OB・OG会
|14期|2019年10月21日更新
野球部存続の危機に直面の14期チーム
=5人の部員、応援組を得て秋・春の県大会出場=
半世紀以上の歴史と伝統を持つ多摩高野球部が存続の危機に見舞われた14期(昭和46年度=1976年度)に主将を務めた。何と、前年夏の新チーム結成時の部員は5人しかおらず、このままでは8月下旬から始まる秋季県大会の川崎地区予選にも参加できない。高校野球のチームには、試合に出る9人のほか、控えの選手を含め、11人か12人の部員は絶対に必要である。草野球とは違って、やはり9人では試合は戦えない。
なぜこんなことになってしまったのか。幾つかの理由があったのだが、小黒誠二主将率いる13期中心のチームが昭和45年の夏の神奈川大会でベスト16入りを果たした直後、新チームに参加するはずだった1年生部員が全員、退部を申し出てきたのだ。もともと、14期の部員が筆者(伊藤努)を含め数人しかいなかったため、集団退部事件で新チーム結成が危ぶまれる事態となった。
このときの監督は、多摩高野球部全盛時代の10期のエースで、大学生OBの岸裕一だったが、岸監督は1年生部員に強く慰留する一方、野球部を続ける気持ちがあるなら、8月初めからの夏季練習に出てくるよう伝え、運命のときを数日待つことになった。
今でも思いだす。炎天下の新チームの練習には14期の伊藤、福島隆、15期の1年生は峰野謙次、山根康生の計4人が集まった。15期で主将を務めることになる佐藤泰年も残留組だったが、このとき盲腸炎を患い、当面、練習にも試合にも出られなかった。
こんな状況では、もちろん「休部」「廃部」の選択もあった。だが、岸監督の熱意や当時の顧問の稲垣謙治先生、岩本秋雄先生らの支援もあり、4人で練習を続けながら、中学時代に野球経験のあるサッカー部の宮尾克己(塚越中)や成田和郎(平間中)に応援要員を頼むとともに、家庭の事情などで退部した14期の高野栄一(中野島中学)や岩崎久(大師中)、15期の大久保(生田中)、中川(今井中)、小飼(落語研究会所属)らを説得し、秋の地区予選に向けて練習に参加するよう頭を下げて回った。秋季の川崎地区予選開始の直前に、何とか10人の混成チームが出来上がった。
翌年春に16期となる新1年生が入部してくるまで、綱渡りの部員不足状態が続いたが、ひそかな自慢は、バッテリーを組んだ稲田中の同級生コンビ、峰野、山根らの活躍もあって秋季と春季とも川崎地区予選を突破して県大会に出場、その上に貴重な勝利を挙げることができたことである。夏の県大会では初戦の新城高校には10対7で勝ったものの、次の厚木高校には0対6で敗退し、ナイン集めで苦労の連続だった14期チームの部活動は終わった。
この年(1971年=昭和46年))の甲子園大会では、神奈川県代表で初出場の桐蔭学園がトントン拍子に勝ち進み、優勝をさらった。桐蔭の優勝チームのメンバーには、川崎市内の中学野球出身者も少なくなく、野球仲間の快挙に大きな勇気をもらった。
寒風吹きすさぶ冬の練習は、宮尾らの応援組がそっくり抜けたので、病気から復帰した佐藤を含め再び5人の陣容となった。こんな先行き見通し難の状態でも厳しい練習に耐えることができたのは、岸監督や顧問の先生ら野球部を応援してくれる人たちの恩に何とか報いたいという一念と、野球部の歴史をここで断ってはならないという思いだった。
「伊藤主将時代はボールを使った練習が少なく、走ることばかりだったですね」―。多摩高野球部時代にわずか1年半しか一緒に練習したにすぎない峰野、山根、佐藤の後輩3人組から、その後の40年以上の付き合いの中でしばしば揶揄されるのがこのフレーズである。「走る練習が中心になったのは、バッティングや守備練習が満足にできない人数だったからなんだ」と、いつも同じセリフで釈明し続ける自分がいる。
20人も30人もいる多摩高野球部なら、県大会でもっともっと上位に食い込めるはずだ。思いがけなく野球部存続のピンチを経験したOBの一人として、現役選手諸君の奮起を促したい。
=5人の部員、応援組を得て秋・春の県大会出場=
(多摩高野球部14期主将 伊藤 努)
半世紀以上の歴史と伝統を持つ多摩高野球部が存続の危機に見舞われた14期(昭和46年度=1976年度)に主将を務めた。何と、前年夏の新チーム結成時の部員は5人しかおらず、このままでは8月下旬から始まる秋季県大会の川崎地区予選にも参加できない。高校野球のチームには、試合に出る9人のほか、控えの選手を含め、11人か12人の部員は絶対に必要である。草野球とは違って、やはり9人では試合は戦えない。
なぜこんなことになってしまったのか。幾つかの理由があったのだが、小黒誠二主将率いる13期中心のチームが昭和45年の夏の神奈川大会でベスト16入りを果たした直後、新チームに参加するはずだった1年生部員が全員、退部を申し出てきたのだ。もともと、14期の部員が筆者(伊藤努)を含め数人しかいなかったため、集団退部事件で新チーム結成が危ぶまれる事態となった。
このときの監督は、多摩高野球部全盛時代の10期のエースで、大学生OBの岸裕一だったが、岸監督は1年生部員に強く慰留する一方、野球部を続ける気持ちがあるなら、8月初めからの夏季練習に出てくるよう伝え、運命のときを数日待つことになった。
今でも思いだす。炎天下の新チームの練習には14期の伊藤、福島隆、15期の1年生は峰野謙次、山根康生の計4人が集まった。15期で主将を務めることになる佐藤泰年も残留組だったが、このとき盲腸炎を患い、当面、練習にも試合にも出られなかった。
こんな状況では、もちろん「休部」「廃部」の選択もあった。だが、岸監督の熱意や当時の顧問の稲垣謙治先生、岩本秋雄先生らの支援もあり、4人で練習を続けながら、中学時代に野球経験のあるサッカー部の宮尾克己(塚越中)や成田和郎(平間中)に応援要員を頼むとともに、家庭の事情などで退部した14期の高野栄一(中野島中学)や岩崎久(大師中)、15期の大久保(生田中)、中川(今井中)、小飼(落語研究会所属)らを説得し、秋の地区予選に向けて練習に参加するよう頭を下げて回った。秋季の川崎地区予選開始の直前に、何とか10人の混成チームが出来上がった。
翌年春に16期となる新1年生が入部してくるまで、綱渡りの部員不足状態が続いたが、ひそかな自慢は、バッテリーを組んだ稲田中の同級生コンビ、峰野、山根らの活躍もあって秋季と春季とも川崎地区予選を突破して県大会に出場、その上に貴重な勝利を挙げることができたことである。夏の県大会では初戦の新城高校には10対7で勝ったものの、次の厚木高校には0対6で敗退し、ナイン集めで苦労の連続だった14期チームの部活動は終わった。
この年(1971年=昭和46年))の甲子園大会では、神奈川県代表で初出場の桐蔭学園がトントン拍子に勝ち進み、優勝をさらった。桐蔭の優勝チームのメンバーには、川崎市内の中学野球出身者も少なくなく、野球仲間の快挙に大きな勇気をもらった。
寒風吹きすさぶ冬の練習は、宮尾らの応援組がそっくり抜けたので、病気から復帰した佐藤を含め再び5人の陣容となった。こんな先行き見通し難の状態でも厳しい練習に耐えることができたのは、岸監督や顧問の先生ら野球部を応援してくれる人たちの恩に何とか報いたいという一念と、野球部の歴史をここで断ってはならないという思いだった。
