同期会

第6回 震生湖

2012年05月10日(木) | コメント(0)
 【第6回 五期生 震生湖ハイキング】
 遅れていた桜が満開の渋沢丘陵・震生湖を4月10日にハイキングした。女性6名、男性4名で、秦野駅を出発。
 のんびり、ゆったりとした歩みで、今泉名水桜公園の池を巡り、桜を見て回る。
 その後、関東三稲荷の白笹稲荷をお参りして、関東大震災で出来た震生湖に行く。地震で谷が堰き止められた震生湖は細長く神秘的だ。畔の桜の下でお昼。皆で、持ち寄った物を交換しながら、美味しく頂く。
 食後、渋沢丘陵の畑の間を、また、ゆったりした里山を、小さな草花を見ながら、そして、春を感じながら、のどかな景色を楽しみ散策した。そして、渋沢駅にゴールイン。二つ先の駅で温泉に入り、中華料理で打ち上げをした。(佐々木記)

第11回 浅草・墨東

2012年05月07日(月) | コメント(0)
   第11回お江戸散策は、当初3月末日に行う予定でしたが、下谷神社
 ○ 浮世絵画家の巨匠葛飾北斎が眠っている寺として有名な誓教寺。
 ○ 大日本沿海輿地全図を作った伊能忠敬、幕府天文方で忠敬の師として、その大事業を支援した高橋至時景保父子、江戸の侠客 幡随院長兵衛、江戸後期の名画家 谷文晁 等の墓所のある源空寺。
 ○ 玉川上水を完成させた玉川兄弟の眠る聖徳寺。
 ○ かっぱ寺と呼ばれる曹源寺。
 ○ 江戸時代から民衆信仰の中心寺院 金龍山浅草寺
 ○ 墨堤にかかる、言問橋桜橋吾妻橋
 ○ 武島羽衣、滝廉太郎による名曲「花」の碑
 ○ 江戸の遊興地吉原に近く風光明媚で知られ、池波正太郎がふるさと語る待乳山本龍院(聖天)。
 ○ 招き猫と縁結びで有名な今戸神社
 ○ 中村勘三郎の悲願なった平成中村座
 ○ 墨堤桜の記念碑
 〇 団子で有名な長命寺
 ○ 明国風建築の黄檗宗寺院 弘福寺
 ○ 三井越後屋の守護神 三囲神社
 ○ 本所向島の総鎮守 牛島神社
 ○ 江戸期水戸藩下屋敷だった隅田公園
 ○ 現在、墨田区役所やアサヒビールの本社がある江戸時代佐竹藩の名園だった浩養園跡
 ○ 日本のシンボルの一つになる東京スカイツリー
   以上ように、今回も歴史上著名な人の業績を学び、春爛漫、満開の桜を満喫できた散策でした。
        (報告:石井義文)
 
  これより懇親会

 
開催日 2012年3月10日(土)
開催場所 横浜の銀行倶楽部

63歳!-16年ぶりのクラス会実施(参加者率50%)-

24年3月10日(土)に16年ぶりのクラス会を実施しました。実に高校を卒業してから45年の歳月が流れています。私達のクラスは9期3年6組でした。会場は横浜の銀行倶楽部で午前11:30クラス会を開始しました。参加者数は23名で参加者率50%の数字です。乾杯の挨拶は当時音楽担当だった田山一彦先生にお願いしました。何でも先生は70歳を超えたとのこと、しかし当時の若さを保っており、風貌では生徒と先生が逆転している感がありました。
タイムスケジュールにそって会は和やかな雰囲気のうち進行し、中間で全員の近況スピーチ、13:30全員の記念撮影、13:40校歌合唱に入りました。ここで再度、田山先生に登場していただき校歌合唱指導をしてもらいました。
・・・「♪緑の丘の つらなる空に 雲白く うかびかゞやく・・・♪」、一気に18歳の青春時代に逆戻りした感がありました。
そして最後に「今日の日はさようなら」、「星影さやかに」を全員で合唱して1次会を
終了しました。今後は、2年に1回(隔年)3月開催することに決定し、古き良き高校時代を懐かしむこととしました。

