同期会

第6期生 平成27年(2015年)同期会
 
【開催日】           平成27年(2015年)10月16日(金)
 
【開催場所】       京王プラザホテル新宿
 
満70歳の古稀を記念して第6期生の同期会が開催されました。過去に同期会は50歳、61歳、67歳の年に行われ、今回で第4回目になります。今後の年齢及び体力面を考慮して、全体的に行う同期会は最後と言う事を前提に今回の開催を皆様に声を掛けました。
その為か前回の同期会より多い約90名の方々に参加して頂けました。
各クラスから選ばれた13名の幹事から会長に白澤さん、副会長に中村さんを選出し、合計7回の会合を重ね、無事に開催に至りました。会合の中で今回の同期会は少し工夫を凝らした内容にしようと言う意見が出て、幹事全員で(老化しつつある頭脳で)知恵を絞りました。その結果、12時から15時までの3時間の宴会をフルに楽しむために音楽と映像を取り入れる事にし、幹事が得意とする分野を各自が担当して開催当日まで準備を進めました。
この様な準備の甲斐が有って当日は予定通りに楽しい会を開催する事が出来ました。映像は町田さん、音楽は諸伏さんが中心になって進めて頂きました。
今回の会場になった京王プラザホテル新宿47階の会場からは東京近郊の東西両側方面の絶景が良く見えるのですが、生憎当日は重い雲が立ち込めていて外の景色を見る事が出来ず、それだけが残念でした。
一次会の後半約1時間は、参加者全員にマイクとカメラを向けて中村副会長のインタビューに応じて各自の近況を聞き、その様子を前面のスクリーンに写し出し、宴会は一層盛り上がりました。最後に白澤会長の応援団の振りに合わせて全員で多摩高校の校歌を斉唱しお開きになりました。
二次会は同じ会場で約60名の希望者だけが残り、名残を惜しみながら約2時間の雑談の時を過ごしました。
参加者の皆様、楽しい時を有難うございました!
参加者から今後も同期会を続けて欲しいとの希望も多く聞かれましたが、惜しまれる時を節目とする事も効果的な思い出になると思います。また当日にも具体的な活動の話題も持ち上がっていましたので、今後は同じ趣味嗜好を持った仲間同士が集まってグループ単位で集い合うのが良いのではないかと思います。
尚、後日参加者全員に当日のスナップ写真集をCD-ROMの形式で郵送しました。
(6組木下記)


   

「2期生同期会」
11月29日(日)一時から、川崎駅前の「がんこ川崎店」で、2期生の同期会が
行われました。参加人員は、先生方2名、同窓会事務局の副会長 3期生清水さんなど3名
を含め総勢30名。毎年参加してくださった、桜井先生がこの夏から入院で
ご参加いただけなかったのがやや残念でした。全員から、近況報告をして
いただき、旧交を温めあった。最後に、多摩高の校歌をたからかに歌い
お開きになった。前に比べ、アルコール類の消費が減ってきたのも、
高齢化をむかえ、健康志向の人が増えてきたせいもあるかなと感じた。
(2期幹事・井浦幸雄記)









28期 第2回同窓会開催
 
開催日  2015年11月21日(土)
開催内容 ①学食昼食会&新旧校舎見学ツアー
         ②懇親会(ホテルメッツ溝ノ口 チャイニーズダイニング桂林)
参加人数 ①80名(学食供給能力を勘案し途中で申込みを締切)
         ②132名(卒業生119名、恩師10名、同窓会本部役員3名)

5年振りの同窓会は「卒業30周年記念」と言うことで、学食昼食会&新旧校舎見学ツアーと懇親会の2部構成で開催しました。

お昼の会は学食運営会社の湯川社長に28期プレミアムメニューをお願いし、グレードアップした学食とチェリオを堪能しました。
昼食後は野田副校長先生に「学力向上進学重点校」である母校の現状をお話し頂き、昨年度、東大3名合格の報告に盛り上がりました。また、学食改修のため、「多摩高に対するまなびや基金」として21,990円の寄付を募りました。校舎見学はエアコン完備の最新校舎と当時と変わらぬ懐かしい校舎を比べて、30年と言う時の流れを改めて感じました。

