1期
|14期|2019年10月21日更新
恩師に瓜二つの後輩を見ての驚き―人生の交錯
最近、ラジオの教養番組で明治の文豪・夏目漱石の著名な作品の読み方についてある著名な国際政治学者の講話を聴いた。東京帝国大学(東大の前身)で英文学を講じ、後に政府派遣の研究者で英国に留学し、帰国後は自らの意思で新聞社の文芸記者として連載小説を書くようになった漱石だが、このK先生の漱石作品の読解のキーワードは「明治時代の近代化に伴う不安の由来」「自己本位の重要性」「男同士の友情の大切さ」「生きた証を残す相続の意味」といったことだった。
突然、このような講話のエッセンスを紹介しても、読者の皆さんの理解が難しいのは十分承知しつつ、文学者ではないK先生の講話で、「坊ちゃん」「こころ」「三四郎」「それから」といった漱石作品を愛読してきた筆者とは全く違う視点が提示されていて、大いに参考になった。ここでは、人が生きる上で他者との出会いがいかに重要かという視点に絞って、人生での人との出会いの面白さについて、最近経験した身の回りの出来事3話を順次紹介していきたい。
筆者の高校野球部の10期下の岩本君(51歳)は現役当時、チームの主将も務めた好漢である。同君の父上が母校の物理教諭を20年以上にわたり務め、いわゆる名物教師だったことは高校の同窓に広く知られているが、最近、高校のある地元・川崎の町で開かれた野球部OB会に彼も久しぶりに出席し、70代前後の野球部草創時の諸先輩の間でたちまちにして寵児になってしまった。
それというのも、後輩の岩本君の容貌が、筆者を含む諸先輩にとって、若き日の先生とここまで似るものかというくらい「瓜二つの親子」に映り、驚きの声がしばらく収まらなかったのである。恩師の岩本先生はいつも白衣姿の理科教師然としていたが、なぜか他のクラブ活動の顧問もしながら、野球部部長を長く務めておられた。というわけで、物理がほとんど苦手な野球部の先輩たちも、悲惨な中間・期末試験の点数に下駄をはかせてもらい、辛うじて落第点の「赤点」を免れた経験を共有しているのだが、練習が厳しい野球部の活動を陰ながら応援してくれた先生に対する尊敬の念は卒業後も消えることはない。
そうしたところに、野球部OB会に久しぶりに登場したのが恩師の長男で、どういう理由によるものか、自分の父が教師を務め、部長をしていた高校の野球部に入り、主将までやった恩師の子供に遭遇したというわけである。高齢の諸先輩から岩本君に投げ掛けられる質問の端々には、瓜二つの容姿に対する驚きが混じっていたが、豪放磊落だった先生とは対照的に、息子は温厚な性格で、その違いは誰の目にも明らかだった。しかし、後輩の岩本君が、今年82歳となった父親を心の底から敬愛する諸先輩方のぶしつけな発言を快く受け止め、八ヶ岳に母と住む父親に「この日の出来事を伝えます」と答えていた。物理教師にとどまらなかった岩本先生の記憶が教え子から消え去ることはなさそうである。漱石が重視した「生きた証の相続」が行われていると思った。(T・I)
最近、ラジオの教養番組で明治の文豪・夏目漱石の著名な作品の読み方についてある著名な国際政治学者の講話を聴いた。東京帝国大学(東大の前身)で英文学を講じ、後に政府派遣の研究者で英国に留学し、帰国後は自らの意思で新聞社の文芸記者として連載小説を書くようになった漱石だが、このK先生の漱石作品の読解のキーワードは「明治時代の近代化に伴う不安の由来」「自己本位の重要性」「男同士の友情の大切さ」「生きた証を残す相続の意味」といったことだった。
突然、このような講話のエッセンスを紹介しても、読者の皆さんの理解が難しいのは十分承知しつつ、文学者ではないK先生の講話で、「坊ちゃん」「こころ」「三四郎」「それから」といった漱石作品を愛読してきた筆者とは全く違う視点が提示されていて、大いに参考になった。ここでは、人が生きる上で他者との出会いがいかに重要かという視点に絞って、人生での人との出会いの面白さについて、最近経験した身の回りの出来事3話を順次紹介していきたい。
