OB・OG会
|11期|2019年10月15日更新
夏の大会で武相と因縁の対戦、翌日再試合に
前年の8強入りで小島主将は甲子園見学 11期
(多摩高野球部11期主将 小島=鎌田=清)
1966年(昭和41年)入学の県立多摩高校11期は1学年9クラス405人もいたのに、野球部に入部したのは7~8人、最後まで残ったのは5人だった。これは進学校における全国共通の傾向で、多摩高も例外ではなかった。同学年は副主将の手島晴幸(今井中)、前田泰生(中野島中)、大熊寿和(西中原中)、黒田鋼造(宮内中)。
多摩高は、前年夏の神奈川大会で横浜高校を5回戦で破り、準々決勝では武相高校に延長で敗れたが、新聞の大会総括では「多摩旋風」と高く評価された。神奈川高野連は毎年、夏の大会でベスト8に残ったチームの新主将に「二泊三日の甲子園見学」のご褒美をくれ、私は「偉大な先輩たち」のおかげで貴重な経験をすることができた。
まず、11期チームの打順と守備位置を紹介する。
1番センター戸村 2番セカンド黒田 3番ファースト大熊 4番サード手島 5番ピッチャー前田 6番キャッチャー山木 7番レフト小島 8番ショート村上 9番ライト小蒲
新チームは戦力の大幅ダウンが否めず、1967年秋季大会(新人戦)では満足な結果が残せなかった。私は当初、新チームでレフトから捕手にコンバートされたが、弱肩のため盗塁をほとんど刺せず、すぐに下級生(12期)の山木豊が正捕手に座った。投手の前田はスピード、コントロールはまずまず。翌年(1968年)春の県大会川崎地区予選で、弱体化したとはいえ、法政二高を破ったのが勲章か。
最後の夏の大会。抽選会で初戦を引き当てたのが、まさかの武相高校。優勝候補筆頭で、エース島野修はこの年秋のドラフトで読売ジャイアンツから1位指名された。
梅雨が明けず小雨が降る中、保土ケ谷球場で試合が始まった。5回までまさかの1対1のタイスコア。武相高選手の表情に焦りが感じられ、「奇跡よ再び!」と思ったが、無情にも雨天コールドゲームで翌日の再試合に。再試合は「実力通り」の試合展開。終盤得点を重ねられ、結局、0対9で敗れたが、コールドゲームだけは免れた。
手島は立教大に進学して野球を続けた。血のにじむ努力を重ね、4年次には4番ファーストで活躍。神宮でホームランを10本近く打った。卒業後、ホンダ技研に就職。後にホンダ技研熊本の監督として、幾度もチームを都市対抗全国大会に導いた。さらに、母校立教大の監督を務め、リーグ優勝も果たした名将だ。
理数系の成績が良かった前田は東京工業大に進学し、投手として野球部で活躍した。大熊、黒田は大学では野球から離れたようだ。
私(小島)は大学時代(東京教育大=現筑波大)、地域の早起き野球に入り、野球を心から楽しんだ。卒業後、群馬県の中学校教員となり、野球部の顧問を10年務めた。練習は、多摩高の練習方法を大幅に取り入れた指導で、夢のような成績(県大会優勝2回、同3位2回)を残せた。教え子に笠原栄一(ロッテドラフト1位指名も1軍では未勝利。長男の将生が2014年、読売ジャイアンツで1軍4勝)がいる。鈍足、弱肩、野球センスのなかった私だが、多摩高野球部から学んだたくさんのことに、心より感謝している。
最後に同期4人のプロフィールを紹介したい。手島は中学時代に神奈川県健康優良児に選ばれた高い運動能力の持ち主。1年からレギュラーでサードを守った。「東京ボン太」と先輩からニックネームを付けられたひょうきんな性格もあった。前田は数学と物理が得意で、東京工業大に進学した。視力が悪く、2年次のライトの守備練習では、夕方のノックに大変苦労した。野球センスがある大熊は控え投手としても活躍。左腕から繰り出す投球はなかなかのもの。黒田はサッカーが大変うまく、冬場に時折行ったサッカー練習では見違えるほど輝いていた。

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|9期|2019年10月15日更新
9期チームの戦績と陣容
昭和41年(1966年)夏の県大会戦績
2回戦 多摩5対湘南学園1
3回戦 多摩0対津久井6
メンバー 主将 及川正広
1番レフト及川正広(南河原中、3年)、2番セカンド三宮有治(高津中、2年)、3番ショート熊谷謙一(大森10中、3年)、4番センター千代田哲夫(中野島中、3年)、5番キャッチャー竹内隆史(京都の中学出身、2年)、6番ピッチャー岸裕一(南河原中、2年)、7番ファースト湊真人(橘中、2年)、8番ライト鈴木憲(富士見中、2年)、9番サード手島晴幸(今井中、1年)、代打要員・中山
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|10期|2019年10月15日更新
準々決勝の武相戦、延長13回の惜敗―10期
