OB・OG会
|OB・OG会|2019年10月21日更新
【編集後記】
▽今年(2017年=平成29年)の夏の神奈川大会に出場した多摩高野球部の3年生諸君が高校の60期生ということで、60周年という記念の年の刊行を目指して4年がかりで取り組んできた野球部の部史がようやく完成。
こうして関係者のお手元に届けることができ、肩の荷を下ろした気持ちだ。今回の部史は多摩高開校の1956年(昭和31年)入学の1期生から、1975年(昭和50年)入学の20期生のチームまでを扱っており、1期から60期のすべての期間を網羅したものではないことをお断りしておく。
▽多くの野球部OBの方々に貴重な寄稿を仰いだとはいえ、編集などの作業が個人の仕事となったため、60年間という極めて長い歳月のすべてをカバーすることができなかったという事情による。また、昭和30年代に高校生活を送った野球部草創期の先輩諸氏の多くがすでに、社会の第一線から退かれた高齢世代となっていることも、まずは部史の先行編集・早期刊行に取り組んだ理由だ。ぜひとも事情をご賢察の上、ご寛恕たまわりたい。
▽さて、多摩高14期生である編集子のほぼ一回り上の世代の先輩諸氏から、現役当時に一緒にプレーをした同世代のOB諸兄、さらには20期までの後輩OB諸兄のさまざまな部活体験を読ませていただいての感想は、高校野球というスポーツを通じ、厳しい練習の日々や仲間との絆の深まりなど、10代後半のかけがえのない「時間と空間の共有」に対する感謝の気持ちを改めて確認できたことだ。
▽野球部同期との仲間でも最長2年半足らず、1年先輩と1年後輩に当たるチームメートでは1年半、3年生と新入部員ではわずか4カ月に満たない野球部生活だったにもかかわらず、OB会の活動などを通じて高校卒業後の付き合いが長く続くのか。功罪はあろうが、一心不乱に白球を追うという日々の部活動の密度の濃さゆえに培われたチームワークのなせる技ではなかろうか。いつの日か、21期以降の多摩高野球部チームの貴重な体験が語り継がれていくことを希望し、筆を擱きたい。(伊藤)
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載


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|OB・OG会|2019年10月21日更新
高校野球の女子マネージャーの今昔
やや旧聞で恐縮だが、2017年春の選抜高校野球大会では部員数の少ない東北地方の出場校の女子マネージャーが試合前の守備練習への補助要員としての参加を高校野球連盟から初めて許可され、甲子園球場のホームベース付近でノックする監督にボールを手渡ししている光景が大きく報道された。50年近く前の元高校球児の一人として、時代の変化に深い感慨を覚える。
というのは、筆者の母校である神奈川県の公立高校の野球部も長く、慢性的な部員不足に悩まされ、試合前の守備練習などでは「猫の手」ならぬ女子マネージャーの助けを借りたいと思ったことが幾度となくあったからだ。もちろん、当時所属していた硬式野球部には何人かの女子マネージャーがいたが、その仕事は試合経過を記録するスコアブックを付けたり、乱雑極まる部室の整理整頓、試合時の後方支援(レモンのスライスや飲み水の手配)などに限られ、危険なボールが飛び交うグラウンドに出てくることはなかった。正確に言えば、禁止されていたからである。
他の運動競技の事情はよく知らないが、硬いボールである硬球を使う高校野球の練習で女子マネージャーの出番がなかったのは、「やはり危険だ」という理由が大きかったのは間違いない。高校の野球部時代、監督や先輩からまず厳しく注意されたのは練習や試合の時にボールから絶対に目を離してはならないということだった。特に練習時のグラウンドでは、バッティング練習の鋭い打球や選手が投げる送球のボールがあちこちで飛び交うことも多く、頭部など当たり所が悪ければ、生命の危険もある。野球部の1年先輩で、投手だったFさんは守備練習中の送球が頭部を直撃したため、脳波に異常を来し、退部に追い込まれた。後ろ向きで他の選手が投げたボールに気がつかなかったための不幸なアクシデントだった。
