17期
|17期|2023年2月7日更新
■県立多摩高野球部部史「補遺」 2023年1月31日入稿
50年後も記憶鮮烈な2年先輩15期チーム
=強豪に善戦、中身濃い4カ月の野球部生活=
2022年(令和4年)9月下旬に母校に近い南武線・宿河原駅前 の居酒屋で県立多摩高野球部OB会のシニア会(60歳以上がメン バー)の集まりに初めて参加し、その席で5年前に編集・ 刊行された野球部の部史(冊子)を14期の伊藤先輩から受け取り 、昭和30年代初めの野球部草創期から20期までの野球部の活動 を詳しく知ることができました。生田中学出身の私(太田)は19 72年(昭和47年)入学の17期チームのメンバーですが、 部史にはたまたま、自分が高校1年生のときに一緒に白球を追った 2年先輩の15期チームの戦績などについて詳しい記述がなかった もので、高校入学後のわずか4カ月の一緒の部活動ながら、それか ら50年以上たった現在も当時のことを鮮烈に記憶しており、15 期の先輩方の素晴らしい活躍ぶりなどを知っていただきたく、ペン を執った次第です。
1971年(昭和46年)秋から72年(昭和47年)夏までの1 5期チームの3年生部員(佐藤泰年=生田中、峰野謙次=稲田中、 山根康生=稲田中、中川孝=今井中の諸先輩)とはわずか4カ月の 野球部生活だったのですが、私にとっては5年以上に思えるほど中 身の濃い数カ月でした。
佐藤さん、山根さんの厳しい叱責、峰野さんの天才的な二刀流、中 川さんの穏やかさ。50年たった今でも、諸先輩のことは脳裡から 離れません。
15期チームの先輩方は夏の県大会初戦(1972年7月19日) で、再興してきたY校(横浜商業)に1対4で敗れたためか、多く を語られませんが、私は言わずにおれません。
まず、前年秋の県大会2回戦では、その夏の甲子園大会で全国制覇 を遂げていた奇本(旧姓)監督率いる桐蔭学園を相手に延長14回 を戦い、4対5の惜敗。
翌年春の県大会では、1回戦で県立秦野高校を4対1(1安打完投 )、2回戦で逗子開成を3対1でそれぞれ下し、3回戦では浅野高 校に0対4で敗れましたが、ベスト16で夏の県大会組み合わせで 第3シードとなりました。野球部員が十数人と少なく、入部して1 カ月にも満たない2人の1年生をレギュラーに使ってのシード権獲 得です。
6月の川崎市長杯でも準決勝で強豪の法政二高を相手に8回2死ま で0対1の善戦でした。2死1・3塁で相手チームの8番打者に本 塁打を浴び、力尽きましたが、0対4でベスト4です。ちなみに、 この年(1972年)夏の神奈川大会の優勝校は東海大相模でした が、準決勝では法政二高に9回2死(しかも無走者)まで2対6で 負けていた。最終的にはそこから5点を入れて延長11回に7対6 と奇跡の逆転勝利。法政二高が神奈川代表として甲子園へ行っても おかしくなかった大会でした。
そして、夏の県大会決勝の相手は何と、春の県大会で峰野さんがエ ースの多摩高に敗れた秦野高校。無シードから勝ち進み、準々決勝 では前年全国覇者の桐蔭学園を8対4で破るなど、快進撃を続け、 マスコミでも秦野旋風と称えられた。最後は東海大相模を相手に0 対5で敗れたが、地元高校の活躍ぶりに秦野市内はお祭り騒ぎとな った。
神奈川の高校球界ではこの年、木田勇投手(横浜一商→日本ハム) 、田代富雄内野手(藤沢商→大洋)が活躍した。その当時から50 年以上が経過した今でも、これらの記憶は鮮明です。
また、私が2年生だったときの1年先輩に当たる16期の先輩方に はいつも優しく励ましていただきました。斎藤秋英、山下博之、平 田伸一、最強マネージャーの澤田みち子、中山悦子の5人ですが、 三塁手・斎藤さん、二塁手・山下さんとは同じ内野手( 太田は一塁手)だったこともあり、痛みを理解してくださったよう に私は思っています。
斎藤さんが主将の16期チームで一番印象に残っている試合は、1 973年(昭和48年)春の川崎地区予選での対県立川崎高戦です 。5回表の攻撃を終えて11対1の大量リード。しかし、その裏に 5点を返され、8回と9回にも3点を失い、11対12のサヨナラ 負け。このような負け方をすると、チームがどのようなことになる か、OBの皆さんなら想像できると思います。
