19期

甲子園初出場に一役買った19期エース大森君の野球指導 伊藤努(14期チーム主将)



◎甲子園初出場に一役買った19期エース大森君の野球指導
伊藤努(14期チーム主将)

春の訪れを告げるイベントとして知られる選抜高校野球大会(日本高校野球連盟・毎日新聞社主催)が3月18日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開幕するが、甲子園に集まる全国の36校のうち、3校は「21世紀枠」として出場する。21世紀枠は、過疎地や部員不足などさまざまなハンディを乗り越えながら、前年秋の全国各地区の地方大会で好成績を残したチームの中から、選考委員会が選抜する三つの高校だ。

今年(2023年)の選抜では、いずれも県立の石橋(栃木県)、氷見(富山県)、城東(徳島県)の3校が出場切符を手にしたが、春夏通じて初めての甲子園出場を果たした石橋高校には、公立高校であるがゆえ、野球経験のある指導者が皆無という不遇な時代もあった。今年初めの筆者の母校野球部OB会の新年会で、5年後輩の大森正久君(栃木県小山市在住)が不遇な時代の石橋高校に貢献したことを知ったので、今回はそのエピソードを紹介したい。

石橋高は栃木県の進学校で、校訓は「文武不岐」。文武両道を重視する校風が県内では知られている学校だ。近年は野球部もめきめき力をつけ、これまでに2016年と20年の2回にわたり、21世紀枠の候補に上がり、今回は3度目の正直で甲子園出場を見事射止めた。候補の2回目となった2020年秋の栃木大会では準決勝で強豪・作新学院を破り、2強となる好成績を残したほか、狭い校庭をサッカー部など他の運動部と共有しながら、平日は2時間の練習で効率よく腕を磨き、身上とする守る野球が選考委員会で評価された。

地元紙によれば、昨年度は135人が現役で国公立大学に合格。月2~3回は土曜日も午前授業が行われ、英単語や古文単語などの小テストも頻繁にある。野球部も例外ではなく、2016年からチームを率いる大森君の大学時代の後輩・福田博之監督は「少しでもいいから毎日、机に向かいなさい」と部員に伝えている。遠征に向かうバスの中では、それぞれ単語帳や参考書を開いて勉強する。ただ、毎日勉強に取り組んでいるからこそ、野球に生きていることがある。平日は毎日7時間授業で、練習は放課後の2時間しかない。他の高校より1時間以上短いが、主将の横松選手は「短い時間で質を意識しながら練習に取り組めば量を補える。勉強でそれなりの集中力は培っているので、そこは自分たちの強み」と自信をのぞかせる。

その石橋高で特任のバッテリーコーチとしてかつて指導してきたのが、もともとは県外出身の大森君だったというわけだ。高校時代は左腕投手の大森君は小柄な体格ながら、野球センスの良さと持ち前の投球術で、50年近く前に夏の神奈川大会で母校野球部をベスト4に勝ち進めた立役者だった。

高校卒業後は宇都宮大学硬式野球部に所属し、栃木県小山市に居を構えて東京に本部がある農業団体に勤務する傍ら、週末は地元の少年野球の指導をしていたことをかねがね聞いていた。そうした大森君の野球キャリアや指導者としての実績もあって、野球経験のない当時の石橋高監督から投手と捕手を指導するバッテリーコーチの誘いを受け、2年ほど高校生たちにゲームの組み立て方やピンチのしのぎ方を指導していた。

県は違うとはいえ、70年近い歴史を有するわが母校・多摩高野球部も県立高校で、石橋高と似たような勉学・練習環境にあるが、残念ながら、ここ数十年ほどは甲子園出場には程遠いのが実情だ。このため近年、現役時代に有力選手だった有志のOBらが中心となって、人脈を生かしながら有望な中学生に対するスカウト活動などの支援に乗りだしているが、まだ目立った成果は上がっていない。

そのような折の野球部OB会の新年会だったため、宴たけなわのタイミングを見計らって、現役時の1年後輩で元気者の寺尾洋一君(立教大野球部OB、元公立高校野球部監督)が、石橋高での野球指導の経験を皆に向かって語るよう、大森君に会場での発言を求めた。高校生時代から、闘志を内に秘め、大きな声を出すタイプではない大森君の声が小さかったため、後輩の寺尾君が大森君の発言を傍らで繰り返す拡声器役となってくれ、話の内容がよく理解できた。全国的にも激戦区の夏の神奈川大会のベスト4投手という経歴もあって、大森君の話には説得力があった。



1期のOB先輩は80代という母校の野球部も創部早々の時代から、「公立校から甲子園へ」という大きな目標を掲げるが、大森君の経験や熱意を何とか現役の後輩たちにも伝え、石橋高に続いてほしいものだ。すでに60代半ばながら、気持ちは若々しい大森君の貴重な体験談を聞き、新型コロナ禍で3年ぶりとなった新年会で「大きな初夢」を見させていただいた。