岸・竹内の好バッテリーと三宮のキャプテンシー
(多摩高野球部10期主将 三宮有治)
多摩高野球部10期は、1967年(昭和42年)の夏の神奈川大会準々決勝で強豪・武相と対戦し、延長13回の末、5対6で惜敗したことが今も語り草となる好チームだった。やはり強豪の横浜高を破っての準々決勝進出だった。この大会で2年生エース・島野修(その後、巨人にドラフト1位入団)を擁した武相が甲子園に行っており、多摩高野球部で最も甲子園に近づいたチームだったと言っても過言ではない。
原動力となったのが、技巧派投手では野球部の歴史ではナンバーワンの評がある岸裕一(南河原中)と、強肩で走者を塁にクギ付けにした捕手の竹内隆史(京都の中学出身)のバッテリーの存在に加えて、主将の三宮有冶(高津中)の指導力と人柄でまとめたチームワークが両輪となった。中学野球でも活躍した岸は別として、レギュラーのすべてが初めから野球が上手だったわけではない。
野球少年は20人以上入部したが、中学時代で燃焼したのか、学業、練習の厳しさなのか、結果的には5人しか残らなかった。それも、竹内(京都から中3の春に高津中に転入)、鈴木憲(富士見中)、湊真人(橘中)は中学時代は野球部の経験はない。その3人が新チーム結成後の高校2年秋から腕をめきめき上げた。好漢・竹内は強肩を発揮、とにかく練習ではボールを飛ばした。左打ちの鈴木憲は試合になると、よく打ったし、よく飛んだ。「3塁打男」の異名がある。毎試合1本は打っていた。湊は一塁手から遊撃手にコンバートし、その強肩を生かし、ボールを前にはじいてもアウトにした。
監督は稲垣謙治先生だったが、校務があってあまり練習には来れなかった。8期チームと同様、グラウンドに来てくれる野球部OBの指導を受けながら、自分たちで猛練習を課した。2年前の玉井主将(8期)、特に1年前の及川主将(9期)の冬の猛特訓の成果があったかもしれない。
エースの岸は何といっても気性の強さ、負けん気の強さ、技術的にはコントロールの良さと武器のドロップで10期チームを引っ張った。三宮は自身の役割について、「大した能力はなかったが、誰に対しても鼻っ柱の強いチームメートの岸を何とか抑えたことか」と当時を振り返る。
甲子園に行けたかもしれないという因縁の武相戦は延長13回まで闘った。全員安打で島野投手に立ち向かったが、接戦をものにできなかった。終盤の好機にファーストフライでゲッツーをとられ、好機を逸した。
10期チームのオーダーを紹介する。
1番は二塁手・三宮(高津中)、2番はセンター・鈴木憲、3番は捕手・竹内、4番は投手・岸(南河原中)、5番は遊撃手・湊、6番は三塁手・手島(2年、今井中)、7番はレフト・小島(2年、生田中)、8番はライト・前田(2年、中野島中)、9番は一塁手・大熊(2年、西中原)。控えに黒田(2年、宮内中)、12期となる1年生には山木、小蒲らがおり、部員の数は15人にも手が届かなかった。三宮には、7期で投手だった兄がいて、やはり高校に入る前から試合に駆り出されていた。人数が少ないのは、多摩高野球部の伝統かもしれない。それでも、チーム全員に勝とうという強い意識があれば、道は開かれるものだ。
武相戦以外に岸の活躍もあって4点以上取られたことはなかった。武相戦の前の試合である横浜高戦は延長11回4対3で勝利した。
主将の三宮は多摩高野球部での自らの経験について、「高校3年間で必ず技術の伸びる時期があるものだということと、もっと練習していればという後悔はある。その時は辛い猛練習だと思っても……。岸にはそれがあって、後の学生監督時代(13期~14期)に、厳しい練習を後輩たちに課したのもよく分かる」と話している。

岸・竹内の好バッテリーと三宮のキャプテンシー
(多摩高野球部10期主将 三宮有治)
多摩高野球部10期は、1967年(昭和42年)の夏の神奈川大会準々決勝で強豪・武相と対戦し、延長13回の末、5対6で惜敗したことが今も語り草となる好チームだった。やはり強豪の横浜高を破っての準々決勝進出だった。この大会で2年生エース・島野修(その後、巨人にドラフト1位入団)を擁した武相が甲子園に行っており、多摩高野球部で最も甲子園に近づいたチームだったと言っても過言ではない。
原動力となったのが、技巧派投手では野球部の歴史ではナンバーワンの評がある岸裕一(南河原中)と、強肩で走者を塁にクギ付けにした捕手の竹内隆史(京都の中学出身)のバッテリーの存在に加えて、主将の三宮有冶(高津中)の指導力と人柄でまとめたチームワークが両輪となった。中学野球でも活躍した岸は別として、レギュラーのすべてが初めから野球が上手だったわけではない。