「伊藤主将時代はボールを使った練習が少なく、走ることばかりだったですね」―。多摩高野球部時代にわずか1年半しか一緒に練習したにすぎない峰野、山根、佐藤の後輩3人組から、その後の40年以上の付き合いの中でしばしば揶揄されるのがこのフレーズである。「走る練習が中心になったのは、バッティングや守備練習が満足にできない人数だったからなんだ」と、いつも同じセリフで釈明し続ける自分がいる。
20人も30人もいる多摩高野球部なら、県大会でもっともっと上位に食い込めるはずだ。思いがけなく野球部存続のピンチを経験したOBの一人として、現役選手諸君の奮起を促したい。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載


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|13期|2019年10月21日更新
岸監督の厳しい指導で夏の大会16強入り
練習・試合で声枯らした野球部生活―13期
私たち県立多摩高野球部13期生が入部したその前年(1967年=昭和42年)、夏の神奈川県大会で私立の強豪・横浜高校を破り、大会で優勝した武相高校と延長の末に惜敗という結果に、新聞で「多摩高旋風」と大見出しが躍った10期生の活躍を胸に刻んで、13期の野球部員は日々の練習と試合でたくさんの汗を流し、声を枯らしました。
13期の私たちが入部した当時は3年生が11期で、小島主将(左翼)、手島(三塁)、前田(投手)、大熊(一塁)、黒田(二塁)に加え、12期の2年生は山木(捕手)、村上(遊撃)、戸村(中堅)、小蒲(右翼)という布陣でした。そこに私たち(千賀保彦、高橋徳之、猪瀬忠夫、高橋陽一、小黒誠二)のほかに、同級生5~6人が入部しました。練習は前年度の好成績もあり、先輩方は全員気合が入っていて、「今年もベスト8」を目標に頑張っていました。
体力に劣る1年生部員も必死で練習についていきましたが、徐々に1人抜け、2人抜けで、13期は上記の5人が最後まで残りました。体の小さい千賀(住吉中)は中学時代は野球部の経験もなく、「クラブは何をやっていた?」と聞くと、「生徒会!」と答えて皆で大笑いしました。しかし、彼は頑張り屋で真面目で、ミスをすると悔しがり、すごく反省するファイターでした。高橋徳(川中島中)は運動神経があり、足も速く、野球センスは抜群。
猪瀬(高津中)は小黒(高津中)と中学時代にバッテリーを組んでいた投手で、一見するとブスッとして無口ですが、慣れてくると冗談好きな、根性のある努力家。高橋陽(井田中)は中学時代に9人制バレーボール部でレギュラーとして活躍。野球が好きだったらしく、多摩高に入学し、入部してきました。基礎体力があり、肩も強く、どんどん上手になっていきました。穏やかで物静かな性格ですが、皆をなごませてくれるチームメートでした。そして、面倒臭がり屋で大雑把な性格で、やたらと声を出していた私がどういうわけか主将となりました。
13期生が1年の時の夏の大会(1968年=昭和43年)はどういう因縁か、1回戦で前年度優勝校の武相との対戦が決まりました。その後の練習は打撃練習時、ピッチャープレートから5メートルほど前から投げ、相手投手(島野修=その後、巨人にドラフト1位入団)の速球対策に取り組む一方、盗塁練習など機動力も磨き、「打倒武相!」を目指して、チーム一丸となって頑張りました。試合当日は雨模様でしたが、試合が始まると、エース前田さんの調子が良く、ナインも必死に頑張って善戦。同点で試合が進んだものの、雨が強くなり、降雨中止ゲームとなってしまいました。
翌日の再試合は前田さんの調子が悪く、0対9で敗れました。今になって振り返ると、私立強豪校との試合が経験できてとても良かったという思いが強い。チームで一丸となって粘り強く、あきらめずに戦えば、強豪校相手でも何とかなるのではないかと感じたのです。これこそが「多摩高野球の目標であり、テーマだ」と思いました。そのためには日々の練習を真剣に、かつより高い目標を持って励まなくてはならないということです。
小島主将ら3年生が部を引退し、今度はいよいよ私たちが1年上の12期生4人と新チームをつくり、秋の大会に挑もうとした矢先、2年生の村上さんと戸村さんが突然退部してしまいました。このため、部員が10人くらいとなり、戦力ダウンは否めません。それでも、当時のOB会長の宇田川さん(1期生)にサポートしていただき、3期生で国学院大学野球部OBの田中さんに監督になってもらい、練習に励みました。
田中監督にはいろいろな守備のフォーメーションとか、バントシフト、状況によってのバントの仕方などを教えていただき、有意義な練習ができました。しかし、試合でなかなか結果を出せず、夏の県大会は1回戦で三崎高校に1対4で敗れてしまいました。
◇
山木さんら12期生の引退後の新チームでは、どういうわけか私が主将を任されました。チームは2年の13期5人、1年の14期3人で、秋の新人戦は他の運動部の野球経験者数人に助けてもらい、参加する事態となりました。
そのような中、監督として、多摩高野球部史上、夏の大会では初のベスト8入りの立役者、岸さん(10期生)がいらしてくれました。最初に顔合わせしたときはニコニコと笑みを浮かべておりましたが、眼光は鋭く、すべてにおいて真剣に指導していただきました。まだ学生監督だった岸さんの期待に是非とも応えようと、私たちも常に気合を入れて一生懸命に練習したものです。
現役時代に多くの修羅場を経験してきた岸さんには特に、試合に臨む心構えを教えていただきました。例えば、「強い者が勝つのではない。勝った者が強いのだ」とか、「どんなチームでも試合で3回は勝つチャンスがある。それをつかむか、つかまないかで勝敗は決まる」、「試合で塁に何人出しても、ホームを踏まさなければ0点だ」、「ファインプレーはいらない。アウトに取れるボールは必ずアウトにしろ」、「相手より1点だけ多く取ることに集中しろ」など、いずれも岸さん流の高校野球論です。これらの言葉をかみ砕いて言えば、「最後まであきらめずに、下手は下手なりにプレーに集中し、一生懸命、試合に挑め」ということです。
翌年(1970年=昭和45年)の春になると、優秀な新入生が何人か入部してくれました。15期生の佐藤、峰野、山根らです。春の大会は県大会にも出場し、県商工戦は延長にもつれ込み、0対1で惜敗したり、川崎地区の強豪・法政二高との練習試合は日没7回コールドで勝利したりと、チームの力も徐々に上向いてきました。
そして、夏の県大会はくじ運が良かったというべきか、2回戦からで、7月17日の横浜平和球場での県立横浜翠嵐高校戦が初戦。当日は雨が降り、グラウンドもぬかるんでいて「本当に試合をやるのか?」と半信半疑の中、ゲームが始まり、気がつくと5回までに0対5とリードされていました。このままでは、高校3年間の野球部生活で夏の大会に勝てずに終わってしまうと焦りました。ふとスタンドを見ると、宇田川さんをはじめ、野球部OBの方々、母校の生徒らも必死に応援してくれていました。そこで私もまずできること、それは大きな声を出すことだと思い直し、すると相手のエラーと四球でチャンスがやってきて、6回に一挙6点を取り、続く7回にも5点を奪い、11対6と逆転しました。雨とぬかるみのおかげもあったかもしれません。9回に相手チームに2点を取られましたが、何とか11対8で夏の大会で初めての勝利をつかみました。「あきらめないで、良かった!」が実感でした。
