同期会

4月18日(月)多摩高5期生 春のハイキング
伊勢原駅に11:00集合。天候は晴れで、気温も上々である。古希とは思えぬ元気爺婆の16名(女子7名)が参加した。揚々の気分でスタートして、しばらく行くと、道の傍らの梨畑には白い花が咲いていて、われわれを和ませてくれた。10分ほどで長野善光寺の末寺、三福寺に着く。境内には薄紅の花びらを輝かせている八重桜が咲き残っていて春のなごりを留めている。のどかである。つづいて京都八坂神社の末社に着く。神社でありながら大きな鐘楼があるのは、明治初期の神仏分離令を免れたことに因るものか?銅鐘も大きく、県重要美術品に認定されているという。何より注目は、樹齢600年という天王松の巨大な根で、後世に伝えるべく境内の一角に、「これ見よ」とばかり大事そうに展示されていた。神社を出てから、桜台の緑道と呼ばれる歩道に入った。色とりどりの草花が左右に咲く道を進み、振り返れば大山の威容が望める田園的風景は気分を爽快にしてくれる。途中、道を行き過ぎてしまい、引き返すハプニングもあったが、ようやく岡崎城址に建つ無量寺に着いた。ここで岡崎城に関わる詳細に記述された解説版を読んで歴史の学習をして、待ちに待った昼食タイムと思ったが、適当な食事を取れる場所が見当たらない。致し方なく次の散策地、城主だった岡崎義実の墓まで歩みを進めながら、適当なところで空腹を満たすことになった。昼食では、闘病中で参加できなかった松本章氏が丹精込めて掘り出して、差し入れしてくれた「筍」を感謝していただいた。実に、美味しかった! 松本さん、ありがとう! 早期に回復して、もとの元気な姿に戻ることを祈る。岡崎義実墓は、周りに高い、多くの樹木が立っていて陽が刺さず薄暗い。また、墓は本丸と思われる無量寺から、かなり離れたところにあるが、ここまで城内だったのか?その検証はできないが、鎌倉時代初期の当時の姿を想像してみるのも一興である。
 次の散策地は新編風土記にも記稿されている八幡神社。住宅地の一角にあるが、この神社には開発の手が及ばなかったのか素朴な、懐かしい昔ながらの風景を見るようであった。神社の近くには石器時代の住居跡という山王塚公園があるが、覗く程度にして、次に進む。20分ほど長い下り坂の道を歩くと最後の散策地、曹洞宗自徳院に着いた。三門に鐘楼が付く中国風の造りが特徴的だ。ここで、一同のスナップを収めて、ここから10数分で伊勢原駅に着いた。ここで、解散としたが、10名余りが懇親会へ行き、本日のハイキングを振り帰りながら談笑に耽った。 (報告: 石井義文)
 
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第13回 景信山

2016年04月28日(木) | コメント(0)
 【景信山ハイキングコース概要】
JR高尾駅北口~小仏バス停~景信山 (昼食)小仏峠~美女谷温泉分岐~国道20号~小原宿~JR相模湖駅~立川駅
(報告) 多摩高五期秋のハイキングとして、11月13日㈮に景信山に登る。男性6名、女性6名で、バスの終点から歩き始める。一寸急な登りを登り切ると、直ぐに景信山頂だった。そこで、昼食パーティで、漬物の「カブ」や、デザートの柿、食後のコーヒーまで出て、その他も出て、大盛り上がりだった。その後、小仏峠からは旧甲州街道を通り、下山する。そこそこ、紅葉も楽しめた。それから、20号線沿いの、小原宿と本陣を見る。
そして、相模湖駅まで歩いて解散する。希望者で、八王子駅近くで、打ち上げをし、冷たいビールで、喉をうるおした。(佐々木)
 
陽春の候、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
さて、下記の通り40期同窓会を開催いたします。
当日は恩師の方々もお招きしておりますので、皆様お誘いあわせの上ご出席ください。
たくさんの方にお会いできることを楽しみにしております。
  • 日時:平成28年6月18日(土曜日)
    14:00~
    (13:30 受付開始)
  • 場所:カフェ・セレ
    東京都中央区築地1-13-1銀座松竹スクエア2F
    (地下鉄日比谷線東銀座駅5番出口より徒歩1分 他、銀座駅、新富町駅からも徒歩5分です)
    http://www.cafeserre.com/access/
    (tel:03‐3543‐7272)
  • 会費:6,000円(当日受付にてお願いいたします)

出欠につきましては、準備の都合上お手数ですが、5月15日までに下記メールアドレスに
(1)出欠(2)お名前(3)連絡事項(何かありましたら)をご連絡ください。
tamakou40※gmail.com (※は@にしてください)

