で旗上げをした際白旗を挙げ、戦勝祈願をしたことで白幡の名になったと云うが、ご祭神が武内宿祢、菅原道真であることからそれより遥か以前に建立されていたようである。本殿には勝海舟の社額も掲げられ、寄進者の灯篭なども多く立ち並び、相応の格式が感じられた。つづいて、江戸時代から千葉街道を下り、江戸川を越えてまで参詣者が多かったと云う葛飾八幡宮に向かう。現在、駅名がJRが本八幡、京成は京成八幡と言うが、この神社の名に起因する。この葛飾八幡宮は、下総国の総鎮守として祀られ、その格式通り第一鳥居から随身門までは長い参道が築かれ、そして本殿の傍らには、樹齢1200年を超えるという大公孫樹が聳えるように立っている。つづいて、千葉街道沿いにある「八幡の薮知らず」という孟宗竹と薮が鬱蒼と覆い茂っている一角を訪れた。ここは江戸時代には
「禁足地」とされ、一度足を踏み入れると出て来られなくなると伝承されてきた所である。今日は、その広さも狭まっていることから、その恐怖心は感じられないが、当時、人が寄り付かなかった所だったことは想像できる。次に駅周辺の盛り場を散歩して街の様子を見ることにした。その盛り場の一角に、「日本料理・うえだ」という雰囲気のよい高級割烹の店構えの前に来た。店頭のショーケースに看板料理がならび御代も乗っている。少し早いが「昼食はここでどうか!」と誰となく言い出し、皆が賛同して、店内に入った。まだ、客のいない奥の座敷で、寛ぎながら座を囲み、ランチをいただいた。美味い!満足! 近郷では人気のある店のようで、店を出るときは、店内は客で席が埋まっていた。
ランチタイム
 ところ移して、京成八幡から京成中山駅に向かう。駅を出ると、北に向かって緩やかな登り坂道があり、両脇に商店が並んでいる。典型的な門前町の形式で、間近に黒く塗られた正中山法華経寺の総門が建っている。ここを抜けて歩いていくと大きな山門と日蓮上人像が毅然と立っている。さすがに日蓮宗大本山と尊称されるに相応しくすごい迫力で迎えてくれる。境内は広く国宝や国指定重要文化財の宝庫である。これらを順に見学すると相応の時間がかかるので、境内から数分のところにある「東山魁夷記念館」へ先に訪ねることにした。東山魁夷は云わずと知れた日本画の大家で、ここ市川に50年住み、この地で自然をモチーフにした静謐な絵画を描き続けたという。当日は多くの人が鑑賞に訪れていて、画伯の人気の高さが伺えた。絵の実物は、国立美術館に所蔵されて入るものが多かったが、そのレプリカであっても十分感動を受ける絵画をゆっくり観賞できたのは幸運である。法華経寺境内に戻る。国指定重要文化財の祖師堂、五重塔、法華堂、四足門そして本院内にある鬼子母神堂、聖教殿をつぶさに見学。それから、当寺を全国的に知ら
しめている「寒百日大荒行」が行われる荒行堂など、想像以上に仏教信仰の深さと敬虔さを示してくれた。残念ながら、国宝の日蓮上人御真筆の立正安国論、歓心本尊抄は非公開で閲覧できなかったが、本院と同日に荒行が行われる遠寿院道場では、将軍家から寄進され、水荒行で使用されるていた御影石製の水盤を見ることができた。今回の千葉散策は、見学箇所は少なかったが、見どころは多く、記憶残る散歩でした。 (石井義文)
        スライドショー (千葉散歩)      
        スライドショー(鎌倉 長勝寺 大國祷会成満祭)