夜の懇親会では元女子アナ阿部恵の司会で、学年主任山本時子先生のご挨拶、同窓会本部を代表して19期中島副会長様のご挨拶を頂き、乾杯の発声は同期で一番の有名人小林至が行いました。懇親会会場ではシステム幹事の梶野が編集した当時の写真を集めた「懐かしのムービー」を上映し、好評により現在も28期同窓会HPで配信中です。

前回以上の盛り上がりをみせた第2回28期同窓会でしたが、次回は200人超え?を目指して多摩高の絆を更に深めていきたいと思います。



 2015多摩高校五期同期会 
 五期生51名の参加、木村先生、岩本先生、小澤先生、古谷先生、同窓会中島副会長のご出席を頂き、10月10日㈯に、登戸の柏屋で開催しました。遠くは神戸からの出席を頂きました。
余興として、詩の朗読、日本舞踊、クラリネット演奏、小唄があり、面白く、大いに盛り上がりました。
更に、多摩高校時代の思い出話し、シニア川柳、俳句の紹介と本当に盛り沢山の内容でした。
加えて、最後に、フォークダンスもあり、ステップが思い出せない中、高校時代を思い出しながら、思い思いの相手とステップを踏みました。あっという間に時間が過ぎてしまいました。 料理も美味しく、ボリュ-ムも充分で、大満足でした。 二次会はカラオケで、古い歌、新しい歌と、懐かしく歌いました。
かつ、昔話に、話がはづみました。 出席頂いた方々の健康を祈り、来年の再会を思いつつ、散会しました。 一組幹事と応援頂いた幹事さんにも感謝です。      以上
2015.10.10  佐々木 武

スライドショー       
3期生のハイキング倶楽部「さん歩会」は13年目に入りました。現在の会員数は22名です。
平成27年は合計7回のハイキング例会を実施のほか、7月にはオプションで高峰高原・池の平湿原(一泊)に有志で登りました。高峰高原から4km離れた浅間山も噴火し、噴煙が確認できました。
今年は日本各地で火山活動が数多く報告されています。
古希を過ぎ(73歳)、体力低下、足腰が痛いなど、山登りがきつくなった仲間が多くなりました。
健康に注意し、来年もまたみんなで楽しい山歩きが出来る事を念願しております。
「さん歩会」は今年も来年もちょっと元気に、チョットだけ頑張って歩きます。

多摩Ⅲハイキング倶楽部  
幹事長 岡本 恭一
記録  櫻谷 泰之
 
岸根森林公園競馬場跡(横浜市)
 
平成27(2015)年
実施月 行 先
74 2月 高取山・聖峰
75 3月 岸根森林公園・港の見える丘公園
76 4月 大山古道
77 5月 大野山
78 6月 倉岳山
79 10 鋸山
80 11 三浦冨士
OP 7 高峰高原・池の平湿原
 
 
 富士山遠望(イタリア山庭園・横浜市元町)
 




 

ワレモコウ(池の平湿原・長野県)


 
第三期生第14回同期会報告

秋日和の10月30日(金)午後2時から5時までの3時間、横浜駅東口、崎陽軒本店5階マンダリンで恩師、古谷嘉邦先生出席のもと、我ら三期生50名(女性:17名、男性:33名)の参加で楽しく開催されました。今回は最近5年ほど案内ハガキに返信の有った方155名に案内致しました。
会は司会・進行役の横山さん、天野君の名コンビの案内で、中華とイタリアン料理を楽しみながら、久しぶりに会った喜びとお互いのいろいろの情報交換を行い、密度の濃い会となりました。



 
司会・進行役の横山陽子さん、天野明彦君のコンビ、初めは二人とも緊張していましたが、すぐに普段の話し方となり、会が(なご)みました。司会・進行のお蔭で楽しい3時間が瞬く間に過ぎてしまいました。ご苦労さまでした。
   