野球少年は20人以上入部したが、中学時代で燃焼したのか、学業、練習の厳しさなのか、結果的には5人しか残らなかった。それも、竹内(京都から中3の春に高津中に転入)、鈴木憲(富士見中)、湊真人(橘中)は中学時代は野球部の経験はない。その3人が新チーム結成後の高校2年秋から腕をめきめき上げた。好漢・竹内は強肩を発揮、とにかく練習ではボールを飛ばした。左打ちの鈴木憲は試合になると、よく打ったし、よく飛んだ。「3塁打男」の異名がある。毎試合1本は打っていた。湊は一塁手から遊撃手にコンバートし、その強肩を生かし、ボールを前にはじいてもアウトにした。
監督は稲垣謙治先生だったが、校務があってあまり練習には来れなかった。8期チームと同様、グラウンドに来てくれる野球部OBの指導を受けながら、自分たちで猛練習を課した。2年前の玉井主将(8期)、特に1年前の及川主将(9期)の冬の猛特訓の成果があったかもしれない。
エースの岸は何といっても気性の強さ、負けん気の強さ、技術的にはコントロールの良さと武器のドロップで10期チームを引っ張った。三宮は自身の役割について、「大した能力はなかったが、誰に対しても鼻っ柱の強いチームメートの岸を何とか抑えたことか」と当時を振り返る。
甲子園に行けたかもしれないという因縁の武相戦は延長13回まで闘った。全員安打で島野投手に立ち向かったが、接戦をものにできなかった。終盤の好機にファーストフライでゲッツーをとられ、好機を逸した。
10期チームのオーダーを紹介する。
1番は二塁手・三宮(高津中)、2番はセンター・鈴木憲、3番は捕手・竹内、4番は投手・岸(南河原中)、5番は遊撃手・湊、6番は三塁手・手島(2年、今井中)、7番はレフト・小島(2年、生田中)、8番はライト・前田(2年、中野島中)、9番は一塁手・大熊(2年、西中原)。控えに黒田(2年、宮内中)、12期となる1年生には山木、小蒲らがおり、部員の数は15人にも手が届かなかった。三宮には、7期で投手だった兄がいて、やはり高校に入る前から試合に駆り出されていた。人数が少ないのは、多摩高野球部の伝統かもしれない。それでも、チーム全員に勝とうという強い意識があれば、道は開かれるものだ。
武相戦以外に岸の活躍もあって4点以上取られたことはなかった。武相戦の前の試合である横浜高戦は延長11回4対3で勝利した。
主将の三宮は多摩高野球部での自らの経験について、「高校3年間で必ず技術の伸びる時期があるものだということと、もっと練習していればという後悔はある。その時は辛い猛練習だと思っても……。岸にはそれがあって、後の学生監督時代(13期~14期)に、厳しい練習を後輩たちに課したのもよく分かる」と話している。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|8期|2019年10月15日更新
多摩高野球部のナンバー1投手 中林信雄(8期)
胸元えぐるシュートと落ちるカーブが武器の剛球派
県立多摩高野球部の長い歴史の中で最も好投手と多くのOBが口をそろえるのが8期のエース・中林信雄(南河原中出身)である。中学時代に川崎市の大会で優勝投手の中林は、県内などの私立の野球強豪校の誘いを断り、自らの意志で公立の多摩高に入学するが、まだ正式の高校生になる前の1963年(昭和38年)の春の県大会川崎地区予選にベンチ入りし、左越えの2塁打を放っている打撃の才も併せ持っていた。3年の夏はエースで4番だった。
高校1年次の6期チーム、高校2年次の7期チームでもレギュラーとして投打に活躍するが、文字通りチームの大黒柱になった8期の新チームでは、秋の県大会でベスト8、春の県大会でもベスト8の原動力となった。秋の川崎地区大会では、法政二高を破って勝ち進んだ後、日大藤沢に0-2で敗れ、春は法政二高に惜敗するが、多摩高に勝った両チームはいずれも県大会で優勝または準決勝まで行ったチームであり、優勝も夢ではなかった戦いぶりは今も語り草である。
中林は身長173センチ、体重は65キロ前後と、投手としては大柄ではないが、右打者の胸元をえぐるシュートと縦に大きく落ちるカーブを武器に県内の有力高に立ち向かっていた。打球を外野に飛ばさせず、内野ゴロで仕留める配球が持ち味で、秋の大会では法政二高を2安打に押さえるが、鋭いシュートが快投をもたらした。
多摩高野球部の投手としては、同じ南河原中の2年後輩の投手で、中林を慕って多摩高野球部に入部し、10期のエースとなる岸裕一とよく比較される。2人をよく知る10期の主将・三宮有治は「中林先輩は剛球派、岸は軟投派で、投手のタイプは大きく違う」と話す。両エースのもう一つの違いは、中林が相手チーム打者に外野には打たせないという気迫を内に秘めながら淡々と投げ、野手がエラーをしても「仕方ない」と受け止めるのに対し、投球術に優れる岸は野手が拙守をすると、自分のグローブをたたきつけて、感情をあらわにするタイプだったことだ。