また、メールには確認の返信をいたします。
迷惑メール設定等されている方は受信できるよう設定お願いします。

数日たっても返信がない場合、他お問い合わせがありましたら同窓会事務局までご連絡ください。

【幹事】
安野麻希子、石田聖子、勘解由(伊藤)愛子、大西将史、駿河穣、田代哲郎、畑貴之、曽根(森)千尋、堀内(山川)さやか、佐野(米田)真由良、若林絵里


写真は、H280324に撮影されたものです。
3月13日(日)第6回目の鎌倉ウォーキングを行った。コースは和田塚、和賀江島、披露山公園を経て逗子駅に至るコースで、鎌倉の歴史上由緒ある宮、大きな事件があった所、名庭園のある寺院、海の中に建てられた文学碑そして、富士を望める絶景など多くの見どころのあるコースです。鎌倉駅西口に9:30集合して、駅前広場にあるラングドン・ウォーナー博士の銅像に挨拶。アメリカ人で、日本の文化に親しみを持ち、鎌倉に住む。太平洋戦争時、鎌倉への攻撃を止めるようにルーズヴェルト大統領に進言したと云われている。真偽は不明であるが、結果として鎌倉は戦災に遭わず、街も文化財も守られたことから顕彰されている。次に今小路通りに入って、重厚な門を構える御成小学校の向かいにある問注所跡を散策する。ここは、鎌倉時代の裁判所が設けられところで、裁判の結果、無罪放免になった者が渡ったと云う裁許橋が近くに流れる佐助川に架かっている。反して、罰せられた者は、小路を海辺に向かって観音通りに面した所にあった処刑場で刑を受けたと云う。現在、そこには六体の地蔵が置かれていて六地蔵と呼ばれている。観音通りを横切って、江ノ電和田塚駅を海岸に向かって少し行った所に和田塚がある。ここは建暦3年に起こった和田合戦の戦場だった所で、和田一族の慰霊碑が建っている。この塚を掘り返したとき、多くの人骨が発見され、頭蓋骨には刀傷を受けものが多くあったと云う。また、観音通りに戻って、若宮大路と交差した所に出る。ここは下馬と呼ばれ、馬の乗り入れが許されず、馬を下りて八幡宮を礼拝した所である。また、幕末、攘夷浪士が2人のイギリス士官に斬り掛り斬殺した「鎌倉事件」があった所でもある。若宮大路を、由比ヶ浜方面に向かうと散策スポットの徳川将軍から寄進された第一石造大鳥居とその傍らに大きな宝篋印塔の
畠山重保の墓がある。しばし見学したのち、若宮大路に面した所にある名門 鎌倉女学館の脇を抜けて、材木座方面に向かった。病院前のバス停を左折して、100m程の所の左側の路地を入ると正面に、元鶴岡八幡宮がある。この神社は、「元八幡」と呼ばれ、頼朝の曽祖父頼義が石清水八幡宮から勧請して建立した神社である。また、この界隈は明治から大正にかけて何人かの小説家が住み、芥川龍之介、「丹下左膳」を書いた林不忘そして、日蓮宗妙長寺には泉鏡花が仮寓している。妙長寺から、道沿いに100m程行った所に九品寺がある。九品寺の場所は、義貞が鎌倉攻めをしたとき新田義貞が本陣を構えた所で、北条を倒したあと開山した。本堂の扁額は、義貞の筆跡と云う。材木座には、浄土宗関東大本山の名刹 光明寺がある。天皇家や徳川家に庇護され、巨大な三門や小堀遠州作と云われる記主庭園そして三尊五祖の石庭は見ごたえがある。

 
 光明寺から左に折れて、海岸に出ると満潮時には見えないが、干潮時には岸辺に無数の巨石が転がっている。ここが日本最初の築港と云われる和賀江島である。800年の歳月を経て港の形跡は偲べないが、
宋時代の中国陶器の破片などが今日も海岸で見つかると云う。これより逗子マリーナ方面に向かう。途中、鎌倉十井の一つ六角の井や三浦氏が築いた住吉城跡などを視察して、小坪漁港に出る。小坪漁港の歴史は古く、鎌倉時代より存在している本市唯一の地場産業である。正月には、1年の豊漁と海上での安全を願う「みかん投げ」行事が行われる。その祝いみかんを食べると厄除けになると言われ、多くの人が集まって来る賑やかな祭りである。小坪の魚料理店「魚佐次」で昼食を取ることにした。熱つアツのアジやカマスのフライは実に美味しかった。
 腹ごしらえをして、次の散策に向かう。漁民家集まる家々の細い路地を抜けて、丘を登って行く先に長い階段の参道があり、登った所に天照大神がある。地元の漁師たちに敬われているらしく社は清潔に保存されている。旅の安全を祈って参拝し、神社を出ると、やたらと豪壮な家々の並ぶ住宅地にでる。ここが披露山高級住宅地である。かっては、元ソニー会長 大賀典雄氏もここに居住していた。  住宅地の右寄り道路を
進むと大崎公園に行く表示板がある。大崎公園は海に突き出した岬の台地に作られ、見晴らし台からの展望は実に素晴らしい。遠く富士山、箱根、丹沢連峰、伊豆半島、大島、そして逗子海岸から葉山、秋谷など三浦半島もくっきり眺望できる。しばし、この公園でしばし休憩を取ることにした。休憩後、対岸に見える披露山公園に向かった。この公園も眺望はよく、昭和初期には政治家、文人たちが住み着き、憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄もここに住まいを構えた。戦時中は、軍用地になり本土防衛の堡塁が造られ、その痕跡が現在も残され、展望台や猿舎などに転用されている。公園から海岸まで崖のような急斜面の細い道を下って行くと海岸線を走る国道134号線の手前に、浪切不動尊を安置した高養寺がある。この寺は徳富蘆花の小説「不如帰」の舞台となり、その主人公「片岡浪子」に因んで、「浪子不動尊」と呼ばれるようになった。後年、蘆花の実兄蘇峰が不如帰と揮毫した石柱が海中に建立されている。海岸を内陸に少し入った所に、名門 開成高校の兄弟校、「逗子開成高校」がある。明治43年のボート遭難で、17名の学生が亡くなり全国的に知れ渡った学校で、校門前に「真白き富士の嶺・・」の鎮魂碑が建っている。もうすぐ逗子駅である。駅近くにある古社 亀ヶ岡八幡宮を参詣して本日の散策をお開きとした。
 本日は、鎌倉の歴史に触れる散策で、古戦場跡や寺院石庭鑑賞もできました。そして、アップダウンの登降を繰り返し、ひざ関節に堪える歩行であったが、素晴らしい眺望に癒されたり、ビバリーヒルズを彷彿させるような邸宅を鑑賞できたり、思い出残るウォーキングでした。 (石井義文)

