8期

8期

秋と春はベスト8、夏はベスト16進出の活躍 多摩高8期


秋と春はベスト8、夏はベスト16進出の活躍
大黒柱・中林を中心にチームワークが持ち味―8期
(多摩高野球部8期 中林信雄)

多摩高野球部8期は1963年(昭和38年)の入学組で、8期中心のチーム結成後の県大会での成績は秋の県大会がベスト8、春の県大会がベスト8、第2シードで臨んだ夏の神奈川大会はベスト16だった。この夏の神奈川大会優勝校は、一時代を築く武相である。多摩高が3大会で負けた試合はいずれも小差で、流れがこちらに傾いていれば、もっと上位進出あるいは夏の県大会で初の優勝を勝ち取り、甲子園行きも夢ではなかったかもしれない。夏の大会でベスト8入りした2期あとの10期チームは準々決勝で武相に延長の末、惜敗し、多摩高野球部で甲子園に最も近づいたチームといわれたが、8期チームの戦いぶりは10期と遜色ない。

そのチームの大黒柱だったのが、エースで4番の中林信雄(南河原中出身)である。当時監督を務めていた美術教諭の稲垣謙治は後年、「多摩高野球部で一番の好投手は中林」と断言していたが、その後、多くの多摩高球児が学校のグラウンドを巣立っていったが、「ナンバーワン投手は中林」の伝説を覆す声は出ていない。

好投手・中林の紹介は別のコラムに譲るとして、8期チームの陣容を紹介しておこう。打撃順で挙げていくと、一番は捕手・内海(稲田中)、二番は三塁手・富田(南河原中)、三番は遊撃手で主将の玉井(生田中)、四番は投手・中林、五番は一塁手・荒蒔(平間中)、六番は二塁手・熊谷(2年、大森10中)、七番は中堅手・千代田(2年、中野島中)、八番は右翼手・八木(日吉中)、九番は左翼手・及川(2年、南河原中)で、8期が3年に進級した1965年(昭和40年)春には、10期で活躍する岸、三宮、竹内、鈴木、湊といった面々が入部してくる。ここに紹介した野球部OBでは荒蒔、八木、竹内の3人が鬼籍に入った。

8期チームの特徴を一言でいえば、中林を中心とした「守りのチーム」で、頼りになるエースが失点を計算できるので、「3点取れば勝てる」が合言葉にもなった。攻撃の中心は3年生で固めたクリーンアップと、捕手ながらリードオフマンも務めた内海だが、3年生だけでは足りないレギュラーを9期で2年生組の3人が務め、脇を固めた。
中林が述懐するように、なぜチームが勝てるようになったかは、自分たちでやらなければならないという意識がチームに徹底していたことだ。稲垣監督が校務で忙しいために、練習は時々指導にくる先輩の応援も受けながら、一人ひとりが自覚を持って練習に打ち込んだという。

8期チームをよく知るある後輩は「中林さんあってのチームだったが、その大黒柱が仲間を気遣う人柄ということもあって、チームワークの良さにつながっていったのではないか」と話す。中林自身、強豪校相手に多くの勝利を挙げたが、「勝ち方を知る。勝ちパターンをチームとして知ることが大事だった」と振り返った。

8期は、公立高の多摩高野球部が力を付けつつあった時期だったこともあり、川崎市内の中学出身者を中心に20人以上の野球経験者が入部し、その中にはうまい選手が何人もいたが、練習の厳しさ、学業の両立などの壁があって、相次いで退部し、結局、最後の夏の大会を経験したのは上記の6人だった。同期の4分の3が退部組ということになる。

過ぎたことを振り返っても仕方ないことは多々あるが、中林を含め8期の何人かは、同期の仲間が最後まで一緒に野球を続けていれば、「もしかしたら、もっと強いチームができていたかもしれない」と振り返る。しかし、その逆に、有力選手が退部したがゆえに、残った選手たちが力を合わせ、「勝てるチーム」に成長できたのかもしれないとの見方もできる。

決して、野球だけが高校生活という県内の有力私立校とは違う立ち位置の多摩高野球部だが、8期チームの歩みは長い野球部の歴史の中で繰り返される一つのテーマだ。しかし、多摩高グラウンドで一緒に切磋琢磨したチームメートとの絆は、現役時代の数年、あるいはわずか数カ月(3年生と1年生の関係)を共にしただけで、その後の人生で長く続き、途切れることはない。野球を続けることの喜びと苦しさは何事にも代えがたいことが卒業後に分かる。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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