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第19回お江戸散策は江戸四宿の一つ中山道板橋宿界隈を取り上げました。JR板橋駅東口の広場左手にある近藤勇、土方歳三の供養塔から散策を始めました。この供養塔は明治9年(1876)5月に隊士の一人であった永倉新八が発起人となって造立されました。高さ3.6m程ある細長い角柱で、正面には「近藤勇宣昌・土方歳三義豊之墓」と刻まれ、右側面と左側面には、井上源三郎を筆頭に合計130名の隊士たちの名前が刻まれていて新選組の聖地のようで朝からも何人かの見学者が来ていました。次に向かったのは旧中山道平尾宿を北に向かい17号線と交差した路地を渡ったところにある東光寺。ここには関ヶ原の戦いで西軍の将として奮戦した宇喜多秀家の供養塔がある。宇喜多は関ヶ原の戦い後、八丈島に流罪となるが、妻が加賀前田利家の娘豪姫で、前田家は永年宇喜多一族を支援し続けました。幕府が倒れ、明治の世になって、宇喜多家は赦免され、秀家の子孫たちは、加賀藩下屋敷の一帯に住まいするようになり、先祖供養のため当寺院に建立されたと云う。板橋宿はここ平尾宿の次に仲宿、上宿が続き、それぞれに名主が置かれていた。道幅は3間程で、当時もほぼ同様の道幅であったという。平尾宿と仲宿と境付近にあったのが観明寺で、明治初期の住職は、この界隈を繁栄させる為に露天商を集めて、縁日を開き、それがきっかけで通りは大いに繁盛したという。仲宿の商店街は今日でも賑やかで脇本陣跡、本陣跡そして高野長英が逃亡中に匿われたという医院の界隈は活気に満ちていました。上宿に入る手前の石神井川に架かる橋が鎌倉期から知られている板橋で今日の区の地名になっている。ここの橋から見下ろす河畔には桜の大木の並木が連なっていて、桜のシーズンには多くの花見客がやってくるという。上宿の商店街が途切れそうになったところに、日頃病苦や結婚に悩んでいる人たちの信仰を深めているという縁切榎の社があります。小さな境内には、切実な悩みを書いた絵馬が沢山奉納されていました。我々が見学中にも、心を込めて祈る人に出会い、その姿に一瞬緊張された次第です。ここら辺で昼食時間となり、この社の前にある手頃な「そば処」に入り、ランチタイムとしました。 |
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昼食後は、上宿を引き返し交差点を左折したところ50mにある文殊院を訪れました。この寺には、板橋本陣の主、飯田家代々の墓や宿場の飯盛女たちの墓があり、吉原の浄閑寺、新宿の成覚寺などを思い出し、思わず合掌しました。ここからは旧加賀藩下屋敷だったという中を歩き、東板橋体育館脇の広場に辿りついた。そこには明治初期に黒色火薬を製造したという巨大な圧磨機圧輪の記念碑がある。一見わかりにくい石輪のモニュメントであるが、同行した西村氏が、この製造原理を分かっていたので解説していただき、当時の火薬作りを少し理解できた次第です。ここも加賀藩下屋敷の中であるが、当時の面影を少し留めている小高い丘に向かい加賀藩下屋敷の標柱の建っているところに向かうと、そこには前田家の祖利家とお松を祀っている尾山神社の神門のステンドガラスのレプリカが置かれていた。ここからは石神井川沿いを下り、俳句の道を経て、八幡神社を経由して、国宝級作品をいくつも作った名陶工尾形乾山が眠っている善養寺、四谷怪談で名高いお岩さんの墓がある妙行寺、新門辰五郎の菩提寺盛雲寺、そして天才漫画家手塚治虫の墓所のある総禅寺など著名人の墓参りをしばし行い、江戸時代から有名な巣鴨の庚申塚に辿り着いた。ここでは漢字文化圏において、年・月・日・時間や方位、角度、の元になっている十干と十二支の組み合わせの「干支」について学んだ。このあと明治29年に作られ多くの優秀な女性を輩出したという明治女学校跡を訪れ当時の向上心溢れる女性の姿をしばし偲んだ。ここまで来ると巣鴨駅まではもう直ぐで、途中、とげぬき地蔵で有名な高岩寺江戸六地蔵の1つで知られる真性寺を参詣して今回の散策をお開きにしました。時刻はまた15:30で、日暮れまでは、まだあるが、喉を潤したくなり、全員で手軽な居酒屋を見つけて入り、本日を振り返りました。 (報告:石井義文) | |
