同期会

第22回 大塚・池袋界隈

2014年07月12日(土) | コメント(0)
  第22回お江戸散策は、大塚にある造幣局 東京支局見学に重きを置き、巣鴨プリズンの跡地そして、いままでの散策で東京六大学のうち五大学ををすでに巡り、六番目になる立教大学を見学を含むコースを企画した。実施日は、生憎の雨天予想であったが、午後から曇天が見込まれることで実施に踏みきった。最初の見学地、造幣局は、貨幣の製造が主事業であるが、昨年高倉健さんが受賞した文化勲章や国民栄誉賞などの勲章も製造している。その現物を見学できるのが楽しみの一つである。期待に違わず、説明員も実に知識豊富で、純正画一で偽造されない貨幣製造の工程などを丁寧に説明してくれた。
 次に向かったのは、昭和46年(1971)年まで、巣鴨プリズンと呼ばれた拘置所のあった、池袋サンシャインシティである。近代的な高層ビルが拘置所だったとは想像できないくらいの様変わりである。この一角に東池袋中央公園がある。極東軍事裁判で死刑判決をされたA級戦犯7名が拘置所のこの地で処刑が行われた所という。現在、「永久平和を願って」と刻まれた碑が建っている。サンシャインシティ内で昼食を取ったのち、本立寺を訪れた。前回、五反田を散策した折、柳家金語楼が永眠している寺が、同宗、同名の本立寺であったが、あちらは近代建築寺院であるのに対し、こちらは古風な寺院建築で、大都会の真ん中にありながら江戸情緒を残していて落ち着きを感じる。江戸中期、遊郭吉原の花魁で諸芸に通じた絶世の美女だったとういう七代目高尾太夫が、この寺に眠っている。大名に見初められ、身請けをしてもらい、藩主の側室になったという”高尾太夫”。どんな美女だったのか!鼻下長して想像するだけでも楽しい。
 ここから明治通りを横断して、山手線地下通路を越えて、池袋西口に行く。メトロポリタン劇場に隣接する一角に、丸池と成蹊学園跡の碑がある。周辺の景観は、大正時代までは、葦が映える池があったところとは想像もできない変化である。ここから、もと来た地下通路のあった道に戻り、横断して細い路地を入っていくと景観は変わり、一転して住宅街になる。この住宅街の一角に自由学園 明日館の建物が見える。建物は、アメリカの名建築家が指導して作らせた建物で、都の重要文化財に指定されている。江戸期、この辺は将軍が鷹狩りを行った処で、上り屋敷公園の名も、これに因んでいる。ここから西武池袋線の踏切を越えたところに目白庭園と赤い鳥社跡がある。庭園内には、木造瓦葺平屋建ての数寄建築や六角浮き見堂が配され、四季折々の様々な自然の表情を満喫できるよう草木が配植されている。また、ここから程近いところに、尾張徳川家が所蔵する美術品の管理、一般公開などを運営する徳川黎明会がある。レンガ造りの本邸と巨石を積んで造られた塀には、格式と風格を漂わせていた。
 次に訪れたのが、六大学の一つ、立教大学だ。構内には鈴懸の径碑がキャンパス中央通リに建っていた。♪鈴懸の径、立教大学校歌!をハーモニカ演奏して、しばし寛ぐ。重厚なレンガ造りの校舎と整然としたキャンパスは美しい。立教大学の一角に、推理作家 江戸川乱歩の旧宅が残されている。名探偵 明智小五郎が家に居るのではと興味を抱いたが、生憎、本日は休館で中に入れなかった。次に向かったのが、今回最終散策地の祥雲寺。大名家を檀家にもつ寺院だけあって本堂や鐘楼も立派で、当墓域には、大学時代に教えを受けた教授が眠ってることもあり、墓参できて感慨深いものがあった。(石井義文)

 第21回お江戸散策は、五反田・目黒界隈を選択した。五反田は目黒川の谷がほぼ東西に流れ、その谷周辺の水田が一区画が5反(約5000m2)あったために名づけられたという。最初に訪れたのは、旧島津侯爵の邸宅で、現在、清泉女子大学があるところ。しかし、この建物は、都重要文化財に指定されたことから、一般の立ち入りができなくなり、残念ながら門前で内部を想像する散策となってしまった。この界隈は、都内屈指の高級住宅地で周辺には豪奢な邸宅が並んでいる。その一角に日蓮宗本立寺がある。寺とは思えない近代建築で、墓域には柳家金語楼の墓がある。桜田通りに出た高台の一角に袖ケ崎神社がある。江戸期は東京湾が望める眺望が良いところだったという。
