OB・OG会
|6期|2019年10月15日更新
残ったのは4人、新入部員で活気づく
忘れられぬ川崎市長杯決勝での惜敗―6期
(多摩高野球部6期主将 松村敬二)
昭和36年(1961年)に県立多摩高に入学。筆者(松村)は中学時代には野球部に所属していませんでした。グラウンドの隅にサッカー部や陸上部など5~6つの運動部が平屋の狭い部室を利用していました。大きな夢と不安を抱き、初めて部室に入ると、諸先輩が新入生を迎えてくれました。
3年生だった小島主将(4期)がまず一声、「戸を閉めろ!」。「ビクッ」としたのを覚えています。後日分かりましたが、小島さんは仏様のような人でした。
筆者ら6期の新入部員が入学時に何人だったかははっきりしません。女生徒に人気があった名投手・田辺義夫(富士見中、現在・岡本姓)、小さな体で器用だった外野手の石井稔(向丘中)、ガッツの塊りだった捕手の宮崎光敏、それにショートの松村敬二(宮崎中)の4人が最後まで残りました。
稲垣謙治先生(監督)は公私とも忙しいため、監督なしの練習が多く、適切な練習が出来ていなかったように思います。途中退部の同期では町田、高橋(2年生の市長杯では県川崎高戦でノーヒット・ノーランを達成)を思い出します。投手としてセンス抜群だった高橋謙二(高津中)は34歳の若さで急逝しました。
目覚ましい成績はありませんが、市長杯では法政二高との決勝で敗れ、準優勝でした。市長杯で思い出すのは、1年上の5期の小黒主将のとき、法政二高との決勝戦で6対5で惜敗した試合です。6対4で負けていた9回の攻撃、1番石垣先輩のヒット、2番松村の連続ヒット、3番小黒先輩のレフトオーバーの2塁打で1点差に迫った試合で、サードランナーの私はけん制球に刺されてアウト。みんなに申し訳ない気持ちでいっぱいだったことを今でも忘れません。それに野球は最後の最後まで気を抜いてはならないことを痛感しました。
3年生になって困ったことは、部員が少ないことでした。同期4人に7期の文武両道に優れていた4人(三谷、三宮、牧田、飯島=途中退部)が入部してくれ、マネージャーの大森を加えての試合を思い出します。春の大会には正規に入部していない新入生の内海(8期)に参加を依頼しての試合でした。
昭和38年夏の大会には、8期の中林、玉井、内海ら有望な新入生が数多く入部してくれ、活気づきました。監督代行で榊原滋先生が就任してくれました。榊原先生は後日、創立から間近い桐蔭高校に転職部長として甲子園大会に行かれ、優勝されたことを大変嬉しく思います。
8期の新入部員は優秀な生徒が多数入部してくれたのに、上級の者たちの指導不足のため、多くの新入生が中途退部してしまったことで大いに反省させられたものです。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
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|5期|2019年10月15日更新
東都2部の農大、都市対抗野球でも活躍
多摩高野球部随一の強打者・小黒平二
県立多摩高野球部5期チームの好打者が主将も務めた小黒平二(高津中)である。昭和35年(1960年)の入部で、2年生の昭和36年夏の神奈川大会は1塁手として3番、3年生となった昭和37年夏の神奈川大会では2塁手でやはり3番と不動のクリーンアップの主軸で起用された。中学時代はエースで4番だったが、投げ過ぎの影響か、右ひじを痛め、高校入学後は内野手に回った。高校時代もひじ痛に悩まされ、高校2年秋に右ひじの軟骨を削る手術で溝の口の病院に長期入院し、再起を図った。
昭和31年の多摩高野球部創部以来、部長や監督として多くの野球部員を見てきた稲垣謙治先生は生前、周囲に「歴代野球部で1番の好投手は8期の中林信雄、バッターでは5期の小黒平二」と語っていた。中学、高校、大学、社会人と野球を続けたが、多摩高野球部の打撃順で「3番」の定位置が物語るように、同じ時代のプロ野球セリーグの王者「巨人」の王貞治、長嶋茂雄の「ONコンビ」の打順が3番・長嶋、4番・王だったのと同様、3番・小黒は自らもタイプとして中距離ヒッターだったことを認める。
後年、現役時代の小黒のバッティングをよく知る同期のチームメートで4番打者の岩田忠章(御幸中)は「ヤクルトの好打者・山田哲人の打撃とよく似ている」と感想を語った。小黒の鋭い打球は鋭い振りによるものか、飛球の弾道が普通のバッターの一回りも二回りも大きく、その分、飛距離は長くなる。小黒の9歳下で野球部14期の伊藤努(塚越中)は現役時代、先輩コーチとしてたびたびグラウンドに来た小黒のフリーバッティングでの打撃の模範を何度も見ているが、打った白球が多摩高グラウンドの左翼方向の奥にあった2階建て部室棟の屋根を超え、体育館の壁を直撃したのをよく覚えている。正規の球場であれば、スタンド中段に放り込む打球だった。そのような打球は、残念ながら母校グラウンドでは目にしていない。
本人に打撃のコツを聞くと、「特別のことは何もしていない」と謙遜するが、良きライバルでもあった岩田は「大リーグのイチロー選手のように動体視力がいいので、ボールのポイントをつかむのが上手なうえに、知らずに身に付いた野球センスの良さもあるのだろう」と分析する。「人が見ていないところでバットの素振りをしているのか」と聞くと、本人は首を振ったが、恐らく照れによる否定で、陰ながらの努力なしにあの鋭い振り、打球は生まれるはずがない。
