OB・OG会

マネージャー手記 「生活の中心」 多摩高51期

51期マネージャー手記 「生活の中心」

 私にとって高校野球は生活の中心でした。
毎日学校へいく楽しみは部活で、部活の時間が待ち遠しくてたまりませんでした。
1年生のころ、マネージャーの先輩にスコアの付け方を教わったことをいまでもよく覚えています!
スコアなどみたことのなかった私には全てが初めてでした。
しかしそんなスコアも今は自分で書けるようになりました。

 51期は本当にすばらしい代です!! 
思い出すときりがないほど彼らとの思い出があります…3年間彼らの頑張りを見てきました。
普段の練習だけでなく夜遅くまで残って自主練をしているみんなの姿も見てきました。
ホントにみんな努力家で野球への思いはどの学校の選手にも負けていなかったと思います。

 ケガで苦しい思いをした選手、なかなか結果が出ずに悩んだ選手…全員が様々な悩みを抱えて3年間をすごしたと思います。
彼らのいろんな姿を見て来たから、今回の夏2回の勝利が本当に嬉しかったです!! 
全員で暑い日も冬の本当に寒い日も毎日毎日辛い練習を乗り越えてきました。
その頑張りが勝利に結び付いたんだと感じていました。
大会前,何度も練習後に校歌♪を歌いました!!
今回全員で笑顔で校歌が歌えて本当に嬉しかったです!!


3回戦の日の空を私は忘れません!!
9回裏最後まで多摩の勝利を信じました!!
苦しい場面では絶対下を向かないと決め、お守りを握りながら等々力の空を見上げて深呼吸しました。
今でもその空が鮮明に浮かびます。
3アウトのコールを聞いた瞬間負けた、終わったという実感がありませんでした。
今でもまだ野球をしないということを自分で理解していないような気がします…
 
この51期18人で高校野球が出来たことを本当に幸せに思います。
18人で過ごしてきた1日1日が宝物です。
多摩51期マネージャーになれたことが本当に本当に幸せでした。
51期のみんなお疲れ様。
応援してくださった保護者の方,OBの方,近所の方3年間ありがとうございました。

多摩高野球部ブログより転載

コメント(0)

田中監督勇退 多摩高51期



7/20(日)綾瀬との3回戦、等々力の多摩高応援席は立ち見が出るほどの人で埋まった。

試合が終了しても帰る人はほとんどいない。
皆、球場の外で監督・選手に労いの言葉を掛けようと残っていた。
泣きながら出て来た選手達を暖かい拍手が癒やす。
勇退を決めた田中監督がOBにも選手にも胴上げされ宙に舞う。
炎天下の中、等々力球場の周りには爽やかな風が吹いていた。    

力の差はあった。さすがは向上を倒したチームだけのことはある。
守備が乱れ打線は繋がらずいつも多摩高野球はなりをひそめた。
孤軍力投する滝沢の援護を最後までできずに試合は終わった。
3回戦以降勝ち抜くのに足りないものをいやというほど教えられた。

1・2年生よ、この悔しさを忘れるな。
3年生達を凌ぐには何が必要かを考え新しいチームをつくっていこう。
 
3年生よ、精一杯よく頑張った。
高い意識・厳しい練習から生まれた君達17名を中心とする全員野球は本物で、皆から愛される素晴らしいチームだった。

田中監督、お疲れさまでした。
長い間、本当にありがとうございました。
粘り強い守りの田中野球は多摩高のDNAとして受け継がれていきます。

多摩高野球部は、新たな一歩を踏み出す。

多摩高野球部ブログより転載

コメント(0)

勝ち! 2回戦サレジオ 多摩高51期

勝ち! 2回戦サレジオ


浅野に逆転サヨナラ勝ちした多摩は2回戦でサレジオとあたった。春にはコールド勝ちしている相手だが、やはり夏は簡単に勝たせてくれない。5回まで3-2の接戦。6回、7回に上野のタイムリー等で5点をあげ試合を決めたかに思われたが4点を返され8-6。さらに9回裏1点を追加され、8-7でなんとか勝った。次は向上を破った綾瀬。浅野戦9回裏の気迫で戦え! 3回戦は7/20(日)11:00から等々力球場にて。

多摩高野球部ブログより転載

        