 高輪台の交番を西に向かって200mほどのところに明治初期、枢密院で活躍した寺島宗則の屋敷で、戦後荏原製作所の創始者畠山一清の邸宅だった畠山記念館がある。邸内は老木が生い茂っていて、静寂な空間である。同所から、5~6分歩くと、池田山公園にたどり着く。江戸期、備前池田藩の下屋敷だった処で、回遊式庭園の名残を留めており、散歩には絶好の公園である。ここから北の一角は、俗に言う寺町で寺院が軒を並べて建っている。その一角に、当所、福澤諭吉の墓所があった定光寺がある。立派な礎石が建っているが、現在、福澤の墓は、麻布善福寺に転墓している。ここから目黒通りにでて、昼食を取る国立科学博物館附属自然教育園に向かった。65歳以上は、入園料が無料だという。得をした感じだ。
国立自然教育園のなかにある四阿で昼食を取ってから、園内を散策した。自然教育園は、まさに大都会のオアシスとも言うべきところで、無数の樹木、草花が生育して、ツツジ、サツキなどが開花していて、青葉も日に映える美しい景観である。鳥類も多く、普段見かけられないオオルリ、キビタキ、コゲラなどの愛くるしい小鳥も見られる。小鳥のさえずりを聞きながら、園内を歩くと、自然と♪爽やかなみどりよ♪と歌を口ずさむようになる。見たこともないような大木を見つけると、♪この木何の木 気になる木♪の歌になる。電車で数時間かけて移動しなくても、大自然を満喫できるちょっとした桃源郷であった。
 目黒駅の東口前ビルディングに久米美術館の名前が見える。ここは明治四年、岩倉具視を団長とする遣外使節団に参加した歴史学者久米邦武の邸宅だったところで、明治初期の重要文化財などが展示されている。目黒駅周辺は坂道が多く、権之助坂行人坂など、一般に名の知られた坂道の謂れは興味深い。行人坂を下がったところに、江戸期、大火の火元だったという大円寺がある。境内には五百羅漢石像や顔立ちが可愛い六地蔵そして八百屋お七と恋仲だったという吉三ゆかりの阿弥陀如来像など見所がたくさん有り、訪れる歴女の姿も多く見かける。大円寺を出て、行人坂に下ると、目黒川の畔に、日本国内最初の総合結婚式場として昭和の竜宮城」とも呼ばれた目黒雅叙園がある。今日でも、都内一流の結婚式場、宴会、会議場として、繁栄している。川の上流に沿って歩くと目黒通りに出る。通りを左折して目黒通りを南下すると山手通りと交差する。ここに目黒の総鎮守 大鳥神社がある。大鳥神社で、一休みしてから、山手通り沿いに五反田方面に300m程歩くと五百羅漢寺の案内板を見る。その方面に進むと右手に海福寺がある。この寺院には、江戸中期に永代橋落橋で溺死した440名への慰霊塔がある。五百羅漢寺は、江戸随一の名勝とまで謳われたとおり、寺内に鎮座する木造の羅漢像305体は圧巻で、北斎や広重の錦絵に描かれた輝きを今日も伝えている。目黒不動尊は、ここから程近い。江戸五色不動の筆頭にふさわしく、今日でも参詣者が多い。境内には、青木昆陽の碑、独鈷の滝、みずかけ不動、本堂の裏手には、露座の銅製大日如来座像が安置されて見所が多い。また、境内端部には、童謡作曲家 本居長世の碑などがある。次に向かったのは、今回の最終散策地 林試公園。住宅地の真ん中に斯様な広大で、開放的な大空間を付近の住民が大切にしていることが感じられた。時、まさに五月の盛り、公園内の樹木の緑は、自然教育園に負けず照り映えている。公園の美しさを十分鑑賞して、本日の散策を締め括った。このあとは恒例の反省会を兼ねた懇親会を最寄り駅武蔵小山商店街の居酒屋で開催し、懇親を深めました。(石井義文)
