14期

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「野球部愛」に貫かれた恩人2人の半生

「野球部愛」に貫かれた恩人2人の半生
=宇田川彰OB会長と田中輝夫監督の思い出=


県立多摩高野球部の歴史、それに野球部OB・OGでつくるOB会の諸活動を語る上で特筆すべき人物は1期の宇田川彰(富士見中)と3期の田中輝夫(稲田中)の二人を挙げることに多くの関係者が納得するのではないだろうか。先年、二人とも61歳、68歳でそれぞれ他界されたが、性格や人柄は異にするものの「大の野球好き」という共通点があり、生前に野球部やOB会の活動を通じて世話になった同期や後輩諸兄にとってはいつまでも忘れることはできない青春時代の恩人であり、親しい仲間のような存在だ。

多摩高野球部への貢献ということでは、宇田川と田中の役回りは違っていた。川崎市南部出身の宇田川が昭和31年に新設の多摩高に入学し、野球部1期生で主将という立場から、卒業後に野球部OB会を立ち上げ、その会長として長くOB会有力者の立場から現役の野球部員や年齢の離れた後輩の面倒をよく見た人物だったのに対し、北部出身で3期生の主将だった田中は部草創期の野球部のけん引役として攻守に活躍したほか、国学院大学野球部を経て、後年は延べ30年近くにわたって高校野球指導者としてチームの指揮を執り、多くの球児を育てたことだろう。

宇田川と田中がこのように、多摩高野球部やOB会の諸活動に異常なまでの熱意を持って携わった理由としては、多くの後輩に対する面倒見の良さという本人たちの生来の性格に加えて、宇田川は川崎駅近くの有名商店街に立地する喫茶店の経営者兼マスター、田中が南武線久地駅前にあるスナック「ナイン」の経営者兼マスターという、職業で言えば自由業のように自分の時間を好きなことに割ける社会的立場にあったことも大いに関係している。

野球がメシよりも好きな二人は、社会人となってから、共に川崎の南部と北部を拠点にして早朝野球チームを結成し、多摩高野球部の後輩や野球好きの常連客らを集めて監督兼選手としても活躍した。二人とも夜遅くまで続く仕事であり、数時間足らずの睡眠で早朝に起き出し、ユニホーム姿でグラウンドに駆けつけるのである。普通の職業人にはとてもできない芸当だ。宇田川は口ひげと薄めのサングラス、香港帽にアロハシャツという独特のいで立ち、坊主頭で丸顔の田中はショートホープを手放さない愛煙家で、共に野球部仲間に接するときの物腰や口ぶりは終生変わらなかった。

宇田川には多摩高野球部OB会長としての活動のほかに、青山学院大出身らしく若い頃から親しんできたジャズの専門家としての「顔」もあり、経営する喫茶店「アケミ」(後にのれん分けで「あきら」)の常連もジャズ愛好家が多かった。宇田川のその方面での目覚ましい活躍ぶりは他に譲るとして、人を組織し、動かすプロデューサー的才能に優れていたことを物語る仕事の一つが、1980年代から2000年にかけて断続的に続いた県立川崎高と多摩高の両校野球部OBによるマラソン野球の開催だ。

マラソン野球は1981年9月、多摩高創立25周年を記念して初開催し、両校のOB約60人が参加して午前6時のプレーボールから午後5時まで計54イニングにわたり熱戦を繰り広げた。その後、1987年以降の中断期間を挟み、2000年3月には、両校野球部が長く世話になった川崎球場の閉鎖・解体を前に、「さよなら川崎球場」と銘打って日の出から日没までプレーする最後のマラソン野球を計画し、実行に移したのもOB会長だった宇田川の企画力のなせる技だった。
「マラソン野球で思い出”封印”」の見出しが付いた当時の地元紙の記事では、「高校生の時、プロが使う川崎球場に立つと、(ベース間などが)同じ距離のはずなのに大きく感じた。われわれにとって思い出深い球場だ」という宇田川のコメントが載っている。

「野球が心底好きだった」という半生を文字通り歩んだ宇田川と田中という傑出した二人のOBの情熱と野球愛があったらこその多摩高野球部への多大な貢献だった。多くの後輩たちにとっては「宇田川さん」「田中さん」が両先輩に対する呼び名だったが、親しい後輩や仲間はそれぞれ親しみを込めて、「あきらさん」「ていちゃん」とも呼んだ。二人は天国からきょうも、多摩高野球部の現役諸君の活動を温かく見守っているはずだ。(伊藤 努)

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
 
 


 

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