(筆者は多摩高を卒業後に学習院大に進学し、同大野球部で活躍。 大学卒業後は神奈川県立高校の世界史教諭の傍ら、県下の高校で野 球部監督として長年にわたり生徒を指導した)
50年後も記憶鮮烈な2年先輩15期チーム
=強豪に善戦、中身濃い4カ月の野球部生活=
(多摩高野球部17期 太田伸彦)
2022年(令和4年)9月下旬に母校に近い南武線・宿河原駅前
1971年(昭和46年)秋から72年(昭和47年)夏までの1
佐藤さん、山根さんの厳しい叱責、峰野さんの天才的な二刀流、中
15期チームの先輩方は夏の県大会初戦(1972年7月19日)
まず、前年秋の県大会2回戦では、その夏の甲子園大会で全国制覇
翌年春の県大会では、1回戦で県立秦野高校を4対1(1安打完投
6月の川崎市長杯でも準決勝で強豪の法政二高を相手に8回2死ま
そして、夏の県大会決勝の相手は何と、春の県大会で峰野さんがエ
神奈川の高校球界ではこの年、木田勇投手(横浜一商→日本ハム)
また、私が2年生だったときの1年先輩に当たる16期の先輩方に
斎藤さんが主将の16期チームで一番印象に残っている試合は、1
(筆者は多摩高を卒業後に学習院大に進学し、同大野球部で活躍。
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|17期|2020年7月1日更新
立教大OBとしての大学野球の回顧録―17期 中野宏勝
1978年(昭和53年)2月の合格発表を受け、40人を超える同期となる新入生が3月~4月に入部した。当時の立教大学は、すべての運動部においてスポーツ推薦が長年廃止され、各部はいずれも低迷が続いていた。硬式野球部も例外ではなく、東京六大学リーグ戦の成績も5位が定位置であった。
昭和53年入部時の部員数は、2年生から4年生合わせても30人に足りず、現役入学した部員も例年の半数以下であった。
その年の新入生は大半が浪人生であり、肩・肘が傷んでいる者や体力がなかなか戻らない者が多くいた。4月を迎えて正式に部員となった1年生は早朝から野球部寮の清掃、グラウンド整備、練習(ほぼ手伝い)、上級生(3・4年生)の世話(洗濯など)、道具磨き、夜の自主練習の手伝いで1日が早く過ぎていき、自分の時間も持てなかった。
入部後すぐに春季リーグ戦が始まったが、「何のために入部してきたのか、縦縞のユニホームを着て神宮球場に立ちたい……」。だが、正直に言って、そんなことは数カ月間は考えられる状況ではなく、少しオーバーな言い方をすれば、辞めずに残っていくのがやっとであった。現に新入生は少しずつ減っていき、7月には13~14人となり、夏練習が始まった数日後に最終的に残ったのは7人(うち1人はマネージャー)だった。
3浪して(ここでは3浪の経緯には触れない)大学に入った私も、いつまで続くのか日々悩んでいたことを覚えている。心強かったのは、夏練習を乗り切って残った同期7人の結束力とその中に多摩高野球部の3つ下(20期)で現役合格し、入部した寺尾洋一(現・座間総合高校監督)の存在であった。この7人とは、毎年欠かさず2月に温泉と酒を楽しんでいる。
昭和52年秋に就任された山本泰郎監督(角館高校出身=故人)は投手出身であったため、野手の守備・打撃・戦略など技術的な面は教わった覚えがない。しかしながら、教育者的手腕は非常に尊敬していた。モットーは「野球部員である前に学生であれ」だった。
私自身は、練習に来られた大先輩の砂押邦信氏(後に国鉄スワローズ監督=故人)から山本監督への助言があり(卒業後に山本監督よりお聞きした)、1年の秋季リーグ戦からベンチ入りした。出場機会にも恵まれ、1年秋に明治大学のエース鹿取義隆(巨人→西武、現:WBSC U15監督を経て巨人軍ゼネラルマネージャー)からの初ヒットを記憶している。
残念ながら在学中に優勝はできなかったが、3年・4年時の4シーズンで2位2回、3位1回と当時の状況を考えれば胸を張れる成績だった。部員も卒業時には60人近くとなり、戦える形が備わっていった。最終学年では主将をさせてもらったが、今思えば、もっともっとやるべきことがあったように思える。