第18回お江戸散策は市ヶ谷、神楽坂界隈を選んだ。神楽坂界隈は、江戸時代後期の安政年間に牛込花街が開け、明治以降は山の手随一の花柳界として発展した。関東大震災後は、日本橋・銀座方面より商人が流入し、夜店が盛んになり、山の手銀座といわれ、一段とにぎわいを増した。コースには小説家尾崎紅葉、泉鏡花、日本最初の歌う女優で知られた松井須磨子、文豪 夏目漱石の足跡もあり、先を楽しみにしながら出発した。最初の散策地は、市ヶ谷駅を出たところ石垣の遺構が残っている市ヶ谷見附跡、明治になってから取り壊されて面影はないが、残された石垣から、現存する大手門や桜田門と同様の門があったことが偲ばれる。ここから外堀の桜並木道を歩き、新見附橋を渡って、市ヶ谷佐土原町に入る。佐土の名は、江戸初期、家康の重臣本多佐渡守正信が住んでいたことに因んでいて、ここの一角に、浄瑠璃坂と云う所があり、江戸の初期に仇討ち事件があったという。次の散策地は、最高裁判所長官邸の近くにある箏曲家宮城道雄旧宅、現在記念館となっていて、友人だった佐藤春夫撰文による略伝碑が建っている。この付近は、江戸時代中期中御徒町と云い、多くの下級幕臣が住んでいて、幕臣で、狂歌師であった大田南畝、別号蜀山人も住んでいたという。ここから神楽坂方面に歩くと、右手に光照寺という浄土宗の寺院がある。この地は家康が江戸に入府する前は、大胡家という豪族が居城としていた牛込城があった所で、寺の南側は谷になっており要害の地であったことが窺える。境内には出羽酒井家歴代藩主の墓や旅先で亡くなった人の菩提を弔う諸国旅人の碑など見所がある。寺院を出た東の坂道を下ると神楽坂の繁華街の通りにでる。ここの繁栄の中核を担ったのが毘沙門天信仰で名高い善国寺で、幸いにも今日は寅の市が開かれていて賑わっている。本堂前には、狛犬ならぬ 毘沙門天に因み虎の像が二対居て迎えてくれる。境内には沢山の参詣者が居て、むかしの賑わいが浮かんでくる。神楽坂は多くの著名人たちが浮名を流した所でもあり、戦後政治の重鎮三木武吉や元首相 田中角栄ゆかりの料亭松ケ枝の跡や泉鏡花ゆかりの料亭うを徳、柳家金語楼、勝新太郎が住んでいた寺内地区、そして奥座敷の風情を残している兵庫横丁、芸者新道、かくれんぼ横丁など、夜の盛り場の趣があるところを逍遥したところでランチタイムとなった。今回の散策は8名の参加者だったので、都合よく、全員が入れる良いそば処があり、ゆっくりと腹ごしらえをすることにした。昼食後は、盛り場から離れたところにある築土八幡宮を参詣した。参道の階段途中にある石造鳥居は新宿区最古のものであるという。また、「金太郎」「一寸法師」を作曲した田宮虎造が境内傍に住み、当社と縁があったことから、彼の遺碑が残されている。次に向かったのが、赤城神社。上野国赤城山神社の霊をこの地に勧請して以来、牛込郷の総鎮守社として幕府に 庇護されてきたといい、大鳥居や社殿から格式と財力があるようにみえた。島村抱月が興した芸術倶楽部座は程近いところにあったが、いまはマンションになっていて、説明板だけだった。その先にある尾崎紅葉が居住していた家は、当時の家主、鳥居氏が現住している。弟子の泉鏡花も、この家の一角の部屋に寝泊りしていたという。この辺りは横寺町といい、ここから西に向かって南榎町へ進む。道の左に石柱が見えてきた。林氏墓所と書かれている。江戸幕府の儒講所を司った林羅山以後の当主たちが眠っている。墓所は施錠が掛けられていて入れないが、隙間から約50基あるという墓碑を見ることができた。ここから外苑東通りに出て、北に向かって200m程行った右手に浄輪寺の参道が見える。この寺院本殿の右奥に、日本が誇る江戸時代の数学者 関孝和の墓所があり、東京都指定史跡と書かれた解説板があり、「算聖」と称えられたことを記している。