筆者の高校野球部の10期下の岩本君(51歳)は現役当時、チームの主将も務めた好漢である。同君の父上が母校の物理教諭を20年以上にわたり務め、いわゆる名物教師だったことは高校の同窓に広く知られているが、最近、高校のある地元・川崎の町で開かれた野球部OB会に彼も久しぶりに出席し、70代前後の野球部草創時の諸先輩の間でたちまちにして寵児になってしまった。
それというのも、後輩の岩本君の容貌が、筆者を含む諸先輩にとって、若き日の先生とここまで似るものかというくらい「瓜二つの親子」に映り、驚きの声がしばらく収まらなかったのである。恩師の岩本先生はいつも白衣姿の理科教師然としていたが、なぜか他のクラブ活動の顧問もしながら、野球部部長を長く務めておられた。というわけで、物理がほとんど苦手な野球部の先輩たちも、悲惨な中間・期末試験の点数に下駄をはかせてもらい、辛うじて落第点の「赤点」を免れた経験を共有しているのだが、練習が厳しい野球部の活動を陰ながら応援してくれた先生に対する尊敬の念は卒業後も消えることはない。
そうしたところに、野球部OB会に久しぶりに登場したのが恩師の長男で、どういう理由によるものか、自分の父が教師を務め、部長をしていた高校の野球部に入り、主将までやった恩師の子供に遭遇したというわけである。高齢の諸先輩から岩本君に投げ掛けられる質問の端々には、瓜二つの容姿に対する驚きが混じっていたが、豪放磊落だった先生とは対照的に、息子は温厚な性格で、その違いは誰の目にも明らかだった。しかし、後輩の岩本君が、今年82歳となった父親を心の底から敬愛する諸先輩方のぶしつけな発言を快く受け止め、八ヶ岳に母と住む父親に「この日の出来事を伝えます」と答えていた。物理教師にとどまらなかった岩本先生の記憶が教え子から消え去ることはなさそうである。漱石が重視した「生きた証の相続」が行われていると思った。(T・I)
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|14期|2019年10月21日更新
「野球部愛」に貫かれた恩人2人の半生
=宇田川彰OB会長と田中輝夫監督の思い出=
県立多摩高野球部の歴史、それに野球部OB・OGでつくるOB会の諸活動を語る上で特筆すべき人物は1期の宇田川彰(富士見中)と3期の田中輝夫(稲田中)の二人を挙げることに多くの関係者が納得するのではないだろうか。先年、二人とも61歳、68歳でそれぞれ他界されたが、性格や人柄は異にするものの「大の野球好き」という共通点があり、生前に野球部やOB会の活動を通じて世話になった同期や後輩諸兄にとってはいつまでも忘れることはできない青春時代の恩人であり、親しい仲間のような存在だ。
多摩高野球部への貢献ということでは、宇田川と田中の役回りは違っていた。川崎市南部出身の宇田川が昭和31年に新設の多摩高に入学し、野球部1期生で主将という立場から、卒業後に野球部OB会を立ち上げ、その会長として長くOB会有力者の立場から現役の野球部員や年齢の離れた後輩の面倒をよく見た人物だったのに対し、北部出身で3期生の主将だった田中は部草創期の野球部のけん引役として攻守に活躍したほか、国学院大学野球部を経て、後年は延べ30年近くにわたって高校野球指導者としてチームの指揮を執り、多くの球児を育てたことだろう。
宇田川と田中がこのように、多摩高野球部やOB会の諸活動に異常なまでの熱意を持って携わった理由としては、多くの後輩に対する面倒見の良さという本人たちの生来の性格に加えて、宇田川は川崎駅近くの有名商店街に立地する喫茶店の経営者兼マスター、田中が南武線久地駅前にあるスナック「ナイン」の経営者兼マスターという、職業で言えば自由業のように自分の時間を好きなことに割ける社会的立場にあったことも大いに関係している。