卒業後は明治生命(現:明治安田生命)に就職し、5年間社会人野球を経験した。チームには森泉弘(明治高・明治大出身:現安田学園高校監督)、松本吉啓(桜美林高「1976年夏全国制覇投手」・明治大出身:千葉経済大付属高校監督)、竹内秀夫(松坂高・慶応大出身、後に慶応大学助監督=故人)、前嶋哲夫(銚子商業高「1974年夏全国制覇」・慶応大出身:明治安田生命理事)らタレントがそろっていた。成績も都市対抗ベスト4、スポニチ大会準優勝、日本選手権出場と輝かしいものであった。
一番の宝は、大学や社会人野球を通じて知り合った人との出会いである。直接は存知上げなくても、「立教野球部でした」の一言で野球好きな方、また、少なくとも六大学出身の方とは不自由なく会話が進んでいった。
高校野球を全うして得たものも数多くある。現役の皆さんも是非とも大学で野球を続けられることや、野球に携わる人生を願っています。手島晴幸先輩(11期)、私や寺尾の卒業後も立教大、東京大、早稲田大、慶応大や六大学以外でも野球を続けた多くの多摩高出身者がいる。4年間を大学の野球部で過ごした経験はその後の社会人生活で計り知れない財産となった。
高校卒業後の私の野球人生の一端を紹介しました。今後は多摩高校野球部への恩返しができればと思っている。
1978年(昭和53年)2月の合格発表を受け、40人を超える同期となる新入生が3月~4月に入部した。当時の立教大学は、すべての運動部においてスポーツ推薦が長年廃止され、各部はいずれも低迷が続いていた。硬式野球部も例外ではなく、東京六大学リーグ戦の成績も5位が定位置であった。
昭和53年入部時の部員数は、2年生から4年生合わせても30人に足りず、現役入学した部員も例年の半数以下であった。
その年の新入生は大半が浪人生であり、肩・肘が傷んでいる者や体力がなかなか戻らない者が多くいた。4月を迎えて正式に部員となった1年生は早朝から野球部寮の清掃、グラウンド整備、練習(ほぼ手伝い)、上級生(3・4年生)の世話(洗濯など)、道具磨き、夜の自主練習の手伝いで1日が早く過ぎていき、自分の時間も持てなかった。
入部後すぐに春季リーグ戦が始まったが、「何のために入部してきたのか、縦縞のユニホームを着て神宮球場に立ちたい……」。だが、正直に言って、そんなことは数カ月間は考えられる状況ではなく、少しオーバーな言い方をすれば、辞めずに残っていくのがやっとであった。現に新入生は少しずつ減っていき、7月には13~14人となり、夏練習が始まった数日後に最終的に残ったのは7人(うち1人はマネージャー)だった。
3浪して(ここでは3浪の経緯には触れない)大学に入った私も、いつまで続くのか日々悩んでいたことを覚えている。心強かったのは、夏練習を乗り切って残った同期7人の結束力とその中に多摩高野球部の3つ下(20期)で現役合格し、入部した寺尾洋一(現・座間総合高校監督)の存在であった。この7人とは、毎年欠かさず2月に温泉と酒を楽しんでいる。
昭和52年秋に就任された山本泰郎監督(角館高校出身=故人)は投手出身であったため、野手の守備・打撃・戦略など技術的な面は教わった覚えがない。しかしながら、教育者的手腕は非常に尊敬していた。モットーは「野球部員である前に学生であれ」だった。
私自身は、練習に来られた大先輩の砂押邦信氏(後に国鉄スワローズ監督=故人)から山本監督への助言があり(卒業後に山本監督よりお聞きした)、1年の秋季リーグ戦からベンチ入りした。出場機会にも恵まれ、1年秋に明治大学のエース鹿取義隆(巨人→西武、現:WBSC U15監督を経て巨人軍ゼネラルマネージャー)からの初ヒットを記憶している。
残念ながら在学中に優勝はできなかったが、3年・4年時の4シーズンで2位2回、3位1回と当時の状況を考えれば胸を張れる成績だった。部員も卒業時には60人近くとなり、戦える形が備わっていった。最終学年では主将をさせてもらったが、今思えば、もっともっとやるべきことがあったように思える。
卒業後は明治生命(現:明治安田生命)に就職し、5年間社会人野球を経験した。チームには森泉弘(明治高・明治大出身:現安田学園高校監督)、松本吉啓(桜美林高「1976年夏全国制覇投手」・明治大出身:千葉経済大付属高校監督)、竹内秀夫(松坂高・慶応大出身、後に慶応大学助監督=故人)、前嶋哲夫(銚子商業高「1974年夏全国制覇」・慶応大出身:明治安田生命理事)らタレントがそろっていた。成績も都市対抗ベスト4、スポニチ大会準優勝、日本選手権出場と輝かしいものであった。