次の試合は7月20日、追浜球場で第3シードの県立小田原高校戦です。今度は夏晴れで、蒸し暑い日でした。試合は相手チーム優勢で進み、何度も塁を埋められ、防戦一方でしたが、何とかチーム一丸となり、0点に抑えていた6回にチャンスをつかみ、一挙3点を奪うことができました。その後、相手に無死満塁と攻められましたが、猪瀬の好投で1点に抑え、3対1で勝利。夏空の下で歌った多摩高校歌は気持ち良く、最高でした。
◇
次は4回戦で、7月23日の保土ケ谷球場での第1シード、横浜市立南高校戦です。当日は1日で4試合をする強行日程で、多摩高は第1試合でした。公立校ながら強豪の南高の選手は背も高く、「春の県大会で優勝した」という自信に満ちていました。
「よし、ここにも勝ってベスト8になるぞ!」と気合が入りました。しかし、試合が始まると、初回から猛攻を受け、4回まで0対9で、このままいくとコールド負けのピンチに。チームメートも必死で頑張り、チャンスを作るのですが、あと1本が出ず、6回までは無得点。7回になり、高橋徳のセンターオーバーのランニングホームランで2点を取り、好投手・大友に一矢を報いたのが精いっぱいで、2対10で敗れてしまいました。後半はわずか1点に抑えただけに、前半の大量失点が悔やまれます。
しかし、大した実力もなくベスト16になれたのは、宇田川さんをはじめ、多くのОBの方々のご支援と学友の応援、岸監督の厳しい指導のお蔭であると深く感謝しています。岸さんの後、多摩高野球部はOBの学生監督が続き、私もお手伝いということで、野球部と関わってきました。15期の峰野君が監督をして、多摩高が初めて夏の大会ベスト4になった(3年生が19期=1976年)ときは、宇田川さん以下、OBの方々の英知を結集して、かつ運も良く成し遂げられたことだと思っています。私もこのとき、家業の鮮魚店のうなぎ蒲焼で後輩の選手たちを釣り、「試合に勝ったら、また食べさせてやるぞ」とその気にさせていました。
これからも高い目標を持って、長い伝統を持つ多摩高野球部が活躍することを祈りつつ、応援していきたいと思います。
練習・試合で声枯らした野球部生活―13期
(多摩高野球部13期主将 小黒誠二)
私たち県立多摩高野球部13期生が入部したその前年(1967年=昭和42年)、夏の神奈川県大会で私立の強豪・横浜高校を破り、大会で優勝した武相高校と延長の末に惜敗という結果に、新聞で「多摩高旋風」と大見出しが躍った10期生の活躍を胸に刻んで、13期の野球部員は日々の練習と試合でたくさんの汗を流し、声を枯らしました。
13期の私たちが入部した当時は3年生が11期で、小島主将(左翼)、手島(三塁)、前田(投手)、大熊(一塁)、黒田(二塁)に加え、12期の2年生は山木(捕手)、村上(遊撃)、戸村(中堅)、小蒲(右翼)という布陣でした。そこに私たち(千賀保彦、高橋徳之、猪瀬忠夫、高橋陽一、小黒誠二)のほかに、同級生5~6人が入部しました。練習は前年度の好成績もあり、先輩方は全員気合が入っていて、「今年もベスト8」を目標に頑張っていました。
体力に劣る1年生部員も必死で練習についていきましたが、徐々に1人抜け、2人抜けで、13期は上記の5人が最後まで残りました。体の小さい千賀(住吉中)は中学時代は野球部の経験もなく、「クラブは何をやっていた?」と聞くと、「生徒会!」と答えて皆で大笑いしました。しかし、彼は頑張り屋で真面目で、ミスをすると悔しがり、すごく反省するファイターでした。高橋徳(川中島中)は運動神経があり、足も速く、野球センスは抜群。
猪瀬(高津中)は小黒(高津中)と中学時代にバッテリーを組んでいた投手で、一見するとブスッとして無口ですが、慣れてくると冗談好きな、根性のある努力家。高橋陽(井田中)は中学時代に9人制バレーボール部でレギュラーとして活躍。野球が好きだったらしく、多摩高に入学し、入部してきました。基礎体力があり、肩も強く、どんどん上手になっていきました。穏やかで物静かな性格ですが、皆をなごませてくれるチームメートでした。そして、面倒臭がり屋で大雑把な性格で、やたらと声を出していた私がどういうわけか主将となりました。
13期生が1年の時の夏の大会(1968年=昭和43年)はどういう因縁か、1回戦で前年度優勝校の武相との対戦が決まりました。その後の練習は打撃練習時、ピッチャープレートから5メートルほど前から投げ、相手投手(島野修=その後、巨人にドラフト1位入団)の速球対策に取り組む一方、盗塁練習など機動力も磨き、「打倒武相!」を目指して、チーム一丸となって頑張りました。試合当日は雨模様でしたが、試合が始まると、エース前田さんの調子が良く、ナインも必死に頑張って善戦。同点で試合が進んだものの、雨が強くなり、降雨中止ゲームとなってしまいました。
翌日の再試合は前田さんの調子が悪く、0対9で敗れました。今になって振り返ると、私立強豪校との試合が経験できてとても良かったという思いが強い。チームで一丸となって粘り強く、あきらめずに戦えば、強豪校相手でも何とかなるのではないかと感じたのです。これこそが「多摩高野球の目標であり、テーマだ」と思いました。そのためには日々の練習を真剣に、かつより高い目標を持って励まなくてはならないということです。
小島主将ら3年生が部を引退し、今度はいよいよ私たちが1年上の12期生4人と新チームをつくり、秋の大会に挑もうとした矢先、2年生の村上さんと戸村さんが突然退部してしまいました。このため、部員が10人くらいとなり、戦力ダウンは否めません。それでも、当時のOB会長の宇田川さん(1期生)にサポートしていただき、3期生で国学院大学野球部OBの田中さんに監督になってもらい、練習に励みました。
田中監督にはいろいろな守備のフォーメーションとか、バントシフト、状況によってのバントの仕方などを教えていただき、有意義な練習ができました。しかし、試合でなかなか結果を出せず、夏の県大会は1回戦で三崎高校に1対4で敗れてしまいました。
◇
山木さんら12期生の引退後の新チームでは、どういうわけか私が主将を任されました。チームは2年の13期5人、1年の14期3人で、秋の新人戦は他の運動部の野球経験者数人に助けてもらい、参加する事態となりました。
そのような中、監督として、多摩高野球部史上、夏の大会では初のベスト8入りの立役者、岸さん(10期生)がいらしてくれました。最初に顔合わせしたときはニコニコと笑みを浮かべておりましたが、眼光は鋭く、すべてにおいて真剣に指導していただきました。まだ学生監督だった岸さんの期待に是非とも応えようと、私たちも常に気合を入れて一生懸命に練習したものです。
現役時代に多くの修羅場を経験してきた岸さんには特に、試合に臨む心構えを教えていただきました。例えば、「強い者が勝つのではない。勝った者が強いのだ」とか、「どんなチームでも試合で3回は勝つチャンスがある。それをつかむか、つかまないかで勝敗は決まる」、「試合で塁に何人出しても、ホームを踏まさなければ0点だ」、「ファインプレーはいらない。アウトに取れるボールは必ずアウトにしろ」、「相手より1点だけ多く取ることに集中しろ」など、いずれも岸さん流の高校野球論です。これらの言葉をかみ砕いて言えば、「最後まであきらめずに、下手は下手なりにプレーに集中し、一生懸命、試合に挑め」ということです。