 今回の散策は、2つの目的のために実施した。1つは川崎のアジサイ寺として知られている長尾山妙楽寺が源義経の実兄 全成にゆかりがあり、そして、同寺には同期生IT君が永眠しているので、彼の墓参を兼ねて訪れること。そして、もう一つは江戸時代、川崎を豊かな穀倉地にした偉業を成し遂げた二人の偉人の足跡をたずねる散策である。  5月28日(土)10:00、南武線宿河原駅に同期生13名が集合した。最初に訪れる妙楽寺に行く道すがら、江戸時代初期に偉人小泉次太夫に開削された二ケ領用水に沿って辿ることにした。用水は、多摩川の上河原と宿河原の二ケ所の堰を作って出来ている。二ケ領用水の沿道は、さくらの名所として名高いが、すでに鮮やかな緑葉となって、いまはつつじやサツキが彩り豊かに咲いている。憩いの場・緑化公園を過ぎてしばらく進むとより大きな川に出た。これが上河原堰から引かれたもう一つの用水である。その用水に架かる橋を渡って府中街道を横切るとアジサイ寺と書かれた標識がある。それに従って坂道をしばらく登って行くと右手に山門が見えた。長尾山妙楽寺である。本堂に至る参道の両脇にはアジサイが背丈を伸ばして、白、青そしてピンクの花を咲かせている。まだ、3分咲ほどであるが、満開になるともっと素晴らしい景観なのであろう。境内一面に植えられているアジサイを眺めながら薬師堂や鐘楼を拝観し、境内の外にあるIT君の墓に向かった。用意してきた花と線香を焚いて墓参し、元気だったありし日の友を偲んだ。妙楽寺を後にして、近くを走る東名高速道を横切り、県立東高根公園に入った。弥生時代に営まれた竪穴住居跡が発見されたという公園は懐かし風景があり、自然豊かで美しい。ゆっくり散歩したいところであるが、次の散策地に向かうべく足早に抜けて久地駅に向かった。
  矢向駅に着き、昼食を準備してくれている今回の幹事・石井昭一邸に向った。家に着いて、部屋に入ると、テーブルに全員がすぐに食べられるように据膳されている。奥様が1人で吸い物やお茶も準備してくれていたようだ。ありがたい。感謝の気持ちで昼食を取る。食事を終えてからは、昭一氏が、ファミリーヒストリーをプロジェクターを使って紹介してくれた。昭一氏の、祖父母、両親、兄弟そして子どもや孫たちが登場してきた。実に微笑ましい。高校時代のシーンでは今回参加した同期生の面々も登場し、若き頃の映像を見て一同、和やかな雰囲気に包まれました。奥様、ありがとうございました。
午後の最初の散策は、程近いところにある石井家の菩提寺曹洞宗静翁寺。墓所には、祖父が横浜に在住しているときに関東大震災で遭難した様子が大きな石碑に刻まれていた。つづいて、国道1号線を横切り、南河原公園に入る。休日のきょうは、近隣の親子連れが大勢やって来て園内は賑わっている。この公園には、55年前に幹事の呼びかけで、わたしも訪れた所との説明を受けたが、ほとんど記憶にない。しかし、そのような思い出の場所なので、その場で記念のスナップショットを納めた。
  公園を後にして、緑道を歩き、女體神社に向かった。元禄年間、多摩川が洪水したとき、氾濫を治めるために身を投じた女を祀っていると云う。次に訪れる所は、偉人田中丘隅(休愚とも書く)の菩提寺、妙光寺であるが、少し遠いのでバスで行くことにした。田中丘隅の墓は川崎宿の田中本陣の主人であったばかりでなく、幕府代官でもあったことから、格式を備えた立派なものであった。つづいて京急川崎方面に向かい旧東海道街道筋にある曹洞宗 宗三寺とその向かいにある川崎宿交流館に入った。交流館は2013年に開館したもので、東海道川崎宿の歴史、文化を学び、それを後世に伝え、地域の交流活動を推進するために作られたと云う。じっくり時間をかけて見学したい施設である。このあと、川崎の古社、稲毛神社を参詣してから、小泉次太夫の菩提寺妙遠寺に向かった。山門を入ると「偉人泉田二君功徳碑」と書かれた巨大な石碑が建っている。第2代総理大臣 黒田清隆が篆書して次太夫と丘隅の功績を称えている。本堂脇には次太夫が生前に建てたという逆修墓がある。今回の散策は同期の友の墓参と意外と知らなかった川崎の歴史を学べる収穫の多い散策であった。電車・バスでの移動あり、気分を爽快にしてくれる森林、緑道の遊歩ありで、この後の懇親会も楽しい酒宴の場となりました。 (文: 石井義文)
 