小黒の多摩高野球部時代の通算打撃成績の記録は残念ながら手元にないが、3年の夏の大会では1回戦の浅野戦では4打数3安打、2回戦の県商工戦では4打数2安打(1本は2塁打)の記録が残っている。夏の神奈川大会前の川崎市長杯戦(当時は総当たりのリーグ戦)では、打撃成績は残されていないものの、「恐らく市内各校のバッターの中で首位打者だったのではないか」と多摩高野球部のスコアラーだった橘眞次(南大師中)は振り返る。
小黒は進学した東都大学野球2部リーグの東京農大では1年生のときからレギュラーに定着し、農大卒業後に入った社会人チーム「電電東京」でも家業(養鶏場経営)の事情でわずか2年間の球歴ながら、打撃陣の中軸として鳴らした。この当時、後楽園球場(現、東京ドーム球場)で毎年夏に開催された都市対抗野球に出場したほか、社会人野球としては打者の補強選手としても起用されている。そうした機会に出会ったのが、後年、プロ野球の国鉄(その後変遷を経て、現ヤクルト球団)で「小さな大打者」として2000安打を達成した若松勉選手だった。・・・・・・・・
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
|5期|2019年10月15日更新
好打者・小黒を中心にチームワークに磨き
実力ありながら夏の県大会2回戦で敗退―5期
(多摩高野球部5期主将 小黒平二)県立多摩高校野球部の第5期生は、日本の高度経済成長が本格化し始めた昭和35年(1960年)の入学組で、川崎市内の各中学から有望な選手が20人近くも入部してきた。この中の一人が後に主将となる小黒平二(高津中)で、小黒は60年を超える多摩高野球部随一の好打者との評が定着している。小黒は多摩高を卒業後に東都大学野球2部の東京農大で1年生のときからレギュラー入りし、社会人になってからは社会人野球の電電東京でも主軸打者として都市対抗野球などで活躍した。
しかし、希望がかなって入部したものの、中学時代とは違う日々の練習の辛さか、勉学との両立に悩んだためか、将来を期待されたチームメートを含め、入部した者の半数以上が野球部の最上級生になる前に退部していく。1年上の4期生の先輩が引退した後の昭和36年秋の新チーム結成では小黒がセカンド、3番打者として攻守の主軸となり、サードの石垣正(生田中)、センターの岩田忠章(御幸中)らが打撃陣の中軸を担った。ライトの与儀達彦(富士見中)、ファーストの太田克躬(高津中)、キャッチャーの森田光之(西中原中)の5期生部員が脇を固める布陣だ。1年下の6期生からは、ショートで2番の松村敬二(宮崎中)、レフトで5番の田辺義夫(富士見中)、ピッチャーで9番の高橋謙二(高津中)がレギュラー入りした。森田は大学卒業後、高津中教諭として野球部監督を務め、13期の小黒誠二(小黒平二の父方従弟)、猪瀬忠夫らを指導したほか、川崎市立商業高の教諭に転じてからは同校野球部の監督としても長く活躍し、高校野球に長く携わる生涯だった。平成27年(2015年)に闘病の末、他界した。
さて、5期生が最上級生として臨んだ昭和37年(1962年)の夏の神奈川大会では、前年の秋季大会、この年の春季大会、初夏の川崎市長杯での好成績もあって、ベスト16ないしはベスト8進出の期待を持たれていたが、夏の大会の初戦で当時強豪だった私立の浅野を3対0で破ったものの、2回戦の県商工戦は0対3とよもやの敗北を喫した。しかし、県商工戦では安打数では多摩高が上回ったほか、3点を先行された7回表の攻撃では無死満塁の好機、そして9回の最後の攻撃でも一死1、2塁と迫りながら、4番・岩田の痛打が3塁ベースに当たって球足がそがれ、楽にさばいた相手チームの3塁手に2塁走者が封殺されるといった不運が続いた。
5期生の面々の野球部時代の思い出は、「練習が辛かった」「暑いのに水が飲めずにふらふらになった」といった具合に練習の厳しさにまつわるものが多い。決して、練習に来てくれた先輩を批判する意味ではないのだが、「県商工戦に敗れたのは、試合前日も猛練習で絞られ、疲れが抜けなかったのが敗因の一つ」と何人かのチームメートが口をそろえた。当時の高校野球を取り巻く状況や指導者、コーチの認識の違いもあるのだろうが、5期生が野球部に在籍したころは、練習中の水飲みは厳禁、猛練習で心身を鍛練するといった「非科学的風潮」に異を唱える声は少なく、現代であれば、大事な試合の前は体調やコンディションを整えるのが賢明かつ科学的な練習方法ではなかったのではないか。
5期生が野球部に在籍した時代の多摩高グラウンドは部室用建物もプールなどもなかったため、両翼、特にライト方向は多摩川の土手まで続いており、公式戦を含め、他校チームの試合が行われる野球グラウンドになっていた。しかし、バックネットが装備されていた以外はグラウンドを仕切るフェンスやネットなどの施設はなく、試合中は1塁側、3塁側にそれぞれ10人ほどの多摩高野球部1年生が球拾いを兼ねてフェンス役を務め、球場の整備など二の次ののどかな時代を思わせる。小黒と同じ高津中出身の太田は「練習中にボールが近くの畑に落ちると、のどの渇きを癒すため、畑のキュウリをもいでかじった」と笑いながら話す。