高校野球の聖地・甲子園球場の全国大会での試合前練習に女子マネージャーの参加がようやく認められたのも、さまざまなスポーツ競技に女性が進出してきた大きな流れの中の一こまなのだろう。今では当たり前の女子マラソンや女子サッカーも30年ほど前までは日本では解禁されていなかったのであり、現在から見れば、女性の運動力を侮っていたとしか思えない。
すでに社会人の長女はどちらかと言えば運動は苦手のタイプだが、大学生のときに何を思ったか、弱小の陸上部のマネージャーを買って出て、100メートル走や中距離走、砲丸投げなどの男子部員の練習に付き合っていた。硬式野球とは違って、危険度は小さいが、弱小な部で部員も少ないとあって、練習の際に選手の記録を測ったり、走り方をビデオに撮ったりと、本人は後に、「いろいろと部員の役に立つことが多く、卒業時に大いに感謝された」と話していた。縁の下の力持ちのような存在の女子マネージャーだが、選手だけでなく、マネージャー自身も活動の中からさまざまなことを学ぶことができる。試合や競技にとって重要なチームワークづくりの潤滑油として、男女問わず、マネージャーの存在は貴重だ。(T・I)

やや旧聞で恐縮だが、2017年春の選抜高校野球大会では部員数の少ない東北地方の出場校の女子マネージャーが試合前の守備練習への補助要員としての参加を高校野球連盟から初めて許可され、甲子園球場のホームベース付近でノックする監督にボールを手渡ししている光景が大きく報道された。50年近く前の元高校球児の一人として、時代の変化に深い感慨を覚える。
というのは、筆者の母校である神奈川県の公立高校の野球部も長く、慢性的な部員不足に悩まされ、試合前の守備練習などでは「猫の手」ならぬ女子マネージャーの助けを借りたいと思ったことが幾度となくあったからだ。もちろん、当時所属していた硬式野球部には何人かの女子マネージャーがいたが、その仕事は試合経過を記録するスコアブックを付けたり、乱雑極まる部室の整理整頓、試合時の後方支援(レモンのスライスや飲み水の手配)などに限られ、危険なボールが飛び交うグラウンドに出てくることはなかった。正確に言えば、禁止されていたからである。
他の運動競技の事情はよく知らないが、硬いボールである硬球を使う高校野球の練習で女子マネージャーの出番がなかったのは、「やはり危険だ」という理由が大きかったのは間違いない。高校の野球部時代、監督や先輩からまず厳しく注意されたのは練習や試合の時にボールから絶対に目を離してはならないということだった。特に練習時のグラウンドでは、バッティング練習の鋭い打球や選手が投げる送球のボールがあちこちで飛び交うことも多く、頭部など当たり所が悪ければ、生命の危険もある。野球部の1年先輩で、投手だったFさんは守備練習中の送球が頭部を直撃したため、脳波に異常を来し、退部に追い込まれた。後ろ向きで他の選手が投げたボールに気がつかなかったための不幸なアクシデントだった。
高校野球の聖地・甲子園球場の全国大会での試合前練習に女子マネージャーの参加がようやく認められたのも、さまざまなスポーツ競技に女性が進出してきた大きな流れの中の一こまなのだろう。今では当たり前の女子マラソンや女子サッカーも30年ほど前までは日本では解禁されていなかったのであり、現在から見れば、女性の運動力を侮っていたとしか思えない。
すでに社会人の長女はどちらかと言えば運動は苦手のタイプだが、大学生のときに何を思ったか、弱小の陸上部のマネージャーを買って出て、100メートル走や中距離走、砲丸投げなどの男子部員の練習に付き合っていた。硬式野球とは違って、危険度は小さいが、弱小な部で部員も少ないとあって、練習の際に選手の記録を測ったり、走り方をビデオに撮ったりと、本人は後に、「いろいろと部員の役に立つことが多く、卒業時に大いに感謝された」と話していた。縁の下の力持ちのような存在の女子マネージャーだが、選手だけでなく、マネージャー自身も活動の中からさまざまなことを学ぶことができる。試合や競技にとって重要なチームワークづくりの潤滑油として、男女問わず、マネージャーの存在は貴重だ。(T・I)

|14期|2019年10月21日更新
恩師に瓜二つの後輩を見ての驚き―人生の交錯
最近、ラジオの教養番組で明治の文豪・夏目漱石の著名な作品の読み方についてある著名な国際政治学者の講話を聴いた。東京帝国大学(東大の前身)で英文学を講じ、後に政府派遣の研究者で英国に留学し、帰国後は自らの意思で新聞社の文芸記者として連載小説を書くようになった漱石だが、このK先生の漱石作品の読解のキーワードは「明治時代の近代化に伴う不安の由来」「自己本位の重要性」「男同士の友情の大切さ」「生きた証を残す相続の意味」といったことだった。