コメント(0)

「夏の魔物」 1回戦を終えて 多摩高51期

簡単に勝てないことはわかっていた。このところ多摩高は「夏の魔物」にとり憑かれているから・・・。

試合は多摩ペースで進んだ。漁野、森田のタイムリーで先制。
1点を返されるも再び森田の2点タイムリーで4-1とリード。
8回のピンチも滝沢が粘り強く1点で切り抜ける。

魔物は去ったと思った最終回、好投を続けていた滝沢が連打を浴び畠山にスイッチ。
満塁からワイルドピッチと犠牲フライで3点を奪われまさかの逆転。
今年もやはり「夏の魔物」にやられるのかと思いかけた9回裏、このチームは違った。
1点を返し同点とし、満塁の場面で逆転を許した畠山が右前へ気迫のサヨナラ打。
スタンドに挨拶に来た田中監督の目は真っ赤に染まっていた。

魔物を退治したのは、選手達の絶対に勝つという気迫だった。
監督最後の夏に負けられないという想いだった。
このチームはやってくれる。これからの熱い夏を予感させる戦いだった。

2回戦:7/17(木)14:30~相模原球場 対サレジオ
3回戦:7/20(日)11:00~等々力球場 対綾瀬

多摩高野球部ブログより転載

コメント(0)

いざ決戦!「チーム紹介」 多摩高51期

いざ決戦!「チーム紹介」


【投】:昨年からの経験豊富な滝沢は四死球少なく安定したマウンドさばきを見せる。救援の畠山は変化球が巧みで、闘志を全面に押し出す。捕手森田はリードと強肩で投手のみならずチーム全体からの信頼が厚い。【攻・守】:打線も滝沢、森田が中心。長打の1番番場、バット操作が光る小役丸と切れ目がない。小又、漁野の打球は鋭い。遊撃只隈は機敏な動きが光り、一塁河本は182cmの長身を生かす。左翼上野は1年生からの主力だ。【ここに注目】:堅実な守り、粘りのある攻撃、全力での走塁がモットー。意識の高まりでチーム内競争はかなり激しく、主将森田を中心に全員野球で挑む。
…神奈川新聞より
多摩高野球部ブログより転載
コメント(0)

【編集後記】県立多摩高校野球部 部史(創部60周年記念事業)より


【編集後記】

▽今年(2017年=平成29年)の夏の神奈川大会に出場した多摩高野球部の3年生諸君が高校の60期生ということで、60周年という記念の年の刊行を目指して4年がかりで取り組んできた野球部の部史がようやく完成。
こうして関係者のお手元に届けることができ、肩の荷を下ろした気持ちだ。今回の部史は多摩高開校の1956年(昭和31年)入学の1期生から、1975年(昭和50年)入学の20期生のチームまでを扱っており、1期から60期のすべての期間を網羅したものではないことをお断りしておく。

▽多くの野球部OBの方々に貴重な寄稿を仰いだとはいえ、編集などの作業が個人の仕事となったため、60年間という極めて長い歳月のすべてをカバーすることができなかったという事情による。また、昭和30年代に高校生活を送った野球部草創期の先輩諸氏の多くがすでに、社会の第一線から退かれた高齢世代となっていることも、まずは部史の先行編集・早期刊行に取り組んだ理由だ。ぜひとも事情をご賢察の上、ご寛恕たまわりたい。

▽さて、多摩高14期生である編集子のほぼ一回り上の世代の先輩諸氏から、現役当時に一緒にプレーをした同世代のOB諸兄、さらには20期までの後輩OB諸兄のさまざまな部活体験を読ませていただいての感想は、高校野球というスポーツを通じ、厳しい練習の日々や仲間との絆の深まりなど、10代後半のかけがえのない「時間と空間の共有」に対する感謝の気持ちを改めて確認できたことだ。

▽野球部同期との仲間でも最長2年半足らず、1年先輩と1年後輩に当たるチームメートでは1年半、3年生と新入部員ではわずか4カ月に満たない野球部生活だったにもかかわらず、OB会の活動などを通じて高校卒業後の付き合いが長く続くのか。功罪はあろうが、一心不乱に白球を追うという日々の部活動の密度の濃さゆえに培われたチームワークのなせる技ではなかろうか。いつの日か、21期以降の多摩高野球部チームの貴重な体験が語り継がれていくことを希望し、筆を擱きたい。(伊藤)