野球がメシよりも好きな二人は、社会人となってから、共に川崎の南部と北部を拠点にして早朝野球チームを結成し、多摩高野球部の後輩や野球好きの常連客らを集めて監督兼選手としても活躍した。二人とも夜遅くまで続く仕事であり、数時間足らずの睡眠で早朝に起き出し、ユニホーム姿でグラウンドに駆けつけるのである。普通の職業人にはとてもできない芸当だ。宇田川は口ひげと薄めのサングラス、香港帽にアロハシャツという独特のいで立ち、坊主頭で丸顔の田中はショートホープを手放さない愛煙家で、共に野球部仲間に接するときの物腰や口ぶりは終生変わらなかった。
宇田川には多摩高野球部OB会長としての活動のほかに、青山学院大出身らしく若い頃から親しんできたジャズの専門家としての「顔」もあり、経営する喫茶店「アケミ」(後にのれん分けで「あきら」)の常連もジャズ愛好家が多かった。宇田川のその方面での目覚ましい活躍ぶりは他に譲るとして、人を組織し、動かすプロデューサー的才能に優れていたことを物語る仕事の一つが、1980年代から2000年にかけて断続的に続いた県立川崎高と多摩高の両校野球部OBによるマラソン野球の開催だ。
マラソン野球は1981年9月、多摩高創立25周年を記念して初開催し、両校のOB約60人が参加して午前6時のプレーボールから午後5時まで計54イニングにわたり熱戦を繰り広げた。その後、1987年以降の中断期間を挟み、2000年3月には、両校野球部が長く世話になった川崎球場の閉鎖・解体を前に、「さよなら川崎球場」と銘打って日の出から日没までプレーする最後のマラソン野球を計画し、実行に移したのもOB会長だった宇田川の企画力のなせる技だった。
「マラソン野球で思い出”封印”」の見出しが付いた当時の地元紙の記事では、「高校生の時、プロが使う川崎球場に立つと、(ベース間などが)同じ距離のはずなのに大きく感じた。われわれにとって思い出深い球場だ」という宇田川のコメントが載っている。
「野球が心底好きだった」という半生を文字通り歩んだ宇田川と田中という傑出した二人のOBの情熱と野球愛があったらこその多摩高野球部への多大な貢献だった。多くの後輩たちにとっては「宇田川さん」「田中さん」が両先輩に対する呼び名だったが、親しい後輩や仲間はそれぞれ親しみを込めて、「あきらさん」「ていちゃん」とも呼んだ。二人は天国からきょうも、多摩高野球部の現役諸君の活動を温かく見守っているはずだ。(伊藤 努)
=宇田川彰OB会長と田中輝夫監督の思い出=
県立多摩高野球部の歴史、それに野球部OB・OGでつくるOB会の諸活動を語る上で特筆すべき人物は1期の宇田川彰(富士見中)と3期の田中輝夫(稲田中)の二人を挙げることに多くの関係者が納得するのではないだろうか。先年、二人とも61歳、68歳でそれぞれ他界されたが、性格や人柄は異にするものの「大の野球好き」という共通点があり、生前に野球部やOB会の活動を通じて世話になった同期や後輩諸兄にとってはいつまでも忘れることはできない青春時代の恩人であり、親しい仲間のような存在だ。
多摩高野球部への貢献ということでは、宇田川と田中の役回りは違っていた。川崎市南部出身の宇田川が昭和31年に新設の多摩高に入学し、野球部1期生で主将という立場から、卒業後に野球部OB会を立ち上げ、その会長として長くOB会有力者の立場から現役の野球部員や年齢の離れた後輩の面倒をよく見た人物だったのに対し、北部出身で3期生の主将だった田中は部草創期の野球部のけん引役として攻守に活躍したほか、国学院大学野球部を経て、後年は延べ30年近くにわたって高校野球指導者としてチームの指揮を執り、多くの球児を育てたことだろう。
