OB・OG会

合格体験記 多摩高校65期 上妻虎琉(一橋大学社会学部)



 【合格体験記 多摩高校65期 上妻虎琉(一橋大学社会学部)】

こんにちは。65期の上妻虎琉です。私は今春、第一志望の一橋大学社会学部に合格することができました。そして現在は、当大学硬式野球部にて活動しております。今回、合格体験記を書く機会をいただきましたので、現役部員や入部をご検討されている中学生様、保護者様に向け、私の高校時代、野球や受験勉強を経て感じたことや現在の大学野球部での活動についてお伝えしていきたいと思います。

まず、高校時代についてです。私は高校3年の夏の大会まではひたすら野球に没頭していました。帰宅後、勉強しないまま練習の疲れで寝てしまっていた日も少なからずあったと思います。そんな中でも、朝、昼休み、空きコマなどの時間を見つけて少しずつ勉強していました。練習後に通塾して勉強時間を確保している同期も多くいました。しかし、どうしても部活を野球部よりも早く引退した周りの同級生とは少しずつ学力の差が開いていきました。そこで意識したことは自分のペースを崩さないことです。受験本番までに間に合えば良いと考え、基礎から少しずつ積み重ねていけたことが、後の良い結果に繋がったのではないかと感じています。そして何より、野球で悔いを残さないことが大切です。高校球児にとって最後の夏の大会は、一番の大舞台です。中途半端にならず、最後まで全力でやり切ることができたからこそ、引退後も切り替えて勉強に集中できたと思います。このように、3年間野球部で忙しく活動していても、その間の少しずつの勉強や引退後の努力があれば、難関校への合格は十分可能だと思います。

次に大学野球についてです。弊部は週5日、半日で活動しております。大学野球は高校野球と比べると練習の質が異なると思います。練習の内容は高校よりも自由度が高く、特にピッチャーは自分で自分のメニューを決めることも多いので、自分の課題に自発的に取り組むことができます。練習の動画は毎日マネージャーを通じて共有されており、それを用いたフォームの分析や、外部指導、記録の可視化などを行って意識高く技術の向上を目指している選手が多いです。このような環境で野球ができ、現在はとても充実した生活を送れていると思います。近年は大学野球人口が増加傾向にあるとも言われています。高校野球で達成できなかったものを目指す、新たなポジションに挑戦する、学生コーチ、マネージャーをやる等形は様々です。是非、大学でも野球に励んでみてはいかがでしょうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。少しでも皆様のご参考になりましたら幸いです。

65期 上妻虎琉


後輩の応援時


 
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多摩高野球部OB会総会のご報告(2023.07.01)



2023/07/01 多摩高野球部OB総会が行われ、1年間の活動報告、決算報告、来年度の予算案、活動案の承認が行われました。

監督の飯島先生もご参加いただき、現役生の状況をご説明いただき、OB会からは引き続きご支援させていただくことを約束しました。

詳細は、以下の総会資料をご確認ください。
多摩高野球部OB会総会資料(令和5年度)20232.PDF



7/11(火)相模原球場 12:30試合開始
相手校 逗子葉山高校
https://www.kanagawa-baseball.com/summer/2023/#tournament
ご声援のほど、宜しくお願い致します📣


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多摩高野球部壮行会 第105回全国選手権神奈川大会に向けて(2023.06.17)



2023年6月17日 第105回全国選手権神奈川大会にむけての壮行会(保護者主催)が 3年ぶりに学食での会食形式で行われ、野球部OB会からも代表者が参加させていただきました。

はじめに、来賓としてOB会長、監督、部長の先生、コーチからの激励挨拶がありました。
「昨年秋からのチームは9人+マネージャと苦しい状況もありましたが、1人も欠けることなく、10人でつかんだ公式戦勝利!」の言葉が印象的でした。
OB会からは寄贈品の贈呈、保護者から願いを込めて折られた千羽鶴が贈られました。