多摩森林科学園・多摩御陵ハイキング
 「さくら」といえばソメイヨシノ・・・と世にもてはやされるが、その盛りをとうに過ぎたころ、いつも元気な5期のメンバーが珍しい桜の宝庫である多摩森林科学園を散策した。園内には原種・希少種・見本木など約1700本の桜が植えられ、2月下旬から5月上旬までそれぞれが時期ごとに見ごろということだが、私たちが訪ねた4月21日も園内いっぱい今を盛りと咲き誇る桜、しかもどれ一つとして見たことがないような珍種の桜でいっぱいであった。桜には花の名を示す木札が下げられているが、そのどれもが奥ゆかしい名で、桜と日本人の密接なつながりと奥深い意味を示して余りある。たとえば「御衣黄(ギョイコウ)」、薄い黄緑色の花弁、花の色・木の姿、それに重ね合わせて命名されたことが本当に心にしみてくるような、日本人の感性の豊かさを如実に示すような名である。
 山裾の傾斜地を利用した多摩森林科学園のアップダウンを心地よく歩いてから、その後、大正天皇・昭和天皇が葬られている多摩御陵を参拝した。JR高尾駅からJR西八王子駅までの1駅間のハイキングであるが、日本人の感性と原点に触れるハイクであった。  (文:渡辺直子)        ( スライドショー  )     
多摩森林科学園は、桜の宝庫です 
 
  ♪ 六郷渡れば川崎の万年屋 鶴と亀との米饅頭 こちゃ急いで神奈川へ ♪と民謡「お江戸日本橋」の2番で歌われた「米饅頭」は江戸時代から鶴見の名物である。鶴見駅近くの老舗「清月」で買って、おやつを手に入れたところから、第2回横浜散歩が始まった。鶴見の名刹、曹洞宗大本山「総持寺」に向かう。全国に末寺1500余寺を抱える大寺院は、山門、大祖堂など圧倒する威容を誇っていた。境内には、数十本の赤い花を咲かせたエゾヒガンサクラが満開になっていて美しい。墓域には、人気俳優だった石原裕次郎の墓があり、折しも彼岸日であることもあり、沢山の花で墓石が覆われていた。墓所の左には、裕次郎夫人、北原三枝さん自筆の墓碑が置かれている。総持寺を出て海岸線に向かい旧東海道に入ると鶴見線国道駅があり、江戸期にぎわったという街道を歩むと生麦事件現場がある。旧東海道のこの界隈は、漁村として知られたところで、現在でも魚店が軒を並べていて活気がある。この一角で、1862年9月14日午後3時ころ、薩摩藩主島津久光一行の行列に無礼を働いた角で、イギリス人4人が殺傷される生麦事件が起きた。この詳細を理解するべく「生麦事件資料館」へと向かう。資料館は、生麦で酒店を営んでいた浅海武夫氏が自宅を改造して作ったもので、われわれ16名が入ると部屋がいっぱいなった。浅海館長の、約1時間に及ぶ講演ビデオを鑑賞して、事件の真相とその後この事件が倒幕の遠因になったことを学ぶ。84歳のご高齢とは思えない言語明瞭で迫真に満ちた語り口の浅海館長の説明に感服。退出時、一緒に記念撮影を収めさせていただき、ハッピーな気分になったところで空腹を感じてきた。近くの若い人たちに人気のあるキリンビアビレッジのレストランで昼食を取ることにした。うまいビールに、美味しい料理、これもハッピーであった。
 昼食後は、京浜急行生麦駅から神奈川新町に向かった。新町から旧神奈川宿の散策となる。神奈川宿の界隈には、寺院が多い。幕末にオランダ領事館となった長延寺は移転して、現在は公園になっている。外国の領事館にされるのを嫌い、本堂の屋根を剥がし、「修理中だ」と届け出て領事館にされるのを拒んだ良泉寺、霊験あらたかな稲荷社として信仰の厚い笠のぎ稲荷神社神明宮の別当寺であった能満寺、神奈川の語源と伝えられ、現在は暗渠になっている上無川などをテンポよく散策した。神奈川小学校の外壁には、当時の神奈川宿の図会がタイル画にして描かれている。この興味深い図会をしばし鑑賞した。続いて、ここから程近い大田道灌ゆかりの東光寺、徳川家康から朱印地を許された金蔵院、熊野権現の分社、熊野神社を周る。