 
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第3回 横浜散歩 旧横浜居留地・掃部山公園界隈ー解説版

1. 横浜三塔
 横浜市の歴史的建造物「キングの塔」「クイーンの塔」「ジャックの塔」は「横浜三塔」と呼ばれている。神奈川県庁本庁舎は「キングの塔」と呼ばれ、昭和初期に流行した帝冠様式の建物で、昭和3年(1928)に竣工した。神奈川県庁庁舎としては4代目の建物で、国の有形文化財に登録されている。この地は、安政6年(1859)、横浜開港に伴って神奈川奉行管理の下、神奈川運上所が設けられた所で、通関関税業務や各国領事との交渉をする外交業務、船の入出港手続き、洋銀両替、各国領事との交渉、違法行為取締りなどの業務を行っていた。 明治4年(1871)、通関事務などが大蔵省管轄となり、翌年には全国の運上所の名称が税関に変更された。 慶応2年(1866)の大火で焼失した後、横浜役所として新築され、その後、横浜税関に改められた。「クイーンの塔」は横浜税関本関庁舎の建物で、昭和9年(1934)に竣工した。イスラム寺院を想わせる緑色のドームが形づくられている。設計者は国会議事堂を設計した大蔵省営繕局の技師・吉武東里が担った。正面玄関の標札は、当時の大蔵大臣高橋是清の直筆と伝えられている。横浜税関本関庁舎1階にある資料展示室は「クイーンのひろば」と呼ばれ、開港からの横浜港・横浜税関の歴史をつづるスクロール年表や貿易の変遷、麻薬や拳銃などの密輸の手口、知的財産を侵害した偽ブランド商品やワシントン条約に該当するはく製や標本等を映像や実物展示により紹介している。「ジャックの塔」は、明治42年(1909)の横浜港開港50周年記念事業として、大正6年(1917)に完成した。関東大震災時に全焼したが、昭和2年(1927)に初期の建築を復元した状態で再建された。平成元年(1989)に高さ36mの時計塔ドーム部が再建されると同時に、国の重要文化財に指定され、現在は横浜市中区公会堂として利用されている。大阪市中之島公会堂などと並び、大正期の公会堂建築物の傑作の一つである。

キングの塔
クィーンの塔
ジャックの塔
2、 日米和親条約調印の地 (現・開港資料館)
  嘉永6(1853)年米国東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航し、大統領の国書を提出して日本の開国を要求した。 幕府はその威力に屈し、翌年3月横浜で日米和親条約を結ぶため、嘉永7年(1854)2月10日(太陽暦3月8日)正午、ペリー提督は随員を従えて横浜に上陸した。この地に作られた横浜応接所に入り、日米和親条約締結のため会談が始められた。日本側の全権は大学頭 林復斎が応対した。合計4回に及ぶ会談の結果、漂流民の救助、アメリカ船の伊豆下田・箱館(現函館)2港の入港、薪水・食料・石炭の補給、下田に総領事を置くことなどを取り決め、日米和親条約を締結した。わが国は長い鎖国の時期を終え、開国することになった。画面右端には水神社という小さな神社、背後の大木が「玉楠の
木」の元の姿と伝えられている。この絵はペリー艦隊の随行画家ハイネの原画による石版画である。そして、米国につづき英国、フランス、ロシア、オランダなど西欧諸国に相次いで門戸を開いていった。
その後、安政3年(1856)、下田駐在の総領事として来日したハリスは通商条約の締結を強く求めてきた。大老井伊直弼は天皇の勅許を得られないことで危惧を抱きながらも、開国が日本の将来に必要なことと判断し、下田奉行・井上清直,目付・岩瀬忠震を日本側全権に立てて会談に臨み、安政5年(1858)6月 横浜港沖に停泊していた米艦ポーハタン号艦上で日米修好通商条約に調印した。この結果、横浜は長崎・箱館・兵庫などと共に開港場となり、翌年から貿易が開始されることになった。



3、 岩亀楼跡
 幕末に開国して、外国人が大勢来るようになると、彼らの遊び場が必要となってきた。そこで、幕府は遊廓をつくることを思い立ち、決めた建設用地がこの辺だった。ここら一帯には、大・中・小の「遊廓」と芸者屋が急ごしらえで作られたが、その中で、最も豪華で「竜宮城」にも例えられた大店が岩亀楼だった。岩亀楼には、「異人客専門棟」と「日本人客専門棟」の2つの建物があり、2棟の遊女たちは、完全に区別されていた。異人客の相手をしていた女たちは、洋妾とよばれ蔑まれていた。洋妾たちの多くは、高給にひかれてやって来た貧しい漁村の娘たちで、美貌も教養も劣っていた。それに気付いた外国人客が不満を言い出したので、やがて日本人客相手の上級遊女を侍らすようになった。しかし、外国人に対する懼れや誤解がうずまく当時のこと。岩亀楼一の売れっ子・亀遊が自殺するという事件が起こった。亀遊の死は当時、外国人嫌いな日本人に利用され、大きく騒ぎ立てられた。
 「露をだに 厭ふ大和の女郎花 ふる亜米利加に 袖は濡らさじ」という、辞世の歌が捏造され、亀遊は、「異人に屈せず、誇りを見せた日本婦女子」として祀り上げられた。「亀遊が攘夷女郎にされていく」。このお話は歌舞伎にもなり、滑稽演劇にも上演されて世間の関心を集めた。しかし、反面、本気で尽くして、外国人と夫婦同然になった女たちもいた。カレーラス・モンブランが、幕府とフランスを結びつけることに成功したのは、ラシャメン「お政」の協力のおかげであり、横須賀製鉄所の技師ヴェルニーには、純愛で結ばれた「お浅」がいて、2人は仲良し夫婦のようであったと云う。このように世間の冷たい眼差しも国籍もそして生活文化の違いも乗り越えて尽くす素直で健気な日本女性たちがいたのである。