この寺院に隣接した真言宗多聞院には、島村抱月を愛して、彼が死んだ2ケ月後に後追い自殺した松井須磨子の墓がある。墓前で、彼女の大ヒット曲「カチューシャの歌」を皆で合唱して供養した。次の古刹宗参寺には、江戸期の儒学者山鹿素行の墓や乃木将軍手植えの梅木があり、これを拝観した。次に訪れたのは、夏目漱石が「三四郎」 「それから」、「門」などの傑作を執筆し、死去するまで住んだ漱石山房の跡地。この漱石山房は平成29年に復元されると云う。このあとは、足利氏ゆかりの月桂寺を経て、現在、防衛省がある旧尾張藩上屋敷跡を塀沿いに半周あまり歩いたが、長く続く塀に、大名屋敷の広大さを改めて認識する。ここで時計を見ると4時近くになって気温も下がってきた。足早に最後の散策地、市ヶ谷亀岡八幡宮に向かう。幕府の庇護を受け、隆盛したという同社は急な石段や鳥居からも往時を偲ぶことが出来る。偶然にも社殿で結婚式をしている場面に遭遇し、終わりめでたしで、本日の散策を閉じることができた。この後は、全員残留して懇親会に臨み、駅前の居酒屋で、本日を振返った。 (報告:石井義文) |
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第17回お江戸散策は天候が懸念されるなかでしたが、参加希望者の熱意から実施することになりました。当日は朝から電車も 遅延するなどして、明大前駅への集合時間を10分ほど遅れて散策へ出発です。最初に訪れ たのは明治大学和泉キャンパス。 明大前駅の駅名は、以前「火薬庫前」という物騒な名前だったそうで、江戸時代は 幕府の火薬庫があった所という。昭和9年に明治大学がこの地の払い下げを受けて和泉校舎を建設した。以来79年間明治大学教養課程の学舎として今日に至っている。大きなビルの学舎がいくつも建ち、ティータイムも近づいたので、学生食堂でひと休みさせていただき、現在の学生たちの様子を感じ取ることができました。続いて、明大同様に払い下げを受けて、墓苑を建設した築地本願寺別院和田堀廟所に向かう。名刹の墓苑だけあり、多くの著名人が泉下でやすらかに眠っている。佐藤栄作、古賀正男、服部良一、海音寺潮五郎、水谷八重子、 樋口一葉、笠置シズ子、等々。泉下の笠置さんには敬意を表して”東京ブギウギ”をハーモニカ演奏で供養した。墓参をしている間に、昼食時間が近くなったので、甲州街道第一宿場であった 下高井戸へ足を進めた。駅前商店街の一角に中華レストランチェーン店で定食を取る。まづまづの味で十分腹ごしらえができた。次は東急世田谷線に乗って、山下駅に向かう。住宅地の中を走る電車は、江ノ電を彷彿させて、情緒があり、きれいな街並みを車窓から眺めても楽しめた。山下駅から数分のところにある成勝寺には、松尾芭蕉の弟子で、芭蕉を物心両面で支えたという杉山杉風の墓があり、墓碑に刻まれた辞世句を読みながら、この徳のある人物を偲んで合掌。この寺院から数分のところに足利将軍家の創建と伝わる曹洞宗寺院常徳寺がある。境内は欅や楠の大木が所々に立ち、静寂に包まれていた。この寺院の門前の道は、比較的狭い道幅の府中街道が走っていて、車が頻繁に往来する。この古道を東に数分いくと鬱蒼とした大木が茂っている古社世田谷八幡神社に出た。この古社では奉納相撲で豊作、凶作を占う慣習があって、今日でも東京農大相撲部によって奉納相撲が行われているという。神社をでると、宮坂駅がそばにあり、踏切を越えて100mほど行った所の左側に豪徳寺の巨大な石門が見える。江戸幕府筆頭譜代大名家の菩提寺という格式らしく、参道に植えられた樹齢の経った松並木が道を覆い隠すように並んで立ち、暑さを凌ぐように、涼風が靡いてくる。ここには桜田門外で暗殺された大老井伊直弼の墓があり、都の史跡になっている。直弼の墓の後部には、暗殺者から必死に主君を守ろうとして、討ち死にした家臣八名の墓もあり、墓石からも、その無念さが伝わってくる。当寺は、井伊家第2代藩主直孝が鷹狩りの折、この寺にいた猫が手招きするので立ち寄り、ここで休息した。