14期
|14期|2019年10月21日更新
							恩師に瓜二つの後輩を見ての驚き―人生の交錯
最近、ラジオの教養番組で明治の文豪・夏目漱石の著名な作品の読み方についてある著名な国際政治学者の講話を聴いた。東京帝国大学(東大の前身)で英文学を講じ、後に政府派遣の研究者で英国に留学し、帰国後は自らの意思で新聞社の文芸記者として連載小説を書くようになった漱石だが、このK先生の漱石作品の読解のキーワードは「明治時代の近代化に伴う不安の由来」「自己本位の重要性」「男同士の友情の大切さ」「生きた証を残す相続の意味」といったことだった。
突然、このような講話のエッセンスを紹介しても、読者の皆さんの理解が難しいのは十分承知しつつ、文学者ではないK先生の講話で、「坊ちゃん」「こころ」「三四郎」「それから」といった漱石作品を愛読してきた筆者とは全く違う視点が提示されていて、大いに参考になった。ここでは、人が生きる上で他者との出会いがいかに重要かという視点に絞って、人生での人との出会いの面白さについて、最近経験した身の回りの出来事3話を順次紹介していきたい。
筆者の高校野球部の10期下の岩本君(51歳)は現役当時、チームの主将も務めた好漢である。同君の父上が母校の物理教諭を20年以上にわたり務め、いわゆる名物教師だったことは高校の同窓に広く知られているが、最近、高校のある地元・川崎の町で開かれた野球部OB会に彼も久しぶりに出席し、70代前後の野球部草創時の諸先輩の間でたちまちにして寵児になってしまった。
それというのも、後輩の岩本君の容貌が、筆者を含む諸先輩にとって、若き日の先生とここまで似るものかというくらい「瓜二つの親子」に映り、驚きの声がしばらく収まらなかったのである。恩師の岩本先生はいつも白衣姿の理科教師然としていたが、なぜか他のクラブ活動の顧問もしながら、野球部部長を長く務めておられた。というわけで、物理がほとんど苦手な野球部の先輩たちも、悲惨な中間・期末試験の点数に下駄をはかせてもらい、辛うじて落第点の「赤点」を免れた経験を共有しているのだが、練習が厳しい野球部の活動を陰ながら応援してくれた先生に対する尊敬の念は卒業後も消えることはない。
そうしたところに、野球部OB会に久しぶりに登場したのが恩師の長男で、どういう理由によるものか、自分の父が教師を務め、部長をしていた高校の野球部に入り、主将までやった恩師の子供に遭遇したというわけである。高齢の諸先輩から岩本君に投げ掛けられる質問の端々には、瓜二つの容姿に対する驚きが混じっていたが、豪放磊落だった先生とは対照的に、息子は温厚な性格で、その違いは誰の目にも明らかだった。しかし、後輩の岩本君が、今年82歳となった父親を心の底から敬愛する諸先輩方のぶしつけな発言を快く受け止め、八ヶ岳に母と住む父親に「この日の出来事を伝えます」と答えていた。物理教師にとどまらなかった岩本先生の記憶が教え子から消え去ることはなさそうである。漱石が重視した「生きた証の相続」が行われていると思った。(T・I)
 
