5期

多摩高野球部「私設応援団」が見てきた高校野球 多摩高5期


【特別寄稿】
多摩高野球部「私設応援団」が見てきた高校野球
多摩高5期生 橘 眞次(たちばな・まさはる)

◇多摩高野球部とのかかわり
私は中学校(南大師中)までは野球部に入っていましたので、野球にはもともと興味を持っていました。多摩高校1年の担任は加瀬均先生(化学)で、この先生も野球が好きでしたが、よく聞かされたのは校長の山岡嘉次先生の話でした。夏の甲子園大会3連覇、中京商業対明石戦の延長25回の大熱戦の話とか、はては「名古屋の放送局では山岡先生の半生をドキュメントにして放送した」など初めて聞く話から、山岡校長の偉大さが伝わってきました。

同じクラスに野球部員が2名いました。岩田忠章君と加藤邦彦君です。後に4番打者として活躍する岩田君は見るからに野球部といった体格でしたが、加藤君は細身で華奢な体形です。でも驚いたのは体育の時間、加藤君は走り幅跳びで6メートル超跳んだのです。「天性のバネを持っているのだな」と思いました。

私たちが多摩高に入学した昭和35年(1960年)夏の全国高校野球選手権神奈川大会3回戦、多摩高は法政二高に4対3で惜敗。その法政二高は全国制覇を果たしたのでした。
多摩高野球部も大したものだ。試合を見に行ったクラスの仲間たちはそう思い、クラスメートの岩田、加藤両君のこれからの活躍に期待が高まりました。

2年生、3年生とクラス替えで同じクラスに野球部員はいませんでしたが、1年生の時の級友の両君を応援し続けたのはいうまでもありません。加藤君は勉学に専念ということで退部したと、後で聞きました。加藤君はその後、開校間もない多摩高から初めて、難関の東京工業大学に現役合格したのですから、やはり優秀だったということでしょう。
というわけで、私は野球部とは直接かかわりはなく、クラスメートの私設応援団だったということです。

◇その後の野球部員とのお付き合い
多摩高在学中は野球部の公式戦はほとんど見に行きました。川崎球場、平和球場、保土ケ谷球場の3カ所だったと思います。卒業後は球場での応援はなくなりましたが、新聞などで試合結果は追いかけていました。

昭和38年(1963年)春に高校を卒業して50年もたったある日、岩田君から突然、電話がありました。今度、5期生の野球部員だけで集まるから来ないかという誘いです。なぜ自分が呼ばれたのか分かりませんが、会場の居酒屋には10名ほどが集まっていました。

岩田君も加藤君もそろっていました。加藤君とは実に卒業以来半世紀余ぶりの再会でした。私は仲間としては異質でしたが、野球部だった面々はさすが同じ釜の飯の仲間という雰囲気が漂っていました。私はその場に、50年前の川崎市長杯争奪戦、夏の神奈川大会のパンフレットをその日の人数分コピーして持参。みんなに喜んでもらえたので、長い間保管しておいてよかったとつくづく思いました。


◇高校野球ファンとしての楽しみ
私も野球が好きで中学までは野球をやっていたので、今でもちょいちょい高校野球の試合を見に行きます。
桐光学園の好投手・松井佑樹(現・楽天)が3年夏の神奈川大会のことですが、準々決勝か準決勝で横浜高校と対戦した試合はちょっと胸騒ぎがしたので、横浜球場に行きました。理由は横浜高・渡辺元智監督のプライドです。こういつまでも松井佑樹に抑えられているはずはない、きっと秘策を持っているはず。案の定、横浜は松井祐樹を本塁打2本で仕留めました。

2015年、ひょっとしてこれが渡辺監督の最後の試合になるかもしれないと思って準決勝の対東海大相模戦を見に行きました。試合というより監督を見に行ったのです。試合中、ベンチにいる監督の仕草をじっと見ていました。
ベンチにいる監督の手指の動き(サイン)で守備の選手が位置を変えます。微調整までします。びっくりでした。
25年ほど前、3年半ほど仕事の関係で四国に勤務したことがあります。徳島県、香川県、小豆島の旅館、ドライブインなどで池田高校・蔦文也監督の色紙をよく見ました。練習試合などで立ち寄ったのでしょう。どの色紙にもきまって「わしは子供たちに大海を見せてやりたいんじゃ」と書いてあります。「大海」とは「甲子園」のことです。

ですから、監督の頭には常に甲子園があったのでしょう。池田は徳島県の小さな町ですが、大会が始まると、町は熱狂します。驚いたのは、町の中心部にスーパーのジャスコがありましたが、池田高校の試合が始まると、ジャスコの店内放送はNHKの中継放送に切り替わります。町中が応援していました。それもそのはず、池田高校へは中学から地元にいないと受験できないのです。ですから、大半は地元の子供たちです。