(9期 藤田 広一)
8期生第三回同期会
2012年3月4日(日)
横浜市都筑区のオンワード総合研究所付属レストランにて

 当日、外は今にも降りだしそうな空模様でしたが、会場は12年ぶりの会、93名もの出席者で、始まる前から湧き立っていました。午後3時、来賓に柴荘造先生をお迎えし、内海敬三会長の開会挨拶。
柴先生は「今年後期高齢者の仲間入り」だそうですがとても身のこなしが軽やか。多摩高に赴任なさる時、宿河原を向河原と間違え、その駅で尋ねたら「その様な学校は有りません」と言われ、とても困ったなどと皆を笑わせました。
その頃の先生は24、25歳? 多摩校生の頃、耳には「ビートルズ」、そして印象深い出来事は高2の秋の「東京オリンピック」。私共も卒業してから46年、その多くが今年65歳になります。
 
 同窓会の方々の挨拶に続き、参加者全員の近況報告「職を辞して後今はこれを・・・と、」楽しき日々を過ごしているお話の数々、そして合間のクラス別写真撮影、飲み食べ語り合いあっという間の2時間半。最後に校歌を歌い集合写真を撮って1次会は終了
お帰りになる柴先生を、皆でお見送りし、階を変えて全員参加の2次会へ。

 意気投合した同士適当に分かれ、話は弾み午後7時散会。「2次会の時間をもっと欲しかった」の大多数の声
久しぶりの集まりに、別れを惜しみつつ外へ出てみれば春未だ浅いこの夜、降りだした雨で寒さが増したはずなのにそれすら感じさせない楽しい1日になりました

第3回 スキー愛好会

2012年03月01日(木) | コメント(0)
 五期スキーの会 
 三年目の今年は、二月に一泊二日のスキーになった。初日は湯沢パークスキー場、翌日は神立高原スキー場で、天気に恵まれて快適なスキーだった。神戸から参加した朝井さんを中心に、男性三人と、二日目に合流した本橋夫妻(現菱山さん)を加えて、賑やかに、楽しく滑る。朝井さん、本橋さんは軽やかな滑りで、余裕が感じられた。レトロな宝物のある宿も良し、露天温泉も良し、個室での食事も良し、越後のお酒も良しで、大満足であった。
 いつまでも滑っていたい柳瀬さん、直ぐにまた来たいと言っていた金作さん、それぞれの思いを抱きながら帰途に着く。(佐々木記)