5期チームの特徴について尋ねると、異口同音に「チームワークが良かったことかな」という答えが返ってきた。打撃を含め、野球センス抜群の主将・小黒の穏やかな人柄もあってか、自然と主将を中心にチームの和ができていったというが、もう一つ別の理由がある。個人名は差し控えるが、1期上の上級生の主力選手の間でけんかが絶えず、下級生として口出しできなかったものの、自分たちのチームではそうした悪弊は繰り返さないようにしようと誓ったのだという。
5期生は数年前に古希を迎えたが、高校卒業から半世紀以上がたつというのに、当時の野球部マネージャーの大塚和彦(橘中)や私設応援団兼記録係を自任する橘眞次(南大師中)、その他女性クラスメートを含む仲のいい同期生が頻繁に会う集まりが続いている。野球部員として、ライバルではなく、単にいがみ合うだけの関係だったら、こうした和気あいあいの集まりも長く続くことはないだろう。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|4期|2019年10月15日更新
「不完全燃焼」に終わった高校野球部生活―4期チーム
対戦した県内強豪校にはプロ入りの好選手がぞろぞろ
(多摩高野球部4期 荒木久雄)私の記憶が正しければ、2015年4月入学の県立多摩高野球部の部員諸君はちょうど節目の60期に当たるかと思う。われわれ4期というと、半世紀以上も以前の1959年(昭和34年)に、学校創立4年目を迎えた川崎市内の県立高3校目の多摩高に入学した。入学後直ちに野球部に入部した部員はその初日、当然のことながら部室の外でユニホームに着替え、練習に参加した。
グラウンドに出てまず感じたのは、その広さだった。レフトは校門近くまであり、センターは後方の渡り廊下まで優に130メートルはあり、ライトに至ってははるか後方、多摩川の土手下道路まで150メートル以上はあったと記憶している。もちろん、その後、学校の敷地やグラウンド利用の変化もあって、当時と比較できないのだが、入部当時の広さだけは忘れることはできない。野球をする上で大事なグラウンドの質はというと、内野はともかく、外野に至ってはコークス殻を砕いたような砂利状であった。
4期生が入部した当初の部員数は、3年生7人、2年生11人の少人数であったと思う。そこへわれわれ新入部員15人が加わり、グラウンドは一気ににぎやかになった。入部当時の監督は稲垣謙治先生で、入学時の諸先生方は野球に対する理解度はあまり高くなく、野球部の活動を分かってくれた先生は数えるほどだった。先生によっては、「学業成績が悪くなるから野球部をやめなさい」と言う先生もいた。
しかし、野球部にとって大きな支柱となっていたのが、当時の校長だった山岡嘉次先生だった。山岡校長は、知る人ぞ知る夏の甲子園大会で3連覇を成し遂げたときの愛知・中京商業の監督で、多摩高野球部を創部時から陰になり日向になり指導いただき、教えは今も脈々と受け継がれている。
われわれ4期が初めて公式戦を経験したのが、川崎市長杯であった。川崎市内の高校は多摩高をはじめ、県立川崎高、市立の川崎工業、川崎商業、川崎高校、橘高校、法政二高の7校であった。市長杯戦で使用された球場は、プロ野球球団の大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)のフランチャイズ球場だった。初めてナイターでの試合を経験した2年次になり、学業よりも野球に打ち込んでいった。
この年(1960年=昭和35年)のハイライトは何といっても、夏の甲子園大会の県大会予選の対法政二高との3回戦での熱戦であろう。試合の詳細は3期の先輩の紹介に譲るとして、夏の全国大会で法政二高はレベルの違う圧倒的な強さを発揮し、優勝した。このときの法政二高の強さは高校野球史上最強だと評されたものだが、神奈川大会の予選とはいえ、多摩高野球部は全国優勝したチームと互角の試合を展開したわけである。
◇さて、われわれ4期は3期の先輩たちが夏の県大会で敗退した後、すぐに新チームを結成し、希望も新たに練習に明け暮れた。しかし、そこで大きなアクシデントに見舞われた。新チーム恒例の校内での夏季合宿でのことで、天候不順で雨が続き、低温と相まって賄いの食事による集団食中毒に見舞われたのである。部員のほとんどが体調を崩し、救急車で運ばれる部員も出た。幸い、筆者は難を逃れたが、校内合宿は途中解散となった。
新チームの出だしとしては最悪であり、新人戦となる秋の大会、翌年春の大会もあまり印象になく、春の大会では全国制覇した法政二高に完封負けを喫した。法政二高の投手は柴田勲(後に巨人に入団)で、そのときの柴田選手はそれほどすごい投手であるとの印象はなかった。その年の夏、われわれ4期は最後の夏の県大会を迎えた。大会を前にして、連日の暑さの中、高校を卒業したばかりの1期OBである宇田川、稲垣、桜井、三雲の諸先輩による指導の下、試合前日までくたくたになるまで練習したことを覚えている。
だが、先輩諸氏による熱心な指導、猛練習にもかかわらず、われわれのチームは県大会3回戦で私立強豪の鎌倉学園に大差で敗れた。ちなみに、相手チームの投手は長田、半沢の両投手で、2人とも後にプロ野球の大毎オリオンズ、産経アトムズ(いずれも当時のチーム名)に入団した。
何かの巡り合わせかもしれないが、多摩高野球部在籍の3年間で対戦した相手高校からプロ野球の世界へ進んだ選手は十指に余る。われわれ4期が野球部に入部したときは15人を数え、大いに期待されたものだったが、最終的には主将の小島(稲田中)以下、伊藤(稲田中)、稲津(塚越中)、久保田(中原中)、雲井(富士見中)、佐々木(稲田中)、武(富士見中)、荒木(生田中)のわずか8人になっていた。
