11期

11期

夏の大会で武相と因縁の対戦、翌日再試合に 多摩高11期

夏の大会で武相と因縁の対戦、翌日再試合に
 
前年の8強入りで小島主将は甲子園見学 11期

(多摩高野球部11期主将 小島=鎌田=清)

1966年(昭和41年)入学の県立多摩高校11期は1学年9クラス405人もいたのに、野球部に入部したのは7~8人、最後まで残ったのは5人だった。これは進学校における全国共通の傾向で、多摩高も例外ではなかった。同学年は副主将の手島晴幸(今井中)、前田泰生(中野島中)、大熊寿和(西中原中)、黒田鋼造(宮内中)。

多摩高は、前年夏の神奈川大会で横浜高校を5回戦で破り、準々決勝では武相高校に延長で敗れたが、新聞の大会総括では「多摩旋風」と高く評価された。神奈川高野連は毎年、夏の大会でベスト8に残ったチームの新主将に「二泊三日の甲子園見学」のご褒美をくれ、私は「偉大な先輩たち」のおかげで貴重な経験をすることができた。

まず、11期チームの打順と守備位置を紹介する。
1番センター戸村 2番セカンド黒田 3番ファースト大熊 4番サード手島 5番ピッチャー前田 6番キャッチャー山木 7番レフト小島 8番ショート村上 9番ライト小蒲

 新チームは戦力の大幅ダウンが否めず、1967年秋季大会(新人戦)では満足な結果が残せなかった。私は当初、新チームでレフトから捕手にコンバートされたが、弱肩のため盗塁をほとんど刺せず、すぐに下級生(12期)の山木豊が正捕手に座った。投手の前田はスピード、コントロールはまずまず。翌年(1968年)春の県大会川崎地区予選で、弱体化したとはいえ、法政二高を破ったのが勲章か。

 最後の夏の大会。抽選会で初戦を引き当てたのが、まさかの武相高校。優勝候補筆頭で、エース島野修はこの年秋のドラフトで読売ジャイアンツから1位指名された。
 梅雨が明けず小雨が降る中、保土ケ谷球場で試合が始まった。5回までまさかの1対1のタイスコア。武相高選手の表情に焦りが感じられ、「奇跡よ再び!」と思ったが、無情にも雨天コールドゲームで翌日の再試合に。再試合は「実力通り」の試合展開。終盤得点を重ねられ、結局、0対9で敗れたが、コールドゲームだけは免れた。

手島は立教大に進学して野球を続けた。血のにじむ努力を重ね、4年次には4番ファーストで活躍。神宮でホームランを10本近く打った。卒業後、ホンダ技研に就職。後にホンダ技研熊本の監督として、幾度もチームを都市対抗全国大会に導いた。さらに、母校立教大の監督を務め、リーグ優勝も果たした名将だ。

  理数系の成績が良かった前田は東京工業大に進学し、投手として野球部で活躍した。大熊、黒田は大学では野球から離れたようだ。
私(小島)は大学時代(東京教育大=現筑波大)、地域の早起き野球に入り、野球を心から楽しんだ。卒業後、群馬県の中学校教員となり、野球部の顧問を10年務めた。練習は、多摩高の練習方法を大幅に取り入れた指導で、夢のような成績(県大会優勝2回、同3位2回)を残せた。教え子に笠原栄一(ロッテドラフト1位指名も1軍では未勝利。長男の将生が2014年、読売ジャイアンツで1軍4勝)がいる。鈍足、弱肩、野球センスのなかった私だが、多摩高野球部から学んだたくさんのことに、心より感謝している。

  最後に同期4人のプロフィールを紹介したい。手島は中学時代に神奈川県健康優良児に選ばれた高い運動能力の持ち主。1年からレギュラーでサードを守った。「東京ボン太」と先輩からニックネームを付けられたひょうきんな性格もあった。前田は数学と物理が得意で、東京工業大に進学した。視力が悪く、2年次のライトの守備練習では、夕方のノックに大変苦労した。野球センスがある大熊は控え投手としても活躍。左腕から繰り出す投球はなかなかのもの。黒田はサッカーが大変うまく、冬場に時折行ったサッカー練習では見違えるほど輝いていた。

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