 
 2015年10月3日、2年ぶりの第3回同窓会を行いました。
 幹事長は東田健志くんと野澤秀之くんで100名近くの同期が集い、大いに盛り上がりました。ご来賓の田辺先生より人生の区切りについての貴重なお話しをいただきました。「知命」にはほど遠い我々ですが、この仲間との絆を大事にすることでその境地に近づければと思います。

 この第3回同窓会の模様は26期会のサイトhttp://tama26.webcrow.jp/index.html)に掲載しております。Facebook上の26期会グループhttp://prt.nu/0/T26)非公開グループには153名の同期が参加しており、今も全国各地で開かれているミニ同窓会の様子が日々報告されています。
 
 また、26期全体の連絡や、個別の集まりの連絡のため、是非名簿登録にご協力ください(現時点で公開の予定はありません)。未登録の方は上記26期会サイトをご一読の上、「リンク集」に掲載した名簿入力フォームより登録をお願いいたします。
 
 26期会事務局 桐山明彦、藤崎亜矢子、永田裕之


4月18日(月)多摩高5期生 春のハイキング
伊勢原駅に11:00集合。天候は晴れで、気温も上々である。古希とは思えぬ元気爺婆の16名(女子7名)が参加した。揚々の気分でスタートして、しばらく行くと、道の傍らの梨畑には白い花が咲いていて、われわれを和ませてくれた。10分ほどで長野善光寺の末寺、三福寺に着く。境内には薄紅の花びらを輝かせている八重桜が咲き残っていて春のなごりを留めている。のどかである。つづいて京都八坂神社の末社に着く。神社でありながら大きな鐘楼があるのは、明治初期の神仏分離令を免れたことに因るものか?銅鐘も大きく、県重要美術品に認定されているという。何より注目は、樹齢600年という天王松の巨大な根で、後世に伝えるべく境内の一角に、「これ見よ」とばかり大事そうに展示されていた。神社を出てから、桜台の緑道と呼ばれる歩道に入った。色とりどりの草花が左右に咲く道を進み、振り返れば大山の威容が望める田園的風景は気分を爽快にしてくれる。途中、道を行き過ぎてしまい、引き返すハプニングもあったが、ようやく岡崎城址に建つ無量寺に着いた。ここで岡崎城に関わる詳細に記述された解説版を読んで歴史の学習をして、待ちに待った昼食タイムと思ったが、適当な食事を取れる場所が見当たらない。致し方なく次の散策地、城主だった岡崎義実の墓まで歩みを進めながら、適当なところで空腹を満たすことになった。昼食では、闘病中で参加できなかった松本章氏が丹精込めて掘り出して、差し入れしてくれた「筍」を感謝していただいた。実に、美味しかった! 松本さん、ありがとう! 早期に回復して、もとの元気な姿に戻ることを祈る。岡崎義実墓は、周りに高い、多くの樹木が立っていて陽が刺さず薄暗い。また、墓は本丸と思われる無量寺から、かなり離れたところにあるが、ここまで城内だったのか?その検証はできないが、鎌倉時代初期の当時の姿を想像してみるのも一興である。
 次の散策地は新編風土記にも記稿されている八幡神社。住宅地の一角にあるが、この神社には開発の手が及ばなかったのか素朴な、懐かしい昔ながらの風景を見るようであった。神社の近くには石器時代の住居跡という山王塚公園があるが、覗く程度にして、次に進む。20分ほど長い下り坂の道を歩くと最後の散策地、曹洞宗自徳院に着いた。三門に鐘楼が付く中国風の造りが特徴的だ。ここで、一同のスナップを収めて、ここから10数分で伊勢原駅に着いた。ここで、解散としたが、10名余りが懇親会へ行き、本日のハイキングを振り帰りながら談笑に耽った。 (報告: 石井義文)
 
               スライドショー   
 

第13回 景信山

2016年04月28日(木) | コメント(0)
 【景信山ハイキングコース概要】
JR高尾駅北口~小仏バス停~景信山 (昼食)小仏峠~美女谷温泉分岐~国道20号~小原宿~JR相模湖駅~立川駅
(報告) 多摩高五期秋のハイキングとして、11月13日㈮に景信山に登る。男性6名、女性6名で、バスの終点から歩き始める。一寸急な登りを登り切ると、直ぐに景信山頂だった。そこで、昼食パーティで、漬物の「カブ」や、デザートの柿、食後のコーヒーまで出て、その他も出て、大盛り上がりだった。その後、小仏峠からは旧甲州街道を通り、下山する。そこそこ、紅葉も楽しめた。それから、20号線沿いの、小原宿と本陣を見る。
そして、相模湖駅まで歩いて解散する。希望者で、八王子駅近くで、打ち上げをし、冷たいビールで、喉をうるおした。(佐々木)
 
陽春の候、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
さて、下記の通り40期同窓会を開催いたします。
当日は恩師の方々もお招きしておりますので、皆様お誘いあわせの上ご出席ください。
たくさんの方にお会いできることを楽しみにしております。
  • 日時:平成28年6月18日(土曜日)
    14:00~
    (13:30 受付開始)
  • 場所:カフェ・セレ
    東京都中央区築地1-13-1銀座松竹スクエア2F
    (地下鉄日比谷線東銀座駅5番出口より徒歩1分 他、銀座駅、新富町駅からも徒歩5分です)
    http://www.cafeserre.com/access/
    (tel:03‐3543‐7272)
  • 会費:6,000円(当日受付にてお願いいたします)

出欠につきましては、準備の都合上お手数ですが、5月15日までに下記メールアドレスに
(1)出欠(2)お名前(3)連絡事項(何かありましたら)をご連絡ください。
tamakou40※gmail.com (※は@にしてください)

