24期

多摩高野球部 24期チームの足跡 多摩高24期


「3対2、横浜商工!」
 試合終了の挨拶をかわすや否や、3年生は言うまでもなく、1・2年生もまさに号泣して悔し涙にくれた。
 昭和55年7月15日、秦野球場での夏の大会。
 よもやの1回戦敗退の屈辱は、1・2年生の誰もが忘れられぬものとなった。

‥‥‥‥‥‥‥

 24期岩本雄一を主将に据えた新チームは、3期・田中輝夫新監督を迎え、校内夏合宿をはさんで約1カ月、気の入った基礎練習を積み重ね、みるみる鍛え上げられていった。
 雪辱に燃える新チームが、短期間で力をつけているのは誰の目から見ても明らかで、快進撃を予感させる頼もしさが感じられた。

 秋の川崎地区予選をなんなく3戦全勝で突破し、県大会へと駒を進める。

【地区予選結果】
・7‐4 百合ヶ丘
・6‐0 橘
・9‐0 柿生西

 県大会では、津久井戦を皮切りに、好投手・中川(後にドラフト3位でヤクルトへ)を攻略して強豪向上を破り、勝利を重ねていった
 結果、本校では初の秋の大会ベスト4という記録を残すこととなった。

【秋県大会結果】
◆1回戦
津久井 000 000 000|0
多摩高 220 300 01x|8

多摩は初回から全く津久井を寄せつけず快勝。斎藤は5死四球を出しただけの好投で、ノーヒットノーランを達成。「コントロールは悪かったが、スピードはあったし、カーブも良かった。7回頃から記録を意識した」(斎藤談)。

◆2回戦
多摩 002 001 001 2|6
向上 000 120 100 0|4

向上は、夏に全国制覇した横浜を4安打3失点に抑えた豪腕中川が健在。接戦に持ち込みたい多摩は3回、矢島の二塁打等で2点を先制し先手をとる。5回に逆転を許すも6回すかさず同点に追いつき、思惑通りの展開で試合は後半へ。7回1点のリードを許すも、9回に本山のスクイズで再び同点とする。延長10回に平田の二塁打で勝ち越し、続く山崎も三塁線を破り貴重な追加点をあげる。その裏、2死1・3塁と粘る向上をなんとか抑え逃げきった。

◆3回戦
多摩高 000 200 001|3
上溝南 000 000 000|0

連投の斎藤は前日の疲れと、3回に受けたピッチャーライターの右中指つき指のため、球威・制球ともに苦しんだものの要所を抑え零封した。打ちあぐねていた打線も4回に敵失から2点を先制し、9回にも3連打でだめ押しの1点を追加し勝利した。

◆準々決勝
多摩高 012 300 000|6
横須工 000 001 000|1

守備力の差がそのまま得点差に表れた試合。3回までに多摩は敵失に乗じて無安打で3点を取り、4回には4安打を集め3点を追加し早々に試合を決めた。県横須賀工も6回に1点を返したが、反撃もそこまで。これで多摩はベスト4進出を決めた。

◆準決勝
多摩高 112 000 000|4
日藤沢 132 101 34x|15

連投の斎藤には疲れが見られ、救援の平田も本来の力が出ず、強打の日藤打線に滅多打ちを浴びる。守備範囲の広い中堅・中島をもってしてもはるかに届かない打球が左中間・右中間の奥深くに飛び交う。5回を除く毎回安打の猛攻で大量15点を献上し大敗。
多摩も3回、菊本の二塁打等で同点に追いつくが、試合になったのはそこまでだった。

‥‥‥‥‥‥‥

「何だこの惨めな試合は!  負けるにも負け方があるだろう!」

 試合後、田中監督の声がロッカールームに響いた。
 不甲斐ない惨敗に悔しさと怒りで顔を紅潮させる田中監督の姿に、経験のない大敗に意気消沈した選手は悟った。
 関東大会、いや、その先の春の選抜に繋がる大事な試合を、一番強い気持ちで戦っていたのは、選手ではなく田中監督だった。
 ここでまた、チームは反省を胸に秘め、一丸となって新たなスタートラインに立った。

 さて、BクラスからAクラスの下に入りかけた我が多摩高野球部は、夏に向けて、いよいよいい加減な試合はできなくなってきたのである。
顧問 森田 利三
マネジャー 野村 由紀

※本文は1981年3月1日発行の図書館雑誌第11号に掲載された記事を修正したものである。
‥‥‥‥‥‥‥

 24期チームは、翌年夏の大会で第3シードを勝ち取る。4回戦で東海大相模に1‐4で敗れるまで、田中監督と共に強い気持ちで戦い続けた。
 無論、いい加減な試合などは決してなかった。