すると、休息している間、にわかに悪天候になり、猫が手招きしてくれたので、その難を逃れたという。この事を喜んだ直孝は多額の寄進をして荒れていた寺院を立て直すとともに菩提寺にしたという。住職は猫が死んだあと境内に招猫堂を建て供養した。この招き猫は評判となり、福を求める参詣者の人気になったという。豪徳寺の門前を左折して、100m程の住宅地の一角に森に包まれた小高い丘がある。ここは中世この地方を支配していた吉良氏の居城、世田谷城の址である。子どもたちが駆けずり回っていて、ほどよい遊び場になっている。次に散策したのが、その吉良氏の菩提寺である勝光院。鬱蒼とした竹林に覆われ、静寂につつまれた参道から山門への空間はこころを和ませてくれる、よい雰囲気である。五輪塔や宝篋印塔が並ぶ吉良一族の墓をお参りして合掌。次に世田谷代官屋敷跡に向かう。世田谷代官屋敷は彦根井伊家の世田谷領20ヶ村の代官所でしたが、代官の陣屋として建てられたのではなく、この地の名主であり世襲で代官職を務めた大場家宅を役所とした邸宅兼用の代官所でした。現存する建物は代官所として治安維持や裁きを行う御白洲なども備わっているが、武家屋敷というよりも豪農の邸宅としての形態が伝わってきます。ここより松陰神社へ向かう。吉田松陰は、勅許を得ずして開国に踏み切った幕府を批判したため捕えられ、伝馬町の獄舎で斬首されましたが、松陰の教え子である高杉晋作や久坂玄瑞ら松下村塾の門下生らによってこの地に改葬された。現在でも松陰を尊敬する人達が墓参に訪れ、墓前には献花が絶えないという。墓域の一角には、松陰を尊敬していた桂太郎の墓もある。安政の大獄で斬首された吉田松陰の墓所が、弾圧した井伊直弼の菩提所から、600mほどしか離れていないところにあるのは皮肉な話である。神社を出て商店街を歩き世田谷線の松陰神社前駅から三軒茶屋駅へ向かった。駅から100mほどのところに、本日の最終散策地である江戸五色不動のひとつ教学院目青不動尊がある。。当寺は青山墓地そばにあったが関東大震災後、当地に移転してきたという。 訪れた時間が夕刻になってしまったため、残念ながら御不動様を拝観することができなかった。墓域には小田原藩大久保家歴代藩主の墓所があるが、施錠が掛けられていて、同様に墓参が叶いませんでした。 今日は、関西方面は35℃にもなる猛暑だったそうだが、東京は幸い25~26℃ほどで、蒸し暑さはあったが、快適な散策が出来ました。喉を潤したくなったので、恒例の反省会を駅周辺の魚の美味しそうな居酒屋に飛込んで行った。和気藹藹の歓談で大いに楽しき一時を過ごせたのであるが、うっかり失念して、楽しい雰囲気の写真を撮り損ねてしまいました。 (報告:石井義文) |
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【散策の後は・・・ビールでカンパイ!】 | ||
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【散策の後は・・・お疲れさまでした!】 | |||
平成24年(2012)11月20日(火)に、第13回 お江戸散策を実施しました。当初、17日に行う予
定でしたが、 強い 雨の 天気予報でしたので、この日に延期したところ、これが幸いして、絶好 の秋日和に恵まれました。今回の散策地は、新宿から四谷に至る地域を選びました。江戸時代 元禄年間に、甲州街道の江戸から、第一の宿場であった調布との間に、内藤新宿がつくられた ことにより、商業、文化、娯楽の町として繁栄した足跡を辿りました。そして、ここは多摩川上流 から、江戸の市中へ上水を供給した玉川上水が引かれた所でもあり、江戸時代の高度な水道 技術も学ぶことが出来ました。 この散策で訪れたところは以下の通りです。 〇 天龍寺: 徳川二代将軍秀忠の生母が拝領した寺院で、大きな葵の紋所が彫まれた正門と 追出しの鐘で有名。 〇 花園神社: 新宿の芸能・遊興文化と密接に結ばれている神社。