6期

僕ら野球部6期生時代のエピソードあれこれ 多摩高6期


僕ら野球部6期生時代のエピソードあれこれ
(多摩高野球部 6期投手 岡本=旧姓田辺=義夫)​

【法政二高の全盛期】
昭和30年代の後半(1960年代前半)は、日本がまさに戦後からの脱却を目指して高度経済成長に突き進んでいた時代でした。子供の頃には、親からもらう5円、10円の小遣いで駄菓子を買って満足していたものです。昭和34年(1959年)には皇太子(現天皇陛下)の結婚式が華やかに挙行され、白黒テレビでパレードの模様が報道され、時代はまさに大きな変化の時を迎え、多くの国民が意気軒昂になった時代だったと思います。そして、昭和39年(1964年)の東京オリンピック。私が多摩高を卒業し、中央大学に入学した年です。

こんな時代の高校野球。昭和35~38年でしょうか。当時の高校野球は法政二高全盛期。巨人軍の柴田勲選手。メジャーリーガー第1号の村上雅則投手。当時の南海ホークス(ソフトバンクの前身)鶴岡一人監督のご子息など、他にもプロに進んだ猛者がいた時代です。その法政二高が甲子園大会を連覇したのです。

圧巻だったのは、浪商の尾崎行雄投手です。怪童と呼ばれ、東映フライヤーズに入団。新幹線の車中で出会いましたが、あの腰の大きさと胸の厚さには圧倒されました。その尾崎と法政二高との甲子園の名勝負は忘れられません。尾崎の球威は、往年の大投手で400勝した金田正一投手、今の日本ハムの大谷翔平投手を彷彿させるものでした。ちなみに金田投手は、2塁ベースとマウンドの中間からウォーミングアップをしていましたが、まさにボールがホップすることを実感できました。

【そんな時代の多摩高】
当時はまだ新設校だったので、6期生の私が入学した時には、卒業生が1期~3期で、練習にも毎日のように先輩諸氏が来られていました。特に3期生は私の出身中学、当時の大洋ホエールズのホームグラウンドだった川崎球場の隣にあった富士見中学から多数の先輩が入部しており、野球でも結構強い高校だったと思います。川崎市長杯戦では、常に法政二高に次いで2位をキープしていたものです。そして、その法政二高とは、先輩諸氏の時も私たちの時代も、勝てはしなかったものの1点差ゲームを含め、結構いい試合をしていました。

【法政二高のトリックプレー】
川崎市長杯戦でのことだったと思います。多摩高の攻撃の時に某選手がセンター前にクリーンヒットを打ったのです。すると、センターがエラーをしてバックスクリーンに向けて走り出したのです。某選手は一塁を回り、二塁を狙って疾走。ところがエラーと思わせておいて振り向きざま、二塁への好送球。見事にタッチアウト。話はこれで終わりません。この教訓を何とか生かそうと、私たちも機会を狙っていました。その相手が3年生の夏の大会初戦・慶応高校でした。同じく、センター前ヒットを打たれた時に、センターを守っていた2年生の名手M君(現K君)がトライしたのです。慶応高は川端君だったかな? ものすごく足が速く、見事に失敗。ヒットを二塁打にしてしまったのでした。

【慶応高もすごかった】
この夏の大会の初戦では、組み合わせが決まった時から、山岡嘉次校長先生も稲垣謙治監督も、そして諸先輩も皆さん、敗退必至と思っていましたから、練習の時にはいつも「打倒!慶応!」を連呼させられたものです。
私が投手でしたが、慶応高の4番・川端君には脱帽でした。インニングは覚えていませんが、センター前ヒットを打たれたと思ったのです。ライトの石井君が私には前進したと思えたのですが、本人はバックしようと思ったら、すでに打球は川崎球場のライトスタンドに入っていたと言っていました。超高校級球児だったのです。結局、4対0だったかで負けました。ちなみに慶応高は優勝し、甲子園に行きました。