コメント(0)

テツと監督  多摩高24期

2014年08月27日

テツと監督


「バーカ、心配するな、俺が車で連れて行くから」

昼は監督、夜はマスターと自分の忙しさは棚にあげ、多くの教え子の一人のため田中監督は平然と言い切った。
2007年44歳の冬、テツ(24期・瀬尾鉄二)から難病を打ち明けられた夜、絶望して監督のスナック・ナインに逃げ込んだ。
全身の筋肉が萎縮し動かなくなる、原因不明の不治の病「ALS」。助かる見込みはない。
治験のため相模原まで通院しなければならないが、すぐにテツ一人では行けなくなると話した時のことだった。
演歌の流れる騒がしい店内で顔を近づけて言われた。
「バーカ、お前がしっかりしなくてどーする」
怒られたのは、あの秋以来のことか…。


1980年高校2年の夏、新チームの初練習に新監督がやってきた。
斜めのサングラスに突き出たお腹。グラウンドに一礼した時、見えた頭に髪の毛はほとんどない。
18期松本監督から17期太田監督、1年毎に代わった若手監督に比べ、明らかに3期田中輝夫監督は年季が入っていた。

初日のノックで、ライトのテツが大暴投。
「しっかり投げろ、バーカ!」
ホームへ呼ばれ、ノックバットで何度も腹を小突かれる。
(こりゃ、えらい監督にあたっちまった…)
嫌でも気を入れてボールを追った。

関東大会をかけた秋の準決勝、日大藤沢に大差で負けた時、一番悔しがっていたのは監督だった。
ベスト4である程度満足している俺達に、全身を震わせ怒鳴りまくった。
「お前ら悔しくねーのか、負けるにも負け方があるだろ、バカ野郎!」
…この人は本気で甲子園を狙ってる。
驚きながらも、頼もしく思った。

中学時代はハンドボールでならしたテツを「3年間続ければ必ずレギュラーになれる」と強引に野球部に引き入れた。しかし、同期が16名も残りレギュラーどころか3年夏にベンチ入りするのがやっと。
素振りやティーをさんざんやって手はマメだらけになったものの、テツは公式戦に出ることなく野球を終えた。
それでも、後悔の言葉は聞いたことはない。

田中監督引退の2008年夏、もう歩けなくなったテツを同期で背負い等々力まで応援に行った。
試合前、応援席への挨拶で監督は誰かを探していた。テツを見つけると安心したようにニヤッと笑い俺にうなづく。
最後になるかもしれない大事な試合なのに、真っ先にテツを気遣う…。
監督の教えは胸に深く刻み込まれた。


…今はもう、テツも監督もいない。
なぁ、テツ、野球やって良かっただろ。
俺達と、そして監督と、野球ができて良かっただろ。
でも、どうせそっちでも怒鳴られてるんだろうな。

「テ~ツ、バーカ、しっかり投げろ!」

24期・矢島 徹



 
コメント(0)

田中さん追悼記 多摩高野球部

田中さん追悼記

「俺が車で送り迎えするから心配するな」

 同期のTから難病にかかったことを初めて告白された夜、監督は言い切った。
Tの病気は原因も治療法もわかっていない。
徐々に動けなくなって、やがては・・・。
あまりにショックで、1人では受け止められずナインに駆け込んた。
その時のTにできることは、週2回遠方の病院まで効くかどうかもわからない治検の注射を週2回打つだけ。
それもいずれ介助を付けてタクシーで行かなければならない。
スナックと監督業で忙しく、還暦も過ぎ体も万全ではないのに、
30年も前の、数多い教え子の1人に過ぎないTのため、
監督は本気で言ってくれた。目が覚めた。
Tを支えなくてどうする・・・。

 監督最後の夏、Tを背負って等々力に行った。
試合前の応援席への挨拶でTを見つけた監督は、ホッとして何度も頷いた。
最後の大事な試合を前にして、Tを探して心配する監督の度量には心底感心した。
監督はそういう人だ。また、教えられた。

 昨年末、監督勇退の慰労会をやるため、後輩に声を掛けた。
連絡が取れなかった後輩も多い中、115名もの教え子達が集まった。
各代のテーブルを回る監督は、楽しそうで安心したような笑顔だった。

 まもなく、監督は亡くなった。
しかし、監督から教えられたことは、我々の心に刻まれ決してなくならない。
バラバラだった各代を、せっかく監督が結びつけてくれたのだから
これからも「監督の会」は毎年続けていこうと思う。

我々の監督は田中輝夫、「永遠の誇り」として教えを引き継ぐ。Y

コメント(0)