亀甲邦敏代表幹事の挨拶:
“60歳を12年過ぎ、次の一回り、12年後まで皆さんと楽しい同期会が続くよう祈念しています”
(余談ですが:彼が現在テレビで見ます“気象予報士”の基を作成しました)
 
   
恩師の古谷嘉邦先生の挨拶:菜園を趣味として、齢80を過ぎ膝の負担を軽減すべく耕運機を購入した。健康寿命の延長に心がけています。
   
清水秀紀同窓会副会長(三期生)の挨拶:今年入学生は第60期生、卒業生は約19,000名となり、同窓会のネットワークを拡充させ世代を超えた会員間の親睦・交流を活発化し、もって部活動への支援など母校発展に今後とも三期生皆さんの貢献をお願いします。
   

乙守公子さんの乾杯の挨拶:
ベルギー48年在住の乙守さんがフランス語の習得に一日6時間勉強したこと、これからこの楽しい三期会開催に合わせて帰国し参加します。
   
白川慶子さんの健康維持増進の為3年前から始めた太極拳を約5分披露しまた。彼女の無我の境地で音楽に合わせてゆっくりとしかも、手の先まで緊張した動作に感心の目で見とれました。
   
今回の第14回幹事の紹介:亀甲代表幹事以下、各幹事が協力し合い成功裏に会を楽しく終了したこと及び参加して下さった皆さんに感謝申し上げます(写真には受付中の塚越君、岡部君がおりません)。
   
和田垣勝哉君指揮のもと校歌斉唱:
校歌を歌うといつも走馬燈のようにあの楽しく・甘酸っぱい青春や高校の周囲の風景・、多摩川、梨園や桃畑を思い出します。
(和田垣君は現在も早稲田大学の早混OB・OG合唱団で活躍しています)
   
応援団長の池上君が三期会の今後とも長く開催されることの応援として、また野球部岡部君のホームランがあったら法政二高を破り甲子園に出場できた”とのたら・ねばの話と彼の術後の順調な快復にエールを贈りました。(昭和35年夏選抜高校野球県大会で法政二高に一度は追いついて、負けました、この年に法政二高は柴田投手を擁して全国大会で優勝しました)。
 
   
最後に白川さんから閉会の挨拶:日本の40兆円の医療費軽減に皆で寄与するために健康で過ごしましょう、また来年もお会いしましょうと元気な挨拶で会は散会しました。


後記
またここに掲載の写真を撮ってくださった櫻谷泰之君に感謝致します。今や彼は三期会の専属(?)カメラマンです。
あるテーブルでは高校卒の夏に撮ったグループ登山の写真を前に、若かったことへの驚きと、どうしてこの男女のグループが登山したのか、ほとんどの人が思い出せないで写真を眺めていました。人間だもの忘れるさ!そういう年になったのです、受け入れましょう!と誰かが言っていました。(文責:武者幹事)


最後に、写真をいただいたままの大きなサイズでご覧いただけるように、原寸大スライドショーをつけました。
   
 
2014年10月18日(土)好天のなか第7回5期の同期会を午後1時より青山学院内アイビーホールにて開催いたしました。
久し振りの東京でキョロキョロしながらお上りさん宜しく各地よりお集まりいただきました。 古希の祝いを兼ねた同期会ではありましたが、古希と申しますと凡そよい年となられておりますが、出席された方々はまだまだ青年といっても良い程でありました。
今回は他期の同期会といくつか重なり、木村先生、岩本先生お二人と同窓会副会長の出席をいただき、我等51名の参加者と和やかな雰囲気で、1次会、2次会、3次会と盛り上がり、最後は皆千鳥足で終了しました。

1組から7組へと持ち回りの幹事役は一応終了しました。
7組幹事役 岡本、上野

※掲載がおくれましたこと、お詫び申し上げます。



  


 



 