翌年(1970年=昭和45年)の春になると、優秀な新入生が何人か入部してくれました。15期生の佐藤、峰野、山根らです。春の大会は県大会にも出場し、県商工戦は延長にもつれ込み、0対1で惜敗したり、川崎地区の強豪・法政二高との練習試合は日没7回コールドで勝利したりと、チームの力も徐々に上向いてきました。
そして、夏の県大会はくじ運が良かったというべきか、2回戦からで、7月17日の横浜平和球場での県立横浜翠嵐高校戦が初戦。当日は雨が降り、グラウンドもぬかるんでいて「本当に試合をやるのか?」と半信半疑の中、ゲームが始まり、気がつくと5回までに0対5とリードされていました。このままでは、高校3年間の野球部生活で夏の大会に勝てずに終わってしまうと焦りました。ふとスタンドを見ると、宇田川さんをはじめ、野球部OBの方々、母校の生徒らも必死に応援してくれていました。そこで私もまずできること、それは大きな声を出すことだと思い直し、すると相手のエラーと四球でチャンスがやってきて、6回に一挙6点を取り、続く7回にも5点を奪い、11対6と逆転しました。雨とぬかるみのおかげもあったかもしれません。9回に相手チームに2点を取られましたが、何とか11対8で夏の大会で初めての勝利をつかみました。「あきらめないで、良かった!」が実感でした。
次の試合は7月20日、追浜球場で第3シードの県立小田原高校戦です。今度は夏晴れで、蒸し暑い日でした。試合は相手チーム優勢で進み、何度も塁を埋められ、防戦一方でしたが、何とかチーム一丸となり、0点に抑えていた6回にチャンスをつかみ、一挙3点を奪うことができました。その後、相手に無死満塁と攻められましたが、猪瀬の好投で1点に抑え、3対1で勝利。夏空の下で歌った多摩高校歌は気持ち良く、最高でした。
◇
次は4回戦で、7月23日の保土ケ谷球場での第1シード、横浜市立南高校戦です。当日は1日で4試合をする強行日程で、多摩高は第1試合でした。公立校ながら強豪の南高の選手は背も高く、「春の県大会で優勝した」という自信に満ちていました。
「よし、ここにも勝ってベスト8になるぞ!」と気合が入りました。しかし、試合が始まると、初回から猛攻を受け、4回まで0対9で、このままいくとコールド負けのピンチに。チームメートも必死で頑張り、チャンスを作るのですが、あと1本が出ず、6回までは無得点。7回になり、高橋徳のセンターオーバーのランニングホームランで2点を取り、好投手・大友に一矢を報いたのが精いっぱいで、2対10で敗れてしまいました。後半はわずか1点に抑えただけに、前半の大量失点が悔やまれます。
しかし、大した実力もなくベスト16になれたのは、宇田川さんをはじめ、多くのОBの方々のご支援と学友の応援、岸監督の厳しい指導のお蔭であると深く感謝しています。岸さんの後、多摩高野球部はOBの学生監督が続き、私もお手伝いということで、野球部と関わってきました。15期の峰野君が監督をして、多摩高が初めて夏の大会ベスト4になった(3年生が19期=1976年)ときは、宇田川さん以下、OBの方々の英知を結集して、かつ運も良く成し遂げられたことだと思っています。私もこのとき、家業の鮮魚店のうなぎ蒲焼で後輩の選手たちを釣り、「試合に勝ったら、また食べさせてやるぞ」とその気にさせていました。
これからも高い目標を持って、長い伝統を持つ多摩高野球部が活躍することを祈りつつ、応援していきたいと思います。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載


|12期|2019年10月16日更新
12期チーム、OBの田中監督が采配
公立強豪校の評判の裏で部員減
多摩高野球部の12期は、最後まで白球を追い続けたのは主将の山木豊と外野手の小蒲智臣の2人となったが、山木らが入学した1967年(昭和42年)は、2年先輩の10期生(主将・三宮有治、投手・岸裕一)が夏の県大会準々決勝で強豪の武相に屈したもののベスト8入りを果たした伝説のチームの厳しい練習と勝ち試合を体感した代である。12期が2年次の1968年も、速球派のエース前田、スラッガーの手島(後に立教大野球部監督)らが活躍した11期生中心の好チームが出来上がり、「川崎地区に公立の多摩高野球部あり」の評判が高まっていた時期を経験している。
12期が3年になったチームでは、当時27歳の3期・田中輝夫(国学院大野球部出身)がOBとして初めて監督となり、それまでの顧問の先生監督からその後のOB監督体制が続く先駆けをつくった代でもある。
しかし、前々年、前年のチームが川崎地区大会、県大会で活躍したにもかかわらず、期待の新入部員が次第に入ってこなくなり、野球部を取り巻く環境が厳しさを増すようになった。山木率いる新チーム発足時は、13期の主将となる小黒誠ニら1年生部員も10人弱で、総勢はレギュラー枠の9人をやや上回る陣容にとどまった。部員不足のため、翌年の1969年春に多摩高生となる福島隆(塚越中出身・中学時代は投手)は入学前の春休みに当時の顧問、稲垣謙治先生の強い勧誘で入部。まだ中学生の身ながら、硬球を使った練習に参加、春の川崎地区予選にも選手として出場している。高校では野球部入りを考えていなかった伊藤努(後に14期主将)も、稲垣先生と塚越中チームメートの福島の誘いで入学早々に入部した。
前年に主戦投手となった山木は速球とカーブが武器だったが、3年生が少ないチームを盛り立てたのは1年下の小黒、猪瀬忠夫、高橋徳之ら13期の面々だった。結局、田中監督の熱心な指導に応えることなく、夏の県大会では追浜球場での緒戦で三崎高校に1対4で敗退し、早々と姿を消したが、満足に控えの選手もいないチーム状況ではやむを得なかったのかもしれない。
12期生が3年のときに入部した14期は特に人数が少なかったが、これは1968年(昭和43年)のメキシコ五輪で釜本、杉山らの日本代表チームが銅メダルを獲得し、中学生の間でサッカー人気が高まったことと大いに関係がある。1969年4月入学組は、川崎の公立中学で野球部に所属していた者がたくさんいたが、その多くがサッカー部に入部するか、野球部の練習の厳しさや丸刈りを嫌気して野球から離れていった。部員不足状態は13期、14期、15期、16期あたりまで続いた。
小蒲は卒業後に早大に進学、漕艇部に入り、花形のエイトの一員として早慶戦などで活躍した。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

公立強豪校の評判の裏で部員減
多摩高野球部の12期は、最後まで白球を追い続けたのは主将の山木豊と外野手の小蒲智臣の2人となったが、山木らが入学した1967年(昭和42年)は、2年先輩の10期生(主将・三宮有治、投手・岸裕一)が夏の県大会準々決勝で強豪の武相に屈したもののベスト8入りを果たした伝説のチームの厳しい練習と勝ち試合を体感した代である。12期が2年次の1968年も、速球派のエース前田、スラッガーの手島(後に立教大野球部監督)らが活躍した11期生中心の好チームが出来上がり、「川崎地区に公立の多摩高野球部あり」の評判が高まっていた時期を経験している。
12期が3年になったチームでは、当時27歳の3期・田中輝夫(国学院大野球部出身)がOBとして初めて監督となり、それまでの顧問の先生監督からその後のOB監督体制が続く先駆けをつくった代でもある。