また、メールには確認の返信をいたします。
迷惑メール設定等されている方は受信できるよう設定お願いします。

数日たっても返信がない場合、他お問い合わせがありましたら同窓会事務局までご連絡ください。

【幹事】
安野麻希子、石田聖子、勘解由(伊藤)愛子、大西将史、駿河穣、田代哲郎、畑貴之、曽根(森)千尋、堀内(山川)さやか、佐野(米田)真由良、若林絵里


写真は、H280324に撮影されたものです。
3月13日(日)第6回目の鎌倉ウォーキングを行った。コースは和田塚、和賀江島、披露山公園を経て逗子駅に至るコースで、鎌倉の歴史上由緒ある宮、大きな事件があった所、名庭園のある寺院、海の中に建てられた文学碑そして、富士を望める絶景など多くの見どころのあるコースです。鎌倉駅西口に9:30集合して、駅前広場にあるラングドン・ウォーナー博士の銅像に挨拶。アメリカ人で、日本の文化に親しみを持ち、鎌倉に住む。太平洋戦争時、鎌倉への攻撃を止めるようにルーズヴェルト大統領に進言したと云われている。真偽は不明であるが、結果として鎌倉は戦災に遭わず、街も文化財も守られたことから顕彰されている。次に今小路通りに入って、重厚な門を構える御成小学校の向かいにある問注所跡を散策する。ここは、鎌倉時代の裁判所が設けられところで、裁判の結果、無罪放免になった者が渡ったと云う裁許橋が近くに流れる佐助川に架かっている。反して、罰せられた者は、小路を海辺に向かって観音通りに面した所にあった処刑場で刑を受けたと云う。現在、そこには六体の地蔵が置かれていて六地蔵と呼ばれている。観音通りを横切って、江ノ電和田塚駅を海岸に向かって少し行った所に和田塚がある。ここは建暦3年に起こった和田合戦の戦場だった所で、和田一族の慰霊碑が建っている。この塚を掘り返したとき、多くの人骨が発見され、頭蓋骨には刀傷を受けものが多くあったと云う。また、観音通りに戻って、若宮大路と交差した所に出る。ここは下馬と呼ばれ、馬の乗り入れが許されず、馬を下りて八幡宮を礼拝した所である。また、幕末、攘夷浪士が2人のイギリス士官に斬り掛り斬殺した「鎌倉事件」があった所でもある。若宮大路を、由比ヶ浜方面に向かうと散策スポットの徳川将軍から寄進された第一石造大鳥居とその傍らに大きな宝篋印塔の
畠山重保の墓がある。しばし見学したのち、若宮大路に面した所にある名門 鎌倉女学館の脇を抜けて、材木座方面に向かった。病院前のバス停を左折して、100m程の所の左側の路地を入ると正面に、元鶴岡八幡宮がある。この神社は、「元八幡」と呼ばれ、頼朝の曽祖父頼義が石清水八幡宮から勧請して建立した神社である。また、この界隈は明治から大正にかけて何人かの小説家が住み、芥川龍之介、「丹下左膳」を書いた林不忘そして、日蓮宗妙長寺には泉鏡花が仮寓している。妙長寺から、道沿いに100m程行った所に九品寺がある。九品寺の場所は、義貞が鎌倉攻めをしたとき新田義貞が本陣を構えた所で、北条を倒したあと開山した。本堂の扁額は、義貞の筆跡と云う。材木座には、浄土宗関東大本山の名刹 光明寺がある。天皇家や徳川家に庇護され、巨大な三門や小堀遠州作と云われる記主庭園そして三尊五祖の石庭は見ごたえがある。

 
 光明寺から左に折れて、海岸に出ると満潮時には見えないが、干潮時には岸辺に無数の巨石が転がっている。ここが日本最初の築港と云われる和賀江島である。800年の歳月を経て港の形跡は偲べないが、
宋時代の中国陶器の破片などが今日も海岸で見つかると云う。これより逗子マリーナ方面に向かう。途中、鎌倉十井の一つ六角の井や三浦氏が築いた住吉城跡などを視察して、小坪漁港に出る。小坪漁港の歴史は古く、鎌倉時代より存在している本市唯一の地場産業である。正月には、1年の豊漁と海上での安全を願う「みかん投げ」行事が行われる。その祝いみかんを食べると厄除けになると言われ、多くの人が集まって来る賑やかな祭りである。小坪の魚料理店「魚佐次」で昼食を取ることにした。熱つアツのアジやカマスのフライは実に美味しかった。
 腹ごしらえをして、次の散策に向かう。漁民家集まる家々の細い路地を抜けて、丘を登って行く先に長い階段の参道があり、登った所に天照大神がある。地元の漁師たちに敬われているらしく社は清潔に保存されている。旅の安全を祈って参拝し、神社を出ると、やたらと豪壮な家々の並ぶ住宅地にでる。ここが披露山高級住宅地である。かっては、元ソニー会長 大賀典雄氏もここに居住していた。  住宅地の右寄り道路を
進むと大崎公園に行く表示板がある。大崎公園は海に突き出した岬の台地に作られ、見晴らし台からの展望は実に素晴らしい。遠く富士山、箱根、丹沢連峰、伊豆半島、大島、そして逗子海岸から葉山、秋谷など三浦半島もくっきり眺望できる。しばし、この公園でしばし休憩を取ることにした。休憩後、対岸に見える披露山公園に向かった。この公園も眺望はよく、昭和初期には政治家、文人たちが住み着き、憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄もここに住まいを構えた。戦時中は、軍用地になり本土防衛の堡塁が造られ、その痕跡が現在も残され、展望台や猿舎などに転用されている。公園から海岸まで崖のような急斜面の細い道を下って行くと海岸線を走る国道134号線の手前に、浪切不動尊を安置した高養寺がある。この寺は徳富蘆花の小説「不如帰」の舞台となり、その主人公「片岡浪子」に因んで、「浪子不動尊」と呼ばれるようになった。後年、蘆花の実兄蘇峰が不如帰と揮毫した石柱が海中に建立されている。海岸を内陸に少し入った所に、名門 開成高校の兄弟校、「逗子開成高校」がある。明治43年のボート遭難で、17名の学生が亡くなり全国的に知れ渡った学校で、校門前に「真白き富士の嶺・・」の鎮魂碑が建っている。もうすぐ逗子駅である。駅近くにある古社 亀ヶ岡八幡宮を参詣して本日の散策をお開きとした。
 本日は、鎌倉の歴史に触れる散策で、古戦場跡や寺院石庭鑑賞もできました。そして、アップダウンの登降を繰り返し、ひざ関節に堪える歩行であったが、素晴らしい眺望に癒されたり、ビバリーヒルズを彷彿させるような邸宅を鑑賞できたり、思い出残るウォーキングでした。 (石井義文)