						
												最近、ラジオの教養番組で明治の文豪・夏目漱石の著名な作品の読み方についてある著名な国際政治学者の講話を聴いた。東京帝国大学(東大の前身)で英文学を講じ、後に政府派遣の研究者で英国に留学し、帰国後は自らの意思で新聞社の文芸記者として連載小説を書くようになった漱石だが、このK先生の漱石作品の読解のキーワードは「明治時代の近代化に伴う不安の由来」「自己本位の重要性」「男同士の友情の大切さ」「生きた証を残す相続の意味」といったことだった。
突然、このような講話のエッセンスを紹介しても、読者の皆さんの理解が難しいのは十分承知しつつ、文学者ではないK先生の講話で、「坊ちゃん」「こころ」「三四郎」「それから」といった漱石作品を愛読してきた筆者とは全く違う視点が提示されていて、大いに参考になった。ここでは、人が生きる上で他者との出会いがいかに重要かという視点に絞って、人生での人との出会いの面白さについて、最近経験した身の回りの出来事3話を順次紹介していきたい。
筆者の高校野球部の10期下の岩本君(51歳)は現役当時、チームの主将も務めた好漢である。同君の父上が母校の物理教諭を20年以上にわたり務め、いわゆる名物教師だったことは高校の同窓に広く知られているが、最近、高校のある地元・川崎の町で開かれた野球部OB会に彼も久しぶりに出席し、70代前後の野球部草創時の諸先輩の間でたちまちにして寵児になってしまった。
それというのも、後輩の岩本君の容貌が、筆者を含む諸先輩にとって、若き日の先生とここまで似るものかというくらい「瓜二つの親子」に映り、驚きの声がしばらく収まらなかったのである。恩師の岩本先生はいつも白衣姿の理科教師然としていたが、なぜか他のクラブ活動の顧問もしながら、野球部部長を長く務めておられた。というわけで、物理がほとんど苦手な野球部の先輩たちも、悲惨な中間・期末試験の点数に下駄をはかせてもらい、辛うじて落第点の「赤点」を免れた経験を共有しているのだが、練習が厳しい野球部の活動を陰ながら応援してくれた先生に対する尊敬の念は卒業後も消えることはない。
そうしたところに、野球部OB会に久しぶりに登場したのが恩師の長男で、どういう理由によるものか、自分の父が教師を務め、部長をしていた高校の野球部に入り、主将までやった恩師の子供に遭遇したというわけである。高齢の諸先輩から岩本君に投げ掛けられる質問の端々には、瓜二つの容姿に対する驚きが混じっていたが、豪放磊落だった先生とは対照的に、息子は温厚な性格で、その違いは誰の目にも明らかだった。しかし、後輩の岩本君が、今年82歳となった父親を心の底から敬愛する諸先輩方のぶしつけな発言を快く受け止め、八ヶ岳に母と住む父親に「この日の出来事を伝えます」と答えていた。物理教師にとどまらなかった岩本先生の記憶が教え子から消え去ることはなさそうである。漱石が重視した「生きた証の相続」が行われていると思った。(T・I)
 