多摩高野球部時代の3年間、成績の上ではあまり自慢できる思い出はなかったが、野球を続けたことは今も自らのバックボーンとなっている。苦労を共にしたチームの仲間たちも同じ思いだと確信している。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|3期|2019年10月9日更新
=田中主将を中心にしたチームワークと主戦・井口の好投=
◎全国優勝の法政二を追い詰めた夏の神奈川大会―3期
(多摩高野球部3期 岡部 豊)多摩高野球部の3期組は1958年(昭和33年)の入学で、3年生となった1期生の宇田川彰主将の新チーム内で新設校ならではの期待と活気があふれる中で部活動をスタートさせた。3期チームの主将は、多摩高にも距離的に近い稲田中学出身の田中輝夫で、3期チームで特筆すべきはやはり、1960年(昭和35年)の夏の神奈川大会3回戦で、当時の高校球界で最強チームといわれた川崎地区の強豪・法政二高を相手に最後まで互角に戦い、全国制覇を成し遂げた法政二高の田丸仁監督をして、「県大会予選での多摩高との試合が最も苦しかった」と言わしめたことだろう。
この試合は、5回に一挙に4点を先取された後攻めの多摩高が9回裏に3点を返し、あと一歩のところでで逆転勝ちを逸したゲーム展開だった。財団法人・神奈川県高等学校野球連盟が1978年に刊行した県の高校野球60年史『球音』の第42回大会(1960年=昭和35年)の総評では、「法政二高に最終回1点差にせまった多摩高校の奮戦ぶりは忘れてはならない」と記されている。
この試合での最後のバッターは、三振で倒れた田中だったが、それを責めることがないのは、ここまでチームを押し上げた陰の功労者が田中であることをナインの誰もが認めていたからだ。田中とともに鉄壁の内野陣として二遊間を守った岡部豊は、「田中主将を中心に同期のチームワークが良く、まとまっていた。すでに半世紀以上前の出来事ながら、法政二高戦での敗戦がいまだに悔しい」と振り返っている。
3期チームが強かったもう一つの理由は、多摩高野球部の投手としては逸材の一人と多くのチームメートが挙げる主戦投手・井口昭夫の投打にわたる活躍だ。控えに回った雨下政宏の好投もしばしば勝利に貢献した。
3期チームが3年生のときの夏の県大会の戦績とメンバーの陣容は以下の通りだ。
1回戦 多摩6対津久井0
2回戦 多摩11対鎌倉1(7回コールド)
3回戦 多摩3対法政二4
メンバーは1番ショート田中輝夫(稲田中)、2番セカンド岡部豊(御幸中)、3番キャッチャー斎藤剛(住吉中)、4番ピッチャー井口昭夫(富士見中)、5番ファースト高橋章(西中原中)、6番レフト山口浩嗣(稲田中)、7番サード稲津三雄(塚越中)、8番センター辻浩幸(富士見中)、9番ライト土田一夫(御幸中)、控え投手・雨下政宏(御幸中)、控え野手・久保田友也(中原中)、マネージャー・遠藤正夫
前記の岡部は多摩高野球部時代の思い出の一つとして、「入学時にリヤカーで何回も内野整備用の水をドラム缶で運び、辛かった!」と述懐し、3期生の入学当時はまだ、野球の練習もさることながら荒れたグラウンドの整備が大きな仕事の一つであったことがうかがえる。
3期チームでは、ファーストを務めた高橋章が卒業後、川崎市水道局で長く野球で活躍し、後年、神奈川県野球連盟の副理事長や川崎野球協会の副理事長兼事務局長などとして県と市の野球界に大きな貢献を果たした。田中と同じ中学出身の山口浩嗣は、現役選手として長く活躍したほか、70代になった今もシニア野球で若々しいプレーを披露し、だらしない後輩を叱咤する。
実家のあった南武線の久地駅前で長くスナック「ナイン」のマスターを務めながら、母校の野球部監督を長年にわたって歴任した田中の後輩の伊藤努(14期チーム主将)は卒業後も田中が采配する軟式野球チームへの参加を誘われ、そうした機会を通じて多くの野球部OBとも親交を得た。その伊藤の目に映る3期生の先輩たちは、カラオケなどでよく歌われる「野球小僧」そのものの、野球を心底愛してやまない人間ばかりだった。田中が生涯の仕事場としたスナックの店名を「ナイン」としたのは、愚直なまでに野球と野球仲間を愛する生き方そのものだったためだと思えてくる。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
|2期|2019年10月9日更新
山岡校長自らの熱血指導、慶大野球部のコーチ支援
=草取りと猛練習に明け暮れた日々の思い出―2期=
(多摩高野球部2期主将 大谷正勝)
1957年(昭和32年)入学の県立多摩高2期生の私の野球部の思い出といえば、夏の県大会を目座しての猛練習に明け暮れた日々の思い出である。当時のグラウンドは夏草が生い茂り、除草剤を散布し、草を取り除き、重いローラーで固めて整備しなければならなかった。体育祭に「草取り競争」という種目があったほどである。