 
スライドショー                   


第3回 横浜散歩 旧横浜居留地・掃部山公園界隈ー解説版

1. 横浜三塔
 横浜市の歴史的建造物「キングの塔」「クイーンの塔」「ジャックの塔」は「横浜三塔」と呼ばれている。神奈川県庁本庁舎は「キングの塔」と呼ばれ、昭和初期に流行した帝冠様式の建物で、昭和3年(1928)に竣工した。神奈川県庁庁舎としては4代目の建物で、国の有形文化財に登録されている。この地は、安政6年(1859)、横浜開港に伴って神奈川奉行管理の下、神奈川運上所が設けられた所で、通関関税業務や各国領事との交渉をする外交業務、船の入出港手続き、洋銀両替、各国領事との交渉、違法行為取締りなどの業務を行っていた。 明治4年(1871)、通関事務などが大蔵省管轄となり、翌年には全国の運上所の名称が税関に変更された。 慶応2年(1866)の大火で焼失した後、横浜役所として新築され、その後、横浜税関に改められた。「クイーンの塔」は横浜税関本関庁舎の建物で、昭和9年(1934)に竣工した。イスラム寺院を想わせる緑色のドームが形づくられている。設計者は国会議事堂を設計した大蔵省営繕局の技師・吉武東里が担った。正面玄関の標札は、当時の大蔵大臣高橋是清の直筆と伝えられている。横浜税関本関庁舎1階にある資料展示室は「クイーンのひろば」と呼ばれ、開港からの横浜港・横浜税関の歴史をつづるスクロール年表や貿易の変遷、麻薬や拳銃などの密輸の手口、知的財産を侵害した偽ブランド商品やワシントン条約に該当するはく製や標本等を映像や実物展示により紹介している。「ジャックの塔」は、明治42年(1909)の横浜港開港50周年記念事業として、大正6年(1917)に完成した。関東大震災時に全焼したが、昭和2年(1927)に初期の建築を復元した状態で再建された。平成元年(1989)に高さ36mの時計塔ドーム部が再建されると同時に、国の重要文化財に指定され、現在は横浜市中区公会堂として利用されている。大阪市中之島公会堂などと並び、大正期の公会堂建築物の傑作の一つである。

キングの塔
クィーンの塔
ジャックの塔
2、 日米和親条約調印の地 (現・開港資料館)
  嘉永6(1853)年米国東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航し、大統領の国書を提出して日本の開国を要求した。 幕府はその威力に屈し、翌年3月横浜で日米和親条約を結ぶため、嘉永7年(1854)2月10日(太陽暦3月8日)正午、ペリー提督は随員を従えて横浜に上陸した。この地に作られた横浜応接所に入り、日米和親条約締結のため会談が始められた。日本側の全権は大学頭 林復斎が応対した。合計4回に及ぶ会談の結果、漂流民の救助、アメリカ船の伊豆下田・箱館(現函館)2港の入港、薪水・食料・石炭の補給、下田に総領事を置くことなどを取り決め、日米和親条約を締結した。わが国は長い鎖国の時期を終え、開国することになった。画面右端には水神社という小さな神社、背後の大木が「玉楠の
木」の元の姿と伝えられている。この絵はペリー艦隊の随行画家ハイネの原画による石版画である。そして、米国につづき英国、フランス、ロシア、オランダなど西欧諸国に相次いで門戸を開いていった。
その後、安政3年(1856)、下田駐在の総領事として来日したハリスは通商条約の締結を強く求めてきた。大老井伊直弼は天皇の勅許を得られないことで危惧を抱きながらも、開国が日本の将来に必要なことと判断し、下田奉行・井上清直,目付・岩瀬忠震を日本側全権に立てて会談に臨み、安政5年(1858)6月 横浜港沖に停泊していた米艦ポーハタン号艦上で日米修好通商条約に調印した。この結果、横浜は長崎・箱館・兵庫などと共に開港場となり、翌年から貿易が開始されることになった。



3、 岩亀楼跡
 幕末に開国して、外国人が大勢来るようになると、彼らの遊び場が必要となってきた。そこで、幕府は遊廓をつくることを思い立ち、決めた建設用地がこの辺だった。ここら一帯には、大・中・小の「遊廓」と芸者屋が急ごしらえで作られたが、その中で、最も豪華で「竜宮城」にも例えられた大店が岩亀楼だった。岩亀楼には、「異人客専門棟」と「日本人客専門棟」の2つの建物があり、2棟の遊女たちは、完全に区別されていた。異人客の相手をしていた女たちは、洋妾とよばれ蔑まれていた。洋妾たちの多くは、高給にひかれてやって来た貧しい漁村の娘たちで、美貌も教養も劣っていた。それに気付いた外国人客が不満を言い出したので、やがて日本人客相手の上級遊女を侍らすようになった。しかし、外国人に対する懼れや誤解がうずまく当時のこと。岩亀楼一の売れっ子・亀遊が自殺するという事件が起こった。亀遊の死は当時、外国人嫌いな日本人に利用され、大きく騒ぎ立てられた。
 「露をだに 厭ふ大和の女郎花 ふる亜米利加に 袖は濡らさじ」という、辞世の歌が捏造され、亀遊は、「異人に屈せず、誇りを見せた日本婦女子」として祀り上げられた。「亀遊が攘夷女郎にされていく」。このお話は歌舞伎にもなり、滑稽演劇にも上演されて世間の関心を集めた。しかし、反面、本気で尽くして、外国人と夫婦同然になった女たちもいた。カレーラス・モンブランが、幕府とフランスを結びつけることに成功したのは、ラシャメン「お政」の協力のおかげであり、横須賀製鉄所の技師ヴェルニーには、純愛で結ばれた「お浅」がいて、2人は仲良し夫婦のようであったと云う。このように世間の冷たい眼差しも国籍もそして生活文化の違いも乗り越えて尽くす素直で健気な日本女性たちがいたのである。