また、本来は40年も公立高校では監督は続けられません。定期異動があります。社会科の教諭でもあった蔦さんのために、県教育委員会は「池田高校→池田高校定時制→池田高校」と異動を繰り返したと聞きました。

そんなこともあって私は翌年、高松から船に乗って西宮の甲子園球場まで池田高校の試合を見に行ってきました。蔦監督が引退し、教え子の若い監督が指揮を執っていましたが、初めての甲子園球場で名物のカチワリを初めてすすりながら、これが蔦さんが言っていた「大海なんだ」と壮大な眺めは今でも鮮明に覚えています。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載





 
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東都2部の農大、都市対抗野球でも活躍 多摩高5期


東都2部の農大、都市対抗野球でも活躍
多摩高野球部随一の強打者・小黒平二

県立多摩高野球部5期チームの好打者が主将も務めた小黒平二(高津中)である。昭和35年(1960年)の入部で、2年生の昭和36年夏の神奈川大会は1塁手として3番、3年生となった昭和37年夏の神奈川大会では2塁手でやはり3番と不動のクリーンアップの主軸で起用された。中学時代はエースで4番だったが、投げ過ぎの影響か、右ひじを痛め、高校入学後は内野手に回った。高校時代もひじ痛に悩まされ、高校2年秋に右ひじの軟骨を削る手術で溝の口の病院に長期入院し、再起を図った。

昭和31年の多摩高野球部創部以来、部長や監督として多くの野球部員を見てきた稲垣謙治先生は生前、周囲に「歴代野球部で1番の好投手は8期の中林信雄、バッターでは5期の小黒平二」と語っていた。中学、高校、大学、社会人と野球を続けたが、多摩高野球部の打撃順で「3番」の定位置が物語るように、同じ時代のプロ野球セリーグの王者「巨人」の王貞治、長嶋茂雄の「ONコンビ」の打順が3番・長嶋、4番・王だったのと同様、3番・小黒は自らもタイプとして中距離ヒッターだったことを認める。

後年、現役時代の小黒のバッティングをよく知る同期のチームメートで4番打者の岩田忠章(御幸中)は「ヤクルトの好打者・山田哲人の打撃とよく似ている」と感想を語った。小黒の鋭い打球は鋭い振りによるものか、飛球の弾道が普通のバッターの一回りも二回りも大きく、その分、飛距離は長くなる。小黒の9歳下で野球部14期の伊藤努(塚越中)は現役時代、先輩コーチとしてたびたびグラウンドに来た小黒のフリーバッティングでの打撃の模範を何度も見ているが、打った白球が多摩高グラウンドの左翼方向の奥にあった2階建て部室棟の屋根を超え、体育館の壁を直撃したのをよく覚えている。正規の球場であれば、スタンド中段に放り込む打球だった。そのような打球は、残念ながら母校グラウンドでは目にしていない。

本人に打撃のコツを聞くと、「特別のことは何もしていない」と謙遜するが、良きライバルでもあった岩田は「大リーグのイチロー選手のように動体視力がいいので、ボールのポイントをつかむのが上手なうえに、知らずに身に付いた野球センスの良さもあるのだろう」と分析する。「人が見ていないところでバットの素振りをしているのか」と聞くと、本人は首を振ったが、恐らく照れによる否定で、陰ながらの努力なしにあの鋭い振り、打球は生まれるはずがない。

小黒の多摩高野球部時代の通算打撃成績の記録は残念ながら手元にないが、3年の夏の大会では1回戦の浅野戦では4打数3安打、2回戦の県商工戦では4打数2安打(1本は2塁打)の記録が残っている。夏の神奈川大会前の川崎市長杯戦(当時は総当たりのリーグ戦)では、打撃成績は残されていないものの、「恐らく市内各校のバッターの中で首位打者だったのではないか」と多摩高野球部のスコアラーだった橘眞次(南大師中)は振り返る。

小黒は進学した東都大学野球2部リーグの東京農大では1年生のときからレギュラーに定着し、農大卒業後に入った社会人チーム「電電東京」でも家業(養鶏場経営)の事情でわずか2年間の球歴ながら、打撃陣の中軸として鳴らした。この当時、後楽園球場(現、東京ドーム球場)で毎年夏に開催された都市対抗野球に出場したほか、社会人野球としては打者の補強選手としても起用されている。そうした機会に出会ったのが、後年、プロ野球の国鉄(その後変遷を経て、現ヤクルト球団)で「小さな大打者」として2000安打を達成した若松勉選手だった。・・・・・・・・
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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実力ありながら夏の県大会2回戦で敗退―5期 多摩高5期


好打者・小黒を中心にチームワークに磨き
実力ありながら夏の県大会2回戦で敗退―5期
(多摩高野球部5期主将 小黒平二)