そして、多摩高初代校長の庄司先生の後任として赴任された山岡嘉次校長先生は、愛知県の元中京商業高校野球部長を経験された重鎮で、純白のユニホーム姿でわれわれを指導されたことは貴重な素晴らしい思い出として残っている。多摩高野球部創部後の昭和32年夏の第30回県大会初戦の平和球場においての対県立秦野高戦では、山岡校長が高齢を押して自ら外野ノックをして、当時の新聞紙上で話題になったほどである。また、当時の慶応大学野球部の稲葉誠治監督が山岡校長と姻戚関係にあり、慶大野球部の方々に熱心に指導をしていただき、他校と比べ素晴らしい環境で、野球に専念できたと感謝している。山岡校長のご縁で、名古屋の瑞陵高校との練習試合に先輩部員と夜行列車で遠征したことも良き思い出である。
私たち2期生の部員は1期生、3期生に比べて部員数が少なく、投手の原田新一郎、内野手の鈴木秀雄、城田良雄、宮川研二、外野手の佐藤昭、そして捕手の私(大谷正勝)とマネージャーの出川昭、武英道の諸君である。1期生の先輩、桜井紀夫投手は右の本格派であり、球速はかなりのものだった。同期の原田君は下手投げのサブマリンで、打たせて取るタイプの投手だった。
1期生主力の昭和33年夏の県大会では、初戦で横浜一商を3対1、第2戦の名門・浅野高校に4対3と勝利し、3回戦の県立希望ケ丘高校に接戦の末、6対10で敗れたが、創部からまだ3年目の新進気鋭のチームとして、多くの方々から称賛の言葉をいただいた。この年の夏の県大会が終わり、秋季県大会に臨む直前、監督の関野唯一先生(社会科教諭)が狭心症で急逝され、私たち2期、3期の部員の動揺が大きい中で、相手の慶応高校との戦いに臨んだ。結果は11対0で8回コールド負けの惨敗。県下ナンバーワンの呼び声が高かった渡辺泰輔投手(慶応大~南海ホークス)に完璧に抑えられ、わずか私のテキサスヒット1本のみで、ノーヒット・ノーランを免れたことが苦い思い出として残っている。
翌年の昭和34年の夏の県大会には私たち3年生部員は少なく、1、2年生部員が多いチームで試合に臨んだものの、初戦で藤沢商高に1対2で惜敗した。しかし、翌年の夏の県大会において、力のある選手が多かった3期生を主力としたチームが3回戦まで進出し、法政二高と3対4の接戦の末、敗れたものの、多摩高野球部の大きな基盤を築いたことは素晴らしいことであった。3期チームの主将は田中輝夫君で、大学野球の経験を経て、その後、母校の監督を長く務めたのは皆さんご存じの通りである。
早いもので、多摩高野球部の歴史も60年を迎えようとしている。多くの部員が同じグラウンドで、同じ一つの目標に向かい、汗を流してきたことを思うと、非常に感慨深いものがある。今後も、後輩の諸君がわれわれの思いを継承し、多摩高野球部がなお一層発展することを願う次第である。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|1期|2019年10月9日更新
法政二高打倒に闘志燃やした多摩高野球部草創期
力をつけた背景に選手の切磋琢磨と関係者の支援
県立多摩高が開校し、野球部が創部された昭和30年代前半、川崎地区でしのぎを削ったのは、甲子園でも名前をとどろかせていた田丸仁監督率いる法政二高をはじめ、県立川崎高、県立川崎工業高、市立川崎商、市立橘高、市立川崎高、それに新参の多摩高だった。
神奈川県内に目を広げると、当時は法政二高、慶応高、鎌倉学園、県商工高、Y高の呼び方で知られた横浜商などが強豪校だった。その後、台頭する武相や東海大相模、横浜高校、桐蔭学園、桐光学園などはまだ無名ないしは学校が創立されていなかった。
多摩高野球部も、目標は高いが打倒・法政、打倒・慶応を合言葉に厳しい練習を続けた。また、県立川崎高は南部の県川、北部の多摩とその後、勉強の方でもライバル関係になっていったこともあって、野球でも県川には負けたくないと闘志を燃やした。
打倒・法政二高の目標は高いと書いたが、決して不可能だったわけではない。田中輝夫ら多摩高野球部の3期生が3年だった昭和35年(1960年)の夏の神奈川大会では法政二高と3回戦で当たり、4対3で惜敗する好ゲームを演じた。その年、甲子園の全国高校野球選手権では法政二高が全国制覇を果たしたが、田丸監督は優勝インタビューで、どの試合が厳しかったかとの記者らの質問に対し、「神奈川大会の対多摩高戦」と答えている。敵将にそうまで語らせる多摩高野球部の実力は創部5年にして相当なものになっていたことが分かる。
多摩高野球部が創部後に18連敗した記録はまだ破られていないが、決して屈辱ではあるまい。連戦連敗のくやしさをバネに、あるいは糧にしてチームが徐々に力をつけていったのは、1期生が3年になった昭和33年の夏の神奈川大会でベスト16に進出したことが何よりの証だ。その後、黄金時代といわれるエース中林を擁した8期チームはベスト8の常連だったし、度胸抜群の好投手・岸がいた10期チームは、甲子園に行った武相高と神奈川大会で延長再試合の死闘を演じている。
川崎地区、神奈川県では昭和30年代前半当時、まだ新設高にすぎなかった多摩高野球部が急速に力をつけた背景には、もちろん選手たちの切磋琢磨もさることながら、関係者の熱心な指導を忘れることはできない。愛知・中京商業の野球を熟知する山岡嘉次校長自らのノックや、1期生の宇田川彰の兄で専修大野球部に在籍した宇田川先輩の厳しい指導、それから忘れてならないのは山岡先生の尽力で慶応大学野球部の現役学生コーチを多摩高に派遣し、野球の練習方法や試合での勝ち方などを若いチームの選手たちに伝授したのである。当時の慶応大学野球部の監督が山岡先生のお嬢さんのお婿さんという身内であったがゆえに実現した実力コーチの派遣だった。