一番の宝は、大学や社会人野球を通じて知り合った人との出会いである。直接は存知上げなくても、「立教野球部でした」の一言で野球好きな方、また、少なくとも六大学出身の方とは不自由なく会話が進んでいった。
高校野球を全うして得たものも数多くある。現役の皆さんも是非とも大学で野球を続けられることや、野球に携わる人生を願っています。手島晴幸先輩(11期)、私や寺尾の卒業後も立教大、東京大、早稲田大、慶応大や六大学以外でも野球を続けた多くの多摩高出身者がいる。4年間を大学の野球部で過ごした経験はその後の社会人生活で計り知れない財産となった。
高校卒業後の私の野球人生の一端を紹介しました。今後は多摩高校野球部への恩返しができればと思っている。
|17期|2019年10月21日更新
【閑話休題:グラウンドを離れて】
◎高校野球部後輩M君の人生大逆転
筆者は高校時代、硬式野球部に所属し、ひたすら白球を追う毎日を送っていたが、卒業から40年以上がたつというのに、年に1、2回あるOB会に顔を出すと、昔の野球談義で盛り上がる。野球部OB会では古顔なので、上は年齢が一回り以上上までの先輩たち、下はこれも一回りくらい下の後輩たちまで、野球部時代のポジションや選手としての技量、本人の性格などが頭に入っているが、卒業以来ほぼ初めて、40年ぶりに再会したM君のその後の人生の足取りなどを本人から聞いて大いに驚いた。
野球部17期生のM君は学年が3年下なので、同じグラウンドで選手として一緒に練習したことはないが、打撃が得意で、大きな声を出す元気な外野手だったことをよく覚えている。
関東近県に住んでいるため、OB会の集まりに自然と足が遠のいてしまったようで、それで皆勤賞組の筆者とも会う機会がなかったのだが、風の便りで、社会に出てから弁護士として活躍していたことは知っていた。
難関の司法試験を突破するほどだから、さぞかし高校やその後の大学での成績も優秀だったのだろうと思い込んでいたら、本人から意外な素顔を聞き、二度びっくりした。何でも、高校1年1学期の学業成績は入部早々の野球部の練習が厳しかったこともあるのだろうが、クラス45人中45番目、本人より一つ上の44番目が野球部チームメートのO君(ちなみに現在、県立高校の世界史の教諭で野球部指導者)ということで、歴代の野球部員でもここまで成績が芳しくないのは珍しい。
だからといって、M君が高校時代に猛勉強したということはなく、野球優先の生活が続いた。彼を知る野球部の後輩たちは、M君らの同期の連中は野球の練習が終わると、着替えもせずにカビ臭い部室で花札に興じ、帰宅を急ぎたい後輩部員を大いに悩ませたそうだ。花札のエピソードは初めて聞いたが、ともあれ、よく言えば豪放磊落、悪く言えば野球の練習以外は自堕落な高校生活だったことがうかがえる。
そのM君は大学に入ってからもアルバイト中心の生活で、勉強は二の次、三の次だったそうだが、司法試験の勉強を本格的に始めたのは大学卒業後。そして8回の挑戦の末、30歳を過ぎて念願の合格を手にしたのだった。大学卒業後、すぐに結婚したので、生活の糧を得る手段として司法試験を目指したというのも、少し変わり者のM君らしい。もう少し堅実な社会人生活もあったろうに。
で、これまでなぜOB会の集まりに長く顔を見せなかったのか尋ねたところ、息子さんたちの少年野球の指導者として週末は時間をとられたことなどを説明し、長年の無沙汰をわびていた。やる気だけを持っていれば、人生はどう転ぶか分からない。高校時代、人一倍元気だったM君は、酔った先輩、後輩らの昔話に耳を傾ける謙虚な中年になっていた。(T・I)
◎高校野球部後輩M君の人生大逆転
筆者は高校時代、硬式野球部に所属し、ひたすら白球を追う毎日を送っていたが、卒業から40年以上がたつというのに、年に1、2回あるOB会に顔を出すと、昔の野球談義で盛り上がる。野球部OB会では古顔なので、上は年齢が一回り以上上までの先輩たち、下はこれも一回りくらい下の後輩たちまで、野球部時代のポジションや選手としての技量、本人の性格などが頭に入っているが、卒業以来ほぼ初めて、40年ぶりに再会したM君のその後の人生の足取りなどを本人から聞いて大いに驚いた。