しばらく、休憩を取らせていただいた神奈川地区センターには幕府の法度や法令を庶民に通達させた高札場が復元されていた。当時の原始的な情報伝達に、庶民生活の姿を想像ししばし感慨を深める。続いて、アメリカ人宣教師の宿舎になっていた成仏寺、浦島伝説があり、フランス領事館だった慶運寺、イギリス領事館だった浄瀧寺が近接したところにあるので、短時間で散策ができた。東海道中の名井戸と言われた神奈川大井戸もこの一角にあり復元されていた。この井戸に隣接している寺院が宗興寺で、ヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士が逗留していたとき生麦事件が起きて、ヘボン博士は負傷者の傷の手当に本覚寺へここから出向いた。この寺院から坂道を上り切ったところに権現山公園がある。かっては古戦場で砦があったところで、向かいの本覚寺まで尾根続きになっていた。公園の西側は深い谷になっていて、東海道線、京浜東北線、京急線が走っているが、これは明治初期に、権現山を削って鉄道を走らせたのだという。公園を下ったところに漁民たちの信仰を集めた洲崎神社がある。大木に覆われた、静かな境内は一抹の清涼剤だ。神社前の旧東海道にある宮前商店街を西に向かって数分で第一国道に出る。横断したところにアメリカ公使館が置かれた本覚寺がある。大震災や戦災でも焼失をまぬがれた山門の脇には日米通商条約締結に心血を注いだ岩瀬忠震の顕彰碑がある。旧東海道に戻り、保土ヶ谷方面へ歩むと右手に大綱金比羅神社がある。船乗りたちの、航海の安全を祈る神社があることはこの場所が海に海に近接していた証しであるが、今日ではビルに囲まれていて望むべくもない。ここから道は登り坂になっているが江戸期、この一帯は台町と呼ばれ、浮世絵師広重は、この坂道に面して並ぶ旅籠、料亭とその左手の海原とそこに浮かぶ舟を描いている。この料亭のなかに坂本龍馬妻おりょうが働いていた「田中屋」がある。また、東海道の要所であったこの地には、外国人の出入り調査と保護を目的とした神奈川台関門が設けられていた。台町は、明治に入ってから、横浜三名士の一人、高島嘉右衛門が、この丘から鉄道敷設の陣頭指揮を行い、自らもこの高台に住んだことから、高島台と呼ばれるようになった。現在も子孫の方が住んでいるという。ここで本日の散歩を終えることにした。
見上げると日も遠き山に沈んで行き、喉を潤したくなってきた。横浜駅西口まで歩き、程よい居酒屋に入って、きょうの一日を振り返りました。(石井義文)
 同期の皆さんが60歳を迎えたお祝いの会を開催しました

■日時:平成26年(2014)3月15日(土)17:00~
■場所:川崎日航ホテル

第20回 根津・白山界隈

2014年03月22日(土) | コメント(0)
 第20回お江戸散策は、当初予定した日が大雪の影響を受けて、延期を余儀なくされ、2月22日に残雪が残る中でも、好天気に恵まれ実施することができた。今回の散策の見どころは、神楽坂界隈編で登場した太田南畝の足跡が、いくつか散見できること、東京10社のうち2社を参詣できること、そして植木等ゆかりの寺を訪れることがあげられる。 JR日暮里駅北口に集合し、駅からほど近いところにある本行寺から散策を開始した。
 本行寺は、江戸期には「月見寺」と呼ばれ、景勝優れた寺院として、文人墨客たちに親しまれたという。墓域には、太田南畝と交遊のあった書家の市河米庵や幕末期、幕府大目付として活躍した、永井尚志の墓がある。隣接する経王寺には、彰義隊戦争のとき、彰義隊士たちが隠れ込んだため、新政府軍から銃撃を受けたという。その時の傷痕が門扉にいくつも残っている。経王寺を出て、御殿坂を少し行くと下り階段の下に「谷中銀座」の看板が見える。ここが夕焼けだんだんと名付けられた人気の下町商店街だ。秋の夕刻は、ひときわ夕焼けが素晴らしいという。