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					|14期|2019年10月21日更新
							「野球部愛」に貫かれた恩人2人の半生
=宇田川彰OB会長と田中輝夫監督の思い出=
県立多摩高野球部の歴史、それに野球部OB・OGでつくるOB会の諸活動を語る上で特筆すべき人物は1期の宇田川彰(富士見中)と3期の田中輝夫(稲田中)の二人を挙げることに多くの関係者が納得するのではないだろうか。先年、二人とも61歳、68歳でそれぞれ他界されたが、性格や人柄は異にするものの「大の野球好き」という共通点があり、生前に野球部やOB会の活動を通じて世話になった同期や後輩諸兄にとってはいつまでも忘れることはできない青春時代の恩人であり、親しい仲間のような存在だ。
多摩高野球部への貢献ということでは、宇田川と田中の役回りは違っていた。川崎市南部出身の宇田川が昭和31年に新設の多摩高に入学し、野球部1期生で主将という立場から、卒業後に野球部OB会を立ち上げ、その会長として長くOB会有力者の立場から現役の野球部員や年齢の離れた後輩の面倒をよく見た人物だったのに対し、北部出身で3期生の主将だった田中は部草創期の野球部のけん引役として攻守に活躍したほか、国学院大学野球部を経て、後年は延べ30年近くにわたって高校野球指導者としてチームの指揮を執り、多くの球児を育てたことだろう。
宇田川と田中がこのように、多摩高野球部やOB会の諸活動に異常なまでの熱意を持って携わった理由としては、多くの後輩に対する面倒見の良さという本人たちの生来の性格に加えて、宇田川は川崎駅近くの有名商店街に立地する喫茶店の経営者兼マスター、田中が南武線久地駅前にあるスナック「ナイン」の経営者兼マスターという、職業で言えば自由業のように自分の時間を好きなことに割ける社会的立場にあったことも大いに関係している。
野球がメシよりも好きな二人は、社会人となってから、共に川崎の南部と北部を拠点にして早朝野球チームを結成し、多摩高野球部の後輩や野球好きの常連客らを集めて監督兼選手としても活躍した。二人とも夜遅くまで続く仕事であり、数時間足らずの睡眠で早朝に起き出し、ユニホーム姿でグラウンドに駆けつけるのである。普通の職業人にはとてもできない芸当だ。宇田川は口ひげと薄めのサングラス、香港帽にアロハシャツという独特のいで立ち、坊主頭で丸顔の田中はショートホープを手放さない愛煙家で、共に野球部仲間に接するときの物腰や口ぶりは終生変わらなかった。
宇田川には多摩高野球部OB会長としての活動のほかに、青山学院大出身らしく若い頃から親しんできたジャズの専門家としての「顔」もあり、経営する喫茶店「アケミ」(後にのれん分けで「あきら」)の常連もジャズ愛好家が多かった。宇田川のその方面での目覚ましい活躍ぶりは他に譲るとして、人を組織し、動かすプロデューサー的才能に優れていたことを物語る仕事の一つが、1980年代から2000年にかけて断続的に続いた県立川崎高と多摩高の両校野球部OBによるマラソン野球の開催だ。
マラソン野球は1981年9月、多摩高創立25周年を記念して初開催し、両校のOB約60人が参加して午前6時のプレーボールから午後5時まで計54イニングにわたり熱戦を繰り広げた。その後、1987年以降の中断期間を挟み、2000年3月には、両校野球部が長く世話になった川崎球場の閉鎖・解体を前に、「さよなら川崎球場」と銘打って日の出から日没までプレーする最後のマラソン野球を計画し、実行に移したのもOB会長だった宇田川の企画力のなせる技だった。
「マラソン野球で思い出”封印”」の見出しが付いた当時の地元紙の記事では、「高校生の時、プロが使う川崎球場に立つと、(ベース間などが)同じ距離のはずなのに大きく感じた。われわれにとって思い出深い球場だ」という宇田川のコメントが載っている。
「野球が心底好きだった」という半生を文字通り歩んだ宇田川と田中という傑出した二人のOBの情熱と野球愛があったらこその多摩高野球部への多大な貢献だった。多くの後輩たちにとっては「宇田川さん」「田中さん」が両先輩に対する呼び名だったが、親しい後輩や仲間はそれぞれ親しみを込めて、「あきらさん」「ていちゃん」とも呼んだ。二人は天国からきょうも、多摩高野球部の現役諸君の活動を温かく見守っているはずだ。(伊藤 努)
 
	 
 
 						
												