【横浜高との練習試合】
印象に残るのは、横浜高校との定期的な練習試合です。夏の県大会が終わると、1・2年生の合宿が始まります。コメ5合を持参し、高校の教室に寝泊まり。朝6時の起床から午後9時の就寝までほとんど1日中の練習漬け。そして、合宿終了後には横浜高校との練習試合が待っています。
当然、相手は強豪チームですから、多摩高にとっては胸を借りるゲームです。ところが、結果は覚えていませんが、結構いい試合をしてしまったのです。試合終了後、横浜高校ナインは笹尾監督(だったと思います)から厳しい叱責。近くでその様子を見ていた私たちが気の毒になってしまいました。当時の横浜高校のエースピッチャーは井上君といい、卒業後は東映フライヤーズに入団し、数年は1軍にいたと思います。ちなみに私はその試合で、井上君からセンターオーバーのホームランを打ちました。多摩高のグラウンドにホームランラインを引いたものですが……。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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残ったのは4人、新入部員で活気づく 川崎市長杯決勝での惜敗 多摩高6期

残ったのは4人、新入部員で活気づく
忘れられぬ川崎市長杯決勝での惜敗―6期



(多摩高野球部6期主将 松村敬二)

昭和36年(1961年)に県立多摩高に入学。筆者(松村)は中学時代には野球部に所属していませんでした。グラウンドの隅にサッカー部や陸上部など5~6つの運動部が平屋の狭い部室を利用していました。大きな夢と不安を抱き、初めて部室に入ると、諸先輩が新入生を迎えてくれました。

3年生だった小島主将(4期)がまず一声、「戸を閉めろ!」。「ビクッ」としたのを覚えています。後日分かりましたが、小島さんは仏様のような人でした。  
筆者ら6期の新入部員が入学時に何人だったかははっきりしません。女生徒に人気があった名投手・田辺義夫(富士見中、現在・岡本姓)、小さな体で器用だった外野手の石井稔(向丘中)、ガッツの塊りだった捕手の宮崎光敏、それにショートの松村敬二(宮崎中)の4人が最後まで残りました。

稲垣謙治先生(監督)は公私とも忙しいため、監督なしの練習が多く、適切な練習が出来ていなかったように思います。途中退部の同期では町田、高橋(2年生の市長杯では県川崎高戦でノーヒット・ノーランを達成)を思い出します。投手としてセンス抜群だった高橋謙二(高津中)は34歳の若さで急逝しました。

目覚ましい成績はありませんが、市長杯では法政二高との決勝で敗れ、準優勝でした。市長杯で思い出すのは、1年上の5期の小黒主将のとき、法政二高との決勝戦で6対5で惜敗した試合です。6対4で負けていた9回の攻撃、1番石垣先輩のヒット、2番松村の連続ヒット、3番小黒先輩のレフトオーバーの2塁打で1点差に迫った試合で、サードランナーの私はけん制球に刺されてアウト。みんなに申し訳ない気持ちでいっぱいだったことを今でも忘れません。それに野球は最後の最後まで気を抜いてはならないことを痛感しました。

3年生になって困ったことは、部員が少ないことでした。同期4人に7期の文武両道に優れていた4人(三谷、三宮、牧田、飯島=途中退部)が入部してくれ、マネージャーの大森を加えての試合を思い出します。春の大会には正規に入部していない新入生の内海(8期)に参加を依頼しての試合でした。  

昭和38年夏の大会には、8期の中林、玉井、内海ら有望な新入生が数多く入部してくれ、活気づきました。監督代行で榊原滋先生が就任してくれました。榊原先生は後日、創立から間近い桐蔭高校に転職部長として甲子園大会に行かれ、優勝されたことを大変嬉しく思います。
8期の新入部員は優秀な生徒が多数入部してくれたのに、上級の者たちの指導不足のため、多くの新入生が中途退部してしまったことで大いに反省させられたものです。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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