突然、このような講話のエッセンスを紹介しても、読者の皆さんの理解が難しいのは十分承知しつつ、文学者ではないK先生の講話で、「坊ちゃん」「こころ」「三四郎」「それから」といった漱石作品を愛読してきた筆者とは全く違う視点が提示されていて、大いに参考になった。ここでは、人が生きる上で他者との出会いがいかに重要かという視点に絞って、人生での人との出会いの面白さについて、最近経験した身の回りの出来事3話を順次紹介していきたい。
筆者の高校野球部の10期下の岩本君(51歳)は現役当時、チームの主将も務めた好漢である。同君の父上が母校の物理教諭を20年以上にわたり務め、いわゆる名物教師だったことは高校の同窓に広く知られているが、最近、高校のある地元・川崎の町で開かれた野球部OB会に彼も久しぶりに出席し、70代前後の野球部草創時の諸先輩の間でたちまちにして寵児になってしまった。
それというのも、後輩の岩本君の容貌が、筆者を含む諸先輩にとって、若き日の先生とここまで似るものかというくらい「瓜二つの親子」に映り、驚きの声がしばらく収まらなかったのである。恩師の岩本先生はいつも白衣姿の理科教師然としていたが、なぜか他のクラブ活動の顧問もしながら、野球部部長を長く務めておられた。というわけで、物理がほとんど苦手な野球部の先輩たちも、悲惨な中間・期末試験の点数に下駄をはかせてもらい、辛うじて落第点の「赤点」を免れた経験を共有しているのだが、練習が厳しい野球部の活動を陰ながら応援してくれた先生に対する尊敬の念は卒業後も消えることはない。
そうしたところに、野球部OB会に久しぶりに登場したのが恩師の長男で、どういう理由によるものか、自分の父が教師を務め、部長をしていた高校の野球部に入り、主将までやった恩師の子供に遭遇したというわけである。高齢の諸先輩から岩本君に投げ掛けられる質問の端々には、瓜二つの容姿に対する驚きが混じっていたが、豪放磊落だった先生とは対照的に、息子は温厚な性格で、その違いは誰の目にも明らかだった。しかし、後輩の岩本君が、今年82歳となった父親を心の底から敬愛する諸先輩方のぶしつけな発言を快く受け止め、八ヶ岳に母と住む父親に「この日の出来事を伝えます」と答えていた。物理教師にとどまらなかった岩本先生の記憶が教え子から消え去ることはなさそうである。漱石が重視した「生きた証の相続」が行われていると思った。(T・I)
最近、ラジオの教養番組で明治の文豪・夏目漱石の著名な作品の読み方についてある著名な国際政治学者の講話を聴いた。東京帝国大学(東大の前身)で英文学を講じ、後に政府派遣の研究者で英国に留学し、帰国後は自らの意思で新聞社の文芸記者として連載小説を書くようになった漱石だが、このK先生の漱石作品の読解のキーワードは「明治時代の近代化に伴う不安の由来」「自己本位の重要性」「男同士の友情の大切さ」「生きた証を残す相続の意味」といったことだった。
突然、このような講話のエッセンスを紹介しても、読者の皆さんの理解が難しいのは十分承知しつつ、文学者ではないK先生の講話で、「坊ちゃん」「こころ」「三四郎」「それから」といった漱石作品を愛読してきた筆者とは全く違う視点が提示されていて、大いに参考になった。ここでは、人が生きる上で他者との出会いがいかに重要かという視点に絞って、人生での人との出会いの面白さについて、最近経験した身の回りの出来事3話を順次紹介していきたい。
筆者の高校野球部の10期下の岩本君(51歳)は現役当時、チームの主将も務めた好漢である。同君の父上が母校の物理教諭を20年以上にわたり務め、いわゆる名物教師だったことは高校の同窓に広く知られているが、最近、高校のある地元・川崎の町で開かれた野球部OB会に彼も久しぶりに出席し、70代前後の野球部草創時の諸先輩の間でたちまちにして寵児になってしまった。
それというのも、後輩の岩本君の容貌が、筆者を含む諸先輩にとって、若き日の先生とここまで似るものかというくらい「瓜二つの親子」に映り、驚きの声がしばらく収まらなかったのである。恩師の岩本先生はいつも白衣姿の理科教師然としていたが、なぜか他のクラブ活動の顧問もしながら、野球部部長を長く務めておられた。というわけで、物理がほとんど苦手な野球部の先輩たちも、悲惨な中間・期末試験の点数に下駄をはかせてもらい、辛うじて落第点の「赤点」を免れた経験を共有しているのだが、練習が厳しい野球部の活動を陰ながら応援してくれた先生に対する尊敬の念は卒業後も消えることはない。