野球部1期生が多摩高卒業後に、大学でもプレーしたOBに桜井紀夫(明治大学)、稲垣隆祥(東洋大学)がいるが、彼らがオフシーズンになると母校のグラウンドに日参した。バッティング投手やノッカーとして、人数の少ないチームの縁の下の力持ちに徹したことは、その後に続く多摩高野球部の良き伝統となった。
1期から11期までは、プロの野球選手を弟に持つ稲垣謙治先生(美術教諭、後に神奈川高野連理事)が監督や部長を務めたが、1969年の12期チーム以降は3期OBの田中輝夫を皮切りに、10期の岸裕一、13期の高橋徳之、同・小黒誠二、15期の峰野謙次、5期の小黒平二、15期の山根康生、18期の松本憲一、17期の太田伸一らが後輩チームをほぼ1年周期で指揮した。1981年(昭和56年)に監督再登板の田中は24期~28期、さらに34期チームから再び指揮を執り始め、多摩高野球部監督の在任は平成20年(2008年)の51期まで27年に及んだ。国学院大野球部OBでもある田中の後を継いだ現監督の浦谷淳(多摩高教諭=2016年まで)は県立川崎高野球部出身というのも何かの因縁かもしれない。60年近い多摩高野球部の歴史の中で、甲子園に近づいたことは何度かあったが、47都道府県で最多の200校近くがひしめく激戦区・神奈川で栄冠を勝ち取るのはますます難しくなっていることは認めねばなるまい。
力をつけた背景に選手の切磋琢磨と関係者の支援
県立多摩高が開校し、野球部が創部された昭和30年代前半、川崎地区でしのぎを削ったのは、甲子園でも名前をとどろかせていた田丸仁監督率いる法政二高をはじめ、県立川崎高、県立川崎工業高、市立川崎商、市立橘高、市立川崎高、それに新参の多摩高だった。
神奈川県内に目を広げると、当時は法政二高、慶応高、鎌倉学園、県商工高、Y高の呼び方で知られた横浜商などが強豪校だった。その後、台頭する武相や東海大相模、横浜高校、桐蔭学園、桐光学園などはまだ無名ないしは学校が創立されていなかった。
多摩高野球部も、目標は高いが打倒・法政、打倒・慶応を合言葉に厳しい練習を続けた。また、県立川崎高は南部の県川、北部の多摩とその後、勉強の方でもライバル関係になっていったこともあって、野球でも県川には負けたくないと闘志を燃やした。
打倒・法政二高の目標は高いと書いたが、決して不可能だったわけではない。田中輝夫ら多摩高野球部の3期生が3年だった昭和35年(1960年)の夏の神奈川大会では法政二高と3回戦で当たり、4対3で惜敗する好ゲームを演じた。その年、甲子園の全国高校野球選手権では法政二高が全国制覇を果たしたが、田丸監督は優勝インタビューで、どの試合が厳しかったかとの記者らの質問に対し、「神奈川大会の対多摩高戦」と答えている。敵将にそうまで語らせる多摩高野球部の実力は創部5年にして相当なものになっていたことが分かる。
多摩高野球部が創部後に18連敗した記録はまだ破られていないが、決して屈辱ではあるまい。連戦連敗のくやしさをバネに、あるいは糧にしてチームが徐々に力をつけていったのは、1期生が3年になった昭和33年の夏の神奈川大会でベスト16に進出したことが何よりの証だ。その後、黄金時代といわれるエース中林を擁した8期チームはベスト8の常連だったし、度胸抜群の好投手・岸がいた10期チームは、甲子園に行った武相高と神奈川大会で延長再試合の死闘を演じている。
川崎地区、神奈川県では昭和30年代前半当時、まだ新設高にすぎなかった多摩高野球部が急速に力をつけた背景には、もちろん選手たちの切磋琢磨もさることながら、関係者の熱心な指導を忘れることはできない。愛知・中京商業の野球を熟知する山岡嘉次校長自らのノックや、1期生の宇田川彰の兄で専修大野球部に在籍した宇田川先輩の厳しい指導、それから忘れてならないのは山岡先生の尽力で慶応大学野球部の現役学生コーチを多摩高に派遣し、野球の練習方法や試合での勝ち方などを若いチームの選手たちに伝授したのである。当時の慶応大学野球部の監督が山岡先生のお嬢さんのお婿さんという身内であったがゆえに実現した実力コーチの派遣だった。
野球部1期生が多摩高卒業後に、大学でもプレーしたOBに桜井紀夫(明治大学)、稲垣隆祥(東洋大学)がいるが、彼らがオフシーズンになると母校のグラウンドに日参した。バッティング投手やノッカーとして、人数の少ないチームの縁の下の力持ちに徹したことは、その後に続く多摩高野球部の良き伝統となった。
1期から11期までは、プロの野球選手を弟に持つ稲垣謙治先生(美術教諭、後に神奈川高野連理事)が監督や部長を務めたが、1969年の12期チーム以降は3期OBの田中輝夫を皮切りに、10期の岸裕一、13期の高橋徳之、同・小黒誠二、15期の峰野謙次、5期の小黒平二、15期の山根康生、18期の松本憲一、17期の太田伸一らが後輩チームをほぼ1年周期で指揮した。1981年(昭和56年)に監督再登板の田中は24期~28期、さらに34期チームから再び指揮を執り始め、多摩高野球部監督の在任は平成20年(2008年)の51期まで27年に及んだ。国学院大野球部OBでもある田中の後を継いだ現監督の浦谷淳(多摩高教諭=2016年まで)は県立川崎高野球部出身というのも何かの因縁かもしれない。60年近い多摩高野球部の歴史の中で、甲子園に近づいたことは何度かあったが、47都道府県で最多の200校近くがひしめく激戦区・神奈川で栄冠を勝ち取るのはますます難しくなっていることは認めねばなるまい。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
