1期~10期

1期~10期

山岡校長自らの熱血指導、慶大野球部のコーチ支援 多摩高2期

 
山岡校長自らの熱血指導、慶大野球部のコーチ支援
=草取りと猛練習に明け暮れた日々の思い出―2期=

(多摩高野球部2期主将 大谷正勝)


1957年(昭和32年)入学の県立多摩高2期生の私の野球部の思い出といえば、夏の県大会を目座しての猛練習に明け暮れた日々の思い出である。当時のグラウンドは夏草が生い茂り、除草剤を散布し、草を取り除き、重いローラーで固めて整備しなければならなかった。体育祭に「草取り競争」という種目があったほどである。

そして、多摩高初代校長の庄司先生の後任として赴任された山岡嘉次校長先生は、愛知県の元中京商業高校野球部長を経験された重鎮で、純白のユニホーム姿でわれわれを指導されたことは貴重な素晴らしい思い出として残っている。多摩高野球部創部後の昭和32年夏の第30回県大会初戦の平和球場においての対県立秦野高戦では、山岡校長が高齢を押して自ら外野ノックをして、当時の新聞紙上で話題になったほどである。また、当時の慶応大学野球部の稲葉誠治監督が山岡校長と姻戚関係にあり、慶大野球部の方々に熱心に指導をしていただき、他校と比べ素晴らしい環境で、野球に専念できたと感謝している。山岡校長のご縁で、名古屋の瑞陵高校との練習試合に先輩部員と夜行列車で遠征したことも良き思い出である。

私たち2期生の部員は1期生、3期生に比べて部員数が少なく、投手の原田新一郎、内野手の鈴木秀雄、城田良雄、宮川研二、外野手の佐藤昭、そして捕手の私(大谷正勝)とマネージャーの出川昭、武英道の諸君である。1期生の先輩、桜井紀夫投手は右の本格派であり、球速はかなりのものだった。同期の原田君は下手投げのサブマリンで、打たせて取るタイプの投手だった。

1期生主力の昭和33年夏の県大会では、初戦で横浜一商を3対1、第2戦の名門・浅野高校に4対3と勝利し、3回戦の県立希望ケ丘高校に接戦の末、6対10で敗れたが、創部からまだ3年目の新進気鋭のチームとして、多くの方々から称賛の言葉をいただいた。この年の夏の県大会が終わり、秋季県大会に臨む直前、監督の関野唯一先生(社会科教諭)が狭心症で急逝され、私たち2期、3期の部員の動揺が大きい中で、相手の慶応高校との戦いに臨んだ。結果は11対0で8回コールド負けの惨敗。県下ナンバーワンの呼び声が高かった渡辺泰輔投手(慶応大~南海ホークス)に完璧に抑えられ、わずか私のテキサスヒット1本のみで、ノーヒット・ノーランを免れたことが苦い思い出として残っている。

翌年の昭和34年の夏の県大会には私たち3年生部員は少なく、1、2年生部員が多いチームで試合に臨んだものの、初戦で藤沢商高に1対2で惜敗した。しかし、翌年の夏の県大会において、力のある選手が多かった3期生を主力としたチームが3回戦まで進出し、法政二高と3対4の接戦の末、敗れたものの、多摩高野球部の大きな基盤を築いたことは素晴らしいことであった。3期チームの主将は田中輝夫君で、大学野球の経験を経て、その後、母校の監督を長く務めたのは皆さんご存じの通りである。

早いもので、多摩高野球部の歴史も60年を迎えようとしている。多くの部員が同じグラウンドで、同じ一つの目標に向かい、汗を流してきたことを思うと、非常に感慨深いものがある。今後も、後輩の諸君がわれわれの思いを継承し、多摩高野球部がなお一層発展することを願う次第である。

神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
 

 

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