4、旧横浜生糸検査所 (横浜第二合同庁舎)
 横浜は幕末の一寒村から日本を代表する近代都市として急速に発展してきたが、その礎となったのは一貫して貿易によるものであった。開港すると貿易が始まり、大量の生糸が外国商館を通して輸出されだした。茶や海産物など、その後、蚕種(蚕の卵)の輸出も行われたが、主体は生糸であった。
文久2年(1862)には生糸が全輸出額の約86%を占め、その後も80%台の年が続くなど輸出品第一位の王座を長く守り続けた。しかし、避けて通れない日本の粗悪品生糸の課題を解決するため生糸検査制度が確立され、横浜と神戸に生糸検査所が設けられた。横浜生糸検査所が発足したのは明治29年(1896)4月のことである。フランスから製糸技術や生糸検査の方法を学び検査機械を買い入れて検査を始めたが、業務開始当初は利用者が少なかった。昭和2年(1929)からは輸出生糸検査法が施行され、輸出生糸はすべて強制的に正量検査を行うようになったので、相互に信頼できる貿易が行われるようになった。
5、 横浜指路教会
 横浜指路教会は、宣教師であり医師のヘボン博士を中心に設立された教会である。ヘボン博士は、明治維新より以前の安政6年(1859)にアメリカからクララ夫人を伴って来日した。当時はキリスト教が禁じられていた時代であった。ヘボン博士はまず日本語を学び、日本初の和英辞書を編纂し、英語塾をはじめた。「ヘボン式ローマ字」は、ヘボン博士の和英辞書に使われた日本語のアルファベット表記をもとに作られている。生麦事件で負傷したイギリス人を本覚寺に出向いて治療をしたのもヘボン博士である。「ヘボン」という名前は、本来は英語名「ヘップバーン」であって、当時の日本人の耳には、ヘップバーンがヘボンと聞こえたらしい。そこから博士は自己紹介でも「ヘボン」と名乗り、時には「平文」という漢字をあてて署名することもあった。ヘボン博士の英語塾では、後に総理大臣となる高橋是清や西園寺内閣の外務大臣となる林薫(初代陸軍軍医総監・松本良順の実弟)などそうそうたるメンバーが学んだ。この英語塾はやがて、明治学院やフェリス女学院となっていく。明治に入ってヘボン英語塾の青年たちを中心に教会設立の声が高まり、明治7年(1874)に横浜指路教会の前身となる教会が設立された。当初は何度か場所を変えたが、明治25年(1892)、現在の場所にヘボン博士の尽力で赤レンガの教会堂が建てられ、この時に横浜指路教会と名前も改められた。「指路」は、ヘボン博士がアメリカで属していた教会の愛称「Shiloh Church」の「Shiloh=シロ」に漢字をあてたものである。シロとは、旧約聖書にある「平和を招く者=メシア」と、「古い時代の聖なる町」という両方に用いられている言葉である。宣教師として33年もの間、敬愛されてきた、温厚なヘボン博士は横浜指路教会が完成した後、惜しまれつつ日本を去った。その後、大正12年(1923)の関東大震災により赤レンガの教会堂は倒壊してしまう。そこで3年後の大正15年(1926)年に再建されたのが現在の建物である。震災を教訓に当時最先端の鉄筋コンクリート造を採用しながら、デザインはゴシック風の教会らしい建物になっている。大きなバラ窓と、その上部を囲む尖頭アーチに、建物の角がそのまま持ち上がるようにそびえる鐘楼という厳粛な姿を今日も留めている。


6、 料亭 富貴楼跡 (現・中小企業センター)
尾上町5丁目、現在、中小企業センターが建っているところが、明治初期、有名を馳せた料亭 富貴楼
のあった所である。富貴楼の主はお倉(本名は斎藤たけ)」といい花柳界の女傑という異名があった女である。江戸で生まれ、6歳の時に家族が離散し、20歳のとき新宿で遊女となった。働いても放蕩者の夫が散財し、借金を返す日々で、芸者となって働いた。明治4年(1871)、宴席で横浜の生糸相場で財産を築いた田中平八の知遇を得たことが、お倉の人生を大きく好転させた。田中平八から資金を得て、関内・尾上町に料亭(待合)の「富貴楼」を開いた。富貴楼には富豪 田中平八が招く大久保利通・伊藤博文・井上馨・大隈重信・大山巌・西郷従道・山県有朋・陸奥宗光らの元勲そして、東京・横浜間の鉄道・国道工事に尽力して“横浜の父”と呼ばれた高島嘉右衛門などが出入りして、当時の新たな政治の舞台となっていった。現在に繋がる日本独特の料亭政治の形態を作ったのは富貴楼とも云われている。大久保利通の次男で、吉田茂の義父、牧野伸顕は「お倉は、もし男として生まれたら、大臣・参議にもなれた女傑であった。人を懐柔する力は実に大したもので、それは決して美貌や色恋で引付けるものではない。頑固だった父・大久保利通もお倉には参っていたよ」と云う。また、伊藤博文が、国会開設にあたり、喧嘩別れしていた大隈重信の助力を得たいと思っていたとき、両者の仲を取り持って、和解させる場を作ったのがお倉であったという。
お倉は、明治43年(1910)9月死去し、東福寺に永眠している。

 
7、 鉄の橋 (現・吉田橋)
幕末期、外国人居留地と現在の伊勢佐木町街とを結ぶために作られた架橋で、当初は木橋であったが明治2年(1869)、英国人土木技師 リチャード・H・ブラントンにより、橋長24m、幅員 6mの日本最初のトラスト橋が完成した。橋は「鉄の橋」と呼ばれ、市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵が描かれるなど大変人気を集めました。その他、ブラントンは、横浜居留地の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し、街路の整備も行っている。そして横浜公園の設計も行い、東京・築地~横浜間に日本初の電信架設を完成させ、灯台建設、日本最初の鉄道建設、そして大阪港や新潟港の築港計画に関しても意見書を提出するなど近代日本の黎明期に多大な貢献を果たしている。橋の下の高速道路の走っているところは、そのまた下には地下鉄が走っているが、昭和30年代前半までは、掘割になって、船が浮かび、ボート競技なども行われていた。

 
8、 東福寺 (赤門)
光明山遍照院東福寺は後嵯峨天皇の勅願で元心法師が寛元年間(1243~7)に開山し、太田道灌が中興したと伝えられる高野山真言宗の仏教寺院である。天正19(1591)年には徳川家康公より寺領3石の御朱印を拝領し、その折、葵の御紋の使用を許されたという名刹で、江戸時代は22の末寺を有していた。町名にもなっている朱塗りの山門、赤門でも知られている。往時の山門は二階の豪壮なものだったが、創建以来戦災を含めて七度焼尽され、現在のものは昭和35年に再建されたものである。ご本尊は90センチの観世音菩薩。東国八十八ヵ所霊場36番です。境内墓地には、「富貴楼お倉」」が眠っている。
9、 野毛山公園
 野毛山公園は横浜公園や掃部山公園に次ぐ歴史を持っており、元々都市防災の要地、また市民の憩いの場として国が整備したものを大正15年(1926)に横浜市が管理する事になったのがその始まりである。更に時を遡ると、現在の動物園区域は生糸商売で財を成した明治の商人、茂木惣兵衛の別荘地であり、樹林区域は同時期の豪商だった原富太郎(三溪)が、ここに別荘を所有していた。それが大正12年(1923)の関東大震災によって壊滅的打撃を受け、後年の震災復興とともに公園建設が行われたのである。そして終戦後は米軍に接収されたが、昭和24年に開催された日本貿易博覧会の会場となり、その後は、動物園と遊園地が設置され、昭和26年より市立野毛山遊園地となった。動物園の入園料は、現在に至るまで、無料となっている。公園内には展望台があり、高台という立地条件とあいまって眺望は素晴らしく、横浜の街並みを見事に一望する事ができる。今でも人々にとっての安らぎの場であり、また、子供達の楽しげな声が響く夢のある施設として、横浜市民にとって貴重な存在となっている。