 
8期同期会
「開催日」平成27年10月17日
「場所」新宿京王プラザホテル47階「あけぼの間」
 
8期同期会を10月17日(土)午後1時半から新宿「京王プラザホテル」47階
「あけぼの間」で開催しました。
多摩高卒業後50年の節目の今年、第5回同期会を開催することになりました。
25年10月開催以来、2年ぶりになります。
当日は、前日の雨も、午後にはほぼ上がり、夕方には薄日が差すまずまずのお天気でした。
90名を超える同期生で大いに盛り上がりました。
同窓会からは、清水副会長と鈴木副会長にご出席いただきました。
今回は、一旦クラスごとに集まった後に、司会の合図で3年時体育祭の時のように春夏秋冬に分かれて旧交を温めました。
その中で、サプライズとして、懐かしいフオークダンスの輪が、広がりました。
最後に多摩高の校歌を高らかに全員で合唱した後、全員で記念写真を撮り、約
2時間半にわたる同期会を終了しました。
次回の開催は、2年後となる「古希」の時、全員元気で再開出来ることを確認して、散会しました。

第5回 鎌倉ウォーキング 円覚寺~大船界隈  (解説版)

1.  円覚寺
円覚寺は、鎌倉五山第二位に置かれる名刹で、臨済宗円覚寺派の大本山である。山号は瑞鹿山。寺院建立の開基は第8代執権北条時宗、開山は時宗に招かれて宋から来た無学祖元である。時宗は文永・弘安の2度に亘る役で死んだ兵の菩提を弔うために、弘安5年(1282)に、ここ山の内に建立した。寺域は約6万平方メートルある。寺名の由来は起工の際、地中から、仏教の経典の1つである「円覚経」を納めた石櫃が掘り出されたことから名付けられたという。創建当時の伽藍は「仏堂」「僧堂」「庫裡」があるだけであったが、鎌倉幕府の祈願所に定められてからは、土地や建物の寄進を受け、次第に大きな寺院へと発展していった。1333年鎌倉幕府が滅亡したのち瑞泉寺を開山した夢窓国師が住職になってからは、後醍醐天皇、足利尊氏らの援護を受け、寺は繁栄し、塔頭が42院を数えるに至った。山門、仏殿、方丈などが1直線に並ぶ宋の禅宗様式で建てられている。建物の多くは室町から江戸にかけて再建されている。山門には伏見上皇勅筆の「円覚興聖禅寺」の額が掛っている。鐘楼には正安3年(1301)9代執権北条貞時が寄進した洪鐘があり、建長寺、常楽寺の梵鐘とともに鎌倉3名鐘と云われ国宝になっている。鋳物師は物部国光。「皇帝万歳 重臣千秋 風調雨順 国泰民安」と刻まれた梵鐘文は無学祖元の弟子で住持であった西澗子曇が記している。蘭渓道隆、無学祖元、そそして西澗子曇らは、ともに南宋から来た中国人僧侶であるが、それぞれ5代時頼、8代時宗、9代貞時に信頼されていたと云う。また、昭和29年再建された仏殿の天井には白龍図が描かれているが、この絵は当寺、日本画家の大御所前田青邨が監修し、その弟子である守屋多々志が揮毫したものである。

正続院:
山号は万年山。9代執権北条貞時が弘安8年(1258)、仏舎利を治めるために建立した祥勝院という堂宇であった。境内には日本最古の唐様建築で国宝の舎利殿、開山堂、正法眼堂(禅道)がある。舎利殿はもともと尼五山第一位大平寺の本堂であったが、大平寺が廃寺されたとき、当院に移築されたものである
 

仏日庵:
弘安7年(1284)に没した北条時宗の廟所として創建され、嫡男の9代執権貞時、孫の14代執権高時も合葬されている。庵に保管されている「仏日庵公物目録」には諸祖頂相をはじめ13~14世紀に中国から将来された絵画・墨跡・工芸等が記されており、中国から日本への文化の流入を知る上で大変貴重なものである。境内のハクモクレンは「阿Q正伝」で知られる中国の作家魯迅から贈られたもので、作家大仏次郎の「帰郷」の中にも描かれている。茶室の烟足軒では、北条時宗の命日にあたる毎月4日には、「四日会」という茶会が開かれていて、この四日会は 川端康成の『千羽鶴』の舞台となった。

