3期

3期

全国優勝の法政二を追い詰めた夏の神奈川大会 多摩高3期


=田中主将を中心にしたチームワークと主戦・井口の好投=
◎全国優勝の法政二を追い詰めた夏の神奈川大会―3期
(多摩高野球部3期 岡部 豊)

多摩高野球部の3期組は1958年(昭和33年)の入学で、3年生となった1期生の宇田川彰主将の新チーム内で新設校ならではの期待と活気があふれる中で部活動をスタートさせた。3期チームの主将は、多摩高にも距離的に近い稲田中学出身の田中輝夫で、3期チームで特筆すべきはやはり、1960年(昭和35年)の夏の神奈川大会3回戦で、当時の高校球界で最強チームといわれた川崎地区の強豪・法政二高を相手に最後まで互角に戦い、全国制覇を成し遂げた法政二高の田丸仁監督をして、「県大会予選での多摩高との試合が最も苦しかった」と言わしめたことだろう。
この試合は、5回に一挙に4点を先取された後攻めの多摩高が9回裏に3点を返し、あと一歩のところでで逆転勝ちを逸したゲーム展開だった。財団法人・神奈川県高等学校野球連盟が1978年に刊行した県の高校野球60年史『球音』の第42回大会(1960年=昭和35年)の総評では、「法政二高に最終回1点差にせまった多摩高校の奮戦ぶりは忘れてはならない」と記されている。

この試合での最後のバッターは、三振で倒れた田中だったが、それを責めることがないのは、ここまでチームを押し上げた陰の功労者が田中であることをナインの誰もが認めていたからだ。田中とともに鉄壁の内野陣として二遊間を守った岡部豊は、「田中主将を中心に同期のチームワークが良く、まとまっていた。すでに半世紀以上前の出来事ながら、法政二高戦での敗戦がいまだに悔しい」と振り返っている。

3期チームが強かったもう一つの理由は、多摩高野球部の投手としては逸材の一人と多くのチームメートが挙げる主戦投手・井口昭夫の投打にわたる活躍だ。控えに回った雨下政宏の好投もしばしば勝利に貢献した。
3期チームが3年生のときの夏の県大会の戦績とメンバーの陣容は以下の通りだ。
1回戦 多摩6対津久井0
2回戦 多摩11対鎌倉1(7回コールド)
3回戦 多摩3対法政二4

メンバーは1番ショート田中輝夫(稲田中)、2番セカンド岡部豊(御幸中)、3番キャッチャー斎藤剛(住吉中)、4番ピッチャー井口昭夫(富士見中)、5番ファースト高橋章(西中原中)、6番レフト山口浩嗣(稲田中)、7番サード稲津三雄(塚越中)、8番センター辻浩幸(富士見中)、9番ライト土田一夫(御幸中)、控え投手・雨下政宏(御幸中)、控え野手・久保田友也(中原中)、マネージャー・遠藤正夫

前記の岡部は多摩高野球部時代の思い出の一つとして、「入学時にリヤカーで何回も内野整備用の水をドラム缶で運び、辛かった!」と述懐し、3期生の入学当時はまだ、野球の練習もさることながら荒れたグラウンドの整備が大きな仕事の一つであったことがうかがえる。

3期チームでは、ファーストを務めた高橋章が卒業後、川崎市水道局で長く野球で活躍し、後年、神奈川県野球連盟の副理事長や川崎野球協会の副理事長兼事務局長などとして県と市の野球界に大きな貢献を果たした。田中と同じ中学出身の山口浩嗣は、現役選手として長く活躍したほか、70代になった今もシニア野球で若々しいプレーを披露し、だらしない後輩を叱咤する。

実家のあった南武線の久地駅前で長くスナック「ナイン」のマスターを務めながら、母校の野球部監督を長年にわたって歴任した田中の後輩の伊藤努(14期チーム主将)は卒業後も田中が采配する軟式野球チームへの参加を誘われ、そうした機会を通じて多くの野球部OBとも親交を得た。その伊藤の目に映る3期生の先輩たちは、カラオケなどでよく歌われる「野球小僧」そのものの、野球を心底愛してやまない人間ばかりだった。田中が生涯の仕事場としたスナックの店名を「ナイン」としたのは、愚直なまでに野球と野球仲間を愛する生き方そのものだったためだと思えてくる。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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