10、 近代水道跡
横浜は土地柄、殆どの地区を沼や海の埋め立てによって成り立たせている為、水質は良いとは言えなかった。井戸を掘っても、飲料用になるものは少なく、人々は水売りから水を買うのが当たり前だった。しかし、横浜は市街地を中心に発展が目覚しく、人口も増加の一途であった。当然、水売りの水だけでは手が回らず、質の悪い井戸水や川の水を利用する者も多く、伝染病などが広まって行き、水道建設が必要とされた。当時の横浜の人口は7万ほどあり、神奈川県は充分な供給のできる水道作りに悩んだ。そこで、明治16年(1883)に広東の水道計画を成功させたイギリス人ヘンリー・スペンサー・パーマー元工兵少佐を雇い水道工事を委任した。 パーマーは、試行錯誤の末、水源を現在の津久井郡三沢村三井を流れる相模川支流の道志川に決定して、野毛山貯水池に至る44kmに及ぶ水道工事を断行し、明治20年(1887)9月、洋式水道を完成させた。現在は、山梨県道志村からの清涼な水が野毛山貯水池から市街へと配水され、横浜は水の悩みから解放され、横浜市民の喉を潤した。全てヘンリー・スペンサー・パーマー工兵少将無くしてはあり得なかった事である。これが近代水道の始まりである。




 
11、 伊勢山皇大神宮
 伊勢山皇大神宮は、明治維新後、神仏分離、国家神道の時代を迎え、横浜がわが国の貿易の要として開港されるに及び、人々の心を一つにして、国家の鎮護を祈ることを目的として、明治3年に、時の神奈川県知事 井関盛艮の発案により創建された。伊勢神宮と同じ、天照大御神を祭神とすることから「皇大神宮」「関東のお伊勢さま」とも称され、横浜の総鎮守として知られている。境内は4,500余坪、御社殿は神明檜造り。境内には、大山厳元帥や乃木希典陸軍大将が題字した日清・日露戦争戦没者慰霊の「彰忠碑」「表忠碑」そして「以徳報恩」をもって戦後処理の日本に対して天皇制を擁護するなど、寛大な処置をしてくれた中華民国 蒋介石総統の顕彰碑がある。
●井関盛艮(もりとめ)
宇和島藩主伊達宗城に仕え、大目付や寺社奉行を務めた後、新政府入りして、神奈川県知事、愛知県知事を歴任後、実業界入りして、東京―八王子間の鉄道敷設に貢献した。



12、 神奈川奉行所跡 (現・県立青少年センター)
 奉行所とは、現在で言うところの警察と役所を合体させたような機能を持った機関である。運上所が主に外交関係や税関業務を行っていたのに対し、奉行所は、開港間もない横浜で専ら行政事務や外国人遊歩区域内の風俗取締、裁判や農民・町人の出願事項の受付・処理などを行っていた。設立されたのは安政5年(1859)6月2日で、開港直後の事である。その所在地から「戸部役所」と呼称され、運上所と共に行政を司っていた。神奈川奉行は外国奉行とも呼ばれ、奉行所と運上所を馬で行き来していた。急坂を登ったり降りたりと、通うのに不便な事この上ないが、場所を戸部にした事には理由があった。一つは開港場の中央から離れた場所に設置する事で、外国人に内政を秘密にできたからである。二つには万が一、外国側との変事が起きた場合には横浜の町を眼下にできる好位置から、城砦へとその機能を変える事が容易だったからである。これにより、野毛を含む戸部地区には行政関連の施設が出現した。そのため、住民は移転する事を余儀なくされ、生業を失う者も多くあった。これに対する補償金もあったが3年待たないと支払われなかったと云われている。

13、 掃部山公園
掃部山は、江戸時代には「不動山」、明治時代に入ってからは「鉄道山」と呼ばれていた。これは日本に初めての鉄道が新橋~横浜間に敷設されたときに、この地が事業拠点となったからである。明治15年(1882)頃に旧彦根藩の藩士の孫で、横浜正金銀行の頭取であった相馬永胤が、旧士族らに呼びかけ、寄付金を募り、故井伊掃部頭直弼の記念碑建設のため、この「鉄道山と呼ばれていた丘を買収し、井伊家の所有としたのである。それに伴い、井伊直弼の官職名に因んで掃部山と呼ぶようになった。
井伊掃部頭直弼像は明治42年(1909)に横浜開港50周年を記念して建てられ、その除幕式は式典の10日後に行われた。しかし、その後、 第二次大戦中の金属回収令で取り払われてしまった。現在の銅像は昭和29年(1954)に開国100周年を記念して横浜市が再建した2代目である。銅像の制作者は鋳金師 慶寺丹長父子。慶寺丹長は薪を背負いながら読書する二宮金次郎の銅像を描いたことで知られている人物で、直弼を衣冠束帯姿で、朝廷から授かった位の高さを示し威厳を表して制作している。顔は直弼の四男で画家であった井伊直安が描いた直弼の肖像画から登用している。直安は幼少期、直弼に可愛がられていたので、優しい父の面影を追憶し描いたと云う。この像は台座を含めると11メートルある。この台座の作者は、「日本橋」、「横浜赤レンガ倉庫」、「横浜正金銀行本店(現、神奈川歴史博物館)」を設計した妻木頼黄である。妻木頼黄は東京駅を設計した辰野金吾、赤坂迎賓館を設計した片山東熊と並ぶ明治三大建築家の一人と謳われた人物で、発起人の相馬永胤が台座の設計をアメリカ留学時代からの友人であった妻木頼黄に依頼している。相馬永胤は、銀行頭取を退任したのち、教育に力を注ぎ、専修大学を創立している。相馬永胤の祖父隼人は彦根藩の公用人だった人物で、彦根藩の代表として、桜田門外で切り取られた井伊直弼の首を取り戻し、首と胴体を縫い付けさせて主君井伊直弼を豪徳寺に埋葬している。永胤は祖父隼人の意志を継いで、井伊直弼の無念を晴らすことを誓い、上野公園や日比谷公園に銅像建設を計画するが、政府の許可が下りず、立ち消えになりそうになったが、明治42年開国50周年の機会を得て、井伊直弼像建立が実現となったのである。大正3年(1914)、井伊家はこの地を市民の憩いの場として提供することとし、横浜市に寄贈した。横浜市は整備の後、同年11月に「掃部山公園」として開園した。この掃部山公園には、約200本の桜が植えられ桜の季節だけは花見客で大賑わいとなる。また、井伊直弼が茶道に通じていたことから、昭和40年(1965)より毎年8月には野点も開催している。園内には「横浜能楽堂」があり、毎年9月には「薪能」も開かれる。