しかし、前々年、前年のチームが川崎地区大会、県大会で活躍したにもかかわらず、期待の新入部員が次第に入ってこなくなり、野球部を取り巻く環境が厳しさを増すようになった。山木率いる新チーム発足時は、13期の主将となる小黒誠ニら1年生部員も10人弱で、総勢はレギュラー枠の9人をやや上回る陣容にとどまった。部員不足のため、翌年の1969年春に多摩高生となる福島隆(塚越中出身・中学時代は投手)は入学前の春休みに当時の顧問、稲垣謙治先生の強い勧誘で入部。まだ中学生の身ながら、硬球を使った練習に参加、春の川崎地区予選にも選手として出場している。高校では野球部入りを考えていなかった伊藤努(後に14期主将)も、稲垣先生と塚越中チームメートの福島の誘いで入学早々に入部した。
前年に主戦投手となった山木は速球とカーブが武器だったが、3年生が少ないチームを盛り立てたのは1年下の小黒、猪瀬忠夫、高橋徳之ら13期の面々だった。結局、田中監督の熱心な指導に応えることなく、夏の県大会では追浜球場での緒戦で三崎高校に1対4で敗退し、早々と姿を消したが、満足に控えの選手もいないチーム状況ではやむを得なかったのかもしれない。
12期生が3年のときに入部した14期は特に人数が少なかったが、これは1968年(昭和43年)のメキシコ五輪で釜本、杉山らの日本代表チームが銅メダルを獲得し、中学生の間でサッカー人気が高まったことと大いに関係がある。1969年4月入学組は、川崎の公立中学で野球部に所属していた者がたくさんいたが、その多くがサッカー部に入部するか、野球部の練習の厳しさや丸刈りを嫌気して野球から離れていった。部員不足状態は13期、14期、15期、16期あたりまで続いた。
小蒲は卒業後に早大に進学、漕艇部に入り、花形のエイトの一員として早慶戦などで活躍した。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
|11期|2019年10月16日更新
「人生の岐路」で出会った立教大野球部の篠原監督―11期 手島晴幸
現在、85歳になられた篠原一豊監督は東京六大学の立教大野球の代名詞ともなっている「砂押野球」の1番の後継者であり、熱血監督だった。砂押邦信さんは皆さんご存知のように、後にプロ野球の巨人軍に入団した長嶋茂雄先輩らが神宮で活躍した立教大野球部全盛時の監督である。
私は昭和44年(1969年)に立大に進学したものの、特に優れた打撃技術があるわけでもなく、硬式ボールに触れるのは「拾う」「拭く」「片づける」のが日常で、練習のときのバッティングキャッチャーが動いているボールに触れる一番の機会だったような気がします。
自分の実力不足と連日の制裁などと相まって、その間、野球部合宿所から何度も逃げ出そうと思ったものです。2年生の終わりに立大野球部の監督交代があり、篠原監督に出会いました。何故か、体の大きい私に目をつけ、「多摩の田舎者!」と言って、野球をイロハから学ぶことができました。バットの握り方、構え方、打ち方。来る日も来る日も、朝から晩までバットを握り、個人指導を受け、振り続けました。
大学3年生になって夢のような神宮デビューを果たし、3年秋と4年春と2度続けて3割を打つことができました。
社会人となり、ホンダ技研に入社後も篠原監督の下、昭和50年(1975年)に都市対抗野球でも4番打者として活躍できるようになりました。
その後はホンダ熊本の監督や全日本のコーチなどを仰せつかり、最後は母校・立大の監督をやりました。これらもすべて、篠原監督との出会いから生じたものと言っても過言ではないと思われます。
高校時代から野球選手として大した技術などなかった私ですが、人との出会いを通じ、高校卒業以来30年間、野球を「仕事」として関わり、多くの恩人、友人を得ることができました。それらの方の多くとは機会を作っては再会しており、私の人生の宝物となっております。
多摩高野球部の話からはそれてしまいましたが、卒業後も上記のような大学野球部時代の辛い時期など1期生の大先輩の宇田川さん、5期の佐藤さん(いずれも故人)には、個人的によく励ましていただきました。これもまた、人の縁でしょうね。
多摩高野球部の現役部員、OBの皆さんもそれぞれ、人との出会いがあるでしょうが、今は気がつかなくても後から気がつくものなのです。同級生かもしれないし、後輩かもしれない。先輩の「○○さん」かもしれない。あるいは会社の上司、「○○先生」かもしれない。今は気がつかなくても、10年後、20年後に気がつくかもしれない。『大事な人が必ずいる』――。
人は皆、人と出会い、関わりをもって生きていく。一人の力は微々たるものと改めて思います。自分一人で切り開いた人生と勘違いをし、60代半ばの年齢になってようやく人との出会い、感謝に気がついたそんな今日この頃の手島です。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|11期|2019年10月15日更新
夏の大会で武相と因縁の対戦、翌日再試合に
前年の8強入りで小島主将は甲子園見学 11期
(多摩高野球部11期主将 小島=鎌田=清)
1966年(昭和41年)入学の県立多摩高校11期は1学年9クラス405人もいたのに、野球部に入部したのは7~8人、最後まで残ったのは5人だった。これは進学校における全国共通の傾向で、多摩高も例外ではなかった。同学年は副主将の手島晴幸(今井中)、前田泰生(中野島中)、大熊寿和(西中原中)、黒田鋼造(宮内中)。
多摩高は、前年夏の神奈川大会で横浜高校を5回戦で破り、準々決勝では武相高校に延長で敗れたが、新聞の大会総括では「多摩旋風」と高く評価された。神奈川高野連は毎年、夏の大会でベスト8に残ったチームの新主将に「二泊三日の甲子園見学」のご褒美をくれ、私は「偉大な先輩たち」のおかげで貴重な経験をすることができた。
まず、11期チームの打順と守備位置を紹介する。
1番センター戸村 2番セカンド黒田 3番ファースト大熊 4番サード手島 5番ピッチャー前田 6番キャッチャー山木 7番レフト小島 8番ショート村上 9番ライト小蒲
新チームは戦力の大幅ダウンが否めず、1967年秋季大会(新人戦)では満足な結果が残せなかった。私は当初、新チームでレフトから捕手にコンバートされたが、弱肩のため盗塁をほとんど刺せず、すぐに下級生(12期)の山木豊が正捕手に座った。投手の前田はスピード、コントロールはまずまず。翌年(1968年)春の県大会川崎地区予選で、弱体化したとはいえ、法政二高を破ったのが勲章か。
最後の夏の大会。抽選会で初戦を引き当てたのが、まさかの武相高校。優勝候補筆頭で、エース島野修はこの年秋のドラフトで読売ジャイアンツから1位指名された。
梅雨が明けず小雨が降る中、保土ケ谷球場で試合が始まった。5回までまさかの1対1のタイスコア。武相高選手の表情に焦りが感じられ、「奇跡よ再び!」と思ったが、無情にも雨天コールドゲームで翌日の再試合に。再試合は「実力通り」の試合展開。終盤得点を重ねられ、結局、0対9で敗れたが、コールドゲームだけは免れた。
