16期

野球部マネージャーの「気苦労」と「心意気」―16期

神奈川県立多摩高校野球部部史「補遺」
野球部マネージャーの「気苦労」と「心意気」―16期
(澤田みち子)


 県立多摩高野球部16期マネージャーは中山悦子、澤田みち子の2名で、高校に在学していた1970年代初めのころ、サッカーブームの影響で部員は少なかった(部史に掲載の16期チーム主将・齊藤秋英氏の文章に詳しい)。まだ「女子マネ」という言葉のハシリであったし、部に対して「どのような立場で、何をやるか」が課題であった。ただ男子選手の周りでキャーキャーやるような真似だけはしたくなかった。

◇予算問題
 公立高校の部活動にかける予算は少ない。当時は野球部だけが10万円を超える予算が通っているということで、他の部からクレームがあった。しかし、野球部がぜいたくをしているわけではない。金属バットが許可になったばかりの時代、木製バットは3000円~4000円で買えるが、金属バットは1万2000円ほどしていたと思う。試合中にバットが折れると(木製バットはジャストミートしないとよく折れた)、反射的に頭の中で予算残高を計算したものだ。ボール、キャッチャーのプロテクター一式、ミット類、ノックバット、ヘルメット等々、学校から頂ける予算ではとても賄えなかった。他の学校から「お古」のキャッチャーミットやファーストミット、ティーバッティング用の古いボールなどを頂くために歩き回り、修繕して使ったこともあった。
 筆者(澤田)の家が世間で言うところの「土建屋」だったので、オフシーズンには17期と18期の有志を募り、肉体労働のアルバイトをやってもらう代わりに、親が野球部に寄付をするということもやった。これは野球部員のアルバイト代と食事代(大食漢ばかりだった)が大赤字となり、親にはかなり散財させることとなった。
 職員室で稲垣謙治先生(長期にわたり野球部の部長・顧問などを歴任)と話すことはほとんどが金のやりくりであった。部員からは月100円の部費を徴収し、レモンやお茶を買っていた。ロージンバックのような小物は部費から出していた。それも公費との兼ね合いでやりくりし、領収書は「・・・」と、稲垣先生とは「密談」が多かったと思う。

◇部員問題
 選手も勧誘に大変だったと思うが、マネージャーもサッカー部に負けないで部員を増やすための広報活動を必死に行った。サッカー部のポスターに「サッカー部に入らない人は野球部に入ろう」と書いた思い出がある。16期は途中でキャプテンが退部するというアクシデントがあった。顧問や部員とは別に、キャプテンの家に行き、遅い時間まで話し合ったが残留を説得することができなかった。3年間では最も残念な出来事であった。

◇試合でのポジション
 当時はまだ女子マネは甲子園大会の県予選のベンチ入りはできなかったが、練習試合をはじめ、市大会や県予選はベンチ入りした。相手の監督のサインを盗む、アピールプレーのチャンスを見逃さない、監督にボールカウント、アウトカウント、ピッチャーの投球数などを随時伝えるなど、常に気遣いはしていたと思う。そのためにルールブックは隅々まで読んでおいた。ミーティングの時に稲垣先生にルールの問題を出され、「答えられるのはマネージャーだけか!」とおっしゃって頂いたことはうれしい思い出として残っている。

◇やんちゃな後輩たち
 同期の16期の部員は皆、どこか冷めたところがあったように思う。今でこそ16期部員と飲み会なども催すが、当時はマネージャーともどこか距離を置いているように思えた。それに比べ、16期と17期はやんちゃで甘ったれだったように思う。差し入れの食べ物にはすぐ飛びついたし、ユニホームの繕いや、洗濯なども遠慮なくというか、屈託なく依頼してきた。それも憎めない態度で、ついやってあげたくなってしまうメンバーがそろっていた。先輩に対しては生意気だったようで、大先輩ともトラブルがあったと聞いている。16期が先輩と後輩の間で苦労したことと思う。今思えば、16期キャプテンの齊藤氏がすべてのみ込んで、ことを丸く収めていたのであろう。後で聞いた話だが、マネージャーのベンチ入りを頼みこんでくれたのも17期だったという。