8期新チームの秋の県大会は優勝校の日大藤沢に2点差で負けたが、新チーム結成時は正選手が一人足りず、助っ人の外野手に飛んだボールをエラーして取られた失点だったことも、中林は忘れられない思い出と振り返る。
第2シードで臨んだ1964年(昭和39年)の夏の県大会では、鶴見工に2対5で敗れ、ベスト16で終わったが、鶴見工戦は序盤の得点機で1点でも取っていれば、試合の流れはどうなったか分からないと、4番打者としてスクイズに失敗したことを本人は悔しそうに話す。
中学時代から投手の逸材と周囲に見られ、多摩高でも期待通りの活躍をした中林だが、高校3年になる直前の冬にひじを痛める。春の県大会予選を前に、前年秋の県大会での好投が関係者の目に留まり、審判の講習会に駆り出され、十分な準備をしないまま投げてしまい、ひじを故障した。そんなことをチームメートに打ち明けないまま、春の大会、夏の大会と大車輪の投げっぷりだったが、中林がモットーとするのは「相手チームには4点以上は与えない投球を心掛ける」という自らに課した目標の実現と、そんな自分を守り立ててくれるチームワークの大切さだ。3期のOBの田中輝夫(後の監督)の誘いで国学院大野球部に進んだが、ひじのけがが治らず、半年でユニホームを脱いだ。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|8期|2019年10月15日更新
秋と春はベスト8、夏はベスト16進出の活躍
大黒柱・中林を中心にチームワークが持ち味―8期
(多摩高野球部8期 中林信雄)
多摩高野球部8期は1963年(昭和38年)の入学組で、8期中心のチーム結成後の県大会での成績は秋の県大会がベスト8、春の県大会がベスト8、第2シードで臨んだ夏の神奈川大会はベスト16だった。この夏の神奈川大会優勝校は、一時代を築く武相である。多摩高が3大会で負けた試合はいずれも小差で、流れがこちらに傾いていれば、もっと上位進出あるいは夏の県大会で初の優勝を勝ち取り、甲子園行きも夢ではなかったかもしれない。夏の大会でベスト8入りした2期あとの10期チームは準々決勝で武相に延長の末、惜敗し、多摩高野球部で甲子園に最も近づいたチームといわれたが、8期チームの戦いぶりは10期と遜色ない。
そのチームの大黒柱だったのが、エースで4番の中林信雄(南河原中出身)である。当時監督を務めていた美術教諭の稲垣謙治は後年、「多摩高野球部で一番の好投手は中林」と断言していたが、その後、多くの多摩高球児が学校のグラウンドを巣立っていったが、「ナンバーワン投手は中林」の伝説を覆す声は出ていない。
好投手・中林の紹介は別のコラムに譲るとして、8期チームの陣容を紹介しておこう。打撃順で挙げていくと、一番は捕手・内海(稲田中)、二番は三塁手・富田(南河原中)、三番は遊撃手で主将の玉井(生田中)、四番は投手・中林、五番は一塁手・荒蒔(平間中)、六番は二塁手・熊谷(2年、大森10中)、七番は中堅手・千代田(2年、中野島中)、八番は右翼手・八木(日吉中)、九番は左翼手・及川(2年、南河原中)で、8期が3年に進級した1965年(昭和40年)春には、10期で活躍する岸、三宮、竹内、鈴木、湊といった面々が入部してくる。ここに紹介した野球部OBでは荒蒔、八木、竹内の3人が鬼籍に入った。
8期チームの特徴を一言でいえば、中林を中心とした「守りのチーム」で、頼りになるエースが失点を計算できるので、「3点取れば勝てる」が合言葉にもなった。攻撃の中心は3年生で固めたクリーンアップと、捕手ながらリードオフマンも務めた内海だが、3年生だけでは足りないレギュラーを9期で2年生組の3人が務め、脇を固めた。
中林が述懐するように、なぜチームが勝てるようになったかは、自分たちでやらなければならないという意識がチームに徹底していたことだ。稲垣監督が校務で忙しいために、練習は時々指導にくる先輩の応援も受けながら、一人ひとりが自覚を持って練習に打ち込んだという。
8期チームをよく知るある後輩は「中林さんあってのチームだったが、その大黒柱が仲間を気遣う人柄ということもあって、チームワークの良さにつながっていったのではないか」と話す。中林自身、強豪校相手に多くの勝利を挙げたが、「勝ち方を知る。勝ちパターンをチームとして知ることが大事だった」と振り返った。
8期は、公立高の多摩高野球部が力を付けつつあった時期だったこともあり、川崎市内の中学出身者を中心に20人以上の野球経験者が入部し、その中にはうまい選手が何人もいたが、練習の厳しさ、学業の両立などの壁があって、相次いで退部し、結局、最後の夏の大会を経験したのは上記の6人だった。同期の4分の3が退部組ということになる。
過ぎたことを振り返っても仕方ないことは多々あるが、中林を含め8期の何人かは、同期の仲間が最後まで一緒に野球を続けていれば、「もしかしたら、もっと強いチームができていたかもしれない」と振り返る。しかし、その逆に、有力選手が退部したがゆえに、残った選手たちが力を合わせ、「勝てるチーム」に成長できたのかもしれないとの見方もできる。