当日は盛大な酉の市が開 かれていた。 〇 成覚寺: 通称、投げ込み寺と言われ、宿場で働く飯盛り女の悲劇が伝わってくる。 〇 正受院: 亡者が冥土に行くとき渡る三途の川で渡し賃の六文銭を持たない者から脱衣婆 〇 太宗寺: 江戸六地蔵の一つを安置している寺院で、高遠藩内藤家の菩提寺。 〇 新宿御苑インフォメーションセンター: 御苑に隣接した施設で、写真、絵画、パネル等の展 示が行われている。 〇 新宿御苑: 明治39年に完成した都内有数の名園。和洋折衷の庭園は春夏秋冬、花が咲か ないときはない。 〇 四谷大木戸: 甲州街道の江戸への出入り口の設けられた大木戸。玉川上水の水番所もこ こに設けられた。 〇 長善寺(笹寺): 江戸時代初期から、将軍家に庇護された寺院で、寛永年間勧進相撲が行 われていた。 〇 於岩稲荷 田宮神社: 四谷怪談で有名なお岩の霊を祀っている。幽霊が出るという井戸は 向いの陽運寺にある。 〇 西應寺: 明治天皇上覧の面前で兜割りを成功させた幕末の剣豪榊原健吉の墓があること で知られる。 〇 戒行寺: 鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵の菩提寺として知られる。 〇 勝興寺: 人切り浅右衛門と恐れられた7代、8代の山田浅右衛門の墓がある。 〇 須賀神社: 四谷十八ケ町の総鎮守として信仰された神社。戦災で焼失を免れた三十六歌 仙絵がある。 〇 愛染院: 真言宗の寺院で、内藤新宿を作った高松喜六、盲目の天才国学者 塙保己一の 墓がある。 〇 西念寺: 徳川家康に信頼された伊賀忍者の頭領 服部半蔵が開基した寺。半蔵の墓もこ ここにある。 〇 迎賓館 赤坂離宮: かって紀州藩の中屋敷があった所で、明治42年、迎賓館として建設さ れ今日に至る。 〇 四谷見附跡: 不審な者を監視する所を見附といい、江戸城に三十六あった見附の一つ。 (地図) (報告 石井義文) |
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【散策の後は・・・お疲れさまでした!】 | |
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報告・掲載: 石井義文 | ||
【散策の後は・・・】 | ||
うまいビールに 新鮮なさかな! お疲れさまでした!! |
第11回お江戸散策は、当初3月末日に行う予定でしたが、下谷神社。 ○ 浮世絵画家の巨匠葛飾北斎が眠っている寺として有名な誓教寺。 ○ 大日本沿海輿地全図を作った伊能忠敬、幕府天文方で忠敬の師として、その大事業を支援した高橋至時景保父子、江戸の侠客 幡随院長兵衛、江戸後期の名画家 谷文晁 等の墓所のある源空寺。 ○ 玉川上水を完成させた玉川兄弟の眠る聖徳寺。 ○ かっぱ寺と呼ばれる曹源寺。 ○ 江戸時代から民衆信仰の中心寺院 金龍山浅草寺。 ○ 墨堤にかかる、言問橋、桜橋、吾妻橋。 ○ 武島羽衣、滝廉太郎による名曲「花」の碑。 ○ 江戸の遊興地吉原に近く風光明媚で知られ、池波正太郎がふるさと語る待乳山本龍院(聖天)。 ○ 招き猫と縁結びで有名な今戸神社。 ○ 中村勘三郎の悲願なった平成中村座。 ○ 墨堤桜の記念碑。 〇 団子で有名な長命寺 ○ 明国風建築の黄檗宗寺院 弘福寺。 ○ 三井越後屋の守護神 三囲神社。 ○ 本所向島の総鎮守 牛島神社。 ○ 江戸期水戸藩下屋敷だった隅田公園。 ○ 現在、墨田区役所やアサヒビールの本社がある江戸時代佐竹藩の名園だった浩養園跡。 ○ 日本のシンボルの一つになる東京スカイツリー。 以上ように、今回も歴史上著名な人の業績を学び、春爛漫、満開の桜を満喫できた散策でした。 (報告:石井義文) |
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これより懇親会 |
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