14、第二代目横浜駅跡
 明治5年(1872)新橋~横浜間が開通され、現在の桜木町駅の場所に、初代横浜駅が作られた。その後東海道線を横浜~国府津(小田原市)に延伸する際に、駅の構造的な問題から、横浜駅に入った列車を一端、スイッチバックさせて、本線に戻り、保土ヶ谷方面に走らせなければならなかった。その不便を解消するため短絡直通線を開設し、そこに平沼駅を作るなどの試行錯誤を重ねたが、結果的にさらに不便になってしまい、東海道線が横浜駅を通過するような状況になってしまった。そこで新たに作られたのがこの二代目横浜駅である。しかし、残念ながら完成8年後の1923年に起きた関東大震災で二代目横浜駅は焼失し、閉鎖された。そして同所に再建するのではなく、直線的に大船方面に走らせるために、1928年、今日ある横浜駅の場所に3代目が作られた。現在の横浜駅は1980年に改築され、第4代目である。

 
第3回横浜散歩 旧横浜居留地・掃部山界隈

2016年2月18日(木)
 朝方は、まだ肌寒さを感じるが良い天気に恵まれ、みなとみらい線大通り駅に集合して駅前にある神奈川県庁から第3回横浜散歩をスタートした。神奈川県庁は横浜三搭のキングの搭を戴き、屋上展望台からの眺望は素晴らしく、みなとみらい地区、赤レンガ倉庫、横浜港大桟橋、象の鼻公園など横浜の名所を一望できる。そして、クイーンの搭、ジャックの搭も望観できる。しばし景観を楽しんだのち、この県庁建物に30余年勤務した今回参加者の石田稔氏に、庁舎内の知事室、副知事室など主要場所を案内していただいた。築後100年を経過した庁舎の柱や壁面の装飾は重厚で、テレビドラマの「華麗なる一族」のロケにも使用されたという。県庁見学を終えて、開港資料館に向かった。ここは、今から162年前に日米和親条約が締結された歴史的に由緒ある場所である。資料館中庭には、条約調印場の傍らに立っていた玉楠の樹が大樹となって歴史の生き証人として鎮座している。続いて横浜公園に向かう。横浜スタジアムを含む横浜公園一帯は、開国当時は海だったところは埋め立てられ、長崎の出島のような外国人居留地になっていた。公園の一角には幕府の公認遊郭も作られた。これが様々な物語を生んだ岩亀楼で、現在その跡地は和式庭園になっている。
 明治に入ってから、新政府はイギリス人リチャード・ブラントン技師を招き、洋式街路や公園、橋梁を次々建設し、今日の姿になっている。公園から、大通り方面に向かい、日本銀行横浜支店、横浜地方裁判所を経てジャックの搭で知られる開港記念館へ立ち寄った。このビルの一角には、岡倉天心誕生の地や日本初の商工会議所跡の碑が置かれ、観光スポットになっている。続いて、神奈川県警ビルや日本郵船歴史館の前を通って、煉瓦作りビル旧横浜製糸検査所(現・横浜合同庁舎)まで歩いてきた。所々に歴史的建造物があり、楽しめる散歩道である。ここらで昼近くになって来たので、合同庁舎内にある食堂に入って昼食を取ることにした。広い大食堂で、入ったときは空いていた席も正午を回ると、市役所職員が一斉に入ってきて、たちまち満席になった。早く入って正解でした。なかなか美味しく、安くて、迅速、時間も節約できて得した感じであった。

昼食後は、伊勢佐木町方面に向って馬車道を歩き、途中、東京芸術大学、旧横浜正金銀行(現・県立博物館)、横浜初の写真館跡、指路教会料亭 富貴楼跡(現・中小企業センター)などの解説板を読みながら散策をつづけ、かって、当時には珍しい鉄の橋が架けられ、外人居留地と伊勢佐木町と結んだ吉田橋に辿り着いた。ここも歴史的に由緒あるスポットである。これから先は、にぎやかな伊勢佐木町の商店街を真っ直ぐ歩き、途中、沿道にあるジュークボックスで「伊勢佐木町ブルース」を口ずさみながら、しばしの憩いを取った。曙町3丁目の信号を右折して、末吉橋を渡って赤門町に入る。