黄梅院:
山号は伝衣山。五山文学の隆盛に貢献した夢窓疎石(国師)の塔所で、疎石を師とする夢窓派の関東における拠点となった。門弟の方外宏遠(ほうがいこうえん)が文和3年(1252)に開創した。のち、足利義詮の遺骨が分骨され、足利氏の菩提寺の性格もおびた。



 
帰源院:
大慶寺や浄智寺などの住職を務めた三十八世傑翁是英の塔所。境内に夏目漱石の「仏性は桔梗にこそあらめ」の句碑がある。漱石は明治27年(1894)の年末から翌年にかけて塔所に止宿参禅している。漱石は「昔し、鎌倉の釈宗演和尚に参して父母未生以前本来の面目はなんだ」と聞かれ、がんと参った」と綴っている。この体験をもとに小説「門」を書いた。釈宗演とは、臨済宗の高僧で、円覚寺、建長寺そして東慶寺の住職を務め、シカゴの万国宗教大会で講演し、欧米に禅(ZEN)を紹介した人物である。講演を英訳したのは、宗演の弟子で東慶寺に眠る鈴木大拙である。帰源院では毎年4月29日漱石の命日に「漱石の会」を催している。帰源院には、作家島崎藤村もここに出入りし、そのときの様子を『春』に描いている。
2. 光照寺
光照寺は藤沢にある時宗大本山藤沢山清浄光寺(遊行寺)の末寺で、時宗の開祖一遍上人が、鎌倉入りの際に巨福呂坂を守る武士に鎌倉入りを止められてやむを得ず行く先を江ノ島にする途中、野宿した所が、現在の光照寺であると言い伝えられている。山門の欄干にキリスト教の十字紋と同じクルス紋が掲げられている珍しい寺院である。近世には周辺の小袋谷村に隠れキリシタンの集落が存在し、光照寺が庇護していたという伝承が残る。寺には江戸幕府からの「隠れキリシタン」に対する文書が残っているという。山門脇には子育地蔵尊その向かいには、年寄や子供の咳が止まるご利益があると云う咳の神様「おしゃぶき様」の石祠がある。
 
3. 常楽寺
  臨済宗建長寺派粟船山(ぞくせんさん)常楽寺は、三代執権北条泰時が、嘉禎3年(1237)、妻の母の供養のために建てた「粟船御堂」を前身としている。その供養には、源頼朝や北条政子が帰依した退耕行勇が導師を勤めた。執権となった泰時は、「連署」や「評定衆」の設置、武家の法典である「御成敗式目」(貞永式目)の制定を行い、北条執権体制の基礎を固めた。また、和賀江嶋の築港を許可し、巨福呂坂・朝夷奈切通の開削も行っている。仁治3年(1242)に亡くなった北条泰時はこの地に葬られた。法名は「常楽寺殿」。仏殿背後に三基並ぶ石塔の左が泰時の墓。中央は龍淵和尚、右が大応国師(南浦紹明)の墓。その後、五代執権北条時頼が、中国宋から来日し壽福寺に寓居していた蘭渓道隆を招き、禅の道場が開かれた。道隆は、建長寺を開山する以前に、この地で禅を広めていたので、常楽寺は「建長寺の根本」と称されている。仏殿の雲龍の図は、江戸時代中期で活躍した狩野雪信作と云われている。龍淵和尚は中興開基と伝えられ、大応国師は建長寺十三世を勤めた高僧である。常楽寺の文殊堂は、英勝寺より移築された建物で、秘仏の木造文殊菩薩坐像は「日本七文殊」の一つとされ、1月25日に行われる「文殊祭」に開帳される(県重要文化財)。この文殊菩薩の頭は、開山蘭渓道隆が宋より持参し、胴体は自らが作ったものであると伝えられている。常楽寺の仏殿の右には鐘楼があって銅鐘が吊されていた。宝治2年(1248)3月21日、北条時頼が祖父泰時の供養のために鋳造したもので、建長寺梵鐘、円覚寺梵鐘とともに鎌倉三名鐘の一つに数えられ、国の重要文化財に指定され、鎌倉三名鐘の中では一番古い鐘である。しかし、梵鐘は現在、同寺にはなく、鎌倉国宝館に保管されている。
 
