19期

19期

「勝つことよりも負けない野球を!」 多摩高19期

「勝つことよりも負けない野球を!」
=19期ベスト4の監督時代を振り返って=
(多摩高野球部15期 峰野謙次=19期監督)

 
母校の野球部監督の話を頂いたのは私が大学2年生のときでした。それまでは13期OBの小黒誠二さんが監督でした。就職活動の関係で監督を退任するということで、当時のOB会長の宇田川彰さん(1期)から是非、後任の監督を引き受けるよう話がありました。正直なところ、最初は乗り気ではありませんでした。自分にできるのか自信がなかったからです。何度も説得されるうちに、折れた形で引き受けることにしました。

1975年(昭和50年)8月の新チーム結成からみることになりましたが、初めてグラウンドに行って練習を見たとき、正直なところ唖然としました。メンバーが9人しかいないのは最初から分かっていたのですが、その力までは把握していませんでした。何せ、9人中外野に球を打ち返すことができるのが4人。残る5人は内野手の頭を越しません。投げる方も強肩といえる選手は誰一人いません。

最初に行ったのは選手の力量を知ることだと思い、遠投力と走力を調べることにしました。
80メートル投げたのが2人。70メートルが1人。あとは60メートル台。走力も鈍足と言っていいほどの選手が3人です。どう鍛え上げようか考えました。私は学生であり、アルバイトもしていましたので、毎日練習を見ることができません。それで結論を出したのは練習の中身の充実でした。

選手たちに指示した内容は、練習はこなしていてはダメで、毎日自分で課題を設けて自分で練習をやっていくこと。バットは振った数だけ力が付く。ベースランニングは力を抜かず走りきること。この3点を選手たちに機会あるごとに言いました。そして、私は現役のとき、内野手と投手を経験していましたので、できるだけ自分のプレーを見せて指導していたつもりです。

シート打撃も私が投げて打たせていました。また、年が近いので、選手からの質問や意見を言いやすい環境も作りました。そうしているうちに、選手たちは自分で考え、自分のできることを見いだし、選手間で話し合う、そんな良いチーム環境になっていました。

幸いにも秋季大会、春季大会とも県大会に出場することができるまでになりました。秋は武相、春は日大高と私立強豪校に当たり、負けましたが、力の差を知ることが後に大変役立ちました。選手たちは自分たちに足りないものを知り、後の練習に役立てました。自分たちで課題を作って練習していったのです。

後は夏本番の県大会に私がどうやって采配するか、残ることはそれだけでした。私自身、選手の力量や性格などを把握していたので、ある程度の戦術は持っていました。夏の初戦はサレジオ高校。2度対戦して2度とも快勝しています。が、私も選手も開幕試合ということで緊張があってか、地に足がついていませんでした。どうにか勝利しましたが、納得の試合ではありませんでした。
しかし、試合を経験したことは大きく、2試合目からは落ち着いて采配することができました。野球勘も働くようになり、選手が試合ごとに成長しているのが手に取るように分かりました。そして、6試合も経験できるとは思ってもみませんでした。夏の大会中、選手に何度も言ったことは「格好のいいプレーは要らない。ちゃんと取ってちゃんと投げよう。勝つことよりも負けない野球をやろう。思いきりプレーしよう」。その3点でした。みんな、よくやったと思います。

最後に、準決勝の向上高との試合前にマスコミの取材をたくさん受けたのは、私には良い経験でした。
 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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