  宿屋にて 

第10回 日本橋・人形町

2012年02月27日(月) | コメント(0)
  今回のお江戸散策は、第10回の節目を迎え、江戸の中心で、「朝昼晩三千両のおちどころ」と川柳に詠われた日本橋・人形町界隈を選びました。江戸時代、そして明治期に入ってからも日本の経済の中心であったこの界隈の散策はわれわれに新たな知識を与えてくれました。東京駅八重洲北口を出ると、前に幅広の道路が走っています。外堀通りです。名前のとおり此処は江戸城外堀があって北は日本橋川へ、南は銀座数寄屋橋まで壕になっていたところです。この辺りの名前「八重洲」は、三浦按針とともに豊後臼杵に漂着し、航海技術を備えた技量が徳川家康に認められたヤンヨースティンが、この辺りに屋敷を与えられて住まいしたことから呼ばれるようになったと言う。またこの辺りは江戸初期における火消し番所や秤の両目統一を図る器機製造や検査・販売などを行う江戸秤座もありました。ここから100m北に上がったところには、京都から出店した近江商人の高島屋があり、日本橋の象徴的な伊勢商人の三井越後屋(三越)と共に日本橋の大棚として数百年繁栄を維持してきている。他にも江戸期から今日続いている歴史を誇る店としては蚊帳の販売で成功した「西川産業」、ヒット商品梅干飴で繁盛した「榮太樓總本鋪」、玉露と江戸海苔の「山本山」、鰹節の「にんべん」、刃物の「木屋」などの名店がひしめいている。これらの店の隆盛ぶりは、地下鉄「三越前駅」の地下通路にある熈代勝覧絵巻からも、当時の様子を偲ぶことができる。徳川家康によって五街道の基点とされた日本橋は、その橋上からは、天下の江戸城、天下の富士山を望むことが出来るように作られ、両岸には魚河岸店が立ち並んでいて、その賑わいを知るとともに江戸幕府の威信と権威を表わしていることを絵巻が描いていました。日本橋の上流には、一石橋常盤橋が続いて掛かかっていて、その威容を感じ取ることが出来ます。この常盤橋は関東大震災で破損しましたが、渋沢財団の支援で再建されました。橋の向かいには、日本銀行本店があり、この日銀旧館を見学することができました。日銀の機能、役割などを学習すると共に、内部の大金庫や台車に積み上げられた紙幣の塊は圧巻でした。日本橋からは江戸橋の袂にある郵便発祥の地海運橋の袂にあった日本最初の銀行などの足跡を辿り、途中、東京証券取引所を見学してから証券界の守護神、兜神社と、日本橋七福神のなかで、運気が強と評判の小網神社で株価上昇を祈念するお参りをしました。(笑)この辺りは姫路藩酒井家の下屋敷があり、明治初期には西郷隆盛が住んでいましたが、現在、日本橋小学校になっていました。また、文豪谷崎潤一郎も,この近所で生まれ育ち、界隈の風情を随筆「ふるさと」で語っています。人形町界隈の見学場所には玄冶店跡蛎殻銀座跡元吉原跡などがあるが、今は中央区の歴史ガイド板で往時を偲ぶのみです。七福神で隆盛を誇っているのが明治期に赤羽橋の有馬藩邸内から移転してきた水天宮ですが、参道入口にあるブリジストン創業者石橋正二郎が寄進した狛犬像は風格を備えていて見事でした。
歩みを北に向けて、掘留町には、江戸三森の一つで富くじ興行で名の知られた椙森神社を参拝した後、伝馬町牢屋敷があった十思公園へ向いました。牢屋敷は大安楽寺や十思小学校を含む地域に及ぶ2700坪の広さであったそうです。明治維新の精神的指導者吉田松陰はここで斬刑に処され、その辞世歌が公園内の碑に刻まれています。また、この公園には、石町にあった時の鐘が残されています。次の散策地は長崎屋跡で、説明板のみですが、江戸期蘭学を志していた杉田玄白、前野良沢、平賀源内、中川淳庵らが長崎から江戸参府に来たシーボルトやオランダ商館員たちから先進的な外国の知識を得ようと真剣なまなざしで学んだ様子が思い描けました。ここで今回の散策を終了し、神田駅近くの居酒屋で、本日の反省懇親会を賑やかに行いました。(報告:石井義文)
  これより懇親会


 