木曽義高: 
常楽寺の裏山の粟船山には、木曽義高の墓と伝わる塚がある。もともとは、ここから離れた木曽免と呼ばれていた田の中にあって、五輪塔が建てられていたが、延宝8年(1680)、土地の所有者石井次左衛門が塚を掘ってみると青磁の骨壺が出てきた。「これは義高の骨だ」ということになり、常楽寺の裏山に葬ったと伝えられている。木曽義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男。寿永2年(1183)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦した。義高は、名目上、大姫の婿ということで鎌倉に送られてきている。しかし、頼朝は義仲討伐の兵を京に派遣し、源義経らが義仲を討つと、鎌倉の義高をも誅殺した。義高が殺されたことで、許嫁の大姫は大変傷つき、水さえも口にしないほど衰弱した。母の北条政子は義高を討った堀親家の家臣  藤内光澄を引き出し、その首を斬ったという。頼朝の命令で義高を討ち取ったのに、妻政子に家臣を斬られた堀は釈然としないで抗議したが、頼朝は何も答えなかったと伝わる。常楽寺の裏山粟船山の中腹(木曽塚の下)には姫宮の祠がある。これは北条泰時の娘の墓とされてはいるが、一説には、源頼朝の長女大姫の墓であるともいわれている。
 
4. 玉縄首塚碑
大永6年(1526)、安房の里見実堯が鎌倉に攻め込んだ。玉縄城の北条氏時(北条氏綱の弟)がこれを迎え撃ち、戸部川(柏尾川)付近で激しい戦闘となったこの戦いで両軍ともに多くの戦死者を出した。氏時方では甘糟氏をはじめとする30数名が里見軍に首を取られた。合戦後、氏時は里見方に申し入れて、互いに討ち取った首を交換し、この地に葬ったのだと伝えられている。塚に聳える榎(エノキ)は、このときに植えられたものと伝えられ、「甘糟榎」と呼ばれていた。塚も「甘糟塚」と呼ばれていたが、現在は「玉縄首塚」と呼ばれている。
 
5. フラワーセンター大船植物園
当植物園は、神奈川県内の観賞植物の生産振興並びに県民への花卉園芸の普及と植物に親しむ場の提供を目的に、昭和37年に開園しました。この地は昭和34年まで県の農業試験場があったところで、既に大正時代から「大船」の名を冠した「しゃくやく」、「はなしょうぶ」などが改良・育成されてきました。かつて周辺は水田等の低地が広がり、建設当初は近接する柏尾川の氾濫や台風による塩害に悩まされるなど、苦難の末の開園でした。開園当時、フラワーセンターのような施設は全国的にも数少なく、花や緑の園芸品種を展示する植物園として評判を呼びました。当初は輸出を目的とした観賞植物の展示普及等が業務の中心でしたが、そうした役割も時代とともに変わっていき、今では、花や緑を親しみ花き園芸に対する関心を高める施設としての役割が中心となっています。この地で改良・育成された「しゃくやく」、「はなしょうぶ」や体系的に収集してきた「ばら」、「しゃくなげ」など、国の内外から収集した植物は現在約5千余種・品種となり、園内に四季折々の彩りを演出しています。また、観賞温室では、熱帯・亜熱帯の花の美しい植物約1300種・品種を通年楽しむこともできます。
6. 龍宝寺
 龍宝寺(曹洞宗)は、文亀3年(1503)、玉縄城主北条綱成が建立した瑞光院を起源とし、天正3年(1575)、北条氏勝が現在地に移し、「龍宝寺」と称するようになった。七堂伽藍を備えた寺院であったが、豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぼされると寺も衰退した。歴代玉縄城主や源実朝の位牌が安置されている。龍宝寺は、玉縄北条氏三代の菩提寺で境内には北条綱成、氏繁、氏勝の墓が残されている。現在の本堂は、昭和35年(1960)に再建された。茅葺きの山門は、元禄年間(1688~1704)に建てられたものという。境内にある龍宝寺の新井白石の碑は、享保11年(1726)に建てられたもので、碑文は江戸時代中期の儒学者室鳩巣の撰文といわれるが、風化によって読めない。なぜ、ここに白石の碑があるかというとここ植木は新井白石の知行地であって、当寺には多くの寄進していたことに因る。白石は朝鮮使節がやって来たとき、使節を藤沢の宿まで出迎え、龍宝寺を宿舎として提供し、もてなしたと云う。境内にある古民家は、関谷で名主を務めた旧石井家の住居の住宅が移築されたもの。江戸時代中期のものと伝えられ、三間取り、四方下家造りの構造になっており、戸口や窓の少ない閉鎖的なもので、当時の相模・武蔵国の農家の特色を伝えており、国の重要文化財に指定されている。
 