 
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「勝つことよりも負けない野球を!」 多摩高19期

「勝つことよりも負けない野球を!」
=19期ベスト4の監督時代を振り返って=
(多摩高野球部15期 峰野謙次=19期監督)

 
母校の野球部監督の話を頂いたのは私が大学2年生のときでした。それまでは13期OBの小黒誠二さんが監督でした。就職活動の関係で監督を退任するということで、当時のOB会長の宇田川彰さん(1期)から是非、後任の監督を引き受けるよう話がありました。正直なところ、最初は乗り気ではありませんでした。自分にできるのか自信がなかったからです。何度も説得されるうちに、折れた形で引き受けることにしました。

1975年(昭和50年)8月の新チーム結成からみることになりましたが、初めてグラウンドに行って練習を見たとき、正直なところ唖然としました。メンバーが9人しかいないのは最初から分かっていたのですが、その力までは把握していませんでした。何せ、9人中外野に球を打ち返すことができるのが4人。残る5人は内野手の頭を越しません。投げる方も強肩といえる選手は誰一人いません。

最初に行ったのは選手の力量を知ることだと思い、遠投力と走力を調べることにしました。
80メートル投げたのが2人。70メートルが1人。あとは60メートル台。走力も鈍足と言っていいほどの選手が3人です。どう鍛え上げようか考えました。私は学生であり、アルバイトもしていましたので、毎日練習を見ることができません。それで結論を出したのは練習の中身の充実でした。

選手たちに指示した内容は、練習はこなしていてはダメで、毎日自分で課題を設けて自分で練習をやっていくこと。バットは振った数だけ力が付く。ベースランニングは力を抜かず走りきること。この3点を選手たちに機会あるごとに言いました。そして、私は現役のとき、内野手と投手を経験していましたので、できるだけ自分のプレーを見せて指導していたつもりです。

シート打撃も私が投げて打たせていました。また、年が近いので、選手からの質問や意見を言いやすい環境も作りました。そうしているうちに、選手たちは自分で考え、自分のできることを見いだし、選手間で話し合う、そんな良いチーム環境になっていました。

幸いにも秋季大会、春季大会とも県大会に出場することができるまでになりました。秋は武相、春は日大高と私立強豪校に当たり、負けましたが、力の差を知ることが後に大変役立ちました。選手たちは自分たちに足りないものを知り、後の練習に役立てました。自分たちで課題を作って練習していったのです。

後は夏本番の県大会に私がどうやって采配するか、残ることはそれだけでした。私自身、選手の力量や性格などを把握していたので、ある程度の戦術は持っていました。夏の初戦はサレジオ高校。2度対戦して2度とも快勝しています。が、私も選手も開幕試合ということで緊張があってか、地に足がついていませんでした。どうにか勝利しましたが、納得の試合ではありませんでした。
しかし、試合を経験したことは大きく、2試合目からは落ち着いて采配することができました。野球勘も働くようになり、選手が試合ごとに成長しているのが手に取るように分かりました。そして、6試合も経験できるとは思ってもみませんでした。夏の大会中、選手に何度も言ったことは「格好のいいプレーは要らない。ちゃんと取ってちゃんと投げよう。勝つことよりも負けない野球をやろう。思いきりプレーしよう」。その3点でした。みんな、よくやったと思います。

最後に、準決勝の向上高との試合前にマスコミの取材をたくさん受けたのは、私には良い経験でした。
 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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チーム仲間が背中押した「忘れられない一球」 多摩高19期

チーム仲間が背中押した「忘れられない一球」
=ベスト4進出を決めた南高戦8回裏の攻防=
(多摩高野球部19期投手 大森正久)

毎年夏の高校野球の甲子園大会では数々のドラマが生まれる。たった1球の出来事で泣く者、そして笑う者。白い一つの球を追う青春のエネルギーのぶつかり合い。そんな姿を見ていると、私もあのときのことを思い出すのである。

1976年(昭和51年)7月28日の川崎球場における第58回全国高校野球選手権大会の神奈川大会準々決勝。県立多摩高野球部の投手として、準決勝進出を果たしたときのことである。

対戦相手は横浜市立南高で、3対1のリードで迎えた8回裏。連続四球と強襲安打によって無死満塁のピンチを招いたのである。そして、対する打者は2回裏に左翼席に本塁打した4番打者であった。警戒して投げた球は1球目、2球目、3球目と無情にも「ボール」の判定。8回裏無死満塁でボールカウントは「ノー・スリー」と、絶体絶命である。「投手なんかやるんじゃなかった…」。そんな思いも頭をよぎる。高校野球の投手をやったことのある者ならば、一度や二度は経験があるだろう。一生懸命になればなるほど、重圧が背にかかってくるのだ。