|OB・OG会|2019年10月9日更新
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)
表紙
『白球追った青春の日々 ― 狙え! 甲子園』
【序文】 多摩高野球部部史の刊行に当たって
今から60年余り前、神奈川の県北の有数の進学校を目指して創立されたのが、われらが多摩高校である。先生方の熱心な指導、そして新設高での勉学と部活動、すべてが新鮮で充実した高校生活を送ることができたことを感謝しています。質実剛健、文武両道の校訓通りに3年の間、仲間とともに汗まみれになって白球を追い続けたことが、現在の自分自身の人間形成の糧になっていると自負しています。
過去60年間、多摩高野球部の大勢の卒業生が幅広い分野で活躍していることは、神奈川県下の公立高校の野球部として、傑出した歴史と伝統を築いてきた多くの部員の努力の賜物であると確信しています。
このたびの多摩高野球部の部史は、「多摩の野球」の歴史の積み重ね、歴代の部員たちの青春の軌跡として、貴重な証言・資料であると思います。今後は後輩の諸君がこの伝統を継承して、多摩高野球部の歴史をさらに素晴らしいものへと構築されるように期待をする次第です。
多摩高野球部OB会 第2代会長 大谷正勝
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
|1期|2019年10月8日更新
野球部創部当初は2カ月のグラウンド整備―多摩高1期
=練習試合と公式戦18連敗も3年目はベスト16進出=
(多摩高野球部1期 稲垣隆祥)平成28年(2016年)に60周年を迎えた神奈川県立多摩高校の野球部は、1期生が入学して間もない昭和31年(1956年)5月に創部された。多摩高が開校した当初は今の多摩川べりの宿河原の校舎は建設中で、1期生240人は高津中学の仮校舎で高校生活を始めた。しかし、この後に一部紹介する野球部員14人は入学翌月の5月から、授業が終わると、溝の口駅から南武線で宿河原駅に行き、まだ周りは畑や果樹園だった草ぼうぼうで石ころだらけの校庭の整備に汗を流した。硬式野球ができるグラウンドではなかったのである。
このため、1期生だけの新チームを結成したものの、その年の夏の神奈川大会には出場はかなわず、秋の県大会に向けた川崎地区予選(新人戦)への出場が野球部としての歴史の始まりということになる。しかし、1年生部員だけの悲しさか、野球経験者が少なかったためか、その後、練習試合、公式戦を含め18連敗を続け、初勝利は創部2年目の昭和32年6月の川崎市長杯(当時は新加入の多摩高を含め県立川崎高、法政二高など市内7校による総当たりのリーグ戦)での市立川崎高戦だった。5回コールドでの勝利で、18連敗も飛躍のための準備期間だったのだろう。
そして、1期生が2年になり、2期生が野球部に入部してから初出場の夏の県大会では、1回戦で県立秦野高に敗れたものの、大差ではない好試合となった。初代校長が急逝されたため、愛知県の強豪校、中京商業(当時、現在の中京大中京高)の野球部長から多摩高2代目の校長に招かれた山岡嘉次先生が多摩高野球部の健闘をたたえる発言が翌日の新聞に大きく掲載され、野球部の存在が広く知られるきっかけにもなった。野球部草創期に恩師で応援団の山岡先生がおられたことは、野球部の歩みにも校訓の「質実剛健」を植え付けたのではないか。
昭和32年の夏の県大会に初出場したチームの選手とポジションなどは次の通り。
1番セカンド宇田川彰(富士見中) 2番センター井田栄一(塚越中) 3番ショート鈴木秀雄(稲田中、1年) 4番ピッチャー桜井紀夫(稲田中) 5番サード中田正純(川中島中) 6番ライト稲垣隆祥(稲田中) 7番ファースト城田良雄(1年) 8番レフト小島鉱三(西中原中) 9番キャッチャー秋山保(高津中=マネージャー兼任)
同じ2年生で福岡県小倉から転校してきた三雲巧升はショートだったが、夏の大会はけがのため出場の機会はなかった。運命のいたずらか、桜井、宇田川、中田の3人が鬼籍に入った。
この2年生部員8人が最後まで野球部に所属したが、途中で退部した1期生6人の中にはその後、健康を取り戻してサッカー部に移り、日体大を卒業後に母校の体育科教諭となった高山建治朗もいた。投打のかなめが稲田中野球部出身でエース・4番の桜井だが、後に野球部OB会長を長く務め、公私とも後輩の野球部員を熱血支援した宇田川がやはり中学野球の経験を生かしてリードオフマンとして活躍した。桜井と同じ稲田中出身で、陸上部から高校で野球部に転じた稲垣は高校卒業後に東都大学リーグの駒澤大(1年で中退)、東洋大で野球を続けたが、1期生のチームの特徴は「攻撃型だった」と述懐する。
1期生が3年になったとき、多摩高野球部の最初の黄金時代をつくる田中輝夫(稲田中)、井口昭夫(富士見中)ら3期生の逸材が入部し、ようやく1年から3年までそろったチームが出来上がった。昭和33年の夏の県大会は県内の約50校が出場したが、多摩高は1回戦の横浜一商(現在の横浜商大高)を3対1、2回戦の浅野高校を4対3で破り、3回戦で当たったシード校の県立希望ケ丘高に6対10のスコアで負け、ベスト16進出の結果を残した。