選手、マネージャさん1人、1人が大会に向けての意気込みを発表し、支えてきた保護者への感謝の気持ちを伝え、大会での全力プレーを約束してくれました!
マネージャーさんからは選手1人1人にマスコットが贈られ、保護者代表挨拶をもって、閉会となりました。


















 
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第8回多摩高野球部OBシニア会開催報告(2023.6.10)

2023/6/10(土)には多摩高野球部のシニアOB会にお忙しい中お集まりいただきまして、ありがとうございました。

今年は1期~24期までの有志16名での集まりとなりました。
会では各期の想いで話、夏の大会の戦績、それにまつわるエピソード等、参加者全員にトークをしていただきました。3時間では足りなかった感じです。

私達シニアは加齢とともに体力、気力が徐々に衰えてくるのは仕方がありませんが、人生100年時代を迎え年1回のシニア会でありますがこれからも皆さんお元気に継続して参りたいと思います。

とりあえず集合写真は郵送、試合会場での手渡しにてお届けいたします。
7期 牧田  
 








 
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多摩高_東京六大学野球会の報告(2023.05.06)


2023/5/6、昨年に続き、多摩高 東京六大学野球会を開催しました。(昨年の会はこちら)

多摩高野球部OBの東京六大学野球経験者と関係者で神宮球場でのリーグ戦観戦、その後の懇親会と参加者も増えて、一段とにぎやかな会となりました。




多摩高野球部は多くの東京六大学野球選手を輩出しています。
野球部OB会長の中野宏勝氏(17期、立大主将)は、1年秋からの活躍で最終学年には主将を務める、平田稔氏(24期、早大投手)は、現在NPB日本野球機構で五輪やWBC日本代表チームの運営、青少年の野球振興に尽力、三木豪氏(54期、東大投手)は東京六大学選抜チームに選出され、1軍プロ野球選手と対戦し3者凡退に退ける功績を残しています。

今回も多摩高OBに加えて、野球部OB会事務局長 矢島徹氏(24期)勤務先のつながりで、上山健二氏(東大)、同期の伊藤豊氏(東大主将)、いまだに破られていない5戦連続完封と53回連続無失点の大記録を持つ志村氏(慶大投手)にご参加いただき、多摩高 東京六大学野球会を開催しました。

この日のリーグ戦 立大-東大(1回戦)は、5点リードされていた東大の8回の攻撃に満塁ホームランが飛び出し、一同ハイタッチで喜びましたが、その後どちらも得点できず、6-6の同点という幕切れでした。

懇親会は、六大学野球選手時代の試合の話で盛り上がるのは言うまでもなく、プロ野球、高校野球、MLBと野球以外の話題はなかったと言えるぐらい「野球好きの集まり」となりました。

最後に、プロ野球入りを拒否した志村氏に「なぜ?」を伺いました。
「プロ野球選手になるために準備するべきことは予想できたが、不動産業界というどちらかというと自分にとって難しいと思える選択肢を選びたかった」と語ってくれました。

多摩高野球部、東京六大学野球と同じ舞台で過ごした仲間、応援してきた同窓生として、今後も母校の支援とともに、交流を続けていくことを祈念して散会しました。


参加者
中野宏勝氏(多摩高17期-立大野球部主将-明治生命) 
上山健二氏(灘高-東大野球部-ワールド代表取締役会長)
伊藤豊氏(春日部高ー東大野球部主将-金融庁監督局長)
志村亮氏(桐蔭学園ー慶大野球部-三井不動産リアルティ常務)
酒井達朗氏(多摩高21期-慶大-博報堂)
矢島昌明氏(多摩高21期-早大-ワコールHD社長)
平田稔氏(多摩高24期-早大野球部-NPB)
矢島徹氏(多摩高24期-立大-ワールド) 

小島康一氏(多摩高24期-明大-三井不動産リアルティ執行役員)
三木豪氏(多摩高54期-東大野球部-経産省)
安部卓見氏(多摩高9期-慶大-多摩高同窓会事務局長)


※得田儀生氏(多摩高18期、江川卓投手率いる法大を相手に東大投手として途中登板し、延長14回までの粘投)、小林至氏(多摩高28期、東大投手-ロッテ)は都合により欠席    
                                    