手島は立教大に進学して野球を続けた。血のにじむ努力を重ね、4年次には4番ファーストで活躍。神宮でホームランを10本近く打った。卒業後、ホンダ技研に就職。後にホンダ技研熊本の監督として、幾度もチームを都市対抗全国大会に導いた。さらに、母校立教大の監督を務め、リーグ優勝も果たした名将だ。
理数系の成績が良かった前田は東京工業大に進学し、投手として野球部で活躍した。大熊、黒田は大学では野球から離れたようだ。
私(小島)は大学時代(東京教育大=現筑波大)、地域の早起き野球に入り、野球を心から楽しんだ。卒業後、群馬県の中学校教員となり、野球部の顧問を10年務めた。練習は、多摩高の練習方法を大幅に取り入れた指導で、夢のような成績(県大会優勝2回、同3位2回)を残せた。教え子に笠原栄一(ロッテドラフト1位指名も1軍では未勝利。長男の将生が2014年、読売ジャイアンツで1軍4勝)がいる。鈍足、弱肩、野球センスのなかった私だが、多摩高野球部から学んだたくさんのことに、心より感謝している。
最後に同期4人のプロフィールを紹介したい。手島は中学時代に神奈川県健康優良児に選ばれた高い運動能力の持ち主。1年からレギュラーでサードを守った。「東京ボン太」と先輩からニックネームを付けられたひょうきんな性格もあった。前田は数学と物理が得意で、東京工業大に進学した。視力が悪く、2年次のライトの守備練習では、夕方のノックに大変苦労した。野球センスがある大熊は控え投手としても活躍。左腕から繰り出す投球はなかなかのもの。黒田はサッカーが大変うまく、冬場に時折行ったサッカー練習では見違えるほど輝いていた。

|9期|2019年10月15日更新
9期チームの戦績と陣容
昭和41年(1966年)夏の県大会戦績
2回戦 多摩5対湘南学園1
3回戦 多摩0対津久井6
メンバー 主将 及川正広
1番レフト及川正広(南河原中、3年)、2番セカンド三宮有治(高津中、2年)、3番ショート熊谷謙一(大森10中、3年)、4番センター千代田哲夫(中野島中、3年)、5番キャッチャー竹内隆史(京都の中学出身、2年)、6番ピッチャー岸裕一(南河原中、2年)、7番ファースト湊真人(橘中、2年)、8番ライト鈴木憲(富士見中、2年)、9番サード手島晴幸(今井中、1年)、代打要員・中山
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|10期|2019年10月15日更新
準々決勝の武相戦、延長13回の惜敗―10期
岸・竹内の好バッテリーと三宮のキャプテンシー
(多摩高野球部10期主将 三宮有治)
多摩高野球部10期は、1967年(昭和42年)の夏の神奈川大会準々決勝で強豪・武相と対戦し、延長13回の末、5対6で惜敗したことが今も語り草となる好チームだった。やはり強豪の横浜高を破っての準々決勝進出だった。この大会で2年生エース・島野修(その後、巨人にドラフト1位入団)を擁した武相が甲子園に行っており、多摩高野球部で最も甲子園に近づいたチームだったと言っても過言ではない。
原動力となったのが、技巧派投手では野球部の歴史ではナンバーワンの評がある岸裕一(南河原中)と、強肩で走者を塁にクギ付けにした捕手の竹内隆史(京都の中学出身)のバッテリーの存在に加えて、主将の三宮有冶(高津中)の指導力と人柄でまとめたチームワークが両輪となった。中学野球でも活躍した岸は別として、レギュラーのすべてが初めから野球が上手だったわけではない。
野球少年は20人以上入部したが、中学時代で燃焼したのか、学業、練習の厳しさなのか、結果的には5人しか残らなかった。それも、竹内(京都から中3の春に高津中に転入)、鈴木憲(富士見中)、湊真人(橘中)は中学時代は野球部の経験はない。その3人が新チーム結成後の高校2年秋から腕をめきめき上げた。好漢・竹内は強肩を発揮、とにかく練習ではボールを飛ばした。左打ちの鈴木憲は試合になると、よく打ったし、よく飛んだ。「3塁打男」の異名がある。毎試合1本は打っていた。湊は一塁手から遊撃手にコンバートし、その強肩を生かし、ボールを前にはじいてもアウトにした。
監督は稲垣謙治先生だったが、校務があってあまり練習には来れなかった。8期チームと同様、グラウンドに来てくれる野球部OBの指導を受けながら、自分たちで猛練習を課した。2年前の玉井主将(8期)、特に1年前の及川主将(9期)の冬の猛特訓の成果があったかもしれない。
エースの岸は何といっても気性の強さ、負けん気の強さ、技術的にはコントロールの良さと武器のドロップで10期チームを引っ張った。三宮は自身の役割について、「大した能力はなかったが、誰に対しても鼻っ柱の強いチームメートの岸を何とか抑えたことか」と当時を振り返る。
甲子園に行けたかもしれないという因縁の武相戦は延長13回まで闘った。全員安打で島野投手に立ち向かったが、接戦をものにできなかった。終盤の好機にファーストフライでゲッツーをとられ、好機を逸した。
10期チームのオーダーを紹介する。
1番は二塁手・三宮(高津中)、2番はセンター・鈴木憲、3番は捕手・竹内、4番は投手・岸(南河原中)、5番は遊撃手・湊、6番は三塁手・手島(2年、今井中)、7番はレフト・小島(2年、生田中)、8番はライト・前田(2年、中野島中)、9番は一塁手・大熊(2年、西中原)。控えに黒田(2年、宮内中)、12期となる1年生には山木、小蒲らがおり、部員の数は15人にも手が届かなかった。三宮には、7期で投手だった兄がいて、やはり高校に入る前から試合に駆り出されていた。人数が少ないのは、多摩高野球部の伝統かもしれない。それでも、チーム全員に勝とうという強い意識があれば、道は開かれるものだ。
武相戦以外に岸の活躍もあって4点以上取られたことはなかった。武相戦の前の試合である横浜高戦は延長11回4対3で勝利した。
主将の三宮は多摩高野球部での自らの経験について、「高校3年間で必ず技術の伸びる時期があるものだということと、もっと練習していればという後悔はある。その時は辛い猛練習だと思っても……。岸にはそれがあって、後の学生監督時代(13期~14期)に、厳しい練習を後輩たちに課したのもよく分かる」と話している。

岸・竹内の好バッテリーと三宮のキャプテンシー
(多摩高野球部10期主将 三宮有治)
多摩高野球部10期は、1967年(昭和42年)の夏の神奈川大会準々決勝で強豪・武相と対戦し、延長13回の末、5対6で惜敗したことが今も語り草となる好チームだった。やはり強豪の横浜高を破っての準々決勝進出だった。この大会で2年生エース・島野修(その後、巨人にドラフト1位入団)を擁した武相が甲子園に行っており、多摩高野球部で最も甲子園に近づいたチームだったと言っても過言ではない。
原動力となったのが、技巧派投手では野球部の歴史ではナンバーワンの評がある岸裕一(南河原中)と、強肩で走者を塁にクギ付けにした捕手の竹内隆史(京都の中学出身)のバッテリーの存在に加えて、主将の三宮有冶(高津中)の指導力と人柄でまとめたチームワークが両輪となった。中学野球でも活躍した岸は別として、レギュラーのすべてが初めから野球が上手だったわけではない。
野球少年は20人以上入部したが、中学時代で燃焼したのか、学業、練習の厳しさなのか、結果的には5人しか残らなかった。それも、竹内(京都から中3の春に高津中に転入)、鈴木憲(富士見中)、湊真人(橘中)は中学時代は野球部の経験はない。その3人が新チーム結成後の高校2年秋から腕をめきめき上げた。好漢・竹内は強肩を発揮、とにかく練習ではボールを飛ばした。左打ちの鈴木憲は試合になると、よく打ったし、よく飛んだ。「3塁打男」の異名がある。毎試合1本は打っていた。湊は一塁手から遊撃手にコンバートし、その強肩を生かし、ボールを前にはじいてもアウトにした。
