17期

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立教大OBとしての大学野球の回顧録―多摩高17期 中野宏勝

立教大OBとしての大学野球の回顧録―17期 中野宏勝

1978年(昭和53年)2月の合格発表を受け、40人を超える同期となる新入生が3月~4月に入部した。当時の立教大学は、すべての運動部においてスポーツ推薦が長年廃止され、各部はいずれも低迷が続いていた。硬式野球部も例外ではなく、東京六大学リーグ戦の成績も5位が定位置であった。

昭和53年入部時の部員数は、2年生から4年生合わせても30人に足りず、現役入学した部員も例年の半数以下であった。

その年の新入生は大半が浪人生であり、肩・肘が傷んでいる者や体力がなかなか戻らない者が多くいた。4月を迎えて正式に部員となった1年生は早朝から野球部寮の清掃、グラウンド整備、練習(ほぼ手伝い)、上級生(3・4年生)の世話(洗濯など)、道具磨き、夜の自主練習の手伝いで1日が早く過ぎていき、自分の時間も持てなかった。

入部後すぐに春季リーグ戦が始まったが、「何のために入部してきたのか、縦縞のユニホームを着て神宮球場に立ちたい……」。だが、正直に言って、そんなことは数カ月間は考えられる状況ではなく、少しオーバーな言い方をすれば、辞めずに残っていくのがやっとであった。現に新入生は少しずつ減っていき、7月には13~14人となり、夏練習が始まった数日後に最終的に残ったのは7人(うち1人はマネージャー)だった。

3浪して(ここでは3浪の経緯には触れない)大学に入った私も、いつまで続くのか日々悩んでいたことを覚えている。心強かったのは、夏練習を乗り切って残った同期7人の結束力とその中に多摩高野球部の3つ下(20期)で現役合格し、入部した寺尾洋一(現・座間総合高校監督)の存在であった。この7人とは、毎年欠かさず2月に温泉と酒を楽しんでいる。
昭和52年秋に就任された山本泰郎監督(角館高校出身=故人)は投手出身であったため、野手の守備・打撃・戦略など技術的な面は教わった覚えがない。しかしながら、教育者的手腕は非常に尊敬していた。モットーは「野球部員である前に学生であれ」だった。

私自身は、練習に来られた大先輩の砂押邦信氏(後に国鉄スワローズ監督=故人)から山本監督への助言があり(卒業後に山本監督よりお聞きした)、1年の秋季リーグ戦からベンチ入りした。出場機会にも恵まれ、1年秋に明治大学のエース鹿取義隆(巨人→西武、現:WBSC U15監督を経て巨人軍ゼネラルマネージャー)からの初ヒットを記憶している。
残念ながら在学中に優勝はできなかったが、3年・4年時の4シーズンで2位2回、3位1回と当時の状況を考えれば胸を張れる成績だった。部員も卒業時には60人近くとなり、戦える形が備わっていった。最終学年では主将をさせてもらったが、今思えば、もっともっとやるべきことがあったように思える。

卒業後は明治生命(現:明治安田生命)に就職し、5年間社会人野球を経験した。チームには森泉弘(明治高・明治大出身:現安田学園高校監督)、松本吉啓(桜美林高「1976年夏全国制覇投手」・明治大出身:千葉経済大付属高校監督)、竹内秀夫(松坂高・慶応大出身、後に慶応大学助監督=故人)、前嶋哲夫(銚子商業高「1974年夏全国制覇」・慶応大出身:明治安田生命理事)らタレントがそろっていた。成績も都市対抗ベスト4、スポニチ大会準優勝、日本選手権出場と輝かしいものであった。

一番の宝は、大学や社会人野球を通じて知り合った人との出会いである。直接は存知上げなくても、「立教野球部でした」の一言で野球好きな方、また、少なくとも六大学出身の方とは不自由なく会話が進んでいった。

高校野球を全うして得たものも数多くある。現役の皆さんも是非とも大学で野球を続けられることや、野球に携わる人生を願っています。手島晴幸先輩(11期)、私や寺尾の卒業後も立教大、東京大、早稲田大、慶応大や六大学以外でも野球を続けた多くの多摩高出身者がいる。4年間を大学の野球部で過ごした経験はその後の社会人生活で計り知れない財産となった。
高校卒業後の私の野球人生の一端を紹介しました。今後は多摩高校野球部への恩返しができればと思っている。



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