決して、野球だけが高校生活という県内の有力私立校とは違う立ち位置の多摩高野球部だが、8期チームの歩みは長い野球部の歴史の中で繰り返される一つのテーマだ。しかし、多摩高グラウンドで一緒に切磋琢磨したチームメートとの絆は、現役時代の数年、あるいはわずか数カ月(3年生と1年生の関係)を共にしただけで、その後の人生で長く続き、途切れることはない。野球を続けることの喜びと苦しさは何事にも代えがたいことが卒業後に分かる。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|7期|2019年10月15日更新
全盛時代の打倒・法政二高を目標に猛練習
伝説の山岡校長が直々の指導―7期チーム
(多摩高野球部7期主将 牧田喜一)
私たちは1962年(昭和37年)春に県立多摩高の門をくぐりました。当時の通学手段の南武線は川崎~溝の口間が複線、溝の口~立川間が単線という状況でした。また、電車が宿河原駅の一つ前の「久地駅」に近づくと、車内放送で「久地、久地」「時間の9時ではありません」といったユーモアある車内放送の場面もあり、のどかな時代でした。
1962年の私たちの入学当時、記憶は定かでありませんが、野球部の1年生部員は8人くらいと記憶しております。
入学時の校長は山岡嘉次先生(愛知県の中京商業三連覇時の監督)で、部長は稲垣謙治先生、監督は三浦敏雄先生でありました、特に山岡校長は高校野球に対して本当に熱心で、自らバットを持ち出して生徒の指導に当たったり、また、春夏および川崎市長杯争奪戦の公式試合の後は必ず全校の朝礼で試合の講評をするほどでした。
多摩高開校以来、野球部のレベルアップのための目標は慶応高校(横浜市)で、その後は同じ川崎市内の法政二高が常に目標となった。当時、法政二高は1958年(昭和33年)に全国優勝、翌1959年(昭和34年)には全国準優勝と輝かしい戦績を残した。その後、川崎地区では4~5年くらい法政二高の優位な時代が続きました。従って、私たちの頃は常に「打倒・法政二高」の目標の下、厳しい練習に取り組んできました。
今回の各期チーム紹介という単年度のみでは語り尽くせないところが多々あります。野球は先輩から後輩への見えにくい伝統の力があり、在学中に特に記憶が鮮明な試合は1学年次、川崎市長杯争奪戦の決勝戦で、試合はナイターでした。結果は法政二高6対多摩高5のスコアで惜敗。同年秋には横浜高校12対多摩高6で敗戦(翌春、横浜高校は全国大会でベスト4)。私たちが2学年次、夏の神奈川県大会で慶応高校と対戦し、慶応4対多摩高0で敗戦(慶応高校は準優勝)といった試合結果でした。
そのほか、練習試合ではありますが、東京私立校の日体荏原とダブルヘッダ―を行い、1勝1敗であった。先輩方(野球部1期~6期)の活躍もあり、かなりの実力校との練習試合を相手校が快く受けてくれるようになってきたと感じたものです。
私たち3学年次のメンバーは3年生が三谷、三宮、牧田の3人、2年生が中林、内海、荒蒔、八木、玉井、富田の6人、1年生が熊谷、及川、千代田の3人という布陣でした。総勢が12人という少数精鋭です。
春の大会は2回戦で同じ県立の横浜緑ケ丘高と対戦し、5対1で多摩高が敗戦。また、当時は夏の神奈川大会の前哨戦として川崎市長杯争奪戦がありました。
準決勝で市立の橘高校と対戦、6回で7対0と、あと1回でコールド勝ちの展開となり、当時の監督の稲垣先生は「さあー、明日の法政二高の決勝戦に備えよう」と選手に伝えた直後に大ピンチを招き、ナイター試合となった。結果は橘高校9対多摩高7で惜敗。このようなことが起こり得るのか! これが高校野球の恐ろしさと痛感させられた。
1964年(昭和39年)夏の神奈川大会の参加校は68校であった。多摩高の第1戦の対戦相手は横浜商工(現横浜創学館)であった。7月19日、当日はまだ梅雨が明けず、朝は大雨で試合ができるかどうかの懸念があり、とりあえず平和球場(現横浜スタジアム)へ駆けつけました。ところがグランドがぬかるんでいるうえに、何を思ってか、グラウンド整備でさらに放水を行ったため、さらに地面がぬかるんでしまった状態で試合が始まった。
この試合でわがチームの投手が本来の調子をつかむ前に先制攻撃を受け、1回表に2点の先行を許してしまった。わがチームは毎回のように出塁するものの、何せグラウンドがぬかっていて足を絡めての攻撃が全くできず、回は進んでいった。試合はお互い投手戦の様相を呈し、多摩高は終始押し気味に淡々と試合が進んだ。
しかし、残塁が多く、点を取れずに横浜商工2対多摩高0のスコアで敗戦してしまった。もろもろの面で悔しさが残る試合でありました。残念無念!
