6期

6期

残ったのは4人、新入部員で活気づく 川崎市長杯決勝での惜敗 多摩高6期

残ったのは4人、新入部員で活気づく
忘れられぬ川崎市長杯決勝での惜敗―6期



(多摩高野球部6期主将 松村敬二)

昭和36年(1961年)に県立多摩高に入学。筆者(松村)は中学時代には野球部に所属していませんでした。グラウンドの隅にサッカー部や陸上部など5~6つの運動部が平屋の狭い部室を利用していました。大きな夢と不安を抱き、初めて部室に入ると、諸先輩が新入生を迎えてくれました。

3年生だった小島主将(4期)がまず一声、「戸を閉めろ!」。「ビクッ」としたのを覚えています。後日分かりましたが、小島さんは仏様のような人でした。  
筆者ら6期の新入部員が入学時に何人だったかははっきりしません。女生徒に人気があった名投手・田辺義夫(富士見中、現在・岡本姓)、小さな体で器用だった外野手の石井稔(向丘中)、ガッツの塊りだった捕手の宮崎光敏、それにショートの松村敬二(宮崎中)の4人が最後まで残りました。

稲垣謙治先生(監督)は公私とも忙しいため、監督なしの練習が多く、適切な練習が出来ていなかったように思います。途中退部の同期では町田、高橋(2年生の市長杯では県川崎高戦でノーヒット・ノーランを達成)を思い出します。投手としてセンス抜群だった高橋謙二(高津中)は34歳の若さで急逝しました。

目覚ましい成績はありませんが、市長杯では法政二高との決勝で敗れ、準優勝でした。市長杯で思い出すのは、1年上の5期の小黒主将のとき、法政二高との決勝戦で6対5で惜敗した試合です。6対4で負けていた9回の攻撃、1番石垣先輩のヒット、2番松村の連続ヒット、3番小黒先輩のレフトオーバーの2塁打で1点差に迫った試合で、サードランナーの私はけん制球に刺されてアウト。みんなに申し訳ない気持ちでいっぱいだったことを今でも忘れません。それに野球は最後の最後まで気を抜いてはならないことを痛感しました。

3年生になって困ったことは、部員が少ないことでした。同期4人に7期の文武両道に優れていた4人(三谷、三宮、牧田、飯島=途中退部)が入部してくれ、マネージャーの大森を加えての試合を思い出します。春の大会には正規に入部していない新入生の内海(8期)に参加を依頼しての試合でした。  

昭和38年夏の大会には、8期の中林、玉井、内海ら有望な新入生が数多く入部してくれ、活気づきました。監督代行で榊原滋先生が就任してくれました。榊原先生は後日、創立から間近い桐蔭高校に転職部長として甲子園大会に行かれ、優勝されたことを大変嬉しく思います。
8期の新入部員は優秀な生徒が多数入部してくれたのに、上級の者たちの指導不足のため、多くの新入生が中途退部してしまったことで大いに反省させられたものです。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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