4、旧横浜生糸検査所 (横浜第二合同庁舎)
 横浜は幕末の一寒村から日本を代表する近代都市として急速に発展してきたが、その礎となったのは一貫して貿易によるものであった。開港すると貿易が始まり、大量の生糸が外国商館を通して輸出されだした。茶や海産物など、その後、蚕種(蚕の卵)の輸出も行われたが、主体は生糸であった。
文久2年(1862)には生糸が全輸出額の約86%を占め、その後も80%台の年が続くなど輸出品第一位の王座を長く守り続けた。しかし、避けて通れない日本の粗悪品生糸の課題を解決するため生糸検査制度が確立され、横浜と神戸に生糸検査所が設けられた。横浜生糸検査所が発足したのは明治29年(1896)4月のことである。フランスから製糸技術や生糸検査の方法を学び検査機械を買い入れて検査を始めたが、業務開始当初は利用者が少なかった。昭和2年(1929)からは輸出生糸検査法が施行され、輸出生糸はすべて強制的に正量検査を行うようになったので、相互に信頼できる貿易が行われるようになった。
5、 横浜指路教会
 横浜指路教会は、宣教師であり医師のヘボン博士を中心に設立された教会である。ヘボン博士は、明治維新より以前の安政6年(1859)にアメリカからクララ夫人を伴って来日した。当時はキリスト教が禁じられていた時代であった。ヘボン博士はまず日本語を学び、日本初の和英辞書を編纂し、英語塾をはじめた。「ヘボン式ローマ字」は、ヘボン博士の和英辞書に使われた日本語のアルファベット表記をもとに作られている。生麦事件で負傷したイギリス人を本覚寺に出向いて治療をしたのもヘボン博士である。「ヘボン」という名前は、本来は英語名「ヘップバーン」であって、当時の日本人の耳には、ヘップバーンがヘボンと聞こえたらしい。そこから博士は自己紹介でも「ヘボン」と名乗り、時には「平文」という漢字をあてて署名することもあった。ヘボン博士の英語塾では、後に総理大臣となる高橋是清や西園寺内閣の外務大臣となる林薫(初代陸軍軍医総監・松本良順の実弟)などそうそうたるメンバーが学んだ。この英語塾はやがて、明治学院やフェリス女学院となっていく。明治に入ってヘボン英語塾の青年たちを中心に教会設立の声が高まり、明治7年(1874)に横浜指路教会の前身となる教会が設立された。当初は何度か場所を変えたが、明治25年(1892)、現在の場所にヘボン博士の尽力で赤レンガの教会堂が建てられ、この時に横浜指路教会と名前も改められた。「指路」は、ヘボン博士がアメリカで属していた教会の愛称「Shiloh Church」の「Shiloh=シロ」に漢字をあてたものである。シロとは、旧約聖書にある「平和を招く者=メシア」と、「古い時代の聖なる町」という両方に用いられている言葉である。宣教師として33年もの間、敬愛されてきた、温厚なヘボン博士は横浜指路教会が完成した後、惜しまれつつ日本を去った。その後、大正12年(1923)の関東大震災により赤レンガの教会堂は倒壊してしまう。そこで3年後の大正15年(1926)年に再建されたのが現在の建物である。震災を教訓に当時最先端の鉄筋コンクリート造を採用しながら、デザインはゴシック風の教会らしい建物になっている。大きなバラ窓と、その上部を囲む尖頭アーチに、建物の角がそのまま持ち上がるようにそびえる鐘楼という厳粛な姿を今日も留めている。


6、 料亭 富貴楼跡 (現・中小企業センター)
尾上町5丁目、現在、中小企業センターが建っているところが、明治初期、有名を馳せた料亭 富貴楼
のあった所である。富貴楼の主はお倉(本名は斎藤たけ)」といい花柳界の女傑という異名があった女である。江戸で生まれ、6歳の時に家族が離散し、20歳のとき新宿で遊女となった。働いても放蕩者の夫が散財し、借金を返す日々で、芸者となって働いた。明治4年(1871)、宴席で横浜の生糸相場で財産を築いた田中平八の知遇を得たことが、お倉の人生を大きく好転させた。田中平八から資金を得て、関内・尾上町に料亭(待合)の「富貴楼」を開いた。富貴楼には富豪 田中平八が招く大久保利通・伊藤博文・井上馨・大隈重信・大山巌・西郷従道・山県有朋・陸奥宗光らの元勲そして、東京・横浜間の鉄道・国道工事に尽力して“横浜の父”と呼ばれた高島嘉右衛門などが出入りして、当時の新たな政治の舞台となっていった。現在に繋がる日本独特の料亭政治の形態を作ったのは富貴楼とも云われている。大久保利通の次男で、吉田茂の義父、牧野伸顕は「お倉は、もし男として生まれたら、大臣・参議にもなれた女傑であった。人を懐柔する力は実に大したもので、それは決して美貌や色恋で引付けるものではない。頑固だった父・大久保利通もお倉には参っていたよ」と云う。また、伊藤博文が、国会開設にあたり、喧嘩別れしていた大隈重信の助力を得たいと思っていたとき、両者の仲を取り持って、和解させる場を作ったのがお倉であったという。
お倉は、明治43年(1910)9月死去し、東福寺に永眠している。