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載


 
コメント(0)

高校野球の女子マネージャーの今昔

高校野球の女子マネージャーの今昔

やや旧聞で恐縮だが、2017年春の選抜高校野球大会では部員数の少ない東北地方の出場校の女子マネージャーが試合前の守備練習への補助要員としての参加を高校野球連盟から初めて許可され、甲子園球場のホームベース付近でノックする監督にボールを手渡ししている光景が大きく報道された。50年近く前の元高校球児の一人として、時代の変化に深い感慨を覚える。

というのは、筆者の母校である神奈川県の公立高校の野球部も長く、慢性的な部員不足に悩まされ、試合前の守備練習などでは「猫の手」ならぬ女子マネージャーの助けを借りたいと思ったことが幾度となくあったからだ。もちろん、当時所属していた硬式野球部には何人かの女子マネージャーがいたが、その仕事は試合経過を記録するスコアブックを付けたり、乱雑極まる部室の整理整頓、試合時の後方支援(レモンのスライスや飲み水の手配)などに限られ、危険なボールが飛び交うグラウンドに出てくることはなかった。正確に言えば、禁止されていたからである。

他の運動競技の事情はよく知らないが、硬いボールである硬球を使う高校野球の練習で女子マネージャーの出番がなかったのは、「やはり危険だ」という理由が大きかったのは間違いない。高校の野球部時代、監督や先輩からまず厳しく注意されたのは練習や試合の時にボールから絶対に目を離してはならないということだった。特に練習時のグラウンドでは、バッティング練習の鋭い打球や選手が投げる送球のボールがあちこちで飛び交うことも多く、頭部など当たり所が悪ければ、生命の危険もある。野球部の1年先輩で、投手だったFさんは守備練習中の送球が頭部を直撃したため、脳波に異常を来し、退部に追い込まれた。後ろ向きで他の選手が投げたボールに気がつかなかったための不幸なアクシデントだった。

高校野球の聖地・甲子園球場の全国大会での試合前練習に女子マネージャーの参加がようやく認められたのも、さまざまなスポーツ競技に女性が進出してきた大きな流れの中の一こまなのだろう。今では当たり前の女子マラソンや女子サッカーも30年ほど前までは日本では解禁されていなかったのであり、現在から見れば、女性の運動力を侮っていたとしか思えない。

すでに社会人の長女はどちらかと言えば運動は苦手のタイプだが、大学生のときに何を思ったか、弱小の陸上部のマネージャーを買って出て、100メートル走や中距離走、砲丸投げなどの男子部員の練習に付き合っていた。硬式野球とは違って、危険度は小さいが、弱小な部で部員も少ないとあって、練習の際に選手の記録を測ったり、走り方をビデオに撮ったりと、本人は後に、「いろいろと部員の役に立つことが多く、卒業時に大いに感謝された」と話していた。縁の下の力持ちのような存在の女子マネージャーだが、選手だけでなく、マネージャー自身も活動の中からさまざまなことを学ぶことができる。試合や競技にとって重要なチームワークづくりの潤滑油として、男女問わず、マネージャーの存在は貴重だ。(T・I)




 
コメント(0)

恩師に瓜二つの後輩を見ての驚き―人生の交錯

恩師に瓜二つの後輩を見ての驚き―人生の交錯

最近、ラジオの教養番組で明治の文豪・夏目漱石の著名な作品の読み方についてある著名な国際政治学者の講話を聴いた。東京帝国大学(東大の前身)で英文学を講じ、後に政府派遣の研究者で英国に留学し、帰国後は自らの意思で新聞社の文芸記者として連載小説を書くようになった漱石だが、このK先生の漱石作品の読解のキーワードは「明治時代の近代化に伴う不安の由来」「自己本位の重要性」「男同士の友情の大切さ」「生きた証を残す相続の意味」といったことだった。

突然、このような講話のエッセンスを紹介しても、読者の皆さんの理解が難しいのは十分承知しつつ、文学者ではないK先生の講話で、「坊ちゃん」「こころ」「三四郎」「それから」といった漱石作品を愛読してきた筆者とは全く違う視点が提示されていて、大いに参考になった。ここでは、人が生きる上で他者との出会いがいかに重要かという視点に絞って、人生での人との出会いの面白さについて、最近経験した身の回りの出来事3話を順次紹介していきたい。