第1回 横須賀散歩

2012年01月08日(日) | コメント(0)
    平成23年12月吉日、天候曇りのち晴れ 気温やや肌寒し。8名の参加者とよこすか散歩を行いました。
    横須賀という町のイメージを、市の広報を読むと以下のような事が書かれていました。
  ○JR駅前の公園から港の日米艦隊、イージス艦の見える町、
  ○ヤマトタケルが東征時に上総国へ渡航した町、
  ○南房総へ35分(フェリー)で行ける町、
  ○ペリー来航、開国と歴史の町、
  ○小栗上野介が横須賀造船所を建設した町、
  ○日本最初の洋式灯台観音崎灯台のある町、
  ○ロシア艦隊を破った戦艦三笠に乗艦・見学できる町、
  ○日本でいちばんトンネルの多い町 120ケ所、
  ○晴れた空にいつでもトンビが帆翔している町、
  ○郊外では今でも野菜の無人販売スタンドがある町、
  ○日本で唯一のIT自治体に選ばれた町、
  ○ヨットとウィンドサーフィンが冬でもできる町、
  ○日本海軍直伝「よこすか海軍カレー」の町、
  ○観音崎・猿島・海堡など東京湾要塞があった町、
  ○源実朝が三浦一族とともに花見に興じた町。
    この様に歴史と文化に満ち溢れた横須賀のほんの一部をたずねて散歩しました。
 突然の訪問でしたが、気さくに三浦按針のお話をしていただきました。田口さんは、アダムスの出身地、英国、メドウェイ市にも、度々訪問して、現地の市長さんたちと交流を深めております。  明治22年、横須賀海軍基地の増強に伴って建設され「階段がない駅」として知られている。駅舎は、完成当時と変わらずレトロファンに親しまれています
 フランスの造船技師レオン・ヴェルニーは、1865年に来日してから12年間、横須賀造船所建設に献身的に取り組み、日本の近代化産業発展の基を築きました。彼の功績を顕彰した記念館には、造船所建設だけでなく、走水水道施設や観音崎灯台建設にも貢献した業績が、当時に使用されていたスチームハンマー等と共に紹介されている。  横須賀の人気スポット、「ドブイタ」通り。昼前の時間なので、酒場のほとんどは閉まっているが、英語名の店が立ち並び、夜の賑わいの様子が偲ばれる。「スカジャン」で知られる店に入って店主に、本物と贋作との違いなどを教えていただくとともに、「円高で米海軍の人たちは買い物してくれない」とリアルな景気状況を教えていただいた。
 三笠公園内に置かれている戦艦三笠には、人気ドラマ「坂の上の雲」おかげで、全国から多くの観光者が訪れています。大日本帝国海軍連合艦隊の旗艦で、全長130m、総排気量15,000トン、30センチ砲、前後2門づつ4門、15センチ砲左右7門づつ、14門を備えた、英国ヴィッカース社製の最新鋭艦でした。  偶然、お目にかかれたガイドの古宇田さんは、この記念艦を説明させたらナンバー1と言われる深い知識を持たれている方で、「東郷元帥は身長153cmであった」「丁字戦法の発案者は秋山真之ではなかった」「日露戦争を勝利に導いたのは山本権兵衛首相だった」等ドラマからは、知りえないエピソードを解説してくれました。
 永嶋家は苗字帯刀を許されたこの地域の名主で、その屋敷の長屋門は朱色に塗られていたことから、通称赤門といわれていました。間口8間、奥行き2間ケヤキづくりの堂々たる門で、江戸時代に造られたものです。
 坂本龍馬妻おりょうさんは、龍馬が死んだあと、各地を転居していますが、人生後半の33年間をここ横須賀で暮らしていました。

 横須賀中央公園一帯は、明治24年ころ米ケ浜砲台山と言われていたところで東京湾の防備のため、28サンチ榴弾砲が据付けられていました。日露戦争の旅順攻撃に手こずっていた陸軍は、ここの大砲6門を旅順に送り、二〇三高地攻略に使用し、旅順要塞を陥落させました。この地に、据えられた榴弾砲は1発も砲弾が発せられることなく、終戦後、撤去されました。
 この公園には、文化会館、博物館があり、横須賀の造船所建設に貢献した、小栗上野介、栗本鋤雲の胸像が立っています。
実施日 平成23年11月26日(土) 午後5時から
会場 ホテルK.S.P(川崎市高津区)
出席   【来賓】 三浦先生、櫻井先生、古谷先生、 田辺同窓会副会長、小林同副会長、【同期生】 56名
 小春日和の中、第7回4期同期会が、同期生56名、来賓の三浦先生、櫻井先生、古谷先生並びに同窓会から田辺・小林両副会長をお招きして盛大に開催されました。
 6月に開催する予定でしたが、東日本大震災が発生したことから、秋に変更し延び延びになっていました。この間、同期会開催担当であった幹事長の三橋さんが急逝され、4期の同期会が最も楽しみだと広言されていた沼野先生もお亡くなりになりました。当初の予定どおり開催していればご両者とも出席できたはずで、さぞかし無念であったろうと思います。
 今回の同期会は7組が担当です。7組を担任していた三浦先生の乾杯音頭で宴会に突入。活力溢れる櫻井先生からは長い間おつきあいをしている持病の経過報告、古谷先生からは、多摩高勤務のあと母校に戻り、その後東海大学に移りリタイアするまで教鞭をとっていたとご挨拶をいただきました。
 懸案であった校舎新築については、「平成24年から工事開始、ビルド&スクラップを繰り返し、平成30年に終了する。グランド及び解体跡地の双方多摩川寄りに新校舎を建設、グランドは正門側に移動する。」と、同窓会副会長の田辺さんから報告がありました。最低でもあと7年は長生きしなければならなくなりました。頑張りましょう。
 会場のあちこちに談笑の輪ができ、和やかな歓談がなされる中、吉原カメラマン(2組)による全員集合、組別の記念撮影がありました。宴たけなわに本宮寛子さん(後藤・3組)の指揮で声高らかに校歌合唱、最遠距離参加者木村宗光さん(7組)の5本締めで散会しました。ちなみに2次会の参加者は46名(歩留まり82%)でした。
 今回も、多くの方々のご協力で無事開催に漕ぎ着くことが出来ました。感謝感激です。次期当番は1組です。ご協力をお願いします。  (7組幹事、森繁昭・吉浜彰啓:記)
1組
2組