    (文責:柴野)      
 
       
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甲子園初出場に一役買った19期エース大森君の野球指導 伊藤努(14期チーム主将)



◎甲子園初出場に一役買った19期エース大森君の野球指導
伊藤努(14期チーム主将)

春の訪れを告げるイベントとして知られる選抜高校野球大会(日本高校野球連盟・毎日新聞社主催)が3月18日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開幕するが、甲子園に集まる全国の36校のうち、3校は「21世紀枠」として出場する。21世紀枠は、過疎地や部員不足などさまざまなハンディを乗り越えながら、前年秋の全国各地区の地方大会で好成績を残したチームの中から、選考委員会が選抜する三つの高校だ。

今年(2023年)の選抜では、いずれも県立の石橋(栃木県)、氷見(富山県)、城東(徳島県)の3校が出場切符を手にしたが、春夏通じて初めての甲子園出場を果たした石橋高校には、公立高校であるがゆえ、野球経験のある指導者が皆無という不遇な時代もあった。今年初めの筆者の母校野球部OB会の新年会で、5年後輩の大森正久君(栃木県小山市在住)が不遇な時代の石橋高校に貢献したことを知ったので、今回はそのエピソードを紹介したい。

石橋高は栃木県の進学校で、校訓は「文武不岐」。文武両道を重視する校風が県内では知られている学校だ。近年は野球部もめきめき力をつけ、これまでに2016年と20年の2回にわたり、21世紀枠の候補に上がり、今回は3度目の正直で甲子園出場を見事射止めた。候補の2回目となった2020年秋の栃木大会では準決勝で強豪・作新学院を破り、2強となる好成績を残したほか、狭い校庭をサッカー部など他の運動部と共有しながら、平日は2時間の練習で効率よく腕を磨き、身上とする守る野球が選考委員会で評価された。

地元紙によれば、昨年度は135人が現役で国公立大学に合格。月2~3回は土曜日も午前授業が行われ、英単語や古文単語などの小テストも頻繁にある。野球部も例外ではなく、2016年からチームを率いる大森君の大学時代の後輩・福田博之監督は「少しでもいいから毎日、机に向かいなさい」と部員に伝えている。遠征に向かうバスの中では、それぞれ単語帳や参考書を開いて勉強する。ただ、毎日勉強に取り組んでいるからこそ、野球に生きていることがある。平日は毎日7時間授業で、練習は放課後の2時間しかない。他の高校より1時間以上短いが、主将の横松選手は「短い時間で質を意識しながら練習に取り組めば量を補える。勉強でそれなりの集中力は培っているので、そこは自分たちの強み」と自信をのぞかせる。

その石橋高で特任のバッテリーコーチとしてかつて指導してきたのが、もともとは県外出身の大森君だったというわけだ。高校時代は左腕投手の大森君は小柄な体格ながら、野球センスの良さと持ち前の投球術で、50年近く前に夏の神奈川大会で母校野球部をベスト4に勝ち進めた立役者だった。

高校卒業後は宇都宮大学硬式野球部に所属し、栃木県小山市に居を構えて東京に本部がある農業団体に勤務する傍ら、週末は地元の少年野球の指導をしていたことをかねがね聞いていた。そうした大森君の野球キャリアや指導者としての実績もあって、野球経験のない当時の石橋高監督から投手と捕手を指導するバッテリーコーチの誘いを受け、2年ほど高校生たちにゲームの組み立て方やピンチのしのぎ方を指導していた。

県は違うとはいえ、70年近い歴史を有するわが母校・多摩高野球部も県立高校で、石橋高と似たような勉学・練習環境にあるが、残念ながら、ここ数十年ほどは甲子園出場には程遠いのが実情だ。このため近年、現役時代に有力選手だった有志のOBらが中心となって、人脈を生かしながら有望な中学生に対するスカウト活動などの支援に乗りだしているが、まだ目立った成果は上がっていない。