 
7、 鉄の橋 (現・吉田橋)
幕末期、外国人居留地と現在の伊勢佐木町街とを結ぶために作られた架橋で、当初は木橋であったが明治2年(1869)、英国人土木技師 リチャード・H・ブラントンにより、橋長24m、幅員 6mの日本最初のトラスト橋が完成した。橋は「鉄の橋」と呼ばれ、市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵が描かれるなど大変人気を集めました。その他、ブラントンは、横浜居留地の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し、街路の整備も行っている。そして横浜公園の設計も行い、東京・築地~横浜間に日本初の電信架設を完成させ、灯台建設、日本最初の鉄道建設、そして大阪港や新潟港の築港計画に関しても意見書を提出するなど近代日本の黎明期に多大な貢献を果たしている。橋の下の高速道路の走っているところは、そのまた下には地下鉄が走っているが、昭和30年代前半までは、掘割になって、船が浮かび、ボート競技なども行われていた。

 
8、 東福寺 (赤門)
光明山遍照院東福寺は後嵯峨天皇の勅願で元心法師が寛元年間(1243~7)に開山し、太田道灌が中興したと伝えられる高野山真言宗の仏教寺院である。天正19(1591)年には徳川家康公より寺領3石の御朱印を拝領し、その折、葵の御紋の使用を許されたという名刹で、江戸時代は22の末寺を有していた。町名にもなっている朱塗りの山門、赤門でも知られている。往時の山門は二階の豪壮なものだったが、創建以来戦災を含めて七度焼尽され、現在のものは昭和35年に再建されたものである。ご本尊は90センチの観世音菩薩。東国八十八ヵ所霊場36番です。境内墓地には、「富貴楼お倉」」が眠っている。
9、 野毛山公園
 野毛山公園は横浜公園や掃部山公園に次ぐ歴史を持っており、元々都市防災の要地、また市民の憩いの場として国が整備したものを大正15年(1926)に横浜市が管理する事になったのがその始まりである。更に時を遡ると、現在の動物園区域は生糸商売で財を成した明治の商人、茂木惣兵衛の別荘地であり、樹林区域は同時期の豪商だった原富太郎(三溪)が、ここに別荘を所有していた。それが大正12年(1923)の関東大震災によって壊滅的打撃を受け、後年の震災復興とともに公園建設が行われたのである。そして終戦後は米軍に接収されたが、昭和24年に開催された日本貿易博覧会の会場となり、その後は、動物園と遊園地が設置され、昭和26年より市立野毛山遊園地となった。動物園の入園料は、現在に至るまで、無料となっている。公園内には展望台があり、高台という立地条件とあいまって眺望は素晴らしく、横浜の街並みを見事に一望する事ができる。今でも人々にとっての安らぎの場であり、また、子供達の楽しげな声が響く夢のある施設として、横浜市民にとって貴重な存在となっている。



10、 近代水道跡
横浜は土地柄、殆どの地区を沼や海の埋め立てによって成り立たせている為、水質は良いとは言えなかった。井戸を掘っても、飲料用になるものは少なく、人々は水売りから水を買うのが当たり前だった。しかし、横浜は市街地を中心に発展が目覚しく、人口も増加の一途であった。当然、水売りの水だけでは手が回らず、質の悪い井戸水や川の水を利用する者も多く、伝染病などが広まって行き、水道建設が必要とされた。当時の横浜の人口は7万ほどあり、神奈川県は充分な供給のできる水道作りに悩んだ。そこで、明治16年(1883)に広東の水道計画を成功させたイギリス人ヘンリー・スペンサー・パーマー元工兵少佐を雇い水道工事を委任した。 パーマーは、試行錯誤の末、水源を現在の津久井郡三沢村三井を流れる相模川支流の道志川に決定して、野毛山貯水池に至る44kmに及ぶ水道工事を断行し、明治20年(1887)9月、洋式水道を完成させた。現在は、山梨県道志村からの清涼な水が野毛山貯水池から市街へと配水され、横浜は水の悩みから解放され、横浜市民の喉を潤した。全てヘンリー・スペンサー・パーマー工兵少将無くしてはあり得なかった事である。これが近代水道の始まりである。




 
11、 伊勢山皇大神宮
 伊勢山皇大神宮は、明治維新後、神仏分離、国家神道の時代を迎え、横浜がわが国の貿易の要として開港されるに及び、人々の心を一つにして、国家の鎮護を祈ることを目的として、明治3年に、時の神奈川県知事 井関盛艮の発案により創建された。伊勢神宮と同じ、天照大御神を祭神とすることから「皇大神宮」「関東のお伊勢さま」とも称され、横浜の総鎮守として知られている。境内は4,500余坪、御社殿は神明檜造り。境内には、大山厳元帥や乃木希典陸軍大将が題字した日清・日露戦争戦没者慰霊の「彰忠碑」「表忠碑」そして「以徳報恩」をもって戦後処理の日本に対して天皇制を擁護するなど、寛大な処置をしてくれた中華民国 蒋介石総統の顕彰碑がある。
●井関盛艮(もりとめ)
宇和島藩主伊達宗城に仕え、大目付や寺社奉行を務めた後、新政府入りして、神奈川県知事、愛知県知事を歴任後、実業界入りして、東京―八王子間の鉄道敷設に貢献した。