谷中銀座を抜けると、不忍通りに出て、左100mほどのところにローソンがあり、その脇路地を曲がると、正面に公園が見える。須藤公園である。実業家、須藤吉左衛門の私邸であったが、須藤が東京都に寄付して公園となった。傾斜地を利用して周囲の水を集めて池を作り、その畔に弁財天が置かれ、近隣の人たちの憩いの場所になっている。出版の大手、講談社はこの近くで発祥し、その地は同社の社員寮になっている。次に向かったのは、団子坂を上ったところにある森鴎外の旧宅「観潮楼」だ。鴎外はこの家に30年間住み、この家から東京湾の望む景観を気に入っていたという。現在、記念館として新築のビルに生まれ変わっている。館を出て、大観音通りを白山方面に進むと、右手に身の丈6mの駒込大観音で親しまれている光源寺がある。本堂前の蓬莱梅と庚申塔が象徴的である。光源寺の北側には、蓮光寺があり、樺太や国後、択捉等の千島列島の探検をして功績をあげた最上徳内の墓所がある。この蓮光寺の西側には、高林寺があり、大坂適塾という蘭学塾を興した緒方洪庵の墓がある。この高林寺や本郷通りの向かいにある天英寺の辺りは、江戸時代、駒込土物店と呼ばれ、周囲の農家で作られた野菜の市場があり、大いに賑わい、その繁栄は昭和初期まで続いたという。ここらで、そば処に入り昼食休憩とした。

 昼食後の散策は白山神社から始めた。大化の改新後の全国寺社整備当寺の創建と伝わる古社で、徳川将軍家にも篤く庇護されてきたという。この神社から近いところに江戸の狂歌師太田南畝(蜀山人)が眠る本念寺があるので立ち寄って墓参をした。太田蜀山人は、お江戸散策では、いたるところで登場してきた人物で、幸運にも墓参をすることができた。再た、白山神社方面に引き返し八百屋お七の墓がある円乗寺、そして、お七が放火をしたという大圓寺へ向かった。大圓寺には、幕末期講武所支配役として砲術師範をした高島秋帆の墓がある。当寺院から北に進んだところの榮松院には、常緑樹で天然記念物に指定されているシダジイがあるというので、この寺院にも立ち寄った。噂に違わず幹周8mに及ぶ巨木で周囲を圧倒していた。次に向かったのが真浄寺。この寺院は、植木等が小学校を卒業後、小僧として修行した寺院である。植木は、毎朝4時(冬季は5時)起きで、床の雑巾がけ、庭掃除、檀家周りなどをして、夕刻から近くの京華中学・高校に通ったという。そんな生活を6年間過ごしたそうである。この後、夏目漱石が「吾輩は猫である」「草枕」などの執筆活動をした住居「猫の家跡」を見て、東京十社の一つで権現作りの根津神社を参詣した。この神社はツツジの名所として知られ、今は時期ではないが、それでも多くの参詣者が来ていた。この根津神社をもって本日の散策は終了なのであるが、時間はまだ3時半。少々早く終わってしまった。
 日暮れまで、時間があることから、参加者の提案で、近くに弥生式土器発祥の地があるので、行こうということになり、歩みを進めると、途中、詩人サトーハチローの旧宅跡を知ることが出来た。弥生式土器の記念碑があるところは、江戸期、徳川御三家水戸藩の中屋敷があったところで、現在、東京大学弥生キャンパスの敷地にある。このキャンパスの中には、徳川斉昭の歌碑・「向岡記」碑があり周辺には弥生美術館、竹久夢路美術館などもあって楽しませてくれる。弥生門から東京大学の構内に入り、日本最高学府の雰囲気を楽しんだ。東大からは、上野方面に向かい、無縁坂を下って、不忍池中道を通って、弁天堂に向かい、清水観音堂、西郷隆盛像、そして太田蜀山人の碑を見学して本日の散策を終了とした。当初予定より大幅延長の散策で、22,000歩を越える歩行だったが、全員、元気に歩き通した。このあとは恒例の反省会となり、アメ横裏路地の居酒屋で“カンパイ!”と相成った。(報告者・石井義文)