宇田川と田中がこのように、多摩高野球部やOB会の諸活動に異常なまでの熱意を持って携わった理由としては、多くの後輩に対する面倒見の良さという本人たちの生来の性格に加えて、宇田川は川崎駅近くの有名商店街に立地する喫茶店の経営者兼マスター、田中が南武線久地駅前にあるスナック「ナイン」の経営者兼マスターという、職業で言えば自由業のように自分の時間を好きなことに割ける社会的立場にあったことも大いに関係している。
野球がメシよりも好きな二人は、社会人となってから、共に川崎の南部と北部を拠点にして早朝野球チームを結成し、多摩高野球部の後輩や野球好きの常連客らを集めて監督兼選手としても活躍した。二人とも夜遅くまで続く仕事であり、数時間足らずの睡眠で早朝に起き出し、ユニホーム姿でグラウンドに駆けつけるのである。普通の職業人にはとてもできない芸当だ。宇田川は口ひげと薄めのサングラス、香港帽にアロハシャツという独特のいで立ち、坊主頭で丸顔の田中はショートホープを手放さない愛煙家で、共に野球部仲間に接するときの物腰や口ぶりは終生変わらなかった。
宇田川には多摩高野球部OB会長としての活動のほかに、青山学院大出身らしく若い頃から親しんできたジャズの専門家としての「顔」もあり、経営する喫茶店「アケミ」(後にのれん分けで「あきら」)の常連もジャズ愛好家が多かった。宇田川のその方面での目覚ましい活躍ぶりは他に譲るとして、人を組織し、動かすプロデューサー的才能に優れていたことを物語る仕事の一つが、1980年代から2000年にかけて断続的に続いた県立川崎高と多摩高の両校野球部OBによるマラソン野球の開催だ。
マラソン野球は1981年9月、多摩高創立25周年を記念して初開催し、両校のOB約60人が参加して午前6時のプレーボールから午後5時まで計54イニングにわたり熱戦を繰り広げた。その後、1987年以降の中断期間を挟み、2000年3月には、両校野球部が長く世話になった川崎球場の閉鎖・解体を前に、「さよなら川崎球場」と銘打って日の出から日没までプレーする最後のマラソン野球を計画し、実行に移したのもOB会長だった宇田川の企画力のなせる技だった。
「マラソン野球で思い出”封印”」の見出しが付いた当時の地元紙の記事では、「高校生の時、プロが使う川崎球場に立つと、(ベース間などが)同じ距離のはずなのに大きく感じた。われわれにとって思い出深い球場だ」という宇田川のコメントが載っている。
「野球が心底好きだった」という半生を文字通り歩んだ宇田川と田中という傑出した二人のOBの情熱と野球愛があったらこその多摩高野球部への多大な貢献だった。多くの後輩たちにとっては「宇田川さん」「田中さん」が両先輩に対する呼び名だったが、親しい後輩や仲間はそれぞれ親しみを込めて、「あきらさん」「ていちゃん」とも呼んだ。二人は天国からきょうも、多摩高野球部の現役諸君の活動を温かく見守っているはずだ。(伊藤 努)
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
|1期|2019年10月9日更新
法政二高打倒に闘志燃やした多摩高野球部草創期
力をつけた背景に選手の切磋琢磨と関係者の支援
県立多摩高が開校し、野球部が創部された昭和30年代前半、川崎地区でしのぎを削ったのは、甲子園でも名前をとどろかせていた田丸仁監督率いる法政二高をはじめ、県立川崎高、県立川崎工業高、市立川崎商、市立橘高、市立川崎高、それに新参の多摩高だった。
神奈川県内に目を広げると、当時は法政二高、慶応高、鎌倉学園、県商工高、Y高の呼び方で知られた横浜商などが強豪校だった。その後、台頭する武相や東海大相模、横浜高校、桐蔭学園、桐光学園などはまだ無名ないしは学校が創立されていなかった。