					=宇田川彰OB会長と田中輝夫監督の思い出=
県立多摩高野球部の歴史、それに野球部OB・OGでつくるOB会の諸活動を語る上で特筆すべき人物は1期の宇田川彰(富士見中)と3期の田中輝夫(稲田中)の二人を挙げることに多くの関係者が納得するのではないだろうか。先年、二人とも61歳、68歳でそれぞれ他界されたが、性格や人柄は異にするものの「大の野球好き」という共通点があり、生前に野球部やOB会の活動を通じて世話になった同期や後輩諸兄にとってはいつまでも忘れることはできない青春時代の恩人であり、親しい仲間のような存在だ。
多摩高野球部への貢献ということでは、宇田川と田中の役回りは違っていた。川崎市南部出身の宇田川が昭和31年に新設の多摩高に入学し、野球部1期生で主将という立場から、卒業後に野球部OB会を立ち上げ、その会長として長くOB会有力者の立場から現役の野球部員や年齢の離れた後輩の面倒をよく見た人物だったのに対し、北部出身で3期生の主将だった田中は部草創期の野球部のけん引役として攻守に活躍したほか、国学院大学野球部を経て、後年は延べ30年近くにわたって高校野球指導者としてチームの指揮を執り、多くの球児を育てたことだろう。
宇田川と田中がこのように、多摩高野球部やOB会の諸活動に異常なまでの熱意を持って携わった理由としては、多くの後輩に対する面倒見の良さという本人たちの生来の性格に加えて、宇田川は川崎駅近くの有名商店街に立地する喫茶店の経営者兼マスター、田中が南武線久地駅前にあるスナック「ナイン」の経営者兼マスターという、職業で言えば自由業のように自分の時間を好きなことに割ける社会的立場にあったことも大いに関係している。
野球がメシよりも好きな二人は、社会人となってから、共に川崎の南部と北部を拠点にして早朝野球チームを結成し、多摩高野球部の後輩や野球好きの常連客らを集めて監督兼選手としても活躍した。二人とも夜遅くまで続く仕事であり、数時間足らずの睡眠で早朝に起き出し、ユニホーム姿でグラウンドに駆けつけるのである。普通の職業人にはとてもできない芸当だ。宇田川は口ひげと薄めのサングラス、香港帽にアロハシャツという独特のいで立ち、坊主頭で丸顔の田中はショートホープを手放さない愛煙家で、共に野球部仲間に接するときの物腰や口ぶりは終生変わらなかった。
宇田川には多摩高野球部OB会長としての活動のほかに、青山学院大出身らしく若い頃から親しんできたジャズの専門家としての「顔」もあり、経営する喫茶店「アケミ」(後にのれん分けで「あきら」)の常連もジャズ愛好家が多かった。宇田川のその方面での目覚ましい活躍ぶりは他に譲るとして、人を組織し、動かすプロデューサー的才能に優れていたことを物語る仕事の一つが、1980年代から2000年にかけて断続的に続いた県立川崎高と多摩高の両校野球部OBによるマラソン野球の開催だ。
マラソン野球は1981年9月、多摩高創立25周年を記念して初開催し、両校のOB約60人が参加して午前6時のプレーボールから午後5時まで計54イニングにわたり熱戦を繰り広げた。その後、1987年以降の中断期間を挟み、2000年3月には、両校野球部が長く世話になった川崎球場の閉鎖・解体を前に、「さよなら川崎球場」と銘打って日の出から日没までプレーする最後のマラソン野球を計画し、実行に移したのもOB会長だった宇田川の企画力のなせる技だった。
「マラソン野球で思い出”封印”」の見出しが付いた当時の地元紙の記事では、「高校生の時、プロが使う川崎球場に立つと、(ベース間などが)同じ距離のはずなのに大きく感じた。われわれにとって思い出深い球場だ」という宇田川のコメントが載っている。
「野球が心底好きだった」という半生を文字通り歩んだ宇田川と田中という傑出した二人のOBの情熱と野球愛があったらこその多摩高野球部への多大な貢献だった。多くの後輩たちにとっては「宇田川さん」「田中さん」が両先輩に対する呼び名だったが、親しい後輩や仲間はそれぞれ親しみを込めて、「あきらさん」「ていちゃん」とも呼んだ。二人は天国からきょうも、多摩高野球部の現役諸君の活動を温かく見守っているはずだ。(伊藤 努)
	神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
	 