そうしたところに、野球部OB会に久しぶりに登場したのが恩師の長男で、どういう理由によるものか、自分の父が教師を務め、部長をしていた高校の野球部に入り、主将までやった恩師の子供に遭遇したというわけである。高齢の諸先輩から岩本君に投げ掛けられる質問の端々には、瓜二つの容姿に対する驚きが混じっていたが、豪放磊落だった先生とは対照的に、息子は温厚な性格で、その違いは誰の目にも明らかだった。しかし、後輩の岩本君が、今年82歳となった父親を心の底から敬愛する諸先輩方のぶしつけな発言を快く受け止め、八ヶ岳に母と住む父親に「この日の出来事を伝えます」と答えていた。物理教師にとどまらなかった岩本先生の記憶が教え子から消え去ることはなさそうである。漱石が重視した「生きた証の相続」が行われていると思った。(T・I)

|OB・OG会|2019年10月21日更新
高校野球部創部60年、大先輩への聞き語り
卒業した神奈川県の公立高校が近く創立60周年を迎えるということで、学校創立の年(昭和31年=1956年)に先輩たちが創った野球部も創部60年ということになる。人間で言えば、還暦ということで節目の年だが、野球部OB会の命令で、これに合わせて野球部部史の編集・発行の仕事を引き受ける羽目になった。
高校や体育系クラブの学年の数え方は「14期」(筆者の場合を例に取った)といった具合に「期」で示すことが多いと思われるが、すでに野球部のOBたち(女性マネージャーを含む)も卒業したばかりの大学生を含め60期に近い大所帯になっているため、このすべての歴史と活動を記録するのは難しい。そこで筆者が担当したのは、年齢が一回り程度まで上の1期生から、5~6年下の後輩たちまでは部活動やOB会の親睦会などでよく知っているということで、1期生から20期生までだ。20期の後輩たちもすでに50代半ばで、勤務先の会社や学校では責任を負う立場だ。
ボランティアでこのような取材・編集の仕事をしていて興味深いのは、筆者よりもかなり年長の先輩たちはあまりパソコンなどで文章を書くことが習慣になっていないことだった。各期ごとに主将経験者らに頼んだ1200字程度の文章は徐々に集まりつつあるが、部草創期の先輩たちは記憶も薄れ、この種の文章は書き慣れていないということで、筆者が面談の約束を取り付け、聞き語りの取材に出向くことになる。
面倒と言えば、面倒な作業なのだが、何回か経験して面白かったのは、数時間をかけて聞き語りのメモを取ることによって、これまでは野球を通してしか知らなかった先輩たちの野球以外の「顔」が見えてくることだった。
60年近い高校野球部の歴史の中で「ナンバー1投手」と誰もが認めるNさんは小さな不動産管理会社の社長さん、野球部が最も甲子園に近づいたチームの主将だったSさんは葬儀屋さんの社長といった具合に、先輩たちの社会人としての歩みがおぼろげに浮かんでくるのである。
こうした先輩らの中で予想もしていなかった仕事をしていたのが1期生のIさんだった。横浜市にあるIさんの小さな店を訪ね、入学早々、野球部は創ったものの、グラウンドは雑草と石ころだらけで、最初の3カ月はグラウンド整備の毎日だったこと。1年生ばかりのチームだったので、翌年の初勝利まで18連敗し、この記録は今も破られていないことなどを穏やかなIさんの話から知った。
それよりも驚いたのが、70代半ばのIさんが奥さんとともに小さなカヌーショップを経営し、カヌー愛好者向けの合宿や練習のアレンジ、カヌーに必要な道具の貸し出しなどを行っていることだった。Iさんは高校卒業後、大学でも野球部を続けた名選手の一人であることは承知していたが、脱サラした後、30年近くもあまりなじみのないカヌーの普及に携わっていたことは知らなかった。奥さんともども、カヌーに誘われたが、小学生にもできるということで、近く挑戦してみたい。(T・I)
卒業した神奈川県の公立高校が近く創立60周年を迎えるということで、学校創立の年(昭和31年=1956年)に先輩たちが創った野球部も創部60年ということになる。人間で言えば、還暦ということで節目の年だが、野球部OB会の命令で、これに合わせて野球部部史の編集・発行の仕事を引き受ける羽目になった。