   第19回お江戸散策は江戸四宿の一つ中山道板橋宿界隈を取り上げました。JR板橋駅東口の広場左手にある近藤勇、土方歳三の供養塔から散策を始めました。この供養塔は明治9年(1876)5月に隊士の一人であった永倉新八が発起人となって造立されました。高さ3.6m程ある細長い角柱で、正面には「近藤勇宣昌・土方歳三義豊之墓」と刻まれ、右側面と左側面には、井上源三郎を筆頭に合計130名の隊士たちの名前が刻まれていて新選組の聖地のようで朝からも何人かの見学者が来ていました。次に向かったのは旧中山道平尾宿を北に向かい17号線と交差した路地を渡ったところにある東光寺。ここには関ヶ原の戦いで西軍の将として奮戦した宇喜多秀家の供養塔がある。宇喜多は関ヶ原の戦い後、八丈島に流罪となるが、妻が加賀前田利家の娘豪姫で、前田家は永年宇喜多一族を支援し続けました。幕府が倒れ、明治の世になって、宇喜多家は赦免され、秀家の子孫たちは、加賀藩下屋敷の一帯に住まいするようになり、先祖供養のため当寺院に建立されたと云う。板橋宿はここ平尾宿の次に仲宿、上宿が続き、それぞれに名主が置かれていた。道幅は3間程で、当時もほぼ同様の道幅であったという。平尾宿と仲宿と境付近にあったのが観明寺で、明治初期の住職は、この界隈を繁栄させる為に露天商を集めて、縁日を開き、それがきっかけで通りは大いに繁盛したという。仲宿の商店街は今日でも賑やかで脇本陣跡本陣跡そして高野長英が逃亡中に匿われたという医院の界隈は活気に満ちていました。上宿に入る手前の石神井川に架かる橋が鎌倉期から知られている板橋で今日の区の地名になっている。ここの橋から見下ろす河畔には桜の大木の並木が連なっていて、桜のシーズンには多くの花見客がやってくるという。上宿の商店街が途切れそうになったところに、日頃病苦や結婚に悩んでいる人たちの信仰を深めているという縁切榎の社があります。小さな境内には、切実な悩みを書いた絵馬が沢山奉納されていました。我々が見学中にも、心を込めて祈る人に出会い、その姿に一瞬緊張された次第です。ここら辺で昼食時間となり、この社の前にある手頃な「そば処」に入り、ランチタイムとしました。
   昼食後は、上宿を引き返し交差点を左折したところ50mにある文殊院を訪れました。この寺には、板橋本陣の主、飯田家代々の墓や宿場の飯盛女たちの墓があり、吉原の浄閑寺、新宿の成覚寺などを思い出し、思わず合掌しました。ここからは旧加賀藩下屋敷だったという中を歩き、東板橋体育館脇の広場に辿りついた。そこには明治初期に黒色火薬を製造したという巨大な圧磨機圧輪の記念碑がある。一見わかりにくい石輪のモニュメントであるが、同行した西村氏が、この製造原理を分かっていたので解説していただき、当時の火薬作りを少し理解できた次第です。ここも加賀藩下屋敷の中であるが、当時の面影を少し留めている小高い丘に向かい加賀藩下屋敷の標柱の建っているところに向かうと、そこには前田家の祖利家とお松を祀っている尾山神社の神門のステンドガラスのレプリカが置かれていた。ここからは石神井川沿いを下り、俳句の道を経て、八幡神社を経由して、国宝級作品をいくつも作った名陶工尾形乾山が眠っている善養寺、四谷怪談で名高いお岩さんの墓がある妙行寺新門辰五郎の菩提寺盛雲寺、そして天才漫画家手塚治虫の墓所のある総禅寺など著名人の墓参りをしばし行い、江戸時代から有名な巣鴨の庚申塚に辿り着いた。ここでは漢字文化圏において、年・月・日・時間や方位、角度、の元になっている十干と十二支の組み合わせの「干支」について学んだ。このあと明治29年に作られ多くの優秀な女性を輩出したという明治女学校跡を訪れ当時の向上心溢れる女性の姿をしばし偲んだ。ここまで来ると巣鴨駅まではもう直ぐで、途中、とげぬき地蔵で有名な高岩寺江戸六地蔵の1つで知られる真性寺を参詣して今回の散策をお開きにしました。時刻はまた15:30で、日暮れまでは、まだあるが、喉を潤したくなり、全員で手軽な居酒屋を見つけて入り、本日を振り返りました。 (報告:石井義文)