筆者の高校野球部の10期下の岩本君(51歳)は現役当時、チームの主将も務めた好漢である。同君の父上が母校の物理教諭を20年以上にわたり務め、いわゆる名物教師だったことは高校の同窓に広く知られているが、最近、高校のある地元・川崎の町で開かれた野球部OB会に彼も久しぶりに出席し、70代前後の野球部草創時の諸先輩の間でたちまちにして寵児になってしまった。

それというのも、後輩の岩本君の容貌が、筆者を含む諸先輩にとって、若き日の先生とここまで似るものかというくらい「瓜二つの親子」に映り、驚きの声がしばらく収まらなかったのである。恩師の岩本先生はいつも白衣姿の理科教師然としていたが、なぜか他のクラブ活動の顧問もしながら、野球部部長を長く務めておられた。というわけで、物理がほとんど苦手な野球部の先輩たちも、悲惨な中間・期末試験の点数に下駄をはかせてもらい、辛うじて落第点の「赤点」を免れた経験を共有しているのだが、練習が厳しい野球部の活動を陰ながら応援してくれた先生に対する尊敬の念は卒業後も消えることはない。

そうしたところに、野球部OB会に久しぶりに登場したのが恩師の長男で、どういう理由によるものか、自分の父が教師を務め、部長をしていた高校の野球部に入り、主将までやった恩師の子供に遭遇したというわけである。高齢の諸先輩から岩本君に投げ掛けられる質問の端々には、瓜二つの容姿に対する驚きが混じっていたが、豪放磊落だった先生とは対照的に、息子は温厚な性格で、その違いは誰の目にも明らかだった。しかし、後輩の岩本君が、今年82歳となった父親を心の底から敬愛する諸先輩方のぶしつけな発言を快く受け止め、八ヶ岳に母と住む父親に「この日の出来事を伝えます」と答えていた。物理教師にとどまらなかった岩本先生の記憶が教え子から消え去ることはなさそうである。漱石が重視した「生きた証の相続」が行われていると思った。(T・I)



コメント(0)

多摩高野球部創部60年、大先輩への聞き語り

高校野球部創部60年、大先輩への聞き語り

卒業した神奈川県の公立高校が近く創立60周年を迎えるということで、学校創立の年(昭和31年=1956年)に先輩たちが創った野球部も創部60年ということになる。人間で言えば、還暦ということで節目の年だが、野球部OB会の命令で、これに合わせて野球部部史の編集・発行の仕事を引き受ける羽目になった。

高校や体育系クラブの学年の数え方は「14期」(筆者の場合を例に取った)といった具合に「期」で示すことが多いと思われるが、すでに野球部のOBたち(女性マネージャーを含む)も卒業したばかりの大学生を含め60期に近い大所帯になっているため、このすべての歴史と活動を記録するのは難しい。そこで筆者が担当したのは、年齢が一回り程度まで上の1期生から、5~6年下の後輩たちまでは部活動やOB会の親睦会などでよく知っているということで、1期生から20期生までだ。20期の後輩たちもすでに50代半ばで、勤務先の会社や学校では責任を負う立場だ。

ボランティアでこのような取材・編集の仕事をしていて興味深いのは、筆者よりもかなり年長の先輩たちはあまりパソコンなどで文章を書くことが習慣になっていないことだった。各期ごとに主将経験者らに頼んだ1200字程度の文章は徐々に集まりつつあるが、部草創期の先輩たちは記憶も薄れ、この種の文章は書き慣れていないということで、筆者が面談の約束を取り付け、聞き語りの取材に出向くことになる。

面倒と言えば、面倒な作業なのだが、何回か経験して面白かったのは、数時間をかけて聞き語りのメモを取ることによって、これまでは野球を通してしか知らなかった先輩たちの野球以外の「顔」が見えてくることだった。

60年近い高校野球部の歴史の中で「ナンバー1投手」と誰もが認めるNさんは小さな不動産管理会社の社長さん、野球部が最も甲子園に近づいたチームの主将だったSさんは葬儀屋さんの社長といった具合に、先輩たちの社会人としての歩みがおぼろげに浮かんでくるのである。