高校や体育系クラブの学年の数え方は「14期」(筆者の場合を例に取った)といった具合に「期」で示すことが多いと思われるが、すでに野球部のOBたち(女性マネージャーを含む)も卒業したばかりの大学生を含め60期に近い大所帯になっているため、このすべての歴史と活動を記録するのは難しい。そこで筆者が担当したのは、年齢が一回り程度まで上の1期生から、5~6年下の後輩たちまでは部活動やOB会の親睦会などでよく知っているということで、1期生から20期生までだ。20期の後輩たちもすでに50代半ばで、勤務先の会社や学校では責任を負う立場だ。
ボランティアでこのような取材・編集の仕事をしていて興味深いのは、筆者よりもかなり年長の先輩たちはあまりパソコンなどで文章を書くことが習慣になっていないことだった。各期ごとに主将経験者らに頼んだ1200字程度の文章は徐々に集まりつつあるが、部草創期の先輩たちは記憶も薄れ、この種の文章は書き慣れていないということで、筆者が面談の約束を取り付け、聞き語りの取材に出向くことになる。
面倒と言えば、面倒な作業なのだが、何回か経験して面白かったのは、数時間をかけて聞き語りのメモを取ることによって、これまでは野球を通してしか知らなかった先輩たちの野球以外の「顔」が見えてくることだった。
60年近い高校野球部の歴史の中で「ナンバー1投手」と誰もが認めるNさんは小さな不動産管理会社の社長さん、野球部が最も甲子園に近づいたチームの主将だったSさんは葬儀屋さんの社長といった具合に、先輩たちの社会人としての歩みがおぼろげに浮かんでくるのである。
こうした先輩らの中で予想もしていなかった仕事をしていたのが1期生のIさんだった。横浜市にあるIさんの小さな店を訪ね、入学早々、野球部は創ったものの、グラウンドは雑草と石ころだらけで、最初の3カ月はグラウンド整備の毎日だったこと。1年生ばかりのチームだったので、翌年の初勝利まで18連敗し、この記録は今も破られていないことなどを穏やかなIさんの話から知った。
それよりも驚いたのが、70代半ばのIさんが奥さんとともに小さなカヌーショップを経営し、カヌー愛好者向けの合宿や練習のアレンジ、カヌーに必要な道具の貸し出しなどを行っていることだった。Iさんは高校卒業後、大学でも野球部を続けた名選手の一人であることは承知していたが、脱サラした後、30年近くもあまりなじみのないカヌーの普及に携わっていたことは知らなかった。奥さんともども、カヌーに誘われたが、小学生にもできるということで、近く挑戦してみたい。(T・I)
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載
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|OB・OG会|2019年10月21日更新
高校野球部のOB大会と母校の評判
最近、母校の高校野球部OB会主催の野球大会があり、日ごろの運動不足解消の気持ちもあって参加し、いい汗を流した。集まったのは高校を卒業してからまだ数年の大学生から、60年の歴史がある野球部3期生の70歳を超える大先輩までさまざまな年代の50人余りが集まったが、やはり高校時代に真剣かつ夢中になって白球を追った面々なので、OB野球といってもかなりレベルが高いのに驚いた。
草野球ながら、正式の審判を付けた試合だったこともあり、3チームに分かれて行われた試合はいずれも僅差のスコア。投打だけでなく、守備、走塁で随所に好プレーが見られ、ベンチで見ていても緊迫した試合展開に目が離せなかった。
筆者にとっては、1972年(昭和47年)春の卒業以来、本当に久しぶりに訪ねた母校だったので、グラウンドを離れて閑散とした校舎や中庭を見学してみた。学校創立から60年がたっているため、40年以上前の高校生時代に比べ、やはり建物、施設の老朽化を感じた。白亜の2階建て校舎は耐震上の問題があるということで、建て替え工事が行われていた。
熱戦ぞろいの野球の試合を終え、夕刻、近くの懇親会の会場に向かう途中、5年ほど後輩のS君から最近の母校の評判を聞くことができた。S君には大学生の子供がいるので、現在の大学受験事情に通じていて、進学校でもある公立の母校の評判が中学生の受験生やその親の間では「昔ほどは高くないのですよ」と話していたのに少しばかり驚いた。その理由は、建物の老朽化と高校での進学指導がそれほど熱心ではないので、受験生の親が自分の子供を私立の進学校に行かせる傾向が強まっているのだという。