そのような折の野球部OB会の新年会だったため、宴たけなわのタイミングを見計らって、現役時の1年後輩で元気者の寺尾洋一君(立教大野球部OB、元公立高校野球部監督)が、石橋高での野球指導の経験を皆に向かって語るよう、大森君に会場での発言を求めた。高校生時代から、闘志を内に秘め、大きな声を出すタイプではない大森君の声が小さかったため、後輩の寺尾君が大森君の発言を傍らで繰り返す拡声器役となってくれ、話の内容がよく理解できた。全国的にも激戦区の夏の神奈川大会のベスト4投手という経歴もあって、大森君の話には説得力があった。



1期のOB先輩は80代という母校の野球部も創部早々の時代から、「公立校から甲子園へ」という大きな目標を掲げるが、大森君の経験や熱意を何とか現役の後輩たちにも伝え、石橋高に続いてほしいものだ。すでに60代半ばながら、気持ちは若々しい大森君の貴重な体験談を聞き、新型コロナ禍で3年ぶりとなった新年会で「大きな初夢」を見させていただいた。




 
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65期生の卒業式(2023.03.08)


【65期生の卒業式】

2023年3月8日(水)65期野球部10名が卒業しました。
結束力の強い代でした。秋、春と結果を残し、夏に向けて確実に強いチームになっていきました。
野球を通じて、人間として逞しく成長を遂げた10名よ、大学でも学業、研究活動、部活動、就活まで頑張れ!どんなときも粘り強くあれ!

楽しい時間をありがとう!

監督 飯島 佑

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秋の県大会、延長14回の死闘 15期 =甲子園全国優勝の桐蔭学園に惜敗=


秋の県大会、延長14回の死闘
=甲子園全国優勝の桐蔭学園に惜敗=
(多摩高野球部15期チーム投手 峰野謙次)

1970年(昭和45年)、稲田中学3年の卒業式前に届いた手紙。それは当時の多摩高野球部・岸裕一監督(10期OB)からのものでした。母校の中学から程近い多摩高への入学も決まり、3月10日の卒業式を控えていた時期、野球部に入部する意思があるのであれば、「3月11日から練習に是非参加するように」といった内容でした。硬式野球部の監督から直筆の手紙をもらったという嬉しさから、私は迷いもせず練習に参加することにしました

同じ志を持った(中学野球経験者の)同期が5人いました。後で分かったことですが、野球部にはその時点で3年生、2年生の部員が6人しかいなかったので、新1年生が3人、春の市内地区予選の試合に出場しないと、チームができなかったのです。そんなわけで、4月の高校入学式も終わっていない私たちは、(正確には中学生ながら)高校野球部チームのレギュラーとして春の川崎地区予選に出場しました。
    
高校に入学してからは1年生部員の入退部があり、その年の夏の県大会前、1年生は5人でした。1年生ですから、早朝のグラウンド整備や道具の整備・準備、そして全員がレギュラーと同じメニューをこなさないといけない状況でした。多摩高生になったばかりというのに、肉体的にも精神的にも辛い毎日でした。

本当は触れたくないものの、避けて通れない出来事なので書きますが、そんな1年生部員全員で話し合い、夏の県大会を最後に退部することを決めたのです。最後ですから、13期の小黒誠二主将率いるチームにとって集大成の場となる夏の県大会は一生懸命プレーしました。そして、夏の県大会4回戦で強豪の横浜市立南高校に敗れた翌日に、5人全員で退部届を提出したのです。

その後、岸監督、14期の新チームの伊藤主将との話し合いがあり、その結果、2人が辞め、3人が残ることになりました。佐藤泰年、山根康生、私・峰野謙次の3人です。そして、8月に入り、伊藤主将を加えた4人での練習が始まるかと思われた日、佐藤が盲腸になり入院・手術で戦線離脱し、伊藤主将、山根、峰野の3人の練習となりました。その後の部員不足に見舞われ通しだった1年間については、部史の14期チーム紹介文にありますので、省略します。
    