7. 玉縄城址
 玉縄城は、永正9年(1512)、三浦氏攻略のために北条早雲によって築城された。大永6年(1526)の安房の里見実堯の攻撃も、永禄4年(1561)の上杉謙信の攻撃や永禄12年(1569)の武田信玄の攻撃にも耐え難攻不落と呼ばれた。初代城主は、北条早雲の二男氏時、その後天正18年(1590)第6代氏勝のとき、豊臣秀吉の小田原攻めの際に徳川家康に包囲され開城した。江戸時代に入り、家康の側近本多正信が城主となったが、正信の死後、元和5年(1619)一国一城令により廃城となった。しかし、外国船が頻繁に日本近海に出没する江戸時代後期、寛政の改革を行った松平定信は、玉縄が三浦半島の付け根にあたる要衝の地にあたり、外国からの攻撃に対する江戸防衛の最前線として適地であると考え、定信自ら、数百名の家臣を従えて現地視察を行った。その再築城の計画をしていたが、その3ケ月後に定信が失脚してしまい、築城は幻に消え失せてしまった。
8. 大船観音寺
大船駅前の無我相山の山頂。ここに立つ白衣の大船観音は、高さ約25m、鉄筋コンクリート造りの聖観音上半身像で、1960(昭和35)年に完成した。昭和4年(1929)この国を護ろうとする金子堅太郎、頭山満、清浦圭吾らが発起人となって「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」という護国観音として築造が開始されたが、世界大恐慌や続く日中戦争、第二次世界大戦の影響で一時中断された。戦後、昭和29年(1954)、曹洞宗大本山総持寺管長高階瓏仙(黙仙寺二世)、五島慶太氏が発起人となって「財団法人大船観音協会」が設立され、昭和35年(1960)東京芸術大学教授で建築家の吉田五十八氏を中心に画家の和田三造氏、建築家の坂倉準三氏、彫刻家の山本豊市氏の設計と指導のもとにに完成した。お身体は白黄色で、白衣を身に著し、左手に蓮華の花を持ち、右手は五指を伸べて腰前に安じて、常に蓮華台にあって坐禅をされているお姿であるといわれていますが、大船観音はその胸像のお姿です。「財団法人大船観音協会」は昭和56年(1981)に解散し、現在は曹洞宗仏海山大船観音寺と改称され、総持寺の末寺の宗教法人となっている。た。大船観音寺には、原爆被災祈念碑、戦没者慰霊碑など第二次世界大戦の犠牲者を弔う碑が並んでいる。梵鐘は昭和39年4月、味の素株式会社の創業者の長男で3代目社長鈴木三郎助氏からの寄進によるものである
 好天に恵まれた11月21日(水)第5回鎌倉ウォーキングを実施した。9:30 参加希望者8名が北鎌倉に集合し、駅前にある鎌倉五山第2位に寺格をもつ円覚寺から散策をスタートした。小学生のころから、幾たびか訪ずれたことのある寺であるが、きょうも門前に小、中学校の生徒さんたちが集まり、見学をするところに出会った。聞けば栃木県小山から5時半に出てやって来たという。われわれもそういう時代があったなと懐かしく思った。