タイムをかけた捕手・桃原広孝がマウンドにやってくる。「1点あげよう」。試合が刻々と展開する中で、どんなヤマ場であるか、本塁を死守する捕手が一番分かっている。そんな捕手の一言が私の緊張を和らげるのだった。

4球目、直球で「ストライク」。5球目、カーブで「ストライク」。カウントは「ツーストライク・スリーボール」、次の一球で試合の明暗が分かれる。捕手のサインは「カーブ」。だが、自信がない。再び、桃原がやってくる。野手もマウンドに集まる。「大森、ここはカーブしかない! 試合の責任は俺たちが持つ!」。自分というものを見失っていたあのとき、左腕である私の得意な球、決め球を私自身ではなく、仲間たちが知っていたのだ。

目が覚めた。6球目、まるでスローモーションのような球が右打者の膝元へ軌跡を描いて落ちる。打者は見送った。背中に冷たい汗が走る。観衆の声も何も聞こえない。「ストライク!」。審判の手が大きく上げられた。三振である。9人全員で奪い取った、生涯忘れることのない三振である。

こうして後続も併殺で打ち取り、1956年(昭和31年)の多摩高野球部創部以来初めてのベスト4進出を果たした。そして、微力でさえも結集したときに巨大な力、成果を生むことを、高校野球を通じて知ったのである。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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のびのび多摩旋風、創部後初のベスト4に 多摩高19期

のびのび多摩旋風、創部後初のベスト4に
=仲間同士の信頼で大きな力を発揮―19期=
(多摩高野球部19期主将 佐藤純夫)

県立多摩高野球部は1976年(昭和51年)の第58回全国高校野球選手権神奈川大会において、創立20周年を準決勝進出で祝うという快挙を成し遂げました。この文章のタイトルは地元紙の神奈川新聞に掲載された見出しの一つで、われわれが最も気に入っている言葉です。

当時の野球部は、部員もカネも練習時間も少ない典型的な公立高校の運動部と言えました。何せ、前年秋に19期中心の新チームを結成した際には、選手が9人を欠け、サッカー部から中学野球の経験者を助っ人として借りたこともあったほどです。それでも限られた時間の中で、岩本秋雄部長先生(物理教諭)、峰野謙次監督(15期生)の指導の下、「基本に忠実に」をモットーに毎日練習を続けていました。

19期チームの陣容(打撃順)は次の通り。
1番ショート寺尾洋一(日吉中、2年) 2番セカンド遠藤忠義(西高津中、3年) 3番キャッチャー桃原広孝(南河原中、3年) 4番サード白石弘美(田島中、3年) 5番レフト原寿一(玉川中、2年) 6番センター佐藤純夫(柿生中、3年) 7番ピッチャー大森正久(臨港中、3年) 8番ファースト天野龍太(宮崎中、2年) 9番ライト勝徹(西中原中、2年) 代打要員・外野手 鷹野肇(宮崎中、2年)

翌年の夏、県大会を迎えたときはダークホースにも名前が上がっていません。今から思えば、主将だった私(佐藤)が引いたクジは1回戦が対サレジオ、2回戦が県立新城高(第1シード校)という大変ラッキーなものでした。開幕試合では緊張感のためか、大乱戦をしてしまい、翌日、OBからグラウンドを何周も回らされるきついお叱りを受けました。その甲斐あってか、新城戦に5対1で快勝すると、後はとんとん拍子に勝ち進み、準々決勝で横浜の公立校強豪、南高と対戦することになりました。

当時の川崎球場で行われた試合のヤマ場は南高8回裏の攻撃でした。2点差を追う南高は無死満塁のチャンス。打者は2回に本塁打を打っている4番バッター。両校応援団総立ちの中を、カウント0-3からエースの大森正久が踏ん張り、続く3球をストライクで通し、見逃しの三振。さらに5番打者を三塁ゴロで併殺。このピンチの場面、チーム全員が「あれだけ練習したのだから、打たせれば必ず守ってやる」とお互いを信頼しきっていたことには今でも自信があります。ただ、試合直後は「サイレンが鳴るまで勝てるとは思わなかった」という心境で、ベスト4に残れたことがすぐには信じられませんでした。

準決勝の向上高戦は欲が出たのか、0対4で完敗。ちなみにこの神奈川大会で優勝した東海大相模高にはプロ野球の巨人に入団した原辰徳、日本ハムに入団の津末英明ら錚々たるメンバーがいました。わが野球部は他チームに比べ、個々の力は決して大きなものではありません。しかし、全員が力を合わせたとき、全く違う力を出すことができたと思います。高校野球を通じたそうした体験は、その後の人生でも励みになっています。

今後とも、多摩高野球部らしいさわやかでのびのびしたプレーを後輩諸君に期待し、夏の大会の応援に行きたいものです。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載


 
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