 ここには町名の因になった山門を真っ赤に塗られた東福寺がある。この寺は、徳川家から葵の紋章を許された名刹で、明治初期、伊藤博文や陸奥宗光らに贔屓を受けた料亭富貴楼の女主人お倉が眠っている。寺の後背部は野毛山である。寺を出て右折して、細い路地を登っていくと野毛山公園に出る。広い公園には展望台があり、ここからの眺望は県庁の屋上以上に広範囲の眺望が楽しめる。公園の散歩道には、人口が増加して水不足になった横浜に相模川上流からトロッコを利用して、44kmの水道路を建設したヘンリー・パーマーの胸像がある。水道路の完成で、横浜は大きく発展した。この都市の近代化は、多くの外国人技術者や学者によって齎されたことがわかる。
 しばし、眺望を楽しんだのち、野毛山を中央図書館方面に下って、向かいの伊勢山皇大神宮に向かった。明治3年に、神仏分離、国家神道の時代を迎え、国家鎮護を目的として伊勢神宮と同じ天照大神を祭神とする神宮を創建したものである。総檜造りの神殿や巨大な鳥居は見ものである。境内には乃木希典や蒋介石総統の顕彰碑がある。続いて神奈川奉行所跡に進む。幕府が開国後の横浜の外交業務や税関業務の行政を司る目的で作られた役所で、現在は県立青少年センターになっている。センターの北側の丘一帯は、鉄道山と呼ばれていた所で、明治15年、旧彦根藩の関係者が、藩主井伊直弼の銅像を建設する目的で買収し、高さ11mにも及ぶ井伊直弼像が建立された。現在は、掃部山公園になっている。この公園は約200本の桜が植えられ、桜の名所として大いに賑わっている。ここから、横浜駅への帰路の途中、2代目横浜駅の遺構を見学して本日の散策を終了した。このあとは、横浜地下街の居酒屋で一献を傾けながら本日の見どころを振り返り、談笑して良き一時を過ごしました。 (石井義文)
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 多摩高14期 第6回 同期会 開催報告                      
 
 

 
 晩秋を迎えた2015年11月の土曜日昼下がり、武蔵小杉にあるホテル精養軒に我が同期が集い第6回同期会を開催した。小雨がちらつく空模様の中、定刻前から集まりはじめた面々の顔にはうっすらと「期待と不安」が混じった同期会特有の表情が窺えた。誰に会えるだろう? ~君は来るのだろうか? ~さんは来るだろうか? ~先生に逢えるだろうか?と。 多感な青春時代を共に過ごした仲間達だからこそ幾つになってもこの会に参加するときの「それ」は、冬眠から覚めた時のような新鮮さを以って浮かんでくるのかもしれない。
 
 今回は、いつもの会とは異なる内容を含んでいた。この会の事務局を長らく勤めてくれた髙橋和男・紀美代夫妻が幹事を退任することになったのだ。総会の中で皆さんにお知らせし、お二人にご挨拶をいただいた。今、この会が隔年で開催できているのもお二人の功績があったがゆえである。これを忘れずに「この会」を絶やさないよう頑張っていきたい。また、懇親会の中で新任の幹事をお願いできる人を探そうと奔走した結果4名の方にお願いすることができた。新任の幹事の皆さま、今後よろしくお願いいたします。
 
 プログラムは、懇親会へと進み恩師の先生方や同窓会副会長様からご挨拶・近況報告をいただき、渡辺好孝先生のご発声でグラスを乾して盛大な懇親会がスタートしました。場内は、仲間の語らう声や笑いで賑やかになり其処此処のテーブルでは、たくさんの笑顔が見られました。また、毎回好評を博してきた「大多和先生マジックショー」も定番として披露していただき、準備万端プロ顔負けのテクニックとユーモラスなトークに拍手喝采鳴りやまずでした。これら懇親会の模様は、二人の幹事が飲まず食わずレンズで切り取り14期のフォトサイトにアップしましたのでお楽しみください。
 
 二次会無しの3時間でセットした今回の同期会も校歌斉唱で締めくくり成功裏に終わりました。みんなの笑顔や感謝の気持ちを胸に多摩高14期 第7回同期会を2017年秋頃に開催の予定です。まだ参加したことのない方、都合が付かず今回欠席した方などを加えて多くの仲間との再会を楽しみに企画準備していく予定です。
 
<多摩高14期 第6回 同期会データ>
 
 1)日時  2015年11月14日(土)14:00~17:00
 2)場所  武蔵小杉 ホテル精養軒
 3)出席  同期生  72名
       恩師の先生方 大多和國男先生、小里剛先生、河原塚勝造先生、木村憲司先生、
              山田尚範先生、渡辺好孝先生 6名
       同窓会    百木祐二副会長 1名             総計 79名 
(14期幹事一同)


第11回多摩高等学校4期同期会開催 
 
実施日 2015(平成27)年11月28日(土)
会場  ホテルKSP 銀杏の間(川崎市高津区)
出席者 【来賓】恩師 古谷嘉邦先生、木村喜行先生
    【同窓会】金作幸男副会長
    【同期生】36名 (計39名)

第11回の4期同期会が溝の口のホテルKSPにて開催されましたので、報告します。
櫻井義英先生は体調不良、三浦先生は別件と重なり共にご欠席との連絡がありました。
会場のホワイトボードに欠席者よりよせられた近況、多摩高改築完成予想図の写真、多摩
高近景写真、所在不明者&物故者リスト、訃報などが掲示されました。
 
 今回は4組が開催幹事となり、助っ人として4名の方々に加わっていただきました。
1組の関口(朝比奈)サトミさん、1組の森田(高橋)詔子さんには受付を、2君の吉原汪哲
君には集合写真、スナップ写真撮影を、3組の林三男君にはADを担当いただき、会の運
営に携わっていただきました。
 
 一次会は4組の鈴木伸一宏君のアドリブのきいた臨機応変な司会により進められました。
幹事代表4組の大場光明君の開会挨拶、5組の西山忠宏君の乾杯の音頭で始まりました。
今回はビュッフェスタイルですので、各人が好みの料理を選びそれぞれのテーブルへ持ち
込み、楽しい語りあいの始まりです。
テーブルの着席位置はランダムにすることし、受付時抽選にて決定しました。
 
しばらくして、来賓のスピーチです。まず恩師の、古谷嘉邦先生(保健体育)、木村先生
(数学)と続き、赴任当時の思い出、健康などの近況をお話しいただきました。
同窓会の金作幸男副会長(5期)から多摩高の近況、建て替えの状況などのお話しをいた
だき、来賓の方々に会を盛り上げていただきました。
 
 美味しい料理と楽しいお喋りを続けている中、幹事がランダムにピックアップした出席
同期生より日常の暮らし、多摩高の思い出、健康などの近況を話していただきました。
そうこうしてるうちに、2組の吉原カメラマン(実は写真屋)による記念写真撮影の時間
となりました。出席者全員、3年時組別(1~7組)1年7組(不幸?に入学時男子のみの
クラス)の順で撮影がおこなわれました。
 
