11期~20期

11期~20期

岩本秋雄先生(享年88)を偲んで 多摩高14期 伊藤

母校の物理教師・岩本先生の型破り人生

 
誰でも経験することだろうが、人生も自身が中高年世代になると、これまでにお世話になったり、付き合いが深かったりした学生時代の恩師や職場の上司・同僚、友人の訃報に接することが多くなる。寂しいことだが、同時に人生の来し方を振り返る機会ともなる。最近も高校時代の友人、恩師が相次いで亡くなり、葬儀に参列するなどして故人の冥福を祈らせていただいた。

 そうしたお一人である高校時代の恩師の岩本秋雄先生(享年88)は母校の教え子の間では、型破りの教師として長く記憶されていくのではないだろうか。小太りで赤ら顔、ぎょろりとした大きな目にだみ声と書けば、容姿もユニークだった先生の人物像が少しは思い浮かべていただけるのではないか。

 筆者は高校在学中、岩本先生には物理の担当教員と硬式野球部の顧問としていろいろとお世話になったが、ご自宅がある神奈川県大和市で営まれた葬儀には、先生が二十数年にわたる母校在職中に何度か学級担任を持たれた年次の卒業生や野球部、生徒会のOBたちが多数、姿を見せ、遺族が手配した家族葬兼一般葬向けの会場には着席できず、焼香のための教え子の参列者は部屋の外にあるフロアいっぱいになっていた。

 ここでは、岩本先生の長い高校教師人生のごく一端を紹介したいが、校内ではいつも白衣姿だった物理教師としての本務のほかに、大学進学を目指す生徒に対する熱心な受験指導や、野球部以外にも生徒会や女子ソフトボールチームなどさまざまな部活の顧問としての活動など、単なる高校教師というよりも、卒業後もさまざまな機会を通じてアドバイスをいただける人生の師と言える存在だった。そうした教え子が何人もいる。

 物理の教師ということで、理系学部への進学を希望する生徒に対する指導は、教科書の学習は年間授業計画の半分の期間で早々と済ませ、入試問題の過去問などを解かせる実践的な方法で、理系学部への進学実績を上げることに大いに貢献した。その半面、物理が苦手な文系志望の生徒には、授業内容のレベルが高過ぎて、「岩本先生の授業はチンプンカンプン」という声も付きまとったが、豪放磊落な先生はそんな批判にはお構いなしに、分かりやすい授業を心掛けることはなかった。分からないことは「自分で勉強せよ」ということだろう。

 そんなわけで、筆者が所属していた野球部の諸先輩・後輩たちも、日々の練習が厳しいこともあってか、物理科目の成績評価はほとんどが10段階評価の「3」以下の評点に付く赤点だったが、必修の物理の単位取得に必要な3学期の成績だけは、学年末の試験対策を施してくれて、何とか「4」以上の評点を取ることができた。いわゆる下駄を履かせてもらい、それで進級できたわけである。

 受験指導は教室だけで終わらないのが岩本先生流だった。筆者の場合もそうだったが、先生が目を付けた(?)生徒に対しては、文系、理系を問わず、あるいは担任を持つクラスの生徒であろうとなかろうと、高校3年の秋になると、家庭訪問と称して夕刻・夜間の時間帯を見計らって生徒の自宅を訪ね、教え子の保護者(親)と進学について話し合うことを熱心にされていた。大事な用件が済むと、酒を酌み交わしながらの懇談に移るのが常のようだった。今から数十年前の時代環境だからこそ、あるいは岩本先生独特の人間関係構築のやり方が許された社会状況だったからこそ、問題なく行われていた家庭訪問なのだろうが、ほかの先生にはちょっと真似ができない指導方法ではないか。

 岩本先生は高校在職が21年目を迎えたときに、長男が同じ高校に入学したため、横浜市内に新設された県立高校に転任され、管理職である教頭に就いた。しかし、教室内外での生徒への直接指導と人間的交流を何よりも大事にされた先生らしく、しばらくして教師の職を辞し、前任高校で最初に担任を持った教え子の誘いで、この教え子が経営する企業の子会社幹部となった。岩本先生のお通夜の席で、母校野球部の主将もやった喪主の長男(56)は参列者へのあいさつで、「教師を定年前に辞めた父は昔の教え子の方の誘いで(子会社の経営者という)居場所を得ることができ、家族としては大変感謝しています」と謝辞を述べていた。

 晩年は長野、山梨両県の境にある八ヶ岳山麓に山荘を構え、悠々自適の生活だったが、教え子が訪ねてくると、夜遅くまでの酒盛りとなることが少なくなかったという。そんな思い出話を連絡してくれた教え子で、筆者の1年先輩の元公立高校教師のNさんは「巨星墜つ」と表現して、岩本先生の見事な教員人生を振り返っていた。(了)

14期 伊藤
 

 

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