母校の校訓は「質実剛健」。その校訓通り、現在もそうだろうが、筆者の高校生時代は、部活動や体育祭、文化祭といった生徒の自主性に任せた勉強以外の活動が盛んで、それに熱中するあまり、受験勉強の開始が遅れ、大学受験では1年浪人してでも、自分の行きたい大学に進学するという同級生、生徒が多かった。昔はそれが当たり前と思われていたのだが、「近年の経済情勢もあり、子供を浪人させる余裕がないという家庭が増えている」というのがベテランの電通マン、S君の見立てだった。
そういえば、現在の大学受験予備校は昔と違って、現役高校生の合格実績をPRしているケースが圧倒的に多い。筆者の高校時代、予備校はもっぱら浪人生のためにあったもので、現役合格のために予備校や塾に通っていた友人を知らない。
懇親会は昼間の熱戦を酒の肴に大いに盛り上がった。たまたまその場に駆けつけた高校同窓会のA会長(5年先輩)にS君との会話を紹介すると、「若いころの1年、2年の遅れは長い人生からみて、どうということはないんですけどね」と感想を語った後、「高校時代に野球に全力投球して得られることは、この日のOB野球や懇親会での先輩、後輩の交流などにうかがえるように、人生では大変貴重に思いますね」と話した。高校時代に庭球部を中途退部した同窓会会長の思いにわが意を強くした。(T・I)
最近、母校の高校野球部OB会主催の野球大会があり、日ごろの運動不足解消の気持ちもあって参加し、いい汗を流した。集まったのは高校を卒業してからまだ数年の大学生から、60年の歴史がある野球部3期生の70歳を超える大先輩までさまざまな年代の50人余りが集まったが、やはり高校時代に真剣かつ夢中になって白球を追った面々なので、OB野球といってもかなりレベルが高いのに驚いた。
草野球ながら、正式の審判を付けた試合だったこともあり、3チームに分かれて行われた試合はいずれも僅差のスコア。投打だけでなく、守備、走塁で随所に好プレーが見られ、ベンチで見ていても緊迫した試合展開に目が離せなかった。
筆者にとっては、1972年(昭和47年)春の卒業以来、本当に久しぶりに訪ねた母校だったので、グラウンドを離れて閑散とした校舎や中庭を見学してみた。学校創立から60年がたっているため、40年以上前の高校生時代に比べ、やはり建物、施設の老朽化を感じた。白亜の2階建て校舎は耐震上の問題があるということで、建て替え工事が行われていた。
熱戦ぞろいの野球の試合を終え、夕刻、近くの懇親会の会場に向かう途中、5年ほど後輩のS君から最近の母校の評判を聞くことができた。S君には大学生の子供がいるので、現在の大学受験事情に通じていて、進学校でもある公立の母校の評判が中学生の受験生やその親の間では「昔ほどは高くないのですよ」と話していたのに少しばかり驚いた。その理由は、建物の老朽化と高校での進学指導がそれほど熱心ではないので、受験生の親が自分の子供を私立の進学校に行かせる傾向が強まっているのだという。
母校の校訓は「質実剛健」。その校訓通り、現在もそうだろうが、筆者の高校生時代は、部活動や体育祭、文化祭といった生徒の自主性に任せた勉強以外の活動が盛んで、それに熱中するあまり、受験勉強の開始が遅れ、大学受験では1年浪人してでも、自分の行きたい大学に進学するという同級生、生徒が多かった。昔はそれが当たり前と思われていたのだが、「近年の経済情勢もあり、子供を浪人させる余裕がないという家庭が増えている」というのがベテランの電通マン、S君の見立てだった。
そういえば、現在の大学受験予備校は昔と違って、現役高校生の合格実績をPRしているケースが圧倒的に多い。筆者の高校時代、予備校はもっぱら浪人生のためにあったもので、現役合格のために予備校や塾に通っていた友人を知らない。
懇親会は昼間の熱戦を酒の肴に大いに盛り上がった。たまたまその場に駆けつけた高校同窓会のA会長(5年先輩)にS君との会話を紹介すると、「若いころの1年、2年の遅れは長い人生からみて、どうということはないんですけどね」と感想を語った後、「高校時代に野球に全力投球して得られることは、この日のOB野球や懇親会での先輩、後輩の交流などにうかがえるように、人生では大変貴重に思いますね」と話した。高校時代に庭球部を中途退部した同窓会会長の思いにわが意を強くした。(T・I)