◇振り返って
 「女子マネージャー」という言葉に抱くイメージは人それぞれであると思う。私たちはあの頃、「実質のマネージメント」に関わろうと、必死だった。3年生の夏、甲子園大会の県予選の終わりと共に、自分の青春がガラガラと音を立てて崩れていく気がした。数日は抜け殻のようになって、受験勉強どころではなかった。それほど野球に没頭した青春だった。この年になると「青いなあ」と思うし、なんであんなに必死になれたのだろうと不思議にも思う。そういうものを「青春」というのだろう。今、都立高校で教職に就き、なぜか軟式野球部の顧問をやり、仕方なく部長としてベンチ入りしたこともある。でも、高校生の選手やマネージャーと青春を共有することなどもちろんできない。若さを羨むというか、若さに嫉妬することしきりである。

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夏の大会敗退時のすがすがしさ 多摩高16期

夏の大会敗退時のすがすがしさ
=トラブルもあった16期チーム回想=
(多摩高野球部16期主将 齋藤秋英)

1971年(昭和46年)に県立多摩高校入学の16期野球部もその前の数期のチームと同様、日本が銅メダルを獲得した1968年メキシコ五輪後のサッカー熱の影響もあり、部の在籍記録があるのは以下の選手7名とマネージャー2名であった。

高校入学前に入部し、県春季大会予選を経験した中井、片岡の2名は大会後に部を去った。入学直後の4月に入部したのは富永淳一(宮内中=外野手)、齋藤秋英(今井中=内野手)、横田(短期間で退部)の3名。その後、夏の県大会直前に平田伸一(今井中=投手)、秋季大会後に山下博之(岡山操山高より転校=内野手)が入部した。

また、マネージャーは澤田みち子(横浜国大鎌倉中=後に都立高校にて女性野球部長として活躍)、中山悦子(井田中=JAL勤務後子宝に恵まれる)の2名が最後の試合まで部員のために尽力してくれた。

14期、15期の先輩方も部員不足で秋、春の大会ごとに助っ人探しで窮していたが、17期と18期は多数の新入生の入部があり、部員確保の重圧からようやく解放された。だが、人数がそろったにかかわらず、日々の練習は一言で言って厳しかった。

1年生の夏の県大会前までは、富永、齋藤の部員2名で夜10時の帰宅、朝6時に家を出る生活で、弁当を朝昼2食持参して学校に通っていたことを思い出す。帰りの南武線の宿河原駅から武蔵小杉駅までの車中で、「人数不足では退部も言い出せないな」と二人で話し合ったことも今では懐かしい。むろん、学業成績のことは言うにたえない状況であった。

さて、16期チームの戦績であるが、われわれが最上級生であった時期は、残念ながら特筆するものがない。新チーム結成後の2年生の秋季大会(新人戦)は川崎地区予選敗退で県大会出場を逃し、当時1年生の17期の後輩たちと翌年春での再起を目指した。その気持ちを持っての練習の甲斐もあってか、主戦投手・平田と1年生捕手・前田のバッテリー、一塁手太田、二塁手山下、三塁手齋藤、遊撃手中野の内野陣、富永・三輪・プラス1の外野陣に加えて、ベンチにいる控え選手もそろい、春季大会川崎地区予選初戦の県立川崎高戦では、5回表まで10対1と大量リード。その裏の攻撃で1点取ればコールド勝ちという展開だったが、何と結果は10対11で逆転負けを喫してしまった。

この試合後、当時主将だった富永が腰痛のために長期離脱(休部)となり、以後は齋藤が新主将となって戦うことになった。しかし、部員の心が一度バラバラになったチームを立て直すことはできず、春季大会は残念ながら川崎地区予選で敗退した。18期も有望選手が入部し、夏の県大会に向かって期待が高まったが、齋藤自身のキャプテンシーの不足から、その後も後輩たちの練習ボイコットなどのトラブルを収束できず、結果として高橋徳之監督(13期OB)の辞任を招いてしまったことは、深く反省すべき出来事であった。

高橋監督がチームを離脱した後、稲垣謙治先生が監督となって戦うことになったわけであるが、OB諸先輩にも多数練習参加をいただいた。この時期、特に11期の前田泰生先輩には野球にとどまらず、グラウンド外でも熱心に指導していただき、遅ればせながら夏の県大会前までにはチームとしての一体感、いわゆるチームワークを実感できるまでになった。夏の県大会は1回戦でノーシードの強豪・相洋に2対4で敗退したが、不思議なことに悔しさというよりはその時に感じたすがすがしさは忘れられない。

16期の3年生部員は1973年(昭和48年)夏の初めの藤沢球場で、「青春の1ページ」を閉じた。

神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載



 
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