私たち15期が最上級生となった1971年(昭和46年)8月。2年生の佐藤、山根、峰野、1年生の富永、斎藤、平田、山下の部員7人での始動となりました。秋の川崎地区予選では、一度退部した2年生の中川、帰宅部の大久保、落語研究会の小飼、バレー部の松本の4人に助っ人で来てもらい、どうにか試合ができることになりました。そして、何と川崎地区予選A組トップ通過で県大会に出場できました。

秋の県大会では、その直前のこの年の夏の甲子園初出場・初優勝の快挙を成し遂げた桐蔭学園と2回戦で当たることになったのです。これからは私の正直な思いを書きますが、桐蔭との対戦をチャンスだと思いました。自分たちの実力を測ることができると思ったのと、万が一勝ったりしたら、注目されると思ったからです。

桐蔭との試合は一進一退で9回まで進み、延長戦となりました。試合は延長14回までいきましたが、結果は4対5で惜敗。マウンドにいた私は、桐蔭学園だって同じ高校生、絶対に逃げずにピッチングをしようと決め、インコーナー(内角)の高めを決め球にして配球をしていきました。強気のピッチングが良かったのでしょう、フライをどんどん上げてくれて助かりました。ゴロとなると、守備が心配だったのです。

この試合では一度、絶体絶命のピンチが訪れ、2アウト1塁・3塁でバッターは甲子園大会で活躍していた4番打者の高橋。ベンチの稲垣謙治監督からは敬遠の指示。しかし、どうしても勝負したかったので、キャッチャーの山根を呼んで勝負しようと提案、山根も一つ返事で勝負OK。そして、見事に最後はインサイド高めのストレートでセカンドフライに打ち取りました。ベンチに帰って、稲垣監督に叱られましたが、そんなのはへっちゃらで、嬉しさの方が大きかったのを今でも覚えています。試合には負けましたが、大きな自信となりました。15期チームで一番印象に残っている試合です。
    
最後に、3年生のときのチームの選手を紹介します。
1番中堅手・佐藤(3年)、2番サード・斎藤(2年)、3番捕手・山根(3年)、4番投手・峰野(3年)、5番ショート・中野(1年)、6番左翼手・中川(3年)、7番右翼手・富永(2年)、8番セカンド・山下(2年)、9番ファースト・太田(1年)
控え選手=平田(2年)、三輪(1年)、高桑(1年)、高橋(1年)、前田(1年)、直井(1年)
マネージャー=大池(3年)、工藤(3年)、澤田(2年)

(筆者は多摩高卒業後、国学院大学に進学し、学生時代に野球部19期チームのOB監督として同チームを1976年=昭和51年=の夏の神奈川大会で多摩高初のベスト4に導いた)

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50年後も記憶鮮烈な2年先輩15期チーム =強豪に善戦、中身濃い4カ月の野球部生活=

■県立多摩高野球部部史「補遺」     2023年1月31日入稿

50年後も記憶鮮烈な2年先輩15期チーム
=強豪に善戦、中身濃い4カ月の野球部生活=
(多摩高野球部17期 太田伸彦)   

2022年(令和4年)9月下旬に母校に近い南武線・宿河原駅前の居酒屋で県立多摩高野球部OB会のシニア会(60歳以上がメンバー)の集まりに初めて参加し、その席で5年前に編集・刊行された野球部の部史(冊子)を14期の伊藤先輩から受け取り、昭和30年代初めの野球部草創期から20期までの野球部の活動を詳しく知ることができました。生田中学出身の私(太田)は1972年(昭和47年)入学の17期チームのメンバーですが、部史にはたまたま、自分が高校1年生のときに一緒に白球を追った2年先輩の15期チームの戦績などについて詳しい記述がなかったもので、高校入学後のわずか4カ月の一緒の部活動ながら、それから50年以上たった現在も当時のことを鮮烈に記憶しており、15期の先輩方の素晴らしい活躍ぶりなどを知っていただきたく、ペンを執った次第です。
    
1971年(昭和46年)秋から72年(昭和47年)夏までの15期チームの3年生部員(佐藤泰年=生田中、峰野謙次=稲田中、山根康生=稲田中、中川孝=今井中の諸先輩)とはわずか4カ月の野球部生活だったのですが、私にとっては5年以上に思えるほど中身の濃い数カ月でした。