 まず、伏見上皇直筆という山門に掲げられた扁額を見上げ、その前で記念写真を収めた。円覚寺は見どころが多く、仏殿にある本尊宝冠釈迦如来像、天井画「白龍図」には感動を覚える。塔頭 正続院にある国宝舎利殿、北条時宗の墓所仏日庵、夢窓国師の塔所黄梅院、夏目漱石ゆかりの帰源院などそれぞれ趣があり、国宝の巨大な洪鐘を目の当たりにすると訪れ甲斐を感じる。円覚寺から鎌倉街道を北に向かって歩むと信号3つ目に「光照寺」とある。光照寺は藤沢にある時宗総本山遊行寺の末寺で、山門の欄間にはクルス紋が掲げてあり珍しい。同寺には江戸幕府から取り調べを受けたキリシタンに対する文書が残されているという。寺を出て、元来た道に戻り、横須賀線を横切る道に入ると多くの高校生が歩いてくる。県立大船高校の学生とのこと。何となく多摩高生の雰囲気を感じた。大船駅に向かう道を歩きながら時刻を確かめると11:35になっている。少々、早いが昼食を取ることにした。ランチを頼んだが想定以上に安く美味しかった。
 食後の最初は、建長寺を開山した蘭渓道隆が、鎌倉で最初に入山したという常楽寺を訪れた。この寺院の山号は粟船山といい、大船の名はここから生まれたという。常楽寺本堂裏には、第3代執権北条泰時の墓がある。鎌倉時代でもっとも安定した政権を造った権力者の墓とは思えない質素なものなのには驚いた。この裏山には、頼朝の長女大姫の許婿でありながら、頼朝に殺された木曽義仲の長男義高の墓と云われる小さな祠がある。義高は12歳であったという。この一件で、大姫は心を病み、体も衰弱して若死にしたと云う。これより大船駅方面に向かう。横須賀線、東海道線の踏切を越えて、柏尾川に架かる戸部橋を渡った正面に「玉縄首塚碑」がある。玉縄城を守る北条氏と安房から攻めてきた里見氏との間に激しい戦が行われ、この戦で亡くなった北条側兵士の墓である。このとき墓前に植えられたという榎が今日大木になって聳えている。ここから10分ほど南下したところに、県立フラワーセンター大船植物園がある。晩秋とは思えないほど色彩豊かな草花が咲いていて、こころを和ませてくれた。園内には様々な花壇があり、季節の花が一年中絶えることなく咲いていた。この植物園の自慢は「しゃくやく」で、現在、200品種、2千株と全国一の規模を誇っていると云う。植物園から西に向かいトンネルを抜けると、右手に玉縄北条氏の菩提寺龍宝寺がある。寺院の背後が峻険な山に囲まれている要塞のようで、正面の山門をくぐると堅城の中に入ったような雰囲気を感じる。広い境内には、重要文化財に指定されている江戸時代中期の名主石井家の住居が移築されている。龍宝寺の南西にある小高い丘が「玉縄城」があったところで、江戸時代初期、一国一城令で廃城となったが、この地は三浦半島の付け根にあたり、地政学上の要所で、幕末期、老中松平定信は、外国に攻められたときの防衛前線基地として重要な場所と判断し、数千人を配置する城を築くことを計画されたという。現在、城址は清泉女子学園の学舎、校庭になっている。事前に、学園に許可を取って敷地内に入らせてもらい、往時の城址を見学した。中世の山城の形態が残されていて大いに勉強になった。校門の外にバス停があり、ここからバスで大船駅まで帰還することにしたが、折しも下校時に重なりバス停は女学生で溢れていた。満員バスに立ちぱなしを覚悟したが、女学生たちが、われわれを最初にバスに乗せてくれ、座らせてくれた。これまで19,000歩余り歩いて来て、疲労していたのでこの温かい心使いには感謝、感激だ。ウォーキングの最後に、大船観音寺を訪れる予定であったが、駅前から望める高さ25mの大船観音を拝観させていただき、本日はお開きとした。このあとは、のどを潤すべく大船駅東口にある居酒屋に入り、本日を振り返りました。  (石井義文)
これより反省会