3期

田中さん追悼記 多摩高野球部

田中さん追悼記

「俺が車で送り迎えするから心配するな」

 同期のTから難病にかかったことを初めて告白された夜、監督は言い切った。
Tの病気は原因も治療法もわかっていない。
徐々に動けなくなって、やがては・・・。
あまりにショックで、1人では受け止められずナインに駆け込んた。
その時のTにできることは、週2回遠方の病院まで効くかどうかもわからない治検の注射を週2回打つだけ。
それもいずれ介助を付けてタクシーで行かなければならない。
スナックと監督業で忙しく、還暦も過ぎ体も万全ではないのに、
30年も前の、数多い教え子の1人に過ぎないTのため、
監督は本気で言ってくれた。目が覚めた。
Tを支えなくてどうする・・・。

 監督最後の夏、Tを背負って等々力に行った。
試合前の応援席への挨拶でTを見つけた監督は、ホッとして何度も頷いた。
最後の大事な試合を前にして、Tを探して心配する監督の度量には心底感心した。
監督はそういう人だ。また、教えられた。

 昨年末、監督勇退の慰労会をやるため、後輩に声を掛けた。
連絡が取れなかった後輩も多い中、115名もの教え子達が集まった。
各代のテーブルを回る監督は、楽しそうで安心したような笑顔だった。

 まもなく、監督は亡くなった。
しかし、監督から教えられたことは、我々の心に刻まれ決してなくならない。
バラバラだった各代を、せっかく監督が結びつけてくれたのだから
これからも「監督の会」は毎年続けていこうと思う。

我々の監督は田中輝夫、「永遠の誇り」として教えを引き継ぐ。Y

コメント(0)

田中監督勇退 多摩高51期



7/20(日)綾瀬との3回戦、等々力の多摩高応援席は立ち見が出るほどの人で埋まった。

試合が終了しても帰る人はほとんどいない。
皆、球場の外で監督・選手に労いの言葉を掛けようと残っていた。
泣きながら出て来た選手達を暖かい拍手が癒やす。
勇退を決めた田中監督がOBにも選手にも胴上げされ宙に舞う。
炎天下の中、等々力球場の周りには爽やかな風が吹いていた。    

力の差はあった。さすがは向上を倒したチームだけのことはある。
守備が乱れ打線は繋がらずいつも多摩高野球はなりをひそめた。
孤軍力投する滝沢の援護を最後までできずに試合は終わった。
3回戦以降勝ち抜くのに足りないものをいやというほど教えられた。

1・2年生よ、この悔しさを忘れるな。
3年生達を凌ぐには何が必要かを考え新しいチームをつくっていこう。
 
3年生よ、精一杯よく頑張った。
高い意識・厳しい練習から生まれた君達17名を中心とする全員野球は本物で、皆から愛される素晴らしいチームだった。

田中監督、お疲れさまでした。
長い間、本当にありがとうございました。
粘り強い守りの田中野球は多摩高のDNAとして受け継がれていきます。

多摩高野球部は、新たな一歩を踏み出す。

多摩高野球部ブログより転載

コメント(0)

恩師に瓜二つの後輩を見ての驚き―人生の交錯

恩師に瓜二つの後輩を見ての驚き―人生の交錯

最近、ラジオの教養番組で明治の文豪・夏目漱石の著名な作品の読み方についてある著名な国際政治学者の講話を聴いた。東京帝国大学(東大の前身)で英文学を講じ、後に政府派遣の研究者で英国に留学し、帰国後は自らの意思で新聞社の文芸記者として連載小説を書くようになった漱石だが、このK先生の漱石作品の読解のキーワードは「明治時代の近代化に伴う不安の由来」「自己本位の重要性」「男同士の友情の大切さ」「生きた証を残す相続の意味」といったことだった。

突然、このような講話のエッセンスを紹介しても、読者の皆さんの理解が難しいのは十分承知しつつ、文学者ではないK先生の講話で、「坊ちゃん」「こころ」「三四郎」「それから」といった漱石作品を愛読してきた筆者とは全く違う視点が提示されていて、大いに参考になった。ここでは、人が生きる上で他者との出会いがいかに重要かという視点に絞って、人生での人との出会いの面白さについて、最近経験した身の回りの出来事3話を順次紹介していきたい。

筆者の高校野球部の10期下の岩本君(51歳)は現役当時、チームの主将も務めた好漢である。同君の父上が母校の物理教諭を20年以上にわたり務め、いわゆる名物教師だったことは高校の同窓に広く知られているが、最近、高校のある地元・川崎の町で開かれた野球部OB会に彼も久しぶりに出席し、70代前後の野球部草創時の諸先輩の間でたちまちにして寵児になってしまった。