第10回 奥多摩むかし道

2013年12月14日(土) | コメント(0)
 2013.11.14(木)、女性7名、男性6名が集まり、奥多摩むかしみちハイクが実施された。
 朝、立川駅で幹事二人が青梅線のホームを間違うハプニングがあり、他にも二人いて、四人が遅れて奥多摩湖へ到着。本日、唯一の結構きつい登りで、上から紅葉の奥多摩湖を眺める。下って見晴らし台にて、12時を過ぎたので昼食にする。いつもの様に、色々な差し入れが飛び交う。あとは下る一方である。途中、歯痛た地蔵、耳痛た地蔵、滝、馬・牛観音、弁慶の腕ぬき岩、白髭神社を楽しみながら歩く。驚いた事に、突然、小澤先生が現れた。山に登った後、誘われていたので、追い掛けて来たとの事。結構、長い道のりだった。
  温泉は省略して、立川で打ち上げ。今回も良く食べ、良く飲んだ。(佐々木記)

〔懇親会〕 
 【22期同期会
  2013年11月9日、22期の同期会を日吉で行いました。
  岸先生、田辺先生をお迎えして約100名が集まり、昔話に花を咲かせ、近況を報告しあいました。
  22期の同期会は、2009年、2011年を経て3回目ですが、今後も2年に一回のペースで開催していきたいと思います。
  幹事代表 関根登(noboru@ha.catv-yokohama.ne.jp)  以上

 
 多摩高校の伝統行事「大師強歩」当日に合わせ同じコースを川崎大師まで歩く「大師強歩を懐かしむ会」は、今回で5回目となり11月5日(火)に実施しました。生徒たちと同様に母校から歩きたいとの声もありましたが、70歳に手の届く年を考慮して、今回も南武線向河原駅に9時30分に集合としました。今回の参加は14名となり、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県から懐かしい同級生が集まりました。前日までの雨が止み、雲一つない晴天となり絶好のウオーキング日和のなか,のんびりと歩き始めました。ガス橋を渡りPTAのサポートの方々に挨拶をし、記念写真を撮ってから本格的な歩行となりました。この辺りから西方を振り返ると武蔵小杉周辺の高層マンション群と日本電気のツインタワービルが見えて、横須賀線停車ホーム新設後の小杉地区の変貌ぶりが確認できます。また、多摩川に目をやるとオナガガモ・ヒドリガモ等の冬の渡り鳥の飛来やマルタウグイの飛び跳ねる姿を見ることができました。多摩川大橋の手前で、持ち寄りのお菓子をいただきながら大休止し、生徒のトップ通過を待ちました。やっと男子生徒が一人でかなりのスピードで通過しました。その後、後続の男子が通過して行きましたが、大半は運動部の生徒たちでありました。生徒が通過するたびに我々5期の一行からは、盛んな声援や拍手が起き、50年以上年のひらいた同窓生交互の交歓が繰り返されました。六郷橋の手前に生徒たちの通過チェクポイントがあり先生方に挨拶し、後続の生徒(特に女子のトップ通過)を待ちました。例年はもっと手前で女生徒が通過するすのですが、今回は天気もよく気分良く歩けたためか、我々のスピードが少しだけ早かったようでした。
 六郷橋を渡り川崎側に戻り、いよいよゴールまで3~4㎞となり、続々と生徒たちが通過して行きました。5期生からは「若くていいなあ」、「可愛いねえ」の声が飛び交いました。歩行中の多摩高生の整然とした様子や声掛けに対する素直な反応に、我々は誇らしささえ感じました。味の素の工場を過ぎ、多摩川から大師参道に入り13時に全員がゴールし、川崎大師に健康祈願をした後、記念写真に収まり我々の大師強歩は終了しました。
 このあと、同級生の生家大師駅前の「福嶋屋」で美味しいお蕎麦の昼食と少しのビール・日本酒をいただきながら若き日の思い出話は尽きることがありませんでした。 (幹事:金作)
 第2次懇親会 川崎大師商店街の老舗 福島屋にて  第3次懇親会 川崎駅前 大衆食堂にて