監督は稲垣謙治先生だったが、校務があってあまり練習には来れなかった。8期チームと同様、グラウンドに来てくれる野球部OBの指導を受けながら、自分たちで猛練習を課した。2年前の玉井主将(8期)、特に1年前の及川主将(9期)の冬の猛特訓の成果があったかもしれない。
エースの岸は何といっても気性の強さ、負けん気の強さ、技術的にはコントロールの良さと武器のドロップで10期チームを引っ張った。三宮は自身の役割について、「大した能力はなかったが、誰に対しても鼻っ柱の強いチームメートの岸を何とか抑えたことか」と当時を振り返る。
甲子園に行けたかもしれないという因縁の武相戦は延長13回まで闘った。全員安打で島野投手に立ち向かったが、接戦をものにできなかった。終盤の好機にファーストフライでゲッツーをとられ、好機を逸した。
10期チームのオーダーを紹介する。
1番は二塁手・三宮(高津中)、2番はセンター・鈴木憲、3番は捕手・竹内、4番は投手・岸(南河原中)、5番は遊撃手・湊、6番は三塁手・手島(2年、今井中)、7番はレフト・小島(2年、生田中)、8番はライト・前田(2年、中野島中)、9番は一塁手・大熊(2年、西中原)。控えに黒田(2年、宮内中)、12期となる1年生には山木、小蒲らがおり、部員の数は15人にも手が届かなかった。三宮には、7期で投手だった兄がいて、やはり高校に入る前から試合に駆り出されていた。人数が少ないのは、多摩高野球部の伝統かもしれない。それでも、チーム全員に勝とうという強い意識があれば、道は開かれるものだ。
武相戦以外に岸の活躍もあって4点以上取られたことはなかった。武相戦の前の試合である横浜高戦は延長11回4対3で勝利した。
主将の三宮は多摩高野球部での自らの経験について、「高校3年間で必ず技術の伸びる時期があるものだということと、もっと練習していればという後悔はある。その時は辛い猛練習だと思っても……。岸にはそれがあって、後の学生監督時代(13期~14期)に、厳しい練習を後輩たちに課したのもよく分かる」と話している。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|8期|2019年10月15日更新
多摩高野球部のナンバー1投手 中林信雄(8期)
胸元えぐるシュートと落ちるカーブが武器の剛球派
県立多摩高野球部の長い歴史の中で最も好投手と多くのOBが口をそろえるのが8期のエース・中林信雄(南河原中出身)である。中学時代に川崎市の大会で優勝投手の中林は、県内などの私立の野球強豪校の誘いを断り、自らの意志で公立の多摩高に入学するが、まだ正式の高校生になる前の1963年(昭和38年)の春の県大会川崎地区予選にベンチ入りし、左越えの2塁打を放っている打撃の才も併せ持っていた。3年の夏はエースで4番だった。
高校1年次の6期チーム、高校2年次の7期チームでもレギュラーとして投打に活躍するが、文字通りチームの大黒柱になった8期の新チームでは、秋の県大会でベスト8、春の県大会でもベスト8の原動力となった。秋の川崎地区大会では、法政二高を破って勝ち進んだ後、日大藤沢に0-2で敗れ、春は法政二高に惜敗するが、多摩高に勝った両チームはいずれも県大会で優勝または準決勝まで行ったチームであり、優勝も夢ではなかった戦いぶりは今も語り草である。
中林は身長173センチ、体重は65キロ前後と、投手としては大柄ではないが、右打者の胸元をえぐるシュートと縦に大きく落ちるカーブを武器に県内の有力高に立ち向かっていた。打球を外野に飛ばさせず、内野ゴロで仕留める配球が持ち味で、秋の大会では法政二高を2安打に押さえるが、鋭いシュートが快投をもたらした。
多摩高野球部の投手としては、同じ南河原中の2年後輩の投手で、中林を慕って多摩高野球部に入部し、10期のエースとなる岸裕一とよく比較される。2人をよく知る10期の主将・三宮有治は「中林先輩は剛球派、岸は軟投派で、投手のタイプは大きく違う」と話す。両エースのもう一つの違いは、中林が相手チーム打者に外野には打たせないという気迫を内に秘めながら淡々と投げ、野手がエラーをしても「仕方ない」と受け止めるのに対し、投球術に優れる岸は野手が拙守をすると、自分のグローブをたたきつけて、感情をあらわにするタイプだったことだ。
8期新チームの秋の県大会は優勝校の日大藤沢に2点差で負けたが、新チーム結成時は正選手が一人足りず、助っ人の外野手に飛んだボールをエラーして取られた失点だったことも、中林は忘れられない思い出と振り返る。
第2シードで臨んだ1964年(昭和39年)の夏の県大会では、鶴見工に2対5で敗れ、ベスト16で終わったが、鶴見工戦は序盤の得点機で1点でも取っていれば、試合の流れはどうなったか分からないと、4番打者としてスクイズに失敗したことを本人は悔しそうに話す。
中学時代から投手の逸材と周囲に見られ、多摩高でも期待通りの活躍をした中林だが、高校3年になる直前の冬にひじを痛める。春の県大会予選を前に、前年秋の県大会での好投が関係者の目に留まり、審判の講習会に駆り出され、十分な準備をしないまま投げてしまい、ひじを故障した。そんなことをチームメートに打ち明けないまま、春の大会、夏の大会と大車輪の投げっぷりだったが、中林がモットーとするのは「相手チームには4点以上は与えない投球を心掛ける」という自らに課した目標の実現と、そんな自分を守り立ててくれるチームワークの大切さだ。3期のOBの田中輝夫(後の監督)の誘いで国学院大野球部に進んだが、ひじのけがが治らず、半年でユニホームを脱いだ。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|8期|2019年10月15日更新
秋と春はベスト8、夏はベスト16進出の活躍
大黒柱・中林を中心にチームワークが持ち味―8期
(多摩高野球部8期 中林信雄)
多摩高野球部8期は1963年(昭和38年)の入学組で、8期中心のチーム結成後の県大会での成績は秋の県大会がベスト8、春の県大会がベスト8、第2シードで臨んだ夏の神奈川大会はベスト16だった。この夏の神奈川大会優勝校は、一時代を築く武相である。多摩高が3大会で負けた試合はいずれも小差で、流れがこちらに傾いていれば、もっと上位進出あるいは夏の県大会で初の優勝を勝ち取り、甲子園行きも夢ではなかったかもしれない。夏の大会でベスト8入りした2期あとの10期チームは準々決勝で武相に延長の末、惜敗し、多摩高野球部で甲子園に最も近づいたチームといわれたが、8期チームの戦いぶりは10期と遜色ない。
そのチームの大黒柱だったのが、エースで4番の中林信雄(南河原中出身)である。当時監督を務めていた美術教諭の稲垣謙治は後年、「多摩高野球部で一番の好投手は中林」と断言していたが、その後、多くの多摩高球児が学校のグラウンドを巣立っていったが、「ナンバーワン投手は中林」の伝説を覆す声は出ていない。