多摩高野球部も、目標は高いが打倒・法政、打倒・慶応を合言葉に厳しい練習を続けた。また、県立川崎高は南部の県川、北部の多摩とその後、勉強の方でもライバル関係になっていったこともあって、野球でも県川には負けたくないと闘志を燃やした。
打倒・法政二高の目標は高いと書いたが、決して不可能だったわけではない。田中輝夫ら多摩高野球部の3期生が3年だった昭和35年(1960年)の夏の神奈川大会では法政二高と3回戦で当たり、4対3で惜敗する好ゲームを演じた。その年、甲子園の全国高校野球選手権では法政二高が全国制覇を果たしたが、田丸監督は優勝インタビューで、どの試合が厳しかったかとの記者らの質問に対し、「神奈川大会の対多摩高戦」と答えている。敵将にそうまで語らせる多摩高野球部の実力は創部5年にして相当なものになっていたことが分かる。
多摩高野球部が創部後に18連敗した記録はまだ破られていないが、決して屈辱ではあるまい。連戦連敗のくやしさをバネに、あるいは糧にしてチームが徐々に力をつけていったのは、1期生が3年になった昭和33年の夏の神奈川大会でベスト16に進出したことが何よりの証だ。その後、黄金時代といわれるエース中林を擁した8期チームはベスト8の常連だったし、度胸抜群の好投手・岸がいた10期チームは、甲子園に行った武相高と神奈川大会で延長再試合の死闘を演じている。
川崎地区、神奈川県では昭和30年代前半当時、まだ新設高にすぎなかった多摩高野球部が急速に力をつけた背景には、もちろん選手たちの切磋琢磨もさることながら、関係者の熱心な指導を忘れることはできない。愛知・中京商業の野球を熟知する山岡嘉次校長自らのノックや、1期生の宇田川彰の兄で専修大野球部に在籍した宇田川先輩の厳しい指導、それから忘れてならないのは山岡先生の尽力で慶応大学野球部の現役学生コーチを多摩高に派遣し、野球の練習方法や試合での勝ち方などを若いチームの選手たちに伝授したのである。当時の慶応大学野球部の監督が山岡先生のお嬢さんのお婿さんという身内であったがゆえに実現した実力コーチの派遣だった。
野球部1期生が多摩高卒業後に、大学でもプレーしたOBに桜井紀夫(明治大学)、稲垣隆祥(東洋大学)がいるが、彼らがオフシーズンになると母校のグラウンドに日参した。バッティング投手やノッカーとして、人数の少ないチームの縁の下の力持ちに徹したことは、その後に続く多摩高野球部の良き伝統となった。
1期から11期までは、プロの野球選手を弟に持つ稲垣謙治先生(美術教諭、後に神奈川高野連理事)が監督や部長を務めたが、1969年の12期チーム以降は3期OBの田中輝夫を皮切りに、10期の岸裕一、13期の高橋徳之、同・小黒誠二、15期の峰野謙次、5期の小黒平二、15期の山根康生、18期の松本憲一、17期の太田伸一らが後輩チームをほぼ1年周期で指揮した。1981年(昭和56年)に監督再登板の田中は24期~28期、さらに34期チームから再び指揮を執り始め、多摩高野球部監督の在任は平成20年(2008年)の51期まで27年に及んだ。国学院大野球部OBでもある田中の後を継いだ現監督の浦谷淳(多摩高教諭=2016年まで)は県立川崎高野球部出身というのも何かの因縁かもしれない。60年近い多摩高野球部の歴史の中で、甲子園に近づいたことは何度かあったが、47都道府県で最多の200校近くがひしめく激戦区・神奈川で栄冠を勝ち取るのはますます難しくなっていることは認めねばなるまい。
力をつけた背景に選手の切磋琢磨と関係者の支援
県立多摩高が開校し、野球部が創部された昭和30年代前半、川崎地区でしのぎを削ったのは、甲子園でも名前をとどろかせていた田丸仁監督率いる法政二高をはじめ、県立川崎高、県立川崎工業高、市立川崎商、市立橘高、市立川崎高、それに新参の多摩高だった。