最後に多摩高に入学し、野球部でのクラブ活動の中で良き先輩、同僚、後輩に巡り会えて本当に良かったと思います。感謝致します。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|6期|2019年10月15日更新
僕ら野球部6期生時代のエピソードあれこれ
(多摩高野球部 6期投手 岡本=旧姓田辺=義夫)
【法政二高の全盛期】
昭和30年代の後半(1960年代前半)は、日本がまさに戦後からの脱却を目指して高度経済成長に突き進んでいた時代でした。子供の頃には、親からもらう5円、10円の小遣いで駄菓子を買って満足していたものです。昭和34年(1959年)には皇太子(現天皇陛下)の結婚式が華やかに挙行され、白黒テレビでパレードの模様が報道され、時代はまさに大きな変化の時を迎え、多くの国民が意気軒昂になった時代だったと思います。そして、昭和39年(1964年)の東京オリンピック。私が多摩高を卒業し、中央大学に入学した年です。
こんな時代の高校野球。昭和35~38年でしょうか。当時の高校野球は法政二高全盛期。巨人軍の柴田勲選手。メジャーリーガー第1号の村上雅則投手。当時の南海ホークス(ソフトバンクの前身)鶴岡一人監督のご子息など、他にもプロに進んだ猛者がいた時代です。その法政二高が甲子園大会を連覇したのです。
圧巻だったのは、浪商の尾崎行雄投手です。怪童と呼ばれ、東映フライヤーズに入団。新幹線の車中で出会いましたが、あの腰の大きさと胸の厚さには圧倒されました。その尾崎と法政二高との甲子園の名勝負は忘れられません。尾崎の球威は、往年の大投手で400勝した金田正一投手、今の日本ハムの大谷翔平投手を彷彿させるものでした。ちなみに金田投手は、2塁ベースとマウンドの中間からウォーミングアップをしていましたが、まさにボールがホップすることを実感できました。
【そんな時代の多摩高】
当時はまだ新設校だったので、6期生の私が入学した時には、卒業生が1期~3期で、練習にも毎日のように先輩諸氏が来られていました。特に3期生は私の出身中学、当時の大洋ホエールズのホームグラウンドだった川崎球場の隣にあった富士見中学から多数の先輩が入部しており、野球でも結構強い高校だったと思います。川崎市長杯戦では、常に法政二高に次いで2位をキープしていたものです。そして、その法政二高とは、先輩諸氏の時も私たちの時代も、勝てはしなかったものの1点差ゲームを含め、結構いい試合をしていました。
【法政二高のトリックプレー】
川崎市長杯戦でのことだったと思います。多摩高の攻撃の時に某選手がセンター前にクリーンヒットを打ったのです。すると、センターがエラーをしてバックスクリーンに向けて走り出したのです。某選手は一塁を回り、二塁を狙って疾走。ところがエラーと思わせておいて振り向きざま、二塁への好送球。見事にタッチアウト。話はこれで終わりません。この教訓を何とか生かそうと、私たちも機会を狙っていました。その相手が3年生の夏の大会初戦・慶応高校でした。同じく、センター前ヒットを打たれた時に、センターを守っていた2年生の名手M君(現K君)がトライしたのです。慶応高は川端君だったかな? ものすごく足が速く、見事に失敗。ヒットを二塁打にしてしまったのでした。
【慶応高もすごかった】
この夏の大会の初戦では、組み合わせが決まった時から、山岡嘉次校長先生も稲垣謙治監督も、そして諸先輩も皆さん、敗退必至と思っていましたから、練習の時にはいつも「打倒!慶応!」を連呼させられたものです。
私が投手でしたが、慶応高の4番・川端君には脱帽でした。インニングは覚えていませんが、センター前ヒットを打たれたと思ったのです。ライトの石井君が私には前進したと思えたのですが、本人はバックしようと思ったら、すでに打球は川崎球場のライトスタンドに入っていたと言っていました。超高校級球児だったのです。結局、4対0だったかで負けました。ちなみに慶応高は優勝し、甲子園に行きました。
【横浜高との練習試合】
印象に残るのは、横浜高校との定期的な練習試合です。夏の県大会が終わると、1・2年生の合宿が始まります。コメ5合を持参し、高校の教室に寝泊まり。朝6時の起床から午後9時の就寝までほとんど1日中の練習漬け。そして、合宿終了後には横浜高校との練習試合が待っています。
当然、相手は強豪チームですから、多摩高にとっては胸を借りるゲームです。ところが、結果は覚えていませんが、結構いい試合をしてしまったのです。試合終了後、横浜高校ナインは笹尾監督(だったと思います)から厳しい叱責。近くでその様子を見ていた私たちが気の毒になってしまいました。当時の横浜高校のエースピッチャーは井上君といい、卒業後は東映フライヤーズに入団し、数年は1軍にいたと思います。ちなみに私はその試合で、井上君からセンターオーバーのホームランを打ちました。多摩高のグラウンドにホームランラインを引いたものですが……。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|6期|2019年10月15日更新
残ったのは4人、新入部員で活気づく
忘れられぬ川崎市長杯決勝での惜敗―6期
(多摩高野球部6期主将 松村敬二)
昭和36年(1961年)に県立多摩高に入学。筆者(松村)は中学時代には野球部に所属していませんでした。グラウンドの隅にサッカー部や陸上部など5~6つの運動部が平屋の狭い部室を利用していました。大きな夢と不安を抱き、初めて部室に入ると、諸先輩が新入生を迎えてくれました。