 宴たけなわではありますが、そろそろ一次会の終了時間が迫ってきました。
ここで3組の本宮(後藤)寛子さんの歌唱指導のもと、多摩高校歌を高らか歌いました、
ADの林三男君が用意するはずであった歌詞カードが不着で、幹事の柴田君が偶然持って
いた昨年の歌詞カードを本宮さんに渡し、本宮さんが歌詞の先読みをする形で進められ、
無事歌い上げました。林三男君がゴメンナサイをしていました。
集合写真撮影、校歌斉唱が終わったところで、予定していた2時間はアッという間に過ぎ
てしまい、鈴木伸一君の締めで一次会が終了しました。
 
 続いてレストラン:ガーディナに移り、二次会の開始です。
ここでも、鈴木伸一君の司会で進められました。女性陣は主にソフトドリンクで、男性陣
は主にハードドリンクを交わしながらの旧交を温めるなか、あちらこちらで楽しげな話し
声、笑い声が上がっていました。
そんな雰囲気のなかで、一次会に引き続き、出席同期生より近況をお話しいただきました。
 
 ここで、次回幹事候補として、今回出席の5組の二木俊一君、西山忠宏君、堀内直君、
村上陽一君、斎藤(松井)朋子さん、木原(持田)寿美子さんが紹介されました。
既に帰られた方もいましたが、仮の代表としてに西山忠宏君より挨拶をいただきました。
懐かしくも楽しい語らいの時間はアットいう間に過ぎてしまい、第11回4期同期会の二次会もおひらきの時間がきてしまいました。佐藤昌孝の閉会挨拶と締めで終了しました。
 
 皆様のご支援、ご協力のもと無事に開催できましたことを感謝しています。
次回は5組が開催幹事を担当されますが。皆様のご協力お願いいたします。
 
 会の合間あいまにスピーチをいただいた方々
   1組 高橋(嘉山)恵美子さん    4組 大川健君       
   2組 松本(清水)妙子さん     4組 西山忠宏君      
   2組 吉原汪哲君          5組 堀内直君         
   3組 小川昇一郎君        6組 安藤(安藤)裕子さん        
   3組 後藤(本宮)寛子さん      6組 高岡信雄君
   3組 林三男君             7組 西村洋三君
   4組 鈴木靖雄君           7組 和田斉君         
            
 
    『この次も 楽しくやろう 同期会!』
  
2015年12.月吉日            大場光明 (代表)
 
第11回4期同期会開催幹事     柴田侑宏 (会計)          
                     鈴木伸一 (運営全般)
                     佐藤昌孝 (運営全般)
 
  末筆になりましたが、3年2組担任の下山真先生には10月17日にご逝去されました。
また、5組の小野(松下)美代子さん、6組の山根武君のご逝去が確認されました。
ご冥福をお祈りいたします、

3年1組 3年2組
3年3組 3年4組
3年5組 3年6組
3年7組 旧1年7組



第6期生 平成27年(2015年)同期会
 
【開催日】           平成27年(2015年)10月16日(金)
 
【開催場所】       京王プラザホテル新宿
 
満70歳の古稀を記念して第6期生の同期会が開催されました。過去に同期会は50歳、61歳、67歳の年に行われ、今回で第4回目になります。今後の年齢及び体力面を考慮して、全体的に行う同期会は最後と言う事を前提に今回の開催を皆様に声を掛けました。
その為か前回の同期会より多い約90名の方々に参加して頂けました。
各クラスから選ばれた13名の幹事から会長に白澤さん、副会長に中村さんを選出し、合計7回の会合を重ね、無事に開催に至りました。会合の中で今回の同期会は少し工夫を凝らした内容にしようと言う意見が出て、幹事全員で(老化しつつある頭脳で)知恵を絞りました。その結果、12時から15時までの3時間の宴会をフルに楽しむために音楽と映像を取り入れる事にし、幹事が得意とする分野を各自が担当して開催当日まで準備を進めました。
この様な準備の甲斐が有って当日は予定通りに楽しい会を開催する事が出来ました。映像は町田さん、音楽は諸伏さんが中心になって進めて頂きました。
今回の会場になった京王プラザホテル新宿47階の会場からは東京近郊の東西両側方面の絶景が良く見えるのですが、生憎当日は重い雲が立ち込めていて外の景色を見る事が出来ず、それだけが残念でした。
一次会の後半約1時間は、参加者全員にマイクとカメラを向けて中村副会長のインタビューに応じて各自の近況を聞き、その様子を前面のスクリーンに写し出し、宴会は一層盛り上がりました。最後に白澤会長の応援団の振りに合わせて全員で多摩高校の校歌を斉唱しお開きになりました。
二次会は同じ会場で約60名の希望者だけが残り、名残を惜しみながら約2時間の雑談の時を過ごしました。
参加者の皆様、楽しい時を有難うございました!
参加者から今後も同期会を続けて欲しいとの希望も多く聞かれましたが、惜しまれる時を節目とする事も効果的な思い出になると思います。また当日にも具体的な活動の話題も持ち上がっていましたので、今後は同じ趣味嗜好を持った仲間同士が集まってグループ単位で集い合うのが良いのではないかと思います。
尚、後日参加者全員に当日のスナップ写真集をCD-ROMの形式で郵送しました。
(6組木下記)


   

「2期生同期会」
11月29日(日)一時から、川崎駅前の「がんこ川崎店」で、2期生の同期会が
行われました。参加人員は、先生方2名、同窓会事務局の副会長 3期生清水さんなど3名
を含め総勢30名。毎年参加してくださった、桜井先生がこの夏から入院で
ご参加いただけなかったのがやや残念でした。全員から、近況報告をして
いただき、旧交を温めあった。最後に、多摩高の校歌をたからかに歌い
お開きになった。前に比べ、アルコール類の消費が減ってきたのも、
高齢化をむかえ、健康志向の人が増えてきたせいもあるかなと感じた。
(2期幹事・井浦幸雄記)