こうした先輩らの中で予想もしていなかった仕事をしていたのが1期生のIさんだった。横浜市にあるIさんの小さな店を訪ね、入学早々、野球部は創ったものの、グラウンドは雑草と石ころだらけで、最初の3カ月はグラウンド整備の毎日だったこと。1年生ばかりのチームだったので、翌年の初勝利まで18連敗し、この記録は今も破られていないことなどを穏やかなIさんの話から知った。

それよりも驚いたのが、70代半ばのIさんが奥さんとともに小さなカヌーショップを経営し、カヌー愛好者向けの合宿や練習のアレンジ、カヌーに必要な道具の貸し出しなどを行っていることだった。Iさんは高校卒業後、大学でも野球部を続けた名選手の一人であることは承知していたが、脱サラした後、30年近くもあまりなじみのないカヌーの普及に携わっていたことは知らなかった。奥さんともども、カヌーに誘われたが、小学生にもできるということで、近く挑戦してみたい。(T・I)

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
 

 




 
コメント(0)

高校野球部のOB大会と母校の評判

高校野球部のOB大会と母校の評判

最近、母校の高校野球部OB会主催の野球大会があり、日ごろの運動不足解消の気持ちもあって参加し、いい汗を流した。集まったのは高校を卒業してからまだ数年の大学生から、60年の歴史がある野球部3期生の70歳を超える大先輩までさまざまな年代の50人余りが集まったが、やはり高校時代に真剣かつ夢中になって白球を追った面々なので、OB野球といってもかなりレベルが高いのに驚いた。

草野球ながら、正式の審判を付けた試合だったこともあり、3チームに分かれて行われた試合はいずれも僅差のスコア。投打だけでなく、守備、走塁で随所に好プレーが見られ、ベンチで見ていても緊迫した試合展開に目が離せなかった。

筆者にとっては、1972年(昭和47年)春の卒業以来、本当に久しぶりに訪ねた母校だったので、グラウンドを離れて閑散とした校舎や中庭を見学してみた。学校創立から60年がたっているため、40年以上前の高校生時代に比べ、やはり建物、施設の老朽化を感じた。白亜の2階建て校舎は耐震上の問題があるということで、建て替え工事が行われていた。

熱戦ぞろいの野球の試合を終え、夕刻、近くの懇親会の会場に向かう途中、5年ほど後輩のS君から最近の母校の評判を聞くことができた。S君には大学生の子供がいるので、現在の大学受験事情に通じていて、進学校でもある公立の母校の評判が中学生の受験生やその親の間では「昔ほどは高くないのですよ」と話していたのに少しばかり驚いた。その理由は、建物の老朽化と高校での進学指導がそれほど熱心ではないので、受験生の親が自分の子供を私立の進学校に行かせる傾向が強まっているのだという。

母校の校訓は「質実剛健」。その校訓通り、現在もそうだろうが、筆者の高校生時代は、部活動や体育祭、文化祭といった生徒の自主性に任せた勉強以外の活動が盛んで、それに熱中するあまり、受験勉強の開始が遅れ、大学受験では1年浪人してでも、自分の行きたい大学に進学するという同級生、生徒が多かった。昔はそれが当たり前と思われていたのだが、「近年の経済情勢もあり、子供を浪人させる余裕がないという家庭が増えている」というのがベテランの電通マン、S君の見立てだった。

そういえば、現在の大学受験予備校は昔と違って、現役高校生の合格実績をPRしているケースが圧倒的に多い。筆者の高校時代、予備校はもっぱら浪人生のためにあったもので、現役合格のために予備校や塾に通っていた友人を知らない。

懇親会は昼間の熱戦を酒の肴に大いに盛り上がった。たまたまその場に駆けつけた高校同窓会のA会長(5年先輩)にS君との会話を紹介すると、「若いころの1年、2年の遅れは長い人生からみて、どうということはないんですけどね」と感想を語った後、「高校時代に野球に全力投球して得られることは、この日のOB野球や懇親会での先輩、後輩の交流などにうかがえるように、人生では大変貴重に思いますね」と話した。高校時代に庭球部を中途退部した同窓会会長の思いにわが意を強くした。(T・I)

 
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
 






コメント(0)