神奈川県内に目を広げると、当時は法政二高、慶応高、鎌倉学園、県商工高、Y高の呼び方で知られた横浜商などが強豪校だった。その後、台頭する武相や東海大相模、横浜高校、桐蔭学園、桐光学園などはまだ無名ないしは学校が創立されていなかった。
多摩高野球部も、目標は高いが打倒・法政、打倒・慶応を合言葉に厳しい練習を続けた。また、県立川崎高は南部の県川、北部の多摩とその後、勉強の方でもライバル関係になっていったこともあって、野球でも県川には負けたくないと闘志を燃やした。
打倒・法政二高の目標は高いと書いたが、決して不可能だったわけではない。田中輝夫ら多摩高野球部の3期生が3年だった昭和35年(1960年)の夏の神奈川大会では法政二高と3回戦で当たり、4対3で惜敗する好ゲームを演じた。その年、甲子園の全国高校野球選手権では法政二高が全国制覇を果たしたが、田丸監督は優勝インタビューで、どの試合が厳しかったかとの記者らの質問に対し、「神奈川大会の対多摩高戦」と答えている。敵将にそうまで語らせる多摩高野球部の実力は創部5年にして相当なものになっていたことが分かる。
多摩高野球部が創部後に18連敗した記録はまだ破られていないが、決して屈辱ではあるまい。連戦連敗のくやしさをバネに、あるいは糧にしてチームが徐々に力をつけていったのは、1期生が3年になった昭和33年の夏の神奈川大会でベスト16に進出したことが何よりの証だ。その後、黄金時代といわれるエース中林を擁した8期チームはベスト8の常連だったし、度胸抜群の好投手・岸がいた10期チームは、甲子園に行った武相高と神奈川大会で延長再試合の死闘を演じている。
川崎地区、神奈川県では昭和30年代前半当時、まだ新設高にすぎなかった多摩高野球部が急速に力をつけた背景には、もちろん選手たちの切磋琢磨もさることながら、関係者の熱心な指導を忘れることはできない。愛知・中京商業の野球を熟知する山岡嘉次校長自らのノックや、1期生の宇田川彰の兄で専修大野球部に在籍した宇田川先輩の厳しい指導、それから忘れてならないのは山岡先生の尽力で慶応大学野球部の現役学生コーチを多摩高に派遣し、野球の練習方法や試合での勝ち方などを若いチームの選手たちに伝授したのである。当時の慶応大学野球部の監督が山岡先生のお嬢さんのお婿さんという身内であったがゆえに実現した実力コーチの派遣だった。
野球部1期生が多摩高卒業後に、大学でもプレーしたOBに桜井紀夫(明治大学)、稲垣隆祥(東洋大学)がいるが、彼らがオフシーズンになると母校のグラウンドに日参した。バッティング投手やノッカーとして、人数の少ないチームの縁の下の力持ちに徹したことは、その後に続く多摩高野球部の良き伝統となった。
1期から11期までは、プロの野球選手を弟に持つ稲垣謙治先生(美術教諭、後に神奈川高野連理事)が監督や部長を務めたが、1969年の12期チーム以降は3期OBの田中輝夫を皮切りに、10期の岸裕一、13期の高橋徳之、同・小黒誠二、15期の峰野謙次、5期の小黒平二、15期の山根康生、18期の松本憲一、17期の太田伸一らが後輩チームをほぼ1年周期で指揮した。1981年(昭和56年)に監督再登板の田中は24期~28期、さらに34期チームから再び指揮を執り始め、多摩高野球部監督の在任は平成20年(2008年)の51期まで27年に及んだ。国学院大野球部OBでもある田中の後を継いだ現監督の浦谷淳(多摩高教諭=2016年まで)は県立川崎高野球部出身というのも何かの因縁かもしれない。60年近い多摩高野球部の歴史の中で、甲子園に近づいたことは何度かあったが、47都道府県で最多の200校近くがひしめく激戦区・神奈川で栄冠を勝ち取るのはますます難しくなっていることは認めねばなるまい。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
|1期|2019年10月8日更新
野球部創部当初は2カ月のグラウンド整備―多摩高1期
