24期
|24期|2024年9月11日更新
多摩高野球部投手⚾24期と54期、徳島の阿南市で不思議なご縁!
齋藤睦氏(24期)と三木豪氏(54期)
2人は、東菅小、中野島中、多摩高校と同じ学校だっただけでなく、野球をはじめたチーム、寺尾台イーグルスも一緒!
現在、三木氏のご両親は、阿南市で「那賀川BLUEBERRY みき農園」を営み、
齋藤氏は、阿南市の株式会社レーザーシステムの顧問を務めています。
「みき農園」ブルーベリー狩りの時期は終わりましたが、農園カフェは継続営業中とのこと。是非、お立ち寄りください。(ブルーベリー狩りの時期は6月初旬~8月下旬)
阿南市は徳島県南東部に位置し、東京からは650kmも離れ、ウミガメが産卵するような豊かな自然が残るところです。阿南市を多摩高野球部のふたりの投手が結び付けました。
齋藤睦氏(24期)と三木豪氏(54期)のご両親
三木豪氏(54期)のご両親の営む農園カフェ
北大発ベンチャーから、徳島県を代表する企業に成長したレーザーシステム本社
中央は、レーザーシステムの社長の奥様。右は、みき農園の奥様で、ふたりは地元の名門、富岡西高校の同級生。
東京大学運動会硬式野球部(野球部運営) より、
2016/11/5 東京六大学選抜 vs ヤクルトスワローズ 三木投手(7回表に登板):1回無安打無失点
文武両道のイケメン投手 三木豪氏(東大・農4年生、多摩高54期)
三木豪氏(54期)は多摩高卒業後、東大野球部で活躍。マスコミで話題になった東大の連敗阻止にも貢献。神宮球場90周年記念試合ではプロ野球選手(ヤクルト)と対戦し、3者凡退に退けました。
齋藤睦氏(24期)は多摩高時代は1981年秋県ベスト4投手。中学時代は川崎市長杯優勝投手、強豪校からのスカウトを断って多摩高に入学。
|24期|2019年10月27日更新
「3対2、横浜商工!」
試合終了の挨拶をかわすや否や、3年生は言うまでもなく、1・2
昭和55年7月15日、秦野球場での夏の大会。
よもやの1回戦敗退の屈辱は、1・2年生の誰もが忘れられぬもの
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24期岩本雄一を主将に据えた新チームは、3期・田中輝夫新監督
雪辱に燃える新チームが、短期間で力をつけているのは誰の目から
秋の川崎地区予選をなんなく3戦全勝で突破し、県大会へと駒を進
【地区予選結果】
・7‐4 百合ヶ丘
・6‐0 橘
・9‐0 柿生西
県大会では、津久井戦を皮切りに、好投手・中川(後にドラフト3
結果、本校では初の秋の大会ベスト4という記録を残すこととなっ
【秋県大会結果】
◆1回戦
津久井 000 000 000|0
多摩高 220 300 01x|8
多摩は初回から全く津久井を寄せつけず快勝。斎藤は5死四球を出
◆2回戦
多摩 002 001 001 2|6
向上 000 120 100 0|4
向上は、夏に全国制覇した横浜を4安打3失点に抑えた豪腕中川が
◆3回戦
多摩高 000 200 001|3
上溝南 000 000 000|0
連投の斎藤は前日の疲れと、3回に受けたピッチャーライターの右
◆準々決勝
多摩高 012 300 000|6
横須工 000 001 000|1
守備力の差がそのまま得点差に表れた試合。3回までに多摩は敵失
◆準決勝
多摩高 112 000 000|4
日藤沢 132 101 34x|15
連投の斎藤には疲れが見られ、救援の平田も本来の力が出ず、強打
多摩も3回、菊本の二塁打等で同点に追いつくが、試合になったの
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「何だこの惨めな試合は! 負けるにも負け方があるだろう!」
試合後、田中監督の声がロッカールームに響いた。
不甲斐ない惨敗に悔しさと怒りで顔を紅潮させる田中監督の姿に、
関東大会、いや、その先の春の選抜に繋がる大事な試合を、一番強
ここでまた、チームは反省を胸に秘め、一丸となって新たなスター
さて、BクラスからAクラスの下に入りかけた我が多摩高野球部は
マネジャー 野村 由紀
※本文は1981年3月1日発行の図書館雑誌第11号に掲載され
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24期チームは、翌年夏の大会で第3シードを勝ち取る。4回戦で
