19期

19期

チーム仲間が背中押した「忘れられない一球」 多摩高19期

チーム仲間が背中押した「忘れられない一球」
=ベスト4進出を決めた南高戦8回裏の攻防=
(多摩高野球部19期投手 大森正久)

毎年夏の高校野球の甲子園大会では数々のドラマが生まれる。たった1球の出来事で泣く者、そして笑う者。白い一つの球を追う青春のエネルギーのぶつかり合い。そんな姿を見ていると、私もあのときのことを思い出すのである。

1976年(昭和51年)7月28日の川崎球場における第58回全国高校野球選手権大会の神奈川大会準々決勝。県立多摩高野球部の投手として、準決勝進出を果たしたときのことである。

対戦相手は横浜市立南高で、3対1のリードで迎えた8回裏。連続四球と強襲安打によって無死満塁のピンチを招いたのである。そして、対する打者は2回裏に左翼席に本塁打した4番打者であった。警戒して投げた球は1球目、2球目、3球目と無情にも「ボール」の判定。8回裏無死満塁でボールカウントは「ノー・スリー」と、絶体絶命である。「投手なんかやるんじゃなかった…」。そんな思いも頭をよぎる。高校野球の投手をやったことのある者ならば、一度や二度は経験があるだろう。一生懸命になればなるほど、重圧が背にかかってくるのだ。

タイムをかけた捕手・桃原広孝がマウンドにやってくる。「1点あげよう」。試合が刻々と展開する中で、どんなヤマ場であるか、本塁を死守する捕手が一番分かっている。そんな捕手の一言が私の緊張を和らげるのだった。

4球目、直球で「ストライク」。5球目、カーブで「ストライク」。カウントは「ツーストライク・スリーボール」、次の一球で試合の明暗が分かれる。捕手のサインは「カーブ」。だが、自信がない。再び、桃原がやってくる。野手もマウンドに集まる。「大森、ここはカーブしかない! 試合の責任は俺たちが持つ!」。自分というものを見失っていたあのとき、左腕である私の得意な球、決め球を私自身ではなく、仲間たちが知っていたのだ。

目が覚めた。6球目、まるでスローモーションのような球が右打者の膝元へ軌跡を描いて落ちる。打者は見送った。背中に冷たい汗が走る。観衆の声も何も聞こえない。「ストライク!」。審判の手が大きく上げられた。三振である。9人全員で奪い取った、生涯忘れることのない三振である。

こうして後続も併殺で打ち取り、1956年(昭和31年)の多摩高野球部創部以来初めてのベスト4進出を果たした。そして、微力でさえも結集したときに巨大な力、成果を生むことを、高校野球を通じて知ったのである。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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