8期

8期

多摩高野球部のナンバー1投手 中林信雄 多摩高8期

多摩高野球部のナンバー1投手 中林信雄(8期)
胸元えぐるシュートと落ちるカーブが武器の剛球派

県立多摩高野球部の長い歴史の中で最も好投手と多くのOBが口をそろえるのが8期のエース・中林信雄(南河原中出身)である。中学時代に川崎市の大会で優勝投手の中林は、県内などの私立の野球強豪校の誘いを断り、自らの意志で公立の多摩高に入学するが、まだ正式の高校生になる前の1963年(昭和38年)の春の県大会川崎地区予選にベンチ入りし、左越えの2塁打を放っている打撃の才も併せ持っていた。3年の夏はエースで4番だった。

高校1年次の6期チーム、高校2年次の7期チームでもレギュラーとして投打に活躍するが、文字通りチームの大黒柱になった8期の新チームでは、秋の県大会でベスト8、春の県大会でもベスト8の原動力となった。秋の川崎地区大会では、法政二高を破って勝ち進んだ後、日大藤沢に0-2で敗れ、春は法政二高に惜敗するが、多摩高に勝った両チームはいずれも県大会で優勝または準決勝まで行ったチームであり、優勝も夢ではなかった戦いぶりは今も語り草である。

中林は身長173センチ、体重は65キロ前後と、投手としては大柄ではないが、右打者の胸元をえぐるシュートと縦に大きく落ちるカーブを武器に県内の有力高に立ち向かっていた。打球を外野に飛ばさせず、内野ゴロで仕留める配球が持ち味で、秋の大会では法政二高を2安打に押さえるが、鋭いシュートが快投をもたらした。

多摩高野球部の投手としては、同じ南河原中の2年後輩の投手で、中林を慕って多摩高野球部に入部し、10期のエースとなる岸裕一とよく比較される。2人をよく知る10期の主将・三宮有治は「中林先輩は剛球派、岸は軟投派で、投手のタイプは大きく違う」と話す。両エースのもう一つの違いは、中林が相手チーム打者に外野には打たせないという気迫を内に秘めながら淡々と投げ、野手がエラーをしても「仕方ない」と受け止めるのに対し、投球術に優れる岸は野手が拙守をすると、自分のグローブをたたきつけて、感情をあらわにするタイプだったことだ。

8期新チームの秋の県大会は優勝校の日大藤沢に2点差で負けたが、新チーム結成時は正選手が一人足りず、助っ人の外野手に飛んだボールをエラーして取られた失点だったことも、中林は忘れられない思い出と振り返る。
第2シードで臨んだ1964年(昭和39年)の夏の県大会では、鶴見工に2対5で敗れ、ベスト16で終わったが、鶴見工戦は序盤の得点機で1点でも取っていれば、試合の流れはどうなったか分からないと、4番打者としてスクイズに失敗したことを本人は悔しそうに話す。

中学時代から投手の逸材と周囲に見られ、多摩高でも期待通りの活躍をした中林だが、高校3年になる直前の冬にひじを痛める。春の県大会予選を前に、前年秋の県大会での好投が関係者の目に留まり、審判の講習会に駆り出され、十分な準備をしないまま投げてしまい、ひじを故障した。そんなことをチームメートに打ち明けないまま、春の大会、夏の大会と大車輪の投げっぷりだったが、中林がモットーとするのは「相手チームには4点以上は与えない投球を心掛ける」という自らに課した目標の実現と、そんな自分を守り立ててくれるチームワークの大切さだ。3期のOBの田中輝夫(後の監督)の誘いで国学院大野球部に進んだが、ひじのけがが治らず、半年でユニホームを脱いだ。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載


 

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