12、 神奈川奉行所跡 (現・県立青少年センター)
 奉行所とは、現在で言うところの警察と役所を合体させたような機能を持った機関である。運上所が主に外交関係や税関業務を行っていたのに対し、奉行所は、開港間もない横浜で専ら行政事務や外国人遊歩区域内の風俗取締、裁判や農民・町人の出願事項の受付・処理などを行っていた。設立されたのは安政5年(1859)6月2日で、開港直後の事である。その所在地から「戸部役所」と呼称され、運上所と共に行政を司っていた。神奈川奉行は外国奉行とも呼ばれ、奉行所と運上所を馬で行き来していた。急坂を登ったり降りたりと、通うのに不便な事この上ないが、場所を戸部にした事には理由があった。一つは開港場の中央から離れた場所に設置する事で、外国人に内政を秘密にできたからである。二つには万が一、外国側との変事が起きた場合には横浜の町を眼下にできる好位置から、城砦へとその機能を変える事が容易だったからである。これにより、野毛を含む戸部地区には行政関連の施設が出現した。そのため、住民は移転する事を余儀なくされ、生業を失う者も多くあった。これに対する補償金もあったが3年待たないと支払われなかったと云われている。

13、 掃部山公園
掃部山は、江戸時代には「不動山」、明治時代に入ってからは「鉄道山」と呼ばれていた。これは日本に初めての鉄道が新橋~横浜間に敷設されたときに、この地が事業拠点となったからである。明治15年(1882)頃に旧彦根藩の藩士の孫で、横浜正金銀行の頭取であった相馬永胤が、旧士族らに呼びかけ、寄付金を募り、故井伊掃部頭直弼の記念碑建設のため、この「鉄道山と呼ばれていた丘を買収し、井伊家の所有としたのである。それに伴い、井伊直弼の官職名に因んで掃部山と呼ぶようになった。
井伊掃部頭直弼像は明治42年(1909)に横浜開港50周年を記念して建てられ、その除幕式は式典の10日後に行われた。しかし、その後、 第二次大戦中の金属回収令で取り払われてしまった。現在の銅像は昭和29年(1954)に開国100周年を記念して横浜市が再建した2代目である。銅像の制作者は鋳金師 慶寺丹長父子。慶寺丹長は薪を背負いながら読書する二宮金次郎の銅像を描いたことで知られている人物で、直弼を衣冠束帯姿で、朝廷から授かった位の高さを示し威厳を表して制作している。顔は直弼の四男で画家であった井伊直安が描いた直弼の肖像画から登用している。直安は幼少期、直弼に可愛がられていたので、優しい父の面影を追憶し描いたと云う。この像は台座を含めると11メートルある。この台座の作者は、「日本橋」、「横浜赤レンガ倉庫」、「横浜正金銀行本店(現、神奈川歴史博物館)」を設計した妻木頼黄である。妻木頼黄は東京駅を設計した辰野金吾、赤坂迎賓館を設計した片山東熊と並ぶ明治三大建築家の一人と謳われた人物で、発起人の相馬永胤が台座の設計をアメリカ留学時代からの友人であった妻木頼黄に依頼している。相馬永胤は、銀行頭取を退任したのち、教育に力を注ぎ、専修大学を創立している。相馬永胤の祖父隼人は彦根藩の公用人だった人物で、彦根藩の代表として、桜田門外で切り取られた井伊直弼の首を取り戻し、首と胴体を縫い付けさせて主君井伊直弼を豪徳寺に埋葬している。永胤は祖父隼人の意志を継いで、井伊直弼の無念を晴らすことを誓い、上野公園や日比谷公園に銅像建設を計画するが、政府の許可が下りず、立ち消えになりそうになったが、明治42年開国50周年の機会を得て、井伊直弼像建立が実現となったのである。大正3年(1914)、井伊家はこの地を市民の憩いの場として提供することとし、横浜市に寄贈した。横浜市は整備の後、同年11月に「掃部山公園」として開園した。この掃部山公園には、約200本の桜が植えられ桜の季節だけは花見客で大賑わいとなる。また、井伊直弼が茶道に通じていたことから、昭和40年(1965)より毎年8月には野点も開催している。園内には「横浜能楽堂」があり、毎年9月には「薪能」も開かれる。



14、第二代目横浜駅跡
 明治5年(1872)新橋~横浜間が開通され、現在の桜木町駅の場所に、初代横浜駅が作られた。その後東海道線を横浜~国府津(小田原市)に延伸する際に、駅の構造的な問題から、横浜駅に入った列車を一端、スイッチバックさせて、本線に戻り、保土ヶ谷方面に走らせなければならなかった。その不便を解消するため短絡直通線を開設し、そこに平沼駅を作るなどの試行錯誤を重ねたが、結果的にさらに不便になってしまい、東海道線が横浜駅を通過するような状況になってしまった。そこで新たに作られたのがこの二代目横浜駅である。しかし、残念ながら完成8年後の1923年に起きた関東大震災で二代目横浜駅は焼失し、閉鎖された。そして同所に再建するのではなく、直線的に大船方面に走らせるために、1928年、今日ある横浜駅の場所に3代目が作られた。現在の横浜駅は1980年に改築され、第4代目である。