10期

10期

準々決勝の武相戦、延長13回の惜敗 多摩高10期

準々決勝の武相戦、延長13回の惜敗―10期
岸・竹内の好バッテリーと三宮のキャプテンシー
(多摩高野球部10期主将 三宮有治)

多摩高野球部10期は、1967年(昭和42年)の夏の神奈川大会準々決勝で強豪・武相と対戦し、延長13回の末、5対6で惜敗したことが今も語り草となる好チームだった。やはり強豪の横浜高を破っての準々決勝進出だった。この大会で2年生エース・島野修(その後、巨人にドラフト1位入団)を擁した武相が甲子園に行っており、多摩高野球部で最も甲子園に近づいたチームだったと言っても過言ではない。

原動力となったのが、技巧派投手では野球部の歴史ではナンバーワンの評がある岸裕一(南河原中)と、強肩で走者を塁にクギ付けにした捕手の竹内隆史(京都の中学出身)のバッテリーの存在に加えて、主将の三宮有冶(高津中)の指導力と人柄でまとめたチームワークが両輪となった。中学野球でも活躍した岸は別として、レギュラーのすべてが初めから野球が上手だったわけではない。

野球少年は20人以上入部したが、中学時代で燃焼したのか、学業、練習の厳しさなのか、結果的には5人しか残らなかった。それも、竹内(京都から中3の春に高津中に転入)、鈴木憲(富士見中)、湊真人(橘中)は中学時代は野球部の経験はない。その3人が新チーム結成後の高校2年秋から腕をめきめき上げた。好漢・竹内は強肩を発揮、とにかく練習ではボールを飛ばした。左打ちの鈴木憲は試合になると、よく打ったし、よく飛んだ。「3塁打男」の異名がある。毎試合1本は打っていた。湊は一塁手から遊撃手にコンバートし、その強肩を生かし、ボールを前にはじいてもアウトにした。

監督は稲垣謙治先生だったが、校務があってあまり練習には来れなかった。8期チームと同様、グラウンドに来てくれる野球部OBの指導を受けながら、自分たちで猛練習を課した。2年前の玉井主将(8期)、特に1年前の及川主将(9期)の冬の猛特訓の成果があったかもしれない。

エースの岸は何といっても気性の強さ、負けん気の強さ、技術的にはコントロールの良さと武器のドロップで10期チームを引っ張った。三宮は自身の役割について、「大した能力はなかったが、誰に対しても鼻っ柱の強いチームメートの岸を何とか抑えたことか」と当時を振り返る。

甲子園に行けたかもしれないという因縁の武相戦は延長13回まで闘った。全員安打で島野投手に立ち向かったが、接戦をものにできなかった。終盤の好機にファーストフライでゲッツーをとられ、好機を逸した。

10期チームのオーダーを紹介する。
1番は二塁手・三宮(高津中)、2番はセンター・鈴木憲、3番は捕手・竹内、4番は投手・岸(南河原中)、5番は遊撃手・湊、6番は三塁手・手島(2年、今井中)、7番はレフト・小島(2年、生田中)、8番はライト・前田(2年、中野島中)、9番は一塁手・大熊(2年、西中原)。控えに黒田(2年、宮内中)、12期となる1年生には山木、小蒲らがおり、部員の数は15人にも手が届かなかった。三宮には、7期で投手だった兄がいて、やはり高校に入る前から試合に駆り出されていた。人数が少ないのは、多摩高野球部の伝統かもしれない。それでも、チーム全員に勝とうという強い意識があれば、道は開かれるものだ。

武相戦以外に岸の活躍もあって4点以上取られたことはなかった。武相戦の前の試合である横浜高戦は延長11回4対3で勝利した。

主将の三宮は多摩高野球部での自らの経験について、「高校3年間で必ず技術の伸びる時期があるものだということと、もっと練習していればという後悔はある。その時は辛い猛練習だと思っても……。岸にはそれがあって、後の学生監督時代(13期~14期)に、厳しい練習を後輩たちに課したのもよく分かる」と話している。

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載



 

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