11期

「人生の岐路」で出会った立教大野球部の篠原監督 多摩高11期

「人生の岐路」で出会った立教大野球部の篠原監督―11期 手島晴幸

現在、85歳になられた篠原一豊監督は東京六大学の立教大野球の代名詞ともなっている「砂押野球」の1番の後継者であり、熱血監督だった。砂押邦信さんは皆さんご存知のように、後にプロ野球の巨人軍に入団した長嶋茂雄先輩らが神宮で活躍した立教大野球部全盛時の監督である。

私は昭和44年(1969年)に立大に進学したものの、特に優れた打撃技術があるわけでもなく、硬式ボールに触れるのは「拾う」「拭く」「片づける」のが日常で、練習のときのバッティングキャッチャーが動いているボールに触れる一番の機会だったような気がします。
自分の実力不足と連日の制裁などと相まって、その間、野球部合宿所から何度も逃げ出そうと思ったものです。2年生の終わりに立大野球部の監督交代があり、篠原監督に出会いました。何故か、体の大きい私に目をつけ、「多摩の田舎者!」と言って、野球をイロハから学ぶことができました。バットの握り方、構え方、打ち方。来る日も来る日も、朝から晩までバットを握り、個人指導を受け、振り続けました。

大学3年生になって夢のような神宮デビューを果たし、3年秋と4年春と2度続けて3割を打つことができました。
社会人となり、ホンダ技研に入社後も篠原監督の下、昭和50年(1975年)に都市対抗野球でも4番打者として活躍できるようになりました。
その後はホンダ熊本の監督や全日本のコーチなどを仰せつかり、最後は母校・立大の監督をやりました。これらもすべて、篠原監督との出会いから生じたものと言っても過言ではないと思われます。
高校時代から野球選手として大した技術などなかった私ですが、人との出会いを通じ、高校卒業以来30年間、野球を「仕事」として関わり、多くの恩人、友人を得ることができました。それらの方の多くとは機会を作っては再会しており、私の人生の宝物となっております。

多摩高野球部の話からはそれてしまいましたが、卒業後も上記のような大学野球部時代の辛い時期など1期生の大先輩の宇田川さん、5期の佐藤さん(いずれも故人)には、個人的によく励ましていただきました。これもまた、人の縁でしょうね。

多摩高野球部の現役部員、OBの皆さんもそれぞれ、人との出会いがあるでしょうが、今は気がつかなくても後から気がつくものなのです。同級生かもしれないし、後輩かもしれない。先輩の「○○さん」かもしれない。あるいは会社の上司、「○○先生」かもしれない。今は気がつかなくても、10年後、20年後に気がつくかもしれない。『大事な人が必ずいる』――。
人は皆、人と出会い、関わりをもって生きていく。一人の力は微々たるものと改めて思います。自分一人で切り開いた人生と勘違いをし、60代半ばの年齢になってようやく人との出会い、感謝に気がついたそんな今日この頃の手島です。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載


 
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夏の大会で武相と因縁の対戦、翌日再試合に 多摩高11期

夏の大会で武相と因縁の対戦、翌日再試合に
 
前年の8強入りで小島主将は甲子園見学 11期

(多摩高野球部11期主将 小島=鎌田=清)

1966年(昭和41年)入学の県立多摩高校11期は1学年9クラス405人もいたのに、野球部に入部したのは7~8人、最後まで残ったのは5人だった。これは進学校における全国共通の傾向で、多摩高も例外ではなかった。同学年は副主将の手島晴幸(今井中)、前田泰生(中野島中)、大熊寿和(西中原中)、黒田鋼造(宮内中)。

多摩高は、前年夏の神奈川大会で横浜高校を5回戦で破り、準々決勝では武相高校に延長で敗れたが、新聞の大会総括では「多摩旋風」と高く評価された。神奈川高野連は毎年、夏の大会でベスト8に残ったチームの新主将に「二泊三日の甲子園見学」のご褒美をくれ、私は「偉大な先輩たち」のおかげで貴重な経験をすることができた。

まず、11期チームの打順と守備位置を紹介する。
1番センター戸村 2番セカンド黒田 3番ファースト大熊 4番サード手島 5番ピッチャー前田 6番キャッチャー山木 7番レフト小島 8番ショート村上 9番ライト小蒲

 新チームは戦力の大幅ダウンが否めず、1967年秋季大会(新人戦)では満足な結果が残せなかった。私は当初、新チームでレフトから捕手にコンバートされたが、弱肩のため盗塁をほとんど刺せず、すぐに下級生(12期)の山木豊が正捕手に座った。投手の前田はスピード、コントロールはまずまず。翌年(1968年)春の県大会川崎地区予選で、弱体化したとはいえ、法政二高を破ったのが勲章か。

 最後の夏の大会。抽選会で初戦を引き当てたのが、まさかの武相高校。優勝候補筆頭で、エース島野修はこの年秋のドラフトで読売ジャイアンツから1位指名された。
 梅雨が明けず小雨が降る中、保土ケ谷球場で試合が始まった。5回までまさかの1対1のタイスコア。武相高選手の表情に焦りが感じられ、「奇跡よ再び!」と思ったが、無情にも雨天コールドゲームで翌日の再試合に。再試合は「実力通り」の試合展開。終盤得点を重ねられ、結局、0対9で敗れたが、コールドゲームだけは免れた。

手島は立教大に進学して野球を続けた。血のにじむ努力を重ね、4年次には4番ファーストで活躍。神宮でホームランを10本近く打った。卒業後、ホンダ技研に就職。後にホンダ技研熊本の監督として、幾度もチームを都市対抗全国大会に導いた。さらに、母校立教大の監督を務め、リーグ優勝も果たした名将だ。

  理数系の成績が良かった前田は東京工業大に進学し、投手として野球部で活躍した。大熊、黒田は大学では野球から離れたようだ。
私(小島)は大学時代(東京教育大=現筑波大)、地域の早起き野球に入り、野球を心から楽しんだ。卒業後、群馬県の中学校教員となり、野球部の顧問を10年務めた。練習は、多摩高の練習方法を大幅に取り入れた指導で、夢のような成績(県大会優勝2回、同3位2回)を残せた。教え子に笠原栄一(ロッテドラフト1位指名も1軍では未勝利。長男の将生が2014年、読売ジャイアンツで1軍4勝)がいる。鈍足、弱肩、野球センスのなかった私だが、多摩高野球部から学んだたくさんのことに、心より感謝している。

  最後に同期4人のプロフィールを紹介したい。手島は中学時代に神奈川県健康優良児に選ばれた高い運動能力の持ち主。1年からレギュラーでサードを守った。「東京ボン太」と先輩からニックネームを付けられたひょうきんな性格もあった。前田は数学と物理が得意で、東京工業大に進学した。視力が悪く、2年次のライトの守備練習では、夕方のノックに大変苦労した。野球センスがある大熊は控え投手としても活躍。左腕から繰り出す投球はなかなかのもの。黒田はサッカーが大変うまく、冬場に時折行ったサッカー練習では見違えるほど輝いていた。

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