無論、いい加減な試合などは決してなかった。
|24期|2019年10月22日更新
2014年08月27日
テツと監督
「バーカ、心配するな、俺が車で連れて行くから」
昼は監督、夜はマスターと自分の忙しさは棚にあげ、多くの教え子の一人のため田中監督は平然と言い切った。
2007年44歳の冬、テツ(24期・瀬尾鉄二)から難病を打ち明けられた夜、絶望して監督のスナック・ナインに逃げ込んだ。
全身の筋肉が萎縮し動かなくなる、原因不明の不治の病「ALS」。助かる見込みはない。
治験のため相模原まで通院しなければならないが、すぐにテツ一人では行けなくなると話した時のことだった。
演歌の流れる騒がしい店内で顔を近づけて言われた。
「バーカ、お前がしっかりしなくてどーする」
怒られたのは、あの秋以来のことか…。
1980年高校2年の夏、新チームの初練習に新監督がやってきた。
斜めのサングラスに突き出たお腹。グラウンドに一礼した時、見えた頭に髪の毛はほとんどない。
18期松本監督から17期太田監督、1年毎に代わった若手監督に比べ、明らかに3期田中輝夫監督は年季が入っていた。
初日のノックで、ライトのテツが大暴投。
「しっかり投げろ、バーカ!」
ホームへ呼ばれ、ノックバットで何度も腹を小突かれる。
(こりゃ、えらい監督にあたっちまった…)
嫌でも気を入れてボールを追った。
関東大会をかけた秋の準決勝、日大藤沢に大差で負けた時、一番悔しがっていたのは監督だった。
ベスト4である程度満足している俺達に、全身を震わせ怒鳴りまくった。
「お前ら悔しくねーのか、負けるにも負け方があるだろ、バカ野郎!」
…この人は本気で甲子園を狙ってる。
驚きながらも、頼もしく思った。
中学時代はハンドボールでならしたテツを「3年間続ければ必ずレギュラーになれる」と強引に野球部に引き入れた。しかし、同期が16名も残りレギュラーどころか3年夏にベンチ入りするのがやっと。
素振りやティーをさんざんやって手はマメだらけになったものの、テツは公式戦に出ることなく野球を終えた。
それでも、後悔の言葉は聞いたことはない。
田中監督引退の2008年夏、もう歩けなくなったテツを同期で背負い等々力まで応援に行った。
試合前、応援席への挨拶で監督は誰かを探していた。テツを見つけると安心したようにニヤッと笑い俺にうなづく。
最後になるかもしれない大事な試合なのに、真っ先にテツを気遣う…。
監督の教えは胸に深く刻み込まれた。
…今はもう、テツも監督もいない。
なぁ、テツ、野球やって良かっただろ。
俺達と、そして監督と、野球ができて良かっただろ。
でも、どうせそっちでも怒鳴られてるんだろうな。
「テ~ツ、バーカ、しっかり投げろ!」
24期・矢島 徹
|24期|2019年10月21日更新
田中さん追悼記
「俺が車で送り迎えするから心配するな」
同期のTから難病にかかったことを初めて告白された夜、監督は言い切った。
Tの病気は原因も治療法もわかっていない。
徐々に動けなくなって、やがては・・・。
あまりにショックで、1人では受け止められずナインに駆け込んた。
その時のTにできることは、週2回遠方の病院まで効くかどうかもわからない治検の注射を週2回打つだけ。
それもいずれ介助を付けてタクシーで行かなければならない。
スナックと監督業で忙しく、還暦も過ぎ体も万全ではないのに、
30年も前の、数多い教え子の1人に過ぎないTのため、
監督は本気で言ってくれた。目が覚めた。
Tを支えなくてどうする・・・。
監督最後の夏、Tを背負って等々力に行った。
試合前の応援席への挨拶でTを見つけた監督は、ホッとして何度も頷いた。
最後の大事な試合を前にして、Tを探して心配する監督の度量には心底感心した。
監督はそういう人だ。また、教えられた。
昨年末、監督勇退の慰労会をやるため、後輩に声を掛けた。
連絡が取れなかった後輩も多い中、115名もの教え子達が集まった。
各代のテーブルを回る監督は、楽しそうで安心したような笑顔だった。
まもなく、監督は亡くなった。
しかし、監督から教えられたことは、我々の心に刻まれ決してなくならない。
バラバラだった各代を、せっかく監督が結びつけてくれたのだから
これからも「監督の会」は毎年続けていこうと思う。
我々の監督は田中輝夫、「永遠の誇り」として教えを引き継ぐ。Y