25期

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田中輝夫監督と歩んだ日々 多摩高25期

田中輝夫監督と歩んだ日々

 

「お前、声でかいなあ。名前、なんだっけ?」

「山崎です」

「おっ、山崎。今日からキャッチャーやれ」

 1980年、1年生の夏。新チームの監督に就いて間もない田中輝夫さんから、練習中にそう指示された私は正直面食らった。中学時代から一塁しか守ったことがない。しかもキャッチャーをやらせる理由は「声が一番でかいから」。

 新監督については、「多摩高、国学院大時代を通じて名内野手として鳴らしたすごい人」ということを聞いていた。そんな田中さんが「やれ」と言うのだから、「俺にもできるのかな」。すっかり勘違いしてしまった。

 一つ上の24期は斎藤睦さん、平田稔さんとピッチャーが良かった。だから当初は私でも何とかつとまっているように感じていた。しかし肝心なところでボロが出た。

 10月5日、春の甲子園につながる関東大会出場がかかった秋の県大会準決勝・日大藤沢戦。先発でマスクをかぶった私は7回までに計7盗塁を許し、4―15で大敗する主因となった。一塁に出ると、相手はほとんど二盗を試みた。100%走ると分かっていても、私は一人も刺すことができなかった。「このキャッチ、フリーパスよ~」。日藤の応援席からはそんなヤジが飛んでいた。

 試合終了後、保土谷球場の三塁側ロッカールーム。「同じ負けるにも、負け方ってのがあるだろ」。語り草になっている監督の一喝のかなりの部分は、私に向けられていたのだろう。普段は大声で怒ったりしない監督の言葉は今も耳に響いている。

汗っかきの私は、すぐにユニフォームが泥だらけになった。プレーはとても自慢できるものではなかったが、グラウンドで声だけは人一倍出していたと思う。そんな、鈍くさい私に監督は目をかけてくれた。年が明けて、春の県大会、川崎市長杯と出番はなかったが、夏の大会では再び先発で起用してくれたのだ。

 ところがまた大事な試合で期待を裏切ってしまう。

 81年7月24日、川崎球場で行われた4回戦の相手は、先日亡くなった原貢氏の監督復帰で注目された東海大相模。

 0―0で迎えた2回表、同期の5番・原智宏と24期の6番・千石立樹さんのヒットでつくった2死1、2塁の先制のチャンスが、8番の私に回ってきた。マウンドにはカーブが得意の左腕、石井投手。直球とカーブであっという間に2ナッシングに追い込まれた。3球目もカーブとヤマを張り、1、2の3で振ってやれと思っていたら、来たのはど真ん中の直球。まったく手が出ず、一度もバットを振ることなく三球三振に倒れた。

 その裏、2点を先行され、試合は終始相手のペースで進行。1―4で敗れた。

 「果てしも知らぬ平原に…」。一塁側ベンチ前で、小学校時代よく口ずさんだ相手校の校歌を聞いた。試合の主導権を握る絶好機に、打席で文字通り棒立ちだった私。使ってくれた監督、けがで控えに回りながらも強力なリーダーシップでチームを引っ張っていた主将の岩本雄一さん、3年生のみなさんに、お詫びのしようもなかった。

  

 当時、監督は一年交代が慣例だった。だから私たち25期も、引き続き田中監督に指揮を執っていただけると知った時は、「今度こそは」の思いが強かった。

 同期は左腕投手・青山博之、遊撃手で後に中堅に回った原、二塁手・園田年彦、三塁手・松井健司、左翼手・平井一也、右翼手・岩田貴、一塁に戻った主将の私、マネージャーの河崎正美さんの8人。

 26期の後輩たちに多彩な人材がそろっていたとはいえ、24期が去り戦力ダウンは明らか。田中監督は、ノックに多くの時間を割き守備を徹底的に鍛えてくれた。と同時に、足が早くセンスが光る右打ちの平井、松井をスイッチヒッターに。手持ちの戦力を最大限生かすにはどうすればいいか―常に考えておられた。

 秋、春の県大会はいずれも初戦で敗退。市長杯も3回戦止まり。それでも夏までに内野では園田、松井が目を見張る上達を見せた。外野も、中学時代はバレーボール部出身の岩田が、何とか任せられるレベルにまでになった。

 夏の大会を控えた、ある日の炎天下。あまりにノックの時間が長くなり、ばてた私たちのプレーが雑になってきたとみるや、怒った監督はノックバットを高く放り投げて、そのまま部室に引き上げてしまった。みんなに促された私が、おそるおそる部室まで謝りにいくと、すでに着替え終わってうまそうにタバコを吸っていた監督は何事もなかったかのように、「明日もまた頑張るぞ」。そんな監督のもとで、1試合でも多く戦いたかった。

そして82年7月18日、藤沢・八部球場。夏の初戦の相手は秦野だった。だが、チーム状態は最悪。エース青山は1カ月前に利き腕の左手中指をつき指して完治しないまま。平井も3週間ほど前に左肩を脱臼。松井は2日前に左目に打球を受けて負傷していた。

痛みをこらえ青山がマウンドに上がり、打っては3安打2打点の活躍を見せたものの、2―4で敗退。私たちの最後の夏は終わった。5番の私は4打数無安打。4番の青山がつくってくれたチャンスを、ことごとくつぶしてしまった。

「ここまでやるだけやったんだ。胸張って帰るぞ」。監督はそういって、うなだれていた私の尻をポンとたたいた。

2014年正月。24期の矢島徹さんから「野球部時代の思い出を書け」と連絡を受け、同期のマネージャー、河崎さんにスコアブックや新聞記事のコピーを送ってもらった。30数年前の記憶が鮮やかに蘇ってきてが、こみ上げてきたのは悔しさばかり。今年で50歳。いい年したオッサンが高校時代にタイムスリップしたように、数々の苦い思い出をかみしめている。

 2008年の12月14日、登戸の元海であった監督の引退祝賀会。久しぶりにお会いして昔話に花を咲かせていたとき、「なぜ私にキャッチャーをやらせたのですか」とあらためて尋ねたら、ニコッと笑って、「だってお前、一番、声がでかかったじゃねえか」。当時と変わらぬ田中監督がそこにいた。

「一つっつ、一つっつ、丁寧にいけ」。守りでも、打席でも、気ばかり焦っていた私は、監督からそう繰り返し注意された。現役時代、残念な思いばかりさせ、「大学でも野球をやります」という約束も破り、監督を裏切った。再会から間もない09年2月8日に監督は帰らぬ人となってしまった。もう恩返しをすることはできない。せめて、教えを守り、今ある人生を一歩、一歩、丁寧に歩いていこうと思い定めている。(了)

25期 山崎 健

多摩高野球部ブログより転載
 

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