それというのも、後輩の岩本君の容貌が、筆者を含む諸先輩にとって、若き日の先生とここまで似るものかというくらい「瓜二つの親子」に映り、驚きの声がしばらく収まらなかったのである。恩師の岩本先生はいつも白衣姿の理科教師然としていたが、なぜか他のクラブ活動の顧問もしながら、野球部部長を長く務めておられた。というわけで、物理がほとんど苦手な野球部の先輩たちも、悲惨な中間・期末試験の点数に下駄をはかせてもらい、辛うじて落第点の「赤点」を免れた経験を共有しているのだが、練習が厳しい野球部の活動を陰ながら応援してくれた先生に対する尊敬の念は卒業後も消えることはない。

そうしたところに、野球部OB会に久しぶりに登場したのが恩師の長男で、どういう理由によるものか、自分の父が教師を務め、部長をしていた高校の野球部に入り、主将までやった恩師の子供に遭遇したというわけである。高齢の諸先輩から岩本君に投げ掛けられる質問の端々には、瓜二つの容姿に対する驚きが混じっていたが、豪放磊落だった先生とは対照的に、息子は温厚な性格で、その違いは誰の目にも明らかだった。しかし、後輩の岩本君が、今年82歳となった父親を心の底から敬愛する諸先輩方のぶしつけな発言を快く受け止め、八ヶ岳に母と住む父親に「この日の出来事を伝えます」と答えていた。物理教師にとどまらなかった岩本先生の記憶が教え子から消え去ることはなさそうである。漱石が重視した「生きた証の相続」が行われていると思った。(T・I)



コメント(0)

「野球部愛」に貫かれた恩人2人の半生

「野球部愛」に貫かれた恩人2人の半生
=宇田川彰OB会長と田中輝夫監督の思い出=


県立多摩高野球部の歴史、それに野球部OB・OGでつくるOB会の諸活動を語る上で特筆すべき人物は1期の宇田川彰(富士見中)と3期の田中輝夫(稲田中)の二人を挙げることに多くの関係者が納得するのではないだろうか。先年、二人とも61歳、68歳でそれぞれ他界されたが、性格や人柄は異にするものの「大の野球好き」という共通点があり、生前に野球部やOB会の活動を通じて世話になった同期や後輩諸兄にとってはいつまでも忘れることはできない青春時代の恩人であり、親しい仲間のような存在だ。

多摩高野球部への貢献ということでは、宇田川と田中の役回りは違っていた。川崎市南部出身の宇田川が昭和31年に新設の多摩高に入学し、野球部1期生で主将という立場から、卒業後に野球部OB会を立ち上げ、その会長として長くOB会有力者の立場から現役の野球部員や年齢の離れた後輩の面倒をよく見た人物だったのに対し、北部出身で3期生の主将だった田中は部草創期の野球部のけん引役として攻守に活躍したほか、国学院大学野球部を経て、後年は延べ30年近くにわたって高校野球指導者としてチームの指揮を執り、多くの球児を育てたことだろう。

宇田川と田中がこのように、多摩高野球部やOB会の諸活動に異常なまでの熱意を持って携わった理由としては、多くの後輩に対する面倒見の良さという本人たちの生来の性格に加えて、宇田川は川崎駅近くの有名商店街に立地する喫茶店の経営者兼マスター、田中が南武線久地駅前にあるスナック「ナイン」の経営者兼マスターという、職業で言えば自由業のように自分の時間を好きなことに割ける社会的立場にあったことも大いに関係している。

野球がメシよりも好きな二人は、社会人となってから、共に川崎の南部と北部を拠点にして早朝野球チームを結成し、多摩高野球部の後輩や野球好きの常連客らを集めて監督兼選手としても活躍した。二人とも夜遅くまで続く仕事であり、数時間足らずの睡眠で早朝に起き出し、ユニホーム姿でグラウンドに駆けつけるのである。普通の職業人にはとてもできない芸当だ。宇田川は口ひげと薄めのサングラス、香港帽にアロハシャツという独特のいで立ち、坊主頭で丸顔の田中はショートホープを手放さない愛煙家で、共に野球部仲間に接するときの物腰や口ぶりは終生変わらなかった。

宇田川には多摩高野球部OB会長としての活動のほかに、青山学院大出身らしく若い頃から親しんできたジャズの専門家としての「顔」もあり、経営する喫茶店「アケミ」(後にのれん分けで「あきら」)の常連もジャズ愛好家が多かった。宇田川のその方面での目覚ましい活躍ぶりは他に譲るとして、人を組織し、動かすプロデューサー的才能に優れていたことを物語る仕事の一つが、1980年代から2000年にかけて断続的に続いた県立川崎高と多摩高の両校野球部OBによるマラソン野球の開催だ。

マラソン野球は1981年9月、多摩高創立25周年を記念して初開催し、両校のOB約60人が参加して午前6時のプレーボールから午後5時まで計54イニングにわたり熱戦を繰り広げた。その後、1987年以降の中断期間を挟み、2000年3月には、両校野球部が長く世話になった川崎球場の閉鎖・解体を前に、「さよなら川崎球場」と銘打って日の出から日没までプレーする最後のマラソン野球を計画し、実行に移したのもOB会長だった宇田川の企画力のなせる技だった。
「マラソン野球で思い出”封印”」の見出しが付いた当時の地元紙の記事では、「高校生の時、プロが使う川崎球場に立つと、(ベース間などが)同じ距離のはずなのに大きく感じた。われわれにとって思い出深い球場だ」という宇田川のコメントが載っている。