=練習試合と公式戦18連敗も3年目はベスト16進出=
(多摩高野球部1期 稲垣隆祥)平成28年(2016年)に60周年を迎えた神奈川県立多摩高校の野球部は、1期生が入学して間もない昭和31年(1956年)5月に創部された。多摩高が開校した当初は今の多摩川べりの宿河原の校舎は建設中で、1期生240人は高津中学の仮校舎で高校生活を始めた。しかし、この後に一部紹介する野球部員14人は入学翌月の5月から、授業が終わると、溝の口駅から南武線で宿河原駅に行き、まだ周りは畑や果樹園だった草ぼうぼうで石ころだらけの校庭の整備に汗を流した。硬式野球ができるグラウンドではなかったのである。
このため、1期生だけの新チームを結成したものの、その年の夏の神奈川大会には出場はかなわず、秋の県大会に向けた川崎地区予選(新人戦)への出場が野球部としての歴史の始まりということになる。しかし、1年生部員だけの悲しさか、野球経験者が少なかったためか、その後、練習試合、公式戦を含め18連敗を続け、初勝利は創部2年目の昭和32年6月の川崎市長杯(当時は新加入の多摩高を含め県立川崎高、法政二高など市内7校による総当たりのリーグ戦)での市立川崎高戦だった。5回コールドでの勝利で、18連敗も飛躍のための準備期間だったのだろう。
そして、1期生が2年になり、2期生が野球部に入部してから初出場の夏の県大会では、1回戦で県立秦野高に敗れたものの、大差ではない好試合となった。初代校長が急逝されたため、愛知県の強豪校、中京商業(当時、現在の中京大中京高)の野球部長から多摩高2代目の校長に招かれた山岡嘉次先生が多摩高野球部の健闘をたたえる発言が翌日の新聞に大きく掲載され、野球部の存在が広く知られるきっかけにもなった。野球部草創期に恩師で応援団の山岡先生がおられたことは、野球部の歩みにも校訓の「質実剛健」を植え付けたのではないか。
昭和32年の夏の県大会に初出場したチームの選手とポジションなどは次の通り。
1番セカンド宇田川彰(富士見中) 2番センター井田栄一(塚越中) 3番ショート鈴木秀雄(稲田中、1年) 4番ピッチャー桜井紀夫(稲田中) 5番サード中田正純(川中島中) 6番ライト稲垣隆祥(稲田中) 7番ファースト城田良雄(1年) 8番レフト小島鉱三(西中原中) 9番キャッチャー秋山保(高津中=マネージャー兼任)
同じ2年生で福岡県小倉から転校してきた三雲巧升はショートだったが、夏の大会はけがのため出場の機会はなかった。運命のいたずらか、桜井、宇田川、中田の3人が鬼籍に入った。
この2年生部員8人が最後まで野球部に所属したが、途中で退部した1期生6人の中にはその後、健康を取り戻してサッカー部に移り、日体大を卒業後に母校の体育科教諭となった高山建治朗もいた。投打のかなめが稲田中野球部出身でエース・4番の桜井だが、後に野球部OB会長を長く務め、公私とも後輩の野球部員を熱血支援した宇田川がやはり中学野球の経験を生かしてリードオフマンとして活躍した。桜井と同じ稲田中出身で、陸上部から高校で野球部に転じた稲垣は高校卒業後に東都大学リーグの駒澤大(1年で中退)、東洋大で野球を続けたが、1期生のチームの特徴は「攻撃型だった」と述懐する。
1期生が3年になったとき、多摩高野球部の最初の黄金時代をつくる田中輝夫(稲田中)、井口昭夫(富士見中)ら3期生の逸材が入部し、ようやく1年から3年までそろったチームが出来上がった。昭和33年の夏の県大会は県内の約50校が出場したが、多摩高は1回戦の横浜一商(現在の横浜商大高)を3対1、2回戦の浅野高校を4対3で破り、3回戦で当たったシード校の県立希望ケ丘高に6対10のスコアで負け、ベスト16進出の結果を残した。
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