野球部17期生のM君は学年が3年下なので、同じグラウンドで選手として一緒に練習したことはないが、打撃が得意で、大きな声を出す元気な外野手だったことをよく覚えている。
関東近県に住んでいるため、OB会の集まりに自然と足が遠のいてしまったようで、それで皆勤賞組の筆者とも会う機会がなかったのだが、風の便りで、社会に出てから弁護士として活躍していたことは知っていた。
難関の司法試験を突破するほどだから、さぞかし高校やその後の大学での成績も優秀だったのだろうと思い込んでいたら、本人から意外な素顔を聞き、二度びっくりした。何でも、高校1年1学期の学業成績は入部早々の野球部の練習が厳しかったこともあるのだろうが、クラス45人中45番目、本人より一つ上の44番目が野球部チームメートのO君(ちなみに現在、県立高校の世界史の教諭で野球部指導者)ということで、歴代の野球部員でもここまで成績が芳しくないのは珍しい。
だからといって、M君が高校時代に猛勉強したということはなく、野球優先の生活が続いた。彼を知る野球部の後輩たちは、M君らの同期の連中は野球の練習が終わると、着替えもせずにカビ臭い部室で花札に興じ、帰宅を急ぎたい後輩部員を大いに悩ませたそうだ。花札のエピソードは初めて聞いたが、ともあれ、よく言えば豪放磊落、悪く言えば野球の練習以外は自堕落な高校生活だったことがうかがえる。
そのM君は大学に入ってからもアルバイト中心の生活で、勉強は二の次、三の次だったそうだが、司法試験の勉強を本格的に始めたのは大学卒業後。そして8回の挑戦の末、30歳を過ぎて念願の合格を手にしたのだった。大学卒業後、すぐに結婚したので、生活の糧を得る手段として司法試験を目指したというのも、少し変わり者のM君らしい。もう少し堅実な社会人生活もあったろうに。
で、これまでなぜOB会の集まりに長く顔を見せなかったのか尋ねたところ、息子さんたちの少年野球の指導者として週末は時間をとられたことなどを説明し、長年の無沙汰をわびていた。やる気だけを持っていれば、人生はどう転ぶか分からない。高校時代、人一倍元気だったM君は、酔った先輩、後輩らの昔話に耳を傾ける謙虚な中年になっていた。(T・I)
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
|17期|2019年10月21日更新
「ないない尽くし」で県大会に連続出場
=選抜優勝の横浜高相手に善戦―17期=
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
=選抜優勝の横浜高相手に善戦―17期=
(多摩高野球部17期主将 中野宏勝)
今思えば、私たちの多摩高野球部時代、あの少ない部員数と古びた最低限の道具類しかない環境の下で練習がよく成り立っていた。バッティングやノックに使える硬式球は非常に少なく、バッティング練習では人が代わるたびにボールをかき集め、守備練習のノックも時々中断してはボールを集めていた。教室では、授業そっちのけで赤い糸でボールを縫い、水分を含んだり、擦り切れたり、バックスキンになったボールは赤や黄のテープを巻いてティーバッティグに使用した。
今のように土・日・祝日のたびに他校と練習試合をしておらず、母校にて、グラウンド整備と練習にひたすら励んでいたと記憶している。当時、国鉄(今のJR)の労働者ストがあり、学校は休校になったが、練習には自転車で行った。平日・休日を問わず、「ありがたい?」ことに若い先輩方が毎日のように数名来られて練習を手伝ってくれた。少ない部員数でもできる個人ノックとベースランニングの日々……。小石の散らばるグラウンドや、練習中にのどがかわけばバケツの水を飲んだり、頻繁にボール集めしたりしたことが懐かしい。
15期、16期の先輩方の人数も少なく、昭和47年(1972年)の入学早々(確か4月の入学前から)1年生数名はすぐにレギュラー選手として公式試合に出なければならない状況であった。そんな中で、17期生が1年春の県大会は2・3年生の先輩方の活躍で「ベスト16」となり、夏の神奈川大会は第3シードで挑むこととなる。記憶にあるのは、平和球場(現横浜スタジアム)での横浜商業(Y高)戦のウォーミングアップで体力を使い果たしたことと炎天下の強烈な照り返しである。試合の経過は覚えていない。