 
|14期|2019年10月21日更新
							野球部存続の危機に直面の14期チーム
=5人の部員、応援組を得て秋・春の県大会出場=
半世紀以上の歴史と伝統を持つ多摩高野球部が存続の危機に見舞われた14期(昭和46年度=1976年度)に主将を務めた。何と、前年夏の新チーム結成時の部員は5人しかおらず、このままでは8月下旬から始まる秋季県大会の川崎地区予選にも参加できない。高校野球のチームには、試合に出る9人のほか、控えの選手を含め、11人か12人の部員は絶対に必要である。草野球とは違って、やはり9人では試合は戦えない。
なぜこんなことになってしまったのか。幾つかの理由があったのだが、小黒誠二主将率いる13期中心のチームが昭和45年の夏の神奈川大会でベスト16入りを果たした直後、新チームに参加するはずだった1年生部員が全員、退部を申し出てきたのだ。もともと、14期の部員が筆者(伊藤努)を含め数人しかいなかったため、集団退部事件で新チーム結成が危ぶまれる事態となった。
このときの監督は、多摩高野球部全盛時代の10期のエースで、大学生OBの岸裕一だったが、岸監督は1年生部員に強く慰留する一方、野球部を続ける気持ちがあるなら、8月初めからの夏季練習に出てくるよう伝え、運命のときを数日待つことになった。
今でも思いだす。炎天下の新チームの練習には14期の伊藤、福島隆、15期の1年生は峰野謙次、山根康生の計4人が集まった。15期で主将を務めることになる佐藤泰年も残留組だったが、このとき盲腸炎を患い、当面、練習にも試合にも出られなかった。
こんな状況では、もちろん「休部」「廃部」の選択もあった。だが、岸監督の熱意や当時の顧問の稲垣謙治先生、岩本秋雄先生らの支援もあり、4人で練習を続けながら、中学時代に野球経験のあるサッカー部の宮尾克己(塚越中)や成田和郎(平間中)に応援要員を頼むとともに、家庭の事情などで退部した14期の高野栄一(中野島中学)や岩崎久(大師中)、15期の大久保(生田中)、中川(今井中)、小飼(落語研究会所属)らを説得し、秋の地区予選に向けて練習に参加するよう頭を下げて回った。秋季の川崎地区予選開始の直前に、何とか10人の混成チームが出来上がった。
翌年春に16期となる新1年生が入部してくるまで、綱渡りの部員不足状態が続いたが、ひそかな自慢は、バッテリーを組んだ稲田中の同級生コンビ、峰野、山根らの活躍もあって秋季と春季とも川崎地区予選を突破して県大会に出場、その上に貴重な勝利を挙げることができたことである。夏の県大会では初戦の新城高校には10対7で勝ったものの、次の厚木高校には0対6で敗退し、ナイン集めで苦労の連続だった14期チームの部活動は終わった。
この年(1971年=昭和46年))の甲子園大会では、神奈川県代表で初出場の桐蔭学園がトントン拍子に勝ち進み、優勝をさらった。桐蔭の優勝チームのメンバーには、川崎市内の中学野球出身者も少なくなく、野球仲間の快挙に大きな勇気をもらった。
寒風吹きすさぶ冬の練習は、宮尾らの応援組がそっくり抜けたので、病気から復帰した佐藤を含め再び5人の陣容となった。こんな先行き見通し難の状態でも厳しい練習に耐えることができたのは、岸監督や顧問の先生ら野球部を応援してくれる人たちの恩に何とか報いたいという一念と、野球部の歴史をここで断ってはならないという思いだった。
「伊藤主将時代はボールを使った練習が少なく、走ることばかりだったですね」―。多摩高野球部時代にわずか1年半しか一緒に練習したにすぎない峰野、山根、佐藤の後輩3人組から、その後の40年以上の付き合いの中でしばしば揶揄されるのがこのフレーズである。「走る練習が中心になったのは、バッティングや守備練習が満足にできない人数だったからなんだ」と、いつも同じセリフで釈明し続ける自分がいる。
20人も30人もいる多摩高野球部なら、県大会でもっともっと上位に食い込めるはずだ。思いがけなく野球部存続のピンチを経験したOBの一人として、現役選手諸君の奮起を促したい。
 