4組
5組
6組

第5回 箱根路

2011年12月25日(日) | コメント(0)
  平成23年11月25日(金)9時50分
 抜けるような青空の広がる秋晴の日、ハイキング好きの5期生14名が小田原駅に集いました。皆、元気溌剌で、快晴の箱根路を歩く楽しみに胸を膨らませている感じです。駅前から箱根登山バスに乗り、いざ箱根へと向かいました。バスは、箱根駅伝でおなじみの国道1号線を上って行き、箱根湯本、塔ノ沢、宮ノ下、小涌谷へと、ぐんぐん登っていきました。そして二子山に差し掛かる所の湯坂路バス停で下車しました。いよいよ、本日のハイキングの始まりです。湯坂路(鎌倉古道)の標識があり、そこを入って行くと大きなコース案内板に出ました。ここでリーダーから、本日歩くハイキングコースの説明と準備体操を受けました。ここから振り返ると、二子山、駒ケ岳が青空を背にして、輝いています。美しい!! しかし、芦ノ湖、富士山が見えない。「そうだったのだ。今日のハイキングは、富士山にお目にかかれないのだ」と気付いた次第である。それでも晩秋の、しかも晴天下の箱根古道は、すすきや赤、黄に染まった草花が左右に迎えてくれて、実に気分を癒してくれます。加えて、ハーモニカで奏でる「箱根八里」や「紅葉」に合わせて歌いながらの歩行は、さらに歩きを軽快にしてくれました。ゆるやかな下りを1時間ほど歩くと鷹巣城跡に着きました。ガイド板には、「豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築かれた山城」と書かれていました。ここから、浅間山に向けてゆるい下りを歩いて行くと、日当たりの良い場所に出ました。昼時ということもあり、すでに多くのハイカー達が、この良い場所で、食事していていました。そこで、よい頃あいと見て、われわれもこの一角に陣を取って昼食としました。色付く山々の景色を眺めながらの、お弁当はまた格別な味でした。腹ごしらえした後は、元気十分、気合を入れて歩きを開始!古道は、比較的広く、敷石が畳のように整備されていて、古人たちが汗水流しながら造られたことが偲ばれました。沿道は紅葉した草木が笑顔で迎えてくれる爽快なプロムナードだ。しばらくして鞍部のところに差し掛かったら、湯坂城址の説明板がある。これも先の鷹巣城と同じ目的で造られたらしいが、城の面影は見当たらない。ここからは比較的段差のある階段状の下りが長く続いている。長い下りは、結構、脚に堪える。疲れを感じる頃になったら、山道は終りとなり国道1号線に辿り着きました。此処からは、老舗旅館萬翠楼の脇を抜けて、臨済宗の名刹早雲寺に向かいました。早雲寺は、北条氏滅亡の際、焼かれたのですが、徳川の時代になって一門の末裔が再建したもので、後北条五代城主の墓が静かな境内の奥にひっそりと佇んでいました。このあと、箱根湯本にある「姫しゃら湯」で一風呂浴びて、汗を落とし、小田原にでて、「銀座ライオン」のうまいビールと肴を囲んで、本日の反省会を賑やかに行いました。(石井義文)
 【懇親会】  小田原駅前 ”銀座ライオン”
開催日 11月23日(水) 祝日 13:00~15:30
開催場所 川崎日航ホテル11階 「藤の間」
出席者 先生2人(櫻井先生 古谷先生) 同窓会2人(清水副会長 中島多恵さん)
生徒 男性21人 女性21人 計42人 合計46人
  今年2011年は3月に未曾有の大震災があり、その後、被害にあった人もそうでない人も何か落ち着かない日々をすごすような状況を踏まえて、私たちも毎年7月に行っていた同期会を取りあえず延期いたしました。2期生は今年70歳の人生の節目の年を迎え、昨年の同期会で来年はちょっと盛大にやりたいという話がありましたので今年中には開催せねばとの思いで、幹事4人と会場の都合とを調整してようやく11月23日開催まで漕ぎつけました。