「野球が心底好きだった」という半生を文字通り歩んだ宇田川と田中という傑出した二人のOBの情熱と野球愛があったらこその多摩高野球部への多大な貢献だった。多くの後輩たちにとっては「宇田川さん」「田中さん」が両先輩に対する呼び名だったが、親しい後輩や仲間はそれぞれ親しみを込めて、「あきらさん」「ていちゃん」とも呼んだ。二人は天国からきょうも、多摩高野球部の現役諸君の活動を温かく見守っているはずだ。(伊藤 努)

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
 
 


 
コメント(0)

全国優勝の法政二を追い詰めた夏の神奈川大会 多摩高3期


=田中主将を中心にしたチームワークと主戦・井口の好投=
◎全国優勝の法政二を追い詰めた夏の神奈川大会―3期
(多摩高野球部3期 岡部 豊)

多摩高野球部の3期組は1958年(昭和33年)の入学で、3年生となった1期生の宇田川彰主将の新チーム内で新設校ならではの期待と活気があふれる中で部活動をスタートさせた。3期チームの主将は、多摩高にも距離的に近い稲田中学出身の田中輝夫で、3期チームで特筆すべきはやはり、1960年(昭和35年)の夏の神奈川大会3回戦で、当時の高校球界で最強チームといわれた川崎地区の強豪・法政二高を相手に最後まで互角に戦い、全国制覇を成し遂げた法政二高の田丸仁監督をして、「県大会予選での多摩高との試合が最も苦しかった」と言わしめたことだろう。
この試合は、5回に一挙に4点を先取された後攻めの多摩高が9回裏に3点を返し、あと一歩のところでで逆転勝ちを逸したゲーム展開だった。財団法人・神奈川県高等学校野球連盟が1978年に刊行した県の高校野球60年史『球音』の第42回大会(1960年=昭和35年)の総評では、「法政二高に最終回1点差にせまった多摩高校の奮戦ぶりは忘れてはならない」と記されている。

この試合での最後のバッターは、三振で倒れた田中だったが、それを責めることがないのは、ここまでチームを押し上げた陰の功労者が田中であることをナインの誰もが認めていたからだ。田中とともに鉄壁の内野陣として二遊間を守った岡部豊は、「田中主将を中心に同期のチームワークが良く、まとまっていた。すでに半世紀以上前の出来事ながら、法政二高戦での敗戦がいまだに悔しい」と振り返っている。

3期チームが強かったもう一つの理由は、多摩高野球部の投手としては逸材の一人と多くのチームメートが挙げる主戦投手・井口昭夫の投打にわたる活躍だ。控えに回った雨下政宏の好投もしばしば勝利に貢献した。
3期チームが3年生のときの夏の県大会の戦績とメンバーの陣容は以下の通りだ。
1回戦 多摩6対津久井0
2回戦 多摩11対鎌倉1(7回コールド)
3回戦 多摩3対法政二4

メンバーは1番ショート田中輝夫(稲田中)、2番セカンド岡部豊(御幸中)、3番キャッチャー斎藤剛(住吉中)、4番ピッチャー井口昭夫(富士見中)、5番ファースト高橋章(西中原中)、6番レフト山口浩嗣(稲田中)、7番サード稲津三雄(塚越中)、8番センター辻浩幸(富士見中)、9番ライト土田一夫(御幸中)、控え投手・雨下政宏(御幸中)、控え野手・久保田友也(中原中)、マネージャー・遠藤正夫

前記の岡部は多摩高野球部時代の思い出の一つとして、「入学時にリヤカーで何回も内野整備用の水をドラム缶で運び、辛かった!」と述懐し、3期生の入学当時はまだ、野球の練習もさることながら荒れたグラウンドの整備が大きな仕事の一つであったことがうかがえる。

3期チームでは、ファーストを務めた高橋章が卒業後、川崎市水道局で長く野球で活躍し、後年、神奈川県野球連盟の副理事長や川崎野球協会の副理事長兼事務局長などとして県と市の野球界に大きな貢献を果たした。田中と同じ中学出身の山口浩嗣は、現役選手として長く活躍したほか、70代になった今もシニア野球で若々しいプレーを披露し、だらしない後輩を叱咤する。

実家のあった南武線の久地駅前で長くスナック「ナイン」のマスターを務めながら、母校の野球部監督を長年にわたって歴任した田中の後輩の伊藤努(14期チーム主将)は卒業後も田中が采配する軟式野球チームへの参加を誘われ、そうした機会を通じて多くの野球部OBとも親交を得た。その伊藤の目に映る3期生の先輩たちは、カラオケなどでよく歌われる「野球小僧」そのものの、野球を心底愛してやまない人間ばかりだった。田中が生涯の仕事場としたスナックの店名を「ナイン」としたのは、愚直なまでに野球と野球仲間を愛する生き方そのものだったためだと思えてくる。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

コメント(0)