												
					=5人の部員、応援組を得て秋・春の県大会出場=
	(多摩高野球部14期主将 伊藤 努)
半世紀以上の歴史と伝統を持つ多摩高野球部が存続の危機に見舞われた14期(昭和46年度=1976年度)に主将を務めた。何と、前年夏の新チーム結成時の部員は5人しかおらず、このままでは8月下旬から始まる秋季県大会の川崎地区予選にも参加できない。高校野球のチームには、試合に出る9人のほか、控えの選手を含め、11人か12人の部員は絶対に必要である。草野球とは違って、やはり9人では試合は戦えない。
なぜこんなことになってしまったのか。幾つかの理由があったのだが、小黒誠二主将率いる13期中心のチームが昭和45年の夏の神奈川大会でベスト16入りを果たした直後、新チームに参加するはずだった1年生部員が全員、退部を申し出てきたのだ。もともと、14期の部員が筆者(伊藤努)を含め数人しかいなかったため、集団退部事件で新チーム結成が危ぶまれる事態となった。
このときの監督は、多摩高野球部全盛時代の10期のエースで、大学生OBの岸裕一だったが、岸監督は1年生部員に強く慰留する一方、野球部を続ける気持ちがあるなら、8月初めからの夏季練習に出てくるよう伝え、運命のときを数日待つことになった。
今でも思いだす。炎天下の新チームの練習には14期の伊藤、福島隆、15期の1年生は峰野謙次、山根康生の計4人が集まった。15期で主将を務めることになる佐藤泰年も残留組だったが、このとき盲腸炎を患い、当面、練習にも試合にも出られなかった。
こんな状況では、もちろん「休部」「廃部」の選択もあった。だが、岸監督の熱意や当時の顧問の稲垣謙治先生、岩本秋雄先生らの支援もあり、4人で練習を続けながら、中学時代に野球経験のあるサッカー部の宮尾克己(塚越中)や成田和郎(平間中)に応援要員を頼むとともに、家庭の事情などで退部した14期の高野栄一(中野島中学)や岩崎久(大師中)、15期の大久保(生田中)、中川(今井中)、小飼(落語研究会所属)らを説得し、秋の地区予選に向けて練習に参加するよう頭を下げて回った。秋季の川崎地区予選開始の直前に、何とか10人の混成チームが出来上がった。
翌年春に16期となる新1年生が入部してくるまで、綱渡りの部員不足状態が続いたが、ひそかな自慢は、バッテリーを組んだ稲田中の同級生コンビ、峰野、山根らの活躍もあって秋季と春季とも川崎地区予選を突破して県大会に出場、その上に貴重な勝利を挙げることができたことである。夏の県大会では初戦の新城高校には10対7で勝ったものの、次の厚木高校には0対6で敗退し、ナイン集めで苦労の連続だった14期チームの部活動は終わった。
この年(1971年=昭和46年))の甲子園大会では、神奈川県代表で初出場の桐蔭学園がトントン拍子に勝ち進み、優勝をさらった。桐蔭の優勝チームのメンバーには、川崎市内の中学野球出身者も少なくなく、野球仲間の快挙に大きな勇気をもらった。
寒風吹きすさぶ冬の練習は、宮尾らの応援組がそっくり抜けたので、病気から復帰した佐藤を含め再び5人の陣容となった。こんな先行き見通し難の状態でも厳しい練習に耐えることができたのは、岸監督や顧問の先生ら野球部を応援してくれる人たちの恩に何とか報いたいという一念と、野球部の歴史をここで断ってはならないという思いだった。
「伊藤主将時代はボールを使った練習が少なく、走ることばかりだったですね」―。多摩高野球部時代にわずか1年半しか一緒に練習したにすぎない峰野、山根、佐藤の後輩3人組から、その後の40年以上の付き合いの中でしばしば揶揄されるのがこのフレーズである。「走る練習が中心になったのは、バッティングや守備練習が満足にできない人数だったからなんだ」と、いつも同じセリフで釈明し続ける自分がいる。
20人も30人もいる多摩高野球部なら、県大会でもっともっと上位に食い込めるはずだ。思いがけなく野球部存続のピンチを経験したOBの一人として、現役選手諸君の奮起を促したい。
	神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
	
	
	
	 
						
|14期|2019年10月4日更新
							母校の物理教師・岩本先生の型破り人生
誰でも経験することだろうが、人生も自身が中高年世代になると、
そうしたお一人である高校時代の恩師の岩本秋雄先生(享年88)
筆者は高校在学中、
ここでは、
物理の教師ということで、
そんなわけで、筆者が所属していた野球部の諸先輩・後輩たちも、
受験指導は教室だけで終わらないのが岩本先生流だった。
岩本先生は高校在職が21年目を迎えたときに、
晩年は長野、山梨両県の境にある八ヶ岳山麓に山荘を構え、
14期 伊藤
	 
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					誰でも経験することだろうが、人生も自身が中高年世代になると、
そうしたお一人である高校時代の恩師の岩本秋雄先生(享年88)
筆者は高校在学中、
ここでは、
物理の教師ということで、
そんなわけで、筆者が所属していた野球部の諸先輩・後輩たちも、
受験指導は教室だけで終わらないのが岩本先生流だった。
岩本先生は高校在職が21年目を迎えたときに、
晩年は長野、山梨両県の境にある八ヶ岳山麓に山荘を構え、
14期 伊藤
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