12期

12期チーム、OBの田中監督が采配 多摩高12期

12期チーム、OBの田中監督が采配
公立強豪校の評判の裏で部員減


多摩高野球部の12期は、最後まで白球を追い続けたのは主将の山木豊と外野手の小蒲智臣の2人となったが、山木らが入学した1967年(昭和42年)は、2年先輩の10期生(主将・三宮有治、投手・岸裕一)が夏の県大会準々決勝で強豪の武相に屈したもののベスト8入りを果たした伝説のチームの厳しい練習と勝ち試合を体感した代である。12期が2年次の1968年も、速球派のエース前田、スラッガーの手島(後に立教大野球部監督)らが活躍した11期生中心の好チームが出来上がり、「川崎地区に公立の多摩高野球部あり」の評判が高まっていた時期を経験している。
12期が3年になったチームでは、当時27歳の3期・田中輝夫(国学院大野球部出身)がOBとして初めて監督となり、それまでの顧問の先生監督からその後のOB監督体制が続く先駆けをつくった代でもある。

しかし、前々年、前年のチームが川崎地区大会、県大会で活躍したにもかかわらず、期待の新入部員が次第に入ってこなくなり、野球部を取り巻く環境が厳しさを増すようになった。山木率いる新チーム発足時は、13期の主将となる小黒誠ニら1年生部員も10人弱で、総勢はレギュラー枠の9人をやや上回る陣容にとどまった。部員不足のため、翌年の1969年春に多摩高生となる福島隆(塚越中出身・中学時代は投手)は入学前の春休みに当時の顧問、稲垣謙治先生の強い勧誘で入部。まだ中学生の身ながら、硬球を使った練習に参加、春の川崎地区予選にも選手として出場している。高校では野球部入りを考えていなかった伊藤努(後に14期主将)も、稲垣先生と塚越中チームメートの福島の誘いで入学早々に入部した。

前年に主戦投手となった山木は速球とカーブが武器だったが、3年生が少ないチームを盛り立てたのは1年下の小黒、猪瀬忠夫、高橋徳之ら13期の面々だった。結局、田中監督の熱心な指導に応えることなく、夏の県大会では追浜球場での緒戦で三崎高校に1対4で敗退し、早々と姿を消したが、満足に控えの選手もいないチーム状況ではやむを得なかったのかもしれない。

12期生が3年のときに入部した14期は特に人数が少なかったが、これは1968年(昭和43年)のメキシコ五輪で釜本、杉山らの日本代表チームが銅メダルを獲得し、中学生の間でサッカー人気が高まったことと大いに関係がある。1969年4月入学組は、川崎の公立中学で野球部に所属していた者がたくさんいたが、その多くがサッカー部に入部するか、野球部の練習の厳しさや丸刈りを嫌気して野球から離れていった。部員不足状態は13期、14期、15期、16期あたりまで続いた。
小蒲は卒業後に早大に進学、漕艇部に入り、花形のエイトの一員として早慶戦などで活躍した。

神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載



 
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