好投手・中林の紹介は別のコラムに譲るとして、8期チームの陣容を紹介しておこう。打撃順で挙げていくと、一番は捕手・内海(稲田中)、二番は三塁手・富田(南河原中)、三番は遊撃手で主将の玉井(生田中)、四番は投手・中林、五番は一塁手・荒蒔(平間中)、六番は二塁手・熊谷(2年、大森10中)、七番は中堅手・千代田(2年、中野島中)、八番は右翼手・八木(日吉中)、九番は左翼手・及川(2年、南河原中)で、8期が3年に進級した1965年(昭和40年)春には、10期で活躍する岸、三宮、竹内、鈴木、湊といった面々が入部してくる。ここに紹介した野球部OBでは荒蒔、八木、竹内の3人が鬼籍に入った。
8期チームの特徴を一言でいえば、中林を中心とした「守りのチーム」で、頼りになるエースが失点を計算できるので、「3点取れば勝てる」が合言葉にもなった。攻撃の中心は3年生で固めたクリーンアップと、捕手ながらリードオフマンも務めた内海だが、3年生だけでは足りないレギュラーを9期で2年生組の3人が務め、脇を固めた。
中林が述懐するように、なぜチームが勝てるようになったかは、自分たちでやらなければならないという意識がチームに徹底していたことだ。稲垣監督が校務で忙しいために、練習は時々指導にくる先輩の応援も受けながら、一人ひとりが自覚を持って練習に打ち込んだという。
8期チームをよく知るある後輩は「中林さんあってのチームだったが、その大黒柱が仲間を気遣う人柄ということもあって、チームワークの良さにつながっていったのではないか」と話す。中林自身、強豪校相手に多くの勝利を挙げたが、「勝ち方を知る。勝ちパターンをチームとして知ることが大事だった」と振り返った。
8期は、公立高の多摩高野球部が力を付けつつあった時期だったこともあり、川崎市内の中学出身者を中心に20人以上の野球経験者が入部し、その中にはうまい選手が何人もいたが、練習の厳しさ、学業の両立などの壁があって、相次いで退部し、結局、最後の夏の大会を経験したのは上記の6人だった。同期の4分の3が退部組ということになる。
過ぎたことを振り返っても仕方ないことは多々あるが、中林を含め8期の何人かは、同期の仲間が最後まで一緒に野球を続けていれば、「もしかしたら、もっと強いチームができていたかもしれない」と振り返る。しかし、その逆に、有力選手が退部したがゆえに、残った選手たちが力を合わせ、「勝てるチーム」に成長できたのかもしれないとの見方もできる。
決して、野球だけが高校生活という県内の有力私立校とは違う立ち位置の多摩高野球部だが、8期チームの歩みは長い野球部の歴史の中で繰り返される一つのテーマだ。しかし、多摩高グラウンドで一緒に切磋琢磨したチームメートとの絆は、現役時代の数年、あるいはわずか数カ月(3年生と1年生の関係)を共にしただけで、その後の人生で長く続き、途切れることはない。野球を続けることの喜びと苦しさは何事にも代えがたいことが卒業後に分かる。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|7期|2019年10月15日更新
全盛時代の打倒・法政二高を目標に猛練習
伝説の山岡校長が直々の指導―7期チーム
(多摩高野球部7期主将 牧田喜一)
私たちは1962年(昭和37年)春に県立多摩高の門をくぐりました。当時の通学手段の南武線は川崎~溝の口間が複線、溝の口~立川間が単線という状況でした。また、電車が宿河原駅の一つ前の「久地駅」に近づくと、車内放送で「久地、久地」「時間の9時ではありません」といったユーモアある車内放送の場面もあり、のどかな時代でした。
1962年の私たちの入学当時、記憶は定かでありませんが、野球部の1年生部員は8人くらいと記憶しております。
入学時の校長は山岡嘉次先生(愛知県の中京商業三連覇時の監督)で、部長は稲垣謙治先生、監督は三浦敏雄先生でありました、特に山岡校長は高校野球に対して本当に熱心で、自らバットを持ち出して生徒の指導に当たったり、また、春夏および川崎市長杯争奪戦の公式試合の後は必ず全校の朝礼で試合の講評をするほどでした。
多摩高開校以来、野球部のレベルアップのための目標は慶応高校(横浜市)で、その後は同じ川崎市内の法政二高が常に目標となった。当時、法政二高は1958年(昭和33年)に全国優勝、翌1959年(昭和34年)には全国準優勝と輝かしい戦績を残した。その後、川崎地区では4~5年くらい法政二高の優位な時代が続きました。従って、私たちの頃は常に「打倒・法政二高」の目標の下、厳しい練習に取り組んできました。
今回の各期チーム紹介という単年度のみでは語り尽くせないところが多々あります。野球は先輩から後輩への見えにくい伝統の力があり、在学中に特に記憶が鮮明な試合は1学年次、川崎市長杯争奪戦の決勝戦で、試合はナイターでした。結果は法政二高6対多摩高5のスコアで惜敗。同年秋には横浜高校12対多摩高6で敗戦(翌春、横浜高校は全国大会でベスト4)。私たちが2学年次、夏の神奈川県大会で慶応高校と対戦し、慶応4対多摩高0で敗戦(慶応高校は準優勝)といった試合結果でした。
そのほか、練習試合ではありますが、東京私立校の日体荏原とダブルヘッダ―を行い、1勝1敗であった。先輩方(野球部1期~6期)の活躍もあり、かなりの実力校との練習試合を相手校が快く受けてくれるようになってきたと感じたものです。
私たち3学年次のメンバーは3年生が三谷、三宮、牧田の3人、2年生が中林、内海、荒蒔、八木、玉井、富田の6人、1年生が熊谷、及川、千代田の3人という布陣でした。総勢が12人という少数精鋭です。
春の大会は2回戦で同じ県立の横浜緑ケ丘高と対戦し、5対1で多摩高が敗戦。また、当時は夏の神奈川大会の前哨戦として川崎市長杯争奪戦がありました。
準決勝で市立の橘高校と対戦、6回で7対0と、あと1回でコールド勝ちの展開となり、当時の監督の稲垣先生は「さあー、明日の法政二高の決勝戦に備えよう」と選手に伝えた直後に大ピンチを招き、ナイター試合となった。結果は橘高校9対多摩高7で惜敗。このようなことが起こり得るのか! これが高校野球の恐ろしさと痛感させられた。
1964年(昭和39年)夏の神奈川大会の参加校は68校であった。多摩高の第1戦の対戦相手は横浜商工(現横浜創学館)であった。7月19日、当日はまだ梅雨が明けず、朝は大雨で試合ができるかどうかの懸念があり、とりあえず平和球場(現横浜スタジアム)へ駆けつけました。ところがグランドがぬかるんでいるうえに、何を思ってか、グラウンド整備でさらに放水を行ったため、さらに地面がぬかるんでしまった状態で試合が始まった。
この試合でわがチームの投手が本来の調子をつかむ前に先制攻撃を受け、1回表に2点の先行を許してしまった。わがチームは毎回のように出塁するものの、何せグラウンドがぬかっていて足を絡めての攻撃が全くできず、回は進んでいった。試合はお互い投手戦の様相を呈し、多摩高は終始押し気味に淡々と試合が進んだ。
しかし、残塁が多く、点を取れずに横浜商工2対多摩高0のスコアで敗戦してしまった。もろもろの面で悔しさが残る試合でありました。残念無念!
最後に多摩高に入学し、野球部でのクラブ活動の中で良き先輩、同僚、後輩に巡り会えて本当に良かったと思います。感謝致します。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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