7期

全盛時代の打倒・法政二高を目標に猛練習 多摩高7期

 
全盛時代の打倒・法政二高を目標に猛練習
伝説の山岡校長が直々の指導―7期チーム
(多摩高野球部7期主将 牧田喜一)

私たちは1962年(昭和37年)春に県立多摩高の門をくぐりました。当時の通学手段の南武線は川崎~溝の口間が複線、溝の口~立川間が単線という状況でした。また、電車が宿河原駅の一つ前の「久地駅」に近づくと、車内放送で「久地、久地」「時間の9時ではありません」といったユーモアある車内放送の場面もあり、のどかな時代でした。
1962年の私たちの入学当時、記憶は定かでありませんが、野球部の1年生部員は8人くらいと記憶しております。

入学時の校長は山岡嘉次先生(愛知県の中京商業三連覇時の監督)で、部長は稲垣謙治先生、監督は三浦敏雄先生でありました、特に山岡校長は高校野球に対して本当に熱心で、自らバットを持ち出して生徒の指導に当たったり、また、春夏および川崎市長杯争奪戦の公式試合の後は必ず全校の朝礼で試合の講評をするほどでした。

多摩高開校以来、野球部のレベルアップのための目標は慶応高校(横浜市)で、その後は同じ川崎市内の法政二高が常に目標となった。当時、法政二高は1958年(昭和33年)に全国優勝、翌1959年(昭和34年)には全国準優勝と輝かしい戦績を残した。その後、川崎地区では4~5年くらい法政二高の優位な時代が続きました。従って、私たちの頃は常に「打倒・法政二高」の目標の下、厳しい練習に取り組んできました。

今回の各期チーム紹介という単年度のみでは語り尽くせないところが多々あります。野球は先輩から後輩への見えにくい伝統の力があり、在学中に特に記憶が鮮明な試合は1学年次、川崎市長杯争奪戦の決勝戦で、試合はナイターでした。結果は法政二高6対多摩高5のスコアで惜敗。同年秋には横浜高校12対多摩高6で敗戦(翌春、横浜高校は全国大会でベスト4)。私たちが2学年次、夏の神奈川県大会で慶応高校と対戦し、慶応4対多摩高0で敗戦(慶応高校は準優勝)といった試合結果でした。
そのほか、練習試合ではありますが、東京私立校の日体荏原とダブルヘッダ―を行い、1勝1敗であった。先輩方(野球部1期~6期)の活躍もあり、かなりの実力校との練習試合を相手校が快く受けてくれるようになってきたと感じたものです。

私たち3学年次のメンバーは3年生が三谷、三宮、牧田の3人、2年生が中林、内海、荒蒔、八木、玉井、富田の6人、1年生が熊谷、及川、千代田の3人という布陣でした。総勢が12人という少数精鋭です。

春の大会は2回戦で同じ県立の横浜緑ケ丘高と対戦し、5対1で多摩高が敗戦。また、当時は夏の神奈川大会の前哨戦として川崎市長杯争奪戦がありました。
準決勝で市立の橘高校と対戦、6回で7対0と、あと1回でコールド勝ちの展開となり、当時の監督の稲垣先生は「さあー、明日の法政二高の決勝戦に備えよう」と選手に伝えた直後に大ピンチを招き、ナイター試合となった。結果は橘高校9対多摩高7で惜敗。このようなことが起こり得るのか! これが高校野球の恐ろしさと痛感させられた。

1964年(昭和39年)夏の神奈川大会の参加校は68校であった。多摩高の第1戦の対戦相手は横浜商工(現横浜創学館)であった。7月19日、当日はまだ梅雨が明けず、朝は大雨で試合ができるかどうかの懸念があり、とりあえず平和球場(現横浜スタジアム)へ駆けつけました。ところがグランドがぬかるんでいるうえに、何を思ってか、グラウンド整備でさらに放水を行ったため、さらに地面がぬかるんでしまった状態で試合が始まった。

この試合でわがチームの投手が本来の調子をつかむ前に先制攻撃を受け、1回表に2点の先行を許してしまった。わがチームは毎回のように出塁するものの、何せグラウンドがぬかっていて足を絡めての攻撃が全くできず、回は進んでいった。試合はお互い投手戦の様相を呈し、多摩高は終始押し気味に淡々と試合が進んだ。

しかし、残塁が多く、点を取れずに横浜商工2対多摩高0のスコアで敗戦してしまった。もろもろの面で悔しさが残る試合でありました。残念無念!

最後に多摩高に入学し、野球部でのクラブ活動の中で良き先輩、同僚、後輩に巡り会えて本当に良かったと思います。感謝致します。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載


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