3年生だった小島主将(4期)がまず一声、「戸を閉めろ!」。「ビクッ」としたのを覚えています。後日分かりましたが、小島さんは仏様のような人でした。
筆者ら6期の新入部員が入学時に何人だったかははっきりしません。女生徒に人気があった名投手・田辺義夫(富士見中、現在・岡本姓)、小さな体で器用だった外野手の石井稔(向丘中)、ガッツの塊りだった捕手の宮崎光敏、それにショートの松村敬二(宮崎中)の4人が最後まで残りました。
稲垣謙治先生(監督)は公私とも忙しいため、監督なしの練習が多く、適切な練習が出来ていなかったように思います。途中退部の同期では町田、高橋(2年生の市長杯では県川崎高戦でノーヒット・ノーランを達成)を思い出します。投手としてセンス抜群だった高橋謙二(高津中)は34歳の若さで急逝しました。
目覚ましい成績はありませんが、市長杯では法政二高との決勝で敗れ、準優勝でした。市長杯で思い出すのは、1年上の5期の小黒主将のとき、法政二高との決勝戦で6対5で惜敗した試合です。6対4で負けていた9回の攻撃、1番石垣先輩のヒット、2番松村の連続ヒット、3番小黒先輩のレフトオーバーの2塁打で1点差に迫った試合で、サードランナーの私はけん制球に刺されてアウト。みんなに申し訳ない気持ちでいっぱいだったことを今でも忘れません。それに野球は最後の最後まで気を抜いてはならないことを痛感しました。
3年生になって困ったことは、部員が少ないことでした。同期4人に7期の文武両道に優れていた4人(三谷、三宮、牧田、飯島=途中退部)が入部してくれ、マネージャーの大森を加えての試合を思い出します。春の大会には正規に入部していない新入生の内海(8期)に参加を依頼しての試合でした。
昭和38年夏の大会には、8期の中林、玉井、内海ら有望な新入生が数多く入部してくれ、活気づきました。監督代行で榊原滋先生が就任してくれました。榊原先生は後日、創立から間近い桐蔭高校に転職部長として甲子園大会に行かれ、優勝されたことを大変嬉しく思います。
8期の新入部員は優秀な生徒が多数入部してくれたのに、上級の者たちの指導不足のため、多くの新入生が中途退部してしまったことで大いに反省させられたものです。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|5期|2019年10月15日更新
東都2部の農大、都市対抗野球でも活躍
多摩高野球部随一の強打者・小黒平二
県立多摩高野球部5期チームの好打者が主将も務めた小黒平二(高津中)である。昭和35年(1960年)の入部で、2年生の昭和36年夏の神奈川大会は1塁手として3番、3年生となった昭和37年夏の神奈川大会では2塁手でやはり3番と不動のクリーンアップの主軸で起用された。中学時代はエースで4番だったが、投げ過ぎの影響か、右ひじを痛め、高校入学後は内野手に回った。高校時代もひじ痛に悩まされ、高校2年秋に右ひじの軟骨を削る手術で溝の口の病院に長期入院し、再起を図った。
昭和31年の多摩高野球部創部以来、部長や監督として多くの野球部員を見てきた稲垣謙治先生は生前、周囲に「歴代野球部で1番の好投手は8期の中林信雄、バッターでは5期の小黒平二」と語っていた。中学、高校、大学、社会人と野球を続けたが、多摩高野球部の打撃順で「3番」の定位置が物語るように、同じ時代のプロ野球セリーグの王者「巨人」の王貞治、長嶋茂雄の「ONコンビ」の打順が3番・長嶋、4番・王だったのと同様、3番・小黒は自らもタイプとして中距離ヒッターだったことを認める。
後年、現役時代の小黒のバッティングをよく知る同期のチームメートで4番打者の岩田忠章(御幸中)は「ヤクルトの好打者・山田哲人の打撃とよく似ている」と感想を語った。小黒の鋭い打球は鋭い振りによるものか、飛球の弾道が普通のバッターの一回りも二回りも大きく、その分、飛距離は長くなる。小黒の9歳下で野球部14期の伊藤努(塚越中)は現役時代、先輩コーチとしてたびたびグラウンドに来た小黒のフリーバッティングでの打撃の模範を何度も見ているが、打った白球が多摩高グラウンドの左翼方向の奥にあった2階建て部室棟の屋根を超え、体育館の壁を直撃したのをよく覚えている。正規の球場であれば、スタンド中段に放り込む打球だった。そのような打球は、残念ながら母校グラウンドでは目にしていない。
本人に打撃のコツを聞くと、「特別のことは何もしていない」と謙遜するが、良きライバルでもあった岩田は「大リーグのイチロー選手のように動体視力がいいので、ボールのポイントをつかむのが上手なうえに、知らずに身に付いた野球センスの良さもあるのだろう」と分析する。「人が見ていないところでバットの素振りをしているのか」と聞くと、本人は首を振ったが、恐らく照れによる否定で、陰ながらの努力なしにあの鋭い振り、打球は生まれるはずがない。
小黒の多摩高野球部時代の通算打撃成績の記録は残念ながら手元にないが、3年の夏の大会では1回戦の浅野戦では4打数3安打、2回戦の県商工戦では4打数2安打(1本は2塁打)の記録が残っている。夏の神奈川大会前の川崎市長杯戦(当時は総当たりのリーグ戦)では、打撃成績は残されていないものの、「恐らく市内各校のバッターの中で首位打者だったのではないか」と多摩高野球部のスコアラーだった橘眞次(南大師中)は振り返る。