佐藤さん、山根さんの厳しい叱責、峰野さんの天才的な二刀流、中川さんの穏やかさ。50年たった今でも、諸先輩のことは脳裡から離れません。
15期チームの先輩方は夏の県大会初戦(1972年7月19日)で、再興してきたY校(横浜商業)に1対4で敗れたためか、多くを語られませんが、私は言わずにおれません。

まず、前年秋の県大会2回戦では、その夏の甲子園大会で全国制覇を遂げていた奇本(旧姓)監督率いる桐蔭学園を相手に延長14回を戦い、4対5の惜敗。
翌年春の県大会では、1回戦で県立秦野高校を4対1(1安打完投)、2回戦で逗子開成を3対1でそれぞれ下し、3回戦では浅野高校に0対4で敗れましたが、ベスト16で夏の県大会組み合わせで第3シードとなりました。野球部員が十数人と少なく、入部して1カ月にも満たない2人の1年生をレギュラーに使ってのシード権獲得です。

6月の川崎市長杯でも準決勝で強豪の法政二高を相手に8回2死まで0対1の善戦でした。2死1・3塁で相手チームの8番打者に本塁打を浴び、力尽きましたが、0対4でベスト4です。ちなみに、この年(1972年)夏の神奈川大会の優勝校は東海大相模でしたが、準決勝では法政二高に9回2死(しかも無走者)まで2対6で負けていた。最終的にはそこから5点を入れて延長11回に7対6と奇跡の逆転勝利。法政二高が神奈川代表として甲子園へ行ってもおかしくなかった大会でした。

そして、夏の県大会決勝の相手は何と、春の県大会で峰野さんがエースの多摩高に敗れた秦野高校。無シードから勝ち進み、準々決勝では前年全国覇者の桐蔭学園を8対4で破るなど、快進撃を続け、マスコミでも秦野旋風と称えられた。最後は東海大相模を相手に0対5で敗れたが、地元高校の活躍ぶりに秦野市内はお祭り騒ぎとなった。

神奈川の高校球界ではこの年、木田勇投手(横浜一商→日本ハム)、田代富雄内野手(藤沢商→大洋)が活躍した。その当時から50年以上が経過した今でも、これらの記憶は鮮明です。
    
また、私が2年生だったときの1年先輩に当たる16期の先輩方にはいつも優しく励ましていただきました。斎藤秋英、山下博之、平田伸一、最強マネージャーの澤田みち子、中山悦子の5人ですが、三塁手・斎藤さん、二塁手・山下さんとは同じ内野手(太田は一塁手)だったこともあり、痛みを理解してくださったように私は思っています。

斎藤さんが主将の16期チームで一番印象に残っている試合は、1973年(昭和48年)春の川崎地区予選での対県立川崎高戦です。5回表の攻撃を終えて11対1の大量リード。しかし、その裏に5点を返され、8回と9回にも3点を失い、11対12のサヨナラ負け。このような負け方をすると、チームがどのようなことになるか、OBの皆さんなら想像できると思います。

(筆者は多摩高を卒業後に学習院大に進学し、同大野球部で活躍。大学卒業後は神奈川県立高校の世界史教諭の傍ら、県下の高校で野球部監督として長年にわたり生徒を指導した)





 
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野球部OB会新年会の報告(2023.02.04)

2023/2/4  3年ぶりに野球部OB会主催の新年会が開催され、1期~63期まで総勢50名の参加者が集まりました。

今回、野球部OBのみ(特別に野球部を応援してくれる方も参加)とし、規模は縮小となりましたが、久しぶりの再会もあり、高校時代の野球談議に花をさかせました。

会の〆、恒例の校歌大合唱、エール。来年も元気で再会できることを祈願しました。

野球部主催の新年会は毎年2月の第1週土曜日に行われ、野球部OBだけでなく、多摩高野球部を応援する同窓生が多数参加しています。

みんなで母校野球部を応援していきましょう!

※写真動画撮影時のみマスクをはずしています。




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