櫻井先生が傘寿ということは承知していましたが、古谷先生が、ご挨拶の中で私は今年喜寿とおっしゃたのにはびっくり、今年の2期会は傘寿、喜寿、古希と全員が目出度い年まわりを祝う会になりました。
 いつもの通り、那須さんの司会で、今年も亡くなられた方への黙祷から始まりました。1昨年まで出席されていた沼野先生と生徒の恵光代さん、岩崎聿嗣さんです。皆でご冥福をお祈りしました。
 櫻井先生は今は抗がん剤治療はお休みしていらっしゃるそうで髪の毛はふさふさです。
私どもの古希をご自分の傘寿と一緒に祝いたくてこの会にきましたと、そして出来れば死ぬまでこの会に出席したいと、まことに有難いお言葉を頂き、私どもは喜寿傘寿まで頑張るようにとはっぱをかけられました。 
 古谷先生は喜寿とは思えない相変わらずのお元気さで、1期から5期まですべての同窓会に出席され、多摩高を母校のように思っているとおっしゃってくださいました。先生方ってほんとに有難いですね。それから古谷先生には、年をとってきたらせめて見かけだけでも若く見えるように、芸人の綾小路きみまろさんの中高年の格好の反対をする、すなわち背筋はまっすぐに脚は曲げず、正しい姿勢で歩くことを心がけるようにと教えていただきました。
 同窓会からは校舎の建て替えが決まったこと、多摩高史編纂委員会から古いことを知っているであろう2期の方に協力をしてほしいとのお話があり、当委員会には名川厚子さんが参加することになりました。ご欠席の諏訪先生からはご丁重なお手紙と退職教員の会の機関誌に投稿された「健康談議」のコピーをいただきました。80歳で今も現役だそうです。沼野先生の奥さまからも多摩の同窓会に感謝の気持ちを伝えるお手紙をいただきました。

 今年は古希ということも影響したかもしれませんが、例年より参加人数は多く、20年ぶりとか5年ぶりとか久々のかたがいらっしゃって近況など伺いました。オーストリアにお住まいの方からも是非来年は出席したいとのご返事をいただきました。 また脇さんの素晴らしい乾山写しの陶器(3点うち2点は5客揃い)の展示や、伊藤さんの日舞「黒田節」、那須さんの「相撲甚句」など目出度い会を盛り上げてくれました。
 最後に報告ですが、今年で幹事の根本、福田はやめさせていただき、来年からは田村綾子さん、花塚幸子さんが担当され男子の伊藤、那須は留任いたします。
 新しい幹事さんのもと、来年も2期のみなさん是非ご出席ください。    福田悦子