17期

17期

「ないない尽くし」で県大会に連続出場 多摩高17期

「ないない尽くし」で県大会に連続出場
=選抜優勝の横浜高相手に善戦―17期=
(多摩高野球部17期主将 中野宏勝)
 
今思えば、私たちの多摩高野球部時代、あの少ない部員数と古びた最低限の道具類しかない環境の下で練習がよく成り立っていた。バッティングやノックに使える硬式球は非常に少なく、バッティング練習では人が代わるたびにボールをかき集め、守備練習のノックも時々中断してはボールを集めていた。教室では、授業そっちのけで赤い糸でボールを縫い、水分を含んだり、擦り切れたり、バックスキンになったボールは赤や黄のテープを巻いてティーバッティグに使用した。

今のように土・日・祝日のたびに他校と練習試合をしておらず、母校にて、グラウンド整備と練習にひたすら励んでいたと記憶している。当時、国鉄(今のJR)の労働者ストがあり、学校は休校になったが、練習には自転車で行った。平日・休日を問わず、「ありがたい?」ことに若い先輩方が毎日のように数名来られて練習を手伝ってくれた。少ない部員数でもできる個人ノックとベースランニングの日々……。小石の散らばるグラウンドや、練習中にのどがかわけばバケツの水を飲んだり、頻繁にボール集めしたりしたことが懐かしい。

15期、16期の先輩方の人数も少なく、昭和47年(1972年)の入学早々(確か4月の入学前から)1年生数名はすぐにレギュラー選手として公式試合に出なければならない状況であった。そんな中で、17期生が1年春の県大会は2・3年生の先輩方の活躍で「ベスト16」となり、夏の神奈川大会は第3シードで挑むこととなる。記憶にあるのは、平和球場(現横浜スタジアム)での横浜商業(Y高)戦のウォーミングアップで体力を使い果たしたことと炎天下の強烈な照り返しである。試合の経過は覚えていない。

17期の夏の3年間は、1年次は前述の通りY高に、2年次は相洋高に負け、3年次にやっと1勝(市立金沢高)して、次の試合は日大高に敗れた。秋、春の県大会には出場していたものの、いずれも1・2回戦負けだった。3年春の県大会は、直前の甲子園選抜優勝の横浜高とコールド負けにならなかったこと(スコアは1対7)を覚えている。

チームの面々だが、同期7名の中に投手と女子マネージャーがいなかったことが残念でならない。前後の期には峰野先輩(15期)、平田先輩(16期)、得田・舮居(18期)、大森(19期)といる。マウンドに同期の投手がいるのはやはり心強い。

また、いずれも個性豊かな同期の「三輪和夫」(生田中、センター)、「太田伸彦」(生田中、一塁手)、「前田正弘」(御幸中、捕手)、「直井広明」(中野島中、ライト)、「高桑敬司」(高津中、レフト)、「高橋雅人」(中野島中、サード)とも近々、酒を酌み交わす予定で、苦楽を共にしたチームメートとの再会が非常に楽しみである。多摩高野球部の同期では、高校卒業後も中野宏勝(南加瀬中、遊撃手)が立教大、太田が学習院大でそれぞれ好きな野球を続けた。

最後に、(故)稲垣謙治先生、岩本秋雄先生に深く感謝とお礼を申し上げます。高校時代に好きな野球が続けられたことに対し、たくさんの方々にご迷惑をかけ、そして支えられていたことに感謝しています。

神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載



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