|14期|2019年10月4日更新
母校の物理教師・岩本先生の型破り人生
誰でも経験することだろうが、人生も自身が中高年世代になると、 これまでにお世話になったり、 付き合いが深かったりした学生時代の恩師や職場の上司・同僚、 友人の訃報に接することが多くなる。寂しいことだが、 同時に人生の来し方を振り返る機会ともなる。 最近も高校時代の友人、恩師が相次いで亡くなり、 葬儀に参列するなどして故人の冥福を祈らせていただいた。
そうしたお一人である高校時代の恩師の岩本秋雄先生(享年88) は母校の教え子の間では、 型破りの教師として長く記憶されていくのではないだろうか。 小太りで赤ら顔、ぎょろりとした大きな目にだみ声と書けば、 容姿もユニークだった先生の人物像が少しは思い浮かべていただけ るのではないか。
筆者は高校在学中、 岩本先生には物理の担当教員と硬式野球部の顧問としていろいろと お世話になったが、 ご自宅がある神奈川県大和市で営まれた葬儀には、 先生が二十数年にわたる母校在職中に何度か学級担任を持たれた年 次の卒業生や野球部、生徒会のOBたちが多数、姿を見せ、 遺族が手配した家族葬兼一般葬向けの会場には着席できず、 焼香のための教え子の参列者は部屋の外にあるフロアいっぱいにな っていた。
ここでは、 岩本先生の長い高校教師人生のごく一端を紹介したいが、 校内ではいつも白衣姿だった物理教師としての本務のほかに、 大学進学を目指す生徒に対する熱心な受験指導や、 野球部以外にも生徒会や女子ソフトボールチームなどさまざまな部 活の顧問としての活動など、単なる高校教師というよりも、 卒業後もさまざまな機会を通じてアドバイスをいただける人生の師 と言える存在だった。そうした教え子が何人もいる。
物理の教師ということで、 理系学部への進学を希望する生徒に対する指導は、 教科書の学習は年間授業計画の半分の期間で早々と済ませ、 入試問題の過去問などを解かせる実践的な方法で、 理系学部への進学実績を上げることに大いに貢献した。その半面、 物理が苦手な文系志望の生徒には、授業内容のレベルが高過ぎて、 「岩本先生の授業はチンプンカンプン」 という声も付きまとったが、 豪放磊落な先生はそんな批判にはお構いなしに、 分かりやすい授業を心掛けることはなかった。分からないことは「 自分で勉強せよ」ということだろう。
そんなわけで、筆者が所属していた野球部の諸先輩・後輩たちも、 日々の練習が厳しいこともあってか、 物理科目の成績評価はほとんどが10段階評価の「3」 以下の評点に付く赤点だったが、 必修の物理の単位取得に必要な3学期の成績だけは、 学年末の試験対策を施してくれて、何とか「4」 以上の評点を取ることができた。いわゆる下駄を履かせてもらい、 それで進級できたわけである。
受験指導は教室だけで終わらないのが岩本先生流だった。 筆者の場合もそうだったが、先生が目を付けた(?) 生徒に対しては、文系、理系を問わず、 あるいは担任を持つクラスの生徒であろうとなかろうと、 高校3年の秋になると、家庭訪問と称して夕刻・ 夜間の時間帯を見計らって生徒の自宅を訪ね、教え子の保護者( 親)と進学について話し合うことを熱心にされていた。 大事な用件が済むと、 酒を酌み交わしながらの懇談に移るのが常のようだった。 今から数十年前の時代環境だからこそ、 あるいは岩本先生独特の人間関係構築のやり方が許された社会状況 だったからこそ、問題なく行われていた家庭訪問なのだろうが、 ほかの先生にはちょっと真似ができない指導方法ではないか。
岩本先生は高校在職が21年目を迎えたときに、 長男が同じ高校に入学したため、 横浜市内に新設された県立高校に転任され、 管理職である教頭に就いた。しかし、 教室内外での生徒への直接指導と人間的交流を何よりも大事にされ た先生らしく、しばらくして教師の職を辞し、 前任高校で最初に担任を持った教え子の誘いで、 この教え子が経営する企業の子会社幹部となった。 岩本先生のお通夜の席で、母校野球部の主将もやった喪主の長男( 56)は参列者へのあいさつで、「 教師を定年前に辞めた父は昔の教え子の方の誘いで( 子会社の経営者という)居場所を得ることができ、 家族としては大変感謝しています」と謝辞を述べていた。
晩年は長野、山梨両県の境にある八ヶ岳山麓に山荘を構え、 悠々自適の生活だったが、教え子が訪ねてくると、 夜遅くまでの酒盛りとなることが少なくなかったという。 そんな思い出話を連絡してくれた教え子で、 筆者の1年先輩の元公立高校教師のNさんは「巨星墜つ」 と表現して、岩本先生の見事な教員人生を振り返っていた。(了)
14期 伊藤
誰でも経験することだろうが、人生も自身が中高年世代になると、
そうしたお一人である高校時代の恩師の岩本秋雄先生(享年88)
筆者は高校在学中、
ここでは、
物理の教師ということで、
そんなわけで、筆者が所属していた野球部の諸先輩・後輩たちも、
受験指導は教室だけで終わらないのが岩本先生流だった。
岩本先生は高校在職が21年目を迎えたときに、
晩年は長野、山梨両県の境にある八ヶ岳山麓に山荘を構え、
14期 伊藤
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