17期の夏の3年間は、1年次は前述の通りY高に、2年次は相洋高に負け、3年次にやっと1勝(市立金沢高)して、次の試合は日大高に敗れた。秋、春の県大会には出場していたものの、いずれも1・2回戦負けだった。3年春の県大会は、直前の甲子園選抜優勝の横浜高とコールド負けにならなかったこと(スコアは1対7)を覚えている。
チームの面々だが、同期7名の中に投手と女子マネージャーがいなかったことが残念でならない。前後の期には峰野先輩(15期)、平田先輩(16期)、得田・舮居(18期)、大森(19期)といる。マウンドに同期の投手がいるのはやはり心強い。
また、いずれも個性豊かな同期の「三輪和夫」(生田中、センター)、「太田伸彦」(生田中、一塁手)、「前田正弘」(御幸中、捕手)、「直井広明」(中野島中、ライト)、「高桑敬司」(高津中、レフト)、「高橋雅人」(中野島中、サード)とも近々、酒を酌み交わす予定で、苦楽を共にしたチームメートとの再会が非常に楽しみである。多摩高野球部の同期では、高校卒業後も中野宏勝(南加瀬中、遊撃手)が立教大、太田が学習院大でそれぞれ好きな野球を続けた。
最後に、(故)稲垣謙治先生、岩本秋雄先生に深く感謝とお礼を申し上げます。高校時代に好きな野球が続けられたことに対し、たくさんの方々にご迷惑をかけ、そして支えられていたことに感謝しています。
今のように土・日・祝日のたびに他校と練習試合をしておらず、母校にて、グラウンド整備と練習にひたすら励んでいたと記憶している。当時、国鉄(今のJR)の労働者ストがあり、学校は休校になったが、練習には自転車で行った。平日・休日を問わず、「ありがたい?」ことに若い先輩方が毎日のように数名来られて練習を手伝ってくれた。少ない部員数でもできる個人ノックとベースランニングの日々……。小石の散らばるグラウンドや、練習中にのどがかわけばバケツの水を飲んだり、頻繁にボール集めしたりしたことが懐かしい。
15期、16期の先輩方の人数も少なく、昭和47年(1972年)の入学早々(確か4月の入学前から)1年生数名はすぐにレギュラー選手として公式試合に出なければならない状況であった。そんな中で、17期生が1年春の県大会は2・3年生の先輩方の活躍で「ベスト16」となり、夏の神奈川大会は第3シードで挑むこととなる。記憶にあるのは、平和球場(現横浜スタジアム)での横浜商業(Y高)戦のウォーミングアップで体力を使い果たしたことと炎天下の強烈な照り返しである。試合の経過は覚えていない。
17期の夏の3年間は、1年次は前述の通りY高に、2年次は相洋高に負け、3年次にやっと1勝(市立金沢高)して、次の試合は日大高に敗れた。秋、春の県大会には出場していたものの、いずれも1・2回戦負けだった。3年春の県大会は、直前の甲子園選抜優勝の横浜高とコールド負けにならなかったこと(スコアは1対7)を覚えている。
チームの面々だが、同期7名の中に投手と女子マネージャーがいなかったことが残念でならない。前後の期には峰野先輩(15期)、平田先輩(16期)、得田・舮居(18期)、大森(19期)といる。マウンドに同期の投手がいるのはやはり心強い。
また、いずれも個性豊かな同期の「三輪和夫」(生田中、センター)、「太田伸彦」(生田中、一塁手)、「前田正弘」(御幸中、捕手)、「直井広明」(中野島中、ライト)、「高桑敬司」(高津中、レフト)、「高橋雅人」(中野島中、サード)とも近々、酒を酌み交わす予定で、苦楽を共にしたチームメートとの再会が非常に楽しみである。多摩高野球部の同期では、高校卒業後も中野宏勝(南加瀬中、遊撃手)が立教大、太田が学習院大でそれぞれ好きな野球を続けた。
最後に、(故)稲垣謙治先生、岩本秋雄先生に深く感謝とお礼を申し上げます。高校時代に好きな野球が続けられたことに対し、たくさんの方々にご迷惑をかけ、そして支えられていたことに感謝しています。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
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