県立多摩高校野球部の第5期生は、日本の高度経済成長が本格化し始めた昭和35年(1960年)の入学組で、川崎市内の各中学から有望な選手が20人近くも入部してきた。この中の一人が後に主将となる小黒平二(高津中)で、小黒は60年を超える多摩高野球部随一の好打者との評が定着している。小黒は多摩高を卒業後に東都大学野球2部の東京農大で1年生のときからレギュラー入りし、社会人になってからは社会人野球の電電東京でも主軸打者として都市対抗野球などで活躍した。

しかし、希望がかなって入部したものの、中学時代とは違う日々の練習の辛さか、勉学との両立に悩んだためか、将来を期待されたチームメートを含め、入部した者の半数以上が野球部の最上級生になる前に退部していく。1年上の4期生の先輩が引退した後の昭和36年秋の新チーム結成では小黒がセカンド、3番打者として攻守の主軸となり、サードの石垣正(生田中)、センターの岩田忠章(御幸中)らが打撃陣の中軸を担った。ライトの与儀達彦(富士見中)、ファーストの太田克躬(高津中)、キャッチャーの森田光之(西中原中)の5期生部員が脇を固める布陣だ。1年下の6期生からは、ショートで2番の松村敬二(宮崎中)、レフトで5番の田辺義夫(富士見中)、ピッチャーで9番の高橋謙二(高津中)がレギュラー入りした。森田は大学卒業後、高津中教諭として野球部監督を務め、13期の小黒誠二(小黒平二の父方従弟)、猪瀬忠夫らを指導したほか、川崎市立商業高の教諭に転じてからは同校野球部の監督としても長く活躍し、高校野球に長く携わる生涯だった。平成27年(2015年)に闘病の末、他界した。

さて、5期生が最上級生として臨んだ昭和37年(1962年)の夏の神奈川大会では、前年の秋季大会、この年の春季大会、初夏の川崎市長杯での好成績もあって、ベスト16ないしはベスト8進出の期待を持たれていたが、夏の大会の初戦で当時強豪だった私立の浅野を3対0で破ったものの、2回戦の県商工戦は0対3とよもやの敗北を喫した。しかし、県商工戦では安打数では多摩高が上回ったほか、3点を先行された7回表の攻撃では無死満塁の好機、そして9回の最後の攻撃でも一死1、2塁と迫りながら、4番・岩田の痛打が3塁ベースに当たって球足がそがれ、楽にさばいた相手チームの3塁手に2塁走者が封殺されるといった不運が続いた。

5期生の面々の野球部時代の思い出は、「練習が辛かった」「暑いのに水が飲めずにふらふらになった」といった具合に練習の厳しさにまつわるものが多い。決して、練習に来てくれた先輩を批判する意味ではないのだが、「県商工戦に敗れたのは、試合前日も猛練習で絞られ、疲れが抜けなかったのが敗因の一つ」と何人かのチームメートが口をそろえた。当時の高校野球を取り巻く状況や指導者、コーチの認識の違いもあるのだろうが、5期生が野球部に在籍したころは、練習中の水飲みは厳禁、猛練習で心身を鍛練するといった「非科学的風潮」に異を唱える声は少なく、現代であれば、大事な試合の前は体調やコンディションを整えるのが賢明かつ科学的な練習方法ではなかったのではないか。
5期生が野球部に在籍した時代の多摩高グラウンドは部室用建物もプールなどもなかったため、両翼、特にライト方向は多摩川の土手まで続いており、公式戦を含め、他校チームの試合が行われる野球グラウンドになっていた。しかし、バックネットが装備されていた以外はグラウンドを仕切るフェンスやネットなどの施設はなく、試合中は1塁側、3塁側にそれぞれ10人ほどの多摩高野球部1年生が球拾いを兼ねてフェンス役を務め、球場の整備など二の次ののどかな時代を思わせる。小黒と同じ高津中出身の太田は「練習中にボールが近くの畑に落ちると、のどの渇きを癒すため、畑のキュウリをもいでかじった」と笑いながら話す。

5期チームの特徴について尋ねると、異口同音に「チームワークが良かったことかな」という答えが返ってきた。打撃を含め、野球センス抜群の主将・小黒の穏やかな人柄もあってか、自然と主将を中心にチームの和ができていったというが、もう一つ別の理由がある。個人名は差し控えるが、1期上の上級生の主力選手の間でけんかが絶えず、下級生として口出しできなかったものの、自分たちのチームではそうした悪弊は繰り返さないようにしようと誓ったのだという。

5期生は数年前に古希を迎えたが、高校卒業から半世紀以上がたつというのに、当時の野球部マネージャーの大塚和彦(橘中)や私設応援団兼記録係を自任する橘眞次(南大師中)、その他女性クラスメートを含む仲のいい同期生が頻繁に会う集まりが続いている。野球部員として、ライバルではなく、単にいがみ合うだけの関係だったら、こうした和気あいあいの集まりも長く続くことはないだろう。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載



 
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