小黒は進学した東都大学野球2部リーグの東京農大では1年生のときからレギュラーに定着し、農大卒業後に入った社会人チーム「電電東京」でも家業(養鶏場経営)の事情でわずか2年間の球歴ながら、打撃陣の中軸として鳴らした。この当時、後楽園球場(現、東京ドーム球場)で毎年夏に開催された都市対抗野球に出場したほか、社会人野球としては打者の補強選手としても起用されている。そうした機会に出会ったのが、後年、プロ野球の国鉄(その後変遷を経て、現ヤクルト球団)で「小さな大打者」として2000安打を達成した若松勉選手だった。・・・・・・・・
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|5期|2019年10月15日更新
好打者・小黒を中心にチームワークに磨き
実力ありながら夏の県大会2回戦で敗退―5期
(多摩高野球部5期主将 小黒平二)県立多摩高校野球部の第5期生は、日本の高度経済成長が本格化し始めた昭和35年(1960年)の入学組で、川崎市内の各中学から有望な選手が20人近くも入部してきた。この中の一人が後に主将となる小黒平二(高津中)で、小黒は60年を超える多摩高野球部随一の好打者との評が定着している。小黒は多摩高を卒業後に東都大学野球2部の東京農大で1年生のときからレギュラー入りし、社会人になってからは社会人野球の電電東京でも主軸打者として都市対抗野球などで活躍した。
しかし、希望がかなって入部したものの、中学時代とは違う日々の練習の辛さか、勉学との両立に悩んだためか、将来を期待されたチームメートを含め、入部した者の半数以上が野球部の最上級生になる前に退部していく。1年上の4期生の先輩が引退した後の昭和36年秋の新チーム結成では小黒がセカンド、3番打者として攻守の主軸となり、サードの石垣正(生田中)、センターの岩田忠章(御幸中)らが打撃陣の中軸を担った。ライトの与儀達彦(富士見中)、ファーストの太田克躬(高津中)、キャッチャーの森田光之(西中原中)の5期生部員が脇を固める布陣だ。1年下の6期生からは、ショートで2番の松村敬二(宮崎中)、レフトで5番の田辺義夫(富士見中)、ピッチャーで9番の高橋謙二(高津中)がレギュラー入りした。森田は大学卒業後、高津中教諭として野球部監督を務め、13期の小黒誠二(小黒平二の父方従弟)、猪瀬忠夫らを指導したほか、川崎市立商業高の教諭に転じてからは同校野球部の監督としても長く活躍し、高校野球に長く携わる生涯だった。平成27年(2015年)に闘病の末、他界した。
さて、5期生が最上級生として臨んだ昭和37年(1962年)の夏の神奈川大会では、前年の秋季大会、この年の春季大会、初夏の川崎市長杯での好成績もあって、ベスト16ないしはベスト8進出の期待を持たれていたが、夏の大会の初戦で当時強豪だった私立の浅野を3対0で破ったものの、2回戦の県商工戦は0対3とよもやの敗北を喫した。しかし、県商工戦では安打数では多摩高が上回ったほか、3点を先行された7回表の攻撃では無死満塁の好機、そして9回の最後の攻撃でも一死1、2塁と迫りながら、4番・岩田の痛打が3塁ベースに当たって球足がそがれ、楽にさばいた相手チームの3塁手に2塁走者が封殺されるといった不運が続いた。
5期生の面々の野球部時代の思い出は、「練習が辛かった」「暑いのに水が飲めずにふらふらになった」といった具合に練習の厳しさにまつわるものが多い。決して、練習に来てくれた先輩を批判する意味ではないのだが、「県商工戦に敗れたのは、試合前日も猛練習で絞られ、疲れが抜けなかったのが敗因の一つ」と何人かのチームメートが口をそろえた。当時の高校野球を取り巻く状況や指導者、コーチの認識の違いもあるのだろうが、5期生が野球部に在籍したころは、練習中の水飲みは厳禁、猛練習で心身を鍛練するといった「非科学的風潮」に異を唱える声は少なく、現代であれば、大事な試合の前は体調やコンディションを整えるのが賢明かつ科学的な練習方法ではなかったのではないか。
5期生が野球部に在籍した時代の多摩高グラウンドは部室用建物もプールなどもなかったため、両翼、特にライト方向は多摩川の土手まで続いており、公式戦を含め、他校チームの試合が行われる野球グラウンドになっていた。しかし、バックネットが装備されていた以外はグラウンドを仕切るフェンスやネットなどの施設はなく、試合中は1塁側、3塁側にそれぞれ10人ほどの多摩高野球部1年生が球拾いを兼ねてフェンス役を務め、球場の整備など二の次ののどかな時代を思わせる。小黒と同じ高津中出身の太田は「練習中にボールが近くの畑に落ちると、のどの渇きを癒すため、畑のキュウリをもいでかじった」と笑いながら話す。
5期チームの特徴について尋ねると、異口同音に「チームワークが良かったことかな」という答えが返ってきた。打撃を含め、野球センス抜群の主将・小黒の穏やかな人柄もあってか、自然と主将を中心にチームの和ができていったというが、もう一つ別の理由がある。個人名は差し控えるが、1期上の上級生の主力選手の間でけんかが絶えず、下級生として口出しできなかったものの、自分たちのチームではそうした悪弊は繰り返さないようにしようと誓ったのだという。
5期生は数年前に古希を迎えたが、高校卒業から半世紀以上がたつというのに、当時の野球部マネージャーの大塚和彦(橘中)や私設応援団兼記録係を自任する橘眞次(南大師中)、その他女性クラスメートを含む仲のいい同期生が頻繁に会う集まりが続いている。野球部員として、ライバルではなく、単にいがみ合うだけの関係だったら、こうした和気あいあいの集まりも長く続くことはないだろう。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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