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|17期|2019年10月21日更新
【閑話休題:グラウンドを離れて】
◎高校野球部後輩M君の人生大逆転
筆者は高校時代、硬式野球部に所属し、ひたすら白球を追う毎日を送っていたが、卒業から40年以上がたつというのに、年に1、2回あるOB会に顔を出すと、昔の野球談義で盛り上がる。野球部OB会では古顔なので、上は年齢が一回り以上上までの先輩たち、下はこれも一回りくらい下の後輩たちまで、野球部時代のポジションや選手としての技量、本人の性格などが頭に入っているが、卒業以来ほぼ初めて、40年ぶりに再会したM君のその後の人生の足取りなどを本人から聞いて大いに驚いた。
野球部17期生のM君は学年が3年下なので、同じグラウンドで選手として一緒に練習したことはないが、打撃が得意で、大きな声を出す元気な外野手だったことをよく覚えている。
関東近県に住んでいるため、OB会の集まりに自然と足が遠のいてしまったようで、それで皆勤賞組の筆者とも会う機会がなかったのだが、風の便りで、社会に出てから弁護士として活躍していたことは知っていた。
難関の司法試験を突破するほどだから、さぞかし高校やその後の大学での成績も優秀だったのだろうと思い込んでいたら、本人から意外な素顔を聞き、二度びっくりした。何でも、高校1年1学期の学業成績は入部早々の野球部の練習が厳しかったこともあるのだろうが、クラス45人中45番目、本人より一つ上の44番目が野球部チームメートのO君(ちなみに現在、県立高校の世界史の教諭で野球部指導者)ということで、歴代の野球部員でもここまで成績が芳しくないのは珍しい。
だからといって、M君が高校時代に猛勉強したということはなく、野球優先の生活が続いた。彼を知る野球部の後輩たちは、M君らの同期の連中は野球の練習が終わると、着替えもせずにカビ臭い部室で花札に興じ、帰宅を急ぎたい後輩部員を大いに悩ませたそうだ。花札のエピソードは初めて聞いたが、ともあれ、よく言えば豪放磊落、悪く言えば野球の練習以外は自堕落な高校生活だったことがうかがえる。
そのM君は大学に入ってからもアルバイト中心の生活で、勉強は二の次、三の次だったそうだが、司法試験の勉強を本格的に始めたのは大学卒業後。そして8回の挑戦の末、30歳を過ぎて念願の合格を手にしたのだった。大学卒業後、すぐに結婚したので、生活の糧を得る手段として司法試験を目指したというのも、少し変わり者のM君らしい。もう少し堅実な社会人生活もあったろうに。
で、これまでなぜOB会の集まりに長く顔を見せなかったのか尋ねたところ、息子さんたちの少年野球の指導者として週末は時間をとられたことなどを説明し、長年の無沙汰をわびていた。やる気だけを持っていれば、人生はどう転ぶか分からない。高校時代、人一倍元気だったM君は、酔った先輩、後輩らの昔話に耳を傾ける謙虚な中年になっていた。(T・I)
◎高校野球部後輩M君の人生大逆転
筆者は高校時代、硬式野球部に所属し、ひたすら白球を追う毎日を送っていたが、卒業から40年以上がたつというのに、年に1、2回あるOB会に顔を出すと、昔の野球談義で盛り上がる。野球部OB会では古顔なので、上は年齢が一回り以上上までの先輩たち、下はこれも一回りくらい下の後輩たちまで、野球部時代のポジションや選手としての技量、本人の性格などが頭に入っているが、卒業以来ほぼ初めて、40年ぶりに再会したM君のその後の人生の足取りなどを本人から聞いて大いに驚いた。
野球部17期生のM君は学年が3年下なので、同じグラウンドで選手として一緒に練習したことはないが、打撃が得意で、大きな声を出す元気な外野手だったことをよく覚えている。
関東近県に住んでいるため、OB会の集まりに自然と足が遠のいてしまったようで、それで皆勤賞組の筆者とも会う機会がなかったのだが、風の便りで、社会に出てから弁護士として活躍していたことは知っていた。
難関の司法試験を突破するほどだから、さぞかし高校やその後の大学での成績も優秀だったのだろうと思い込んでいたら、本人から意外な素顔を聞き、二度びっくりした。何でも、高校1年1学期の学業成績は入部早々の野球部の練習が厳しかったこともあるのだろうが、クラス45人中45番目、本人より一つ上の44番目が野球部チームメートのO君(ちなみに現在、県立高校の世界史の教諭で野球部指導者)ということで、歴代の野球部員でもここまで成績が芳しくないのは珍しい。
だからといって、M君が高校時代に猛勉強したということはなく、野球優先の生活が続いた。彼を知る野球部の後輩たちは、M君らの同期の連中は野球の練習が終わると、着替えもせずにカビ臭い部室で花札に興じ、帰宅を急ぎたい後輩部員を大いに悩ませたそうだ。花札のエピソードは初めて聞いたが、ともあれ、よく言えば豪放磊落、悪く言えば野球の練習以外は自堕落な高校生活だったことがうかがえる。
そのM君は大学に入ってからもアルバイト中心の生活で、勉強は二の次、三の次だったそうだが、司法試験の勉強を本格的に始めたのは大学卒業後。そして8回の挑戦の末、30歳を過ぎて念願の合格を手にしたのだった。大学卒業後、すぐに結婚したので、生活の糧を得る手段として司法試験を目指したというのも、少し変わり者のM君らしい。もう少し堅実な社会人生活もあったろうに。
で、これまでなぜOB会の集まりに長く顔を見せなかったのか尋ねたところ、息子さんたちの少年野球の指導者として週末は時間をとられたことなどを説明し、長年の無沙汰をわびていた。やる気だけを持っていれば、人生はどう転ぶか分からない。高校時代、人一倍元気だったM君は、酔った先輩、後輩らの昔話に耳を傾ける謙虚な中年になっていた。(T・I)
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|5期|2019年10月21日更新
【特別寄稿】
多摩高野球部「私設応援団」が見てきた高校野球
多摩高5期生 橘 眞次(たちばな・まさはる)
◇多摩高野球部とのかかわり
私は中学校(南大師中)までは野球部に入っていましたので、野球にはもともと興味を持っていました。多摩高校1年の担任は加瀬均先生(化学)で、この先生も野球が好きでしたが、よく聞かされたのは校長の山岡嘉次先生の話でした。夏の甲子園大会3連覇、中京商業対明石戦の延長25回の大熱戦の話とか、はては「名古屋の放送局では山岡先生の半生をドキュメントにして放送した」など初めて聞く話から、山岡校長の偉大さが伝わってきました。
同じクラスに野球部員が2名いました。岩田忠章君と加藤邦彦君です。後に4番打者として活躍する岩田君は見るからに野球部といった体格でしたが、加藤君は細身で華奢な体形です。でも驚いたのは体育の時間、加藤君は走り幅跳びで6メートル超跳んだのです。「天性のバネを持っているのだな」と思いました。
私たちが多摩高に入学した昭和35年(1960年)夏の全国高校野球選手権神奈川大会3回戦、多摩高は法政二高に4対3で惜敗。その法政二高は全国制覇を果たしたのでした。
多摩高野球部も大したものだ。試合を見に行ったクラスの仲間たちはそう思い、クラスメートの岩田、加藤両君のこれからの活躍に期待が高まりました。
2年生、3年生とクラス替えで同じクラスに野球部員はいませんでしたが、1年生の時の級友の両君を応援し続けたのはいうまでもありません。加藤君は勉学に専念ということで退部したと、後で聞きました。加藤君はその後、開校間もない多摩高から初めて、難関の東京工業大学に現役合格したのですから、やはり優秀だったということでしょう。
というわけで、私は野球部とは直接かかわりはなく、クラスメートの私設応援団だったということです。
◇その後の野球部員とのお付き合い
多摩高在学中は野球部の公式戦はほとんど見に行きました。川崎球場、平和球場、保土ケ谷球場の3カ所だったと思います。卒業後は球場での応援はなくなりましたが、新聞などで試合結果は追いかけていました。
昭和38年(1963年)春に高校を卒業して50年もたったある日、岩田君から突然、電話がありました。今度、5期生の野球部員だけで集まるから来ないかという誘いです。なぜ自分が呼ばれたのか分かりませんが、会場の居酒屋には10名ほどが集まっていました。
岩田君も加藤君もそろっていました。加藤君とは実に卒業以来半世紀余ぶりの再会でした。私は仲間としては異質でしたが、野球部だった面々はさすが同じ釜の飯の仲間という雰囲気が漂っていました。私はその場に、50年前の川崎市長杯争奪戦、夏の神奈川大会のパンフレットをその日の人数分コピーして持参。みんなに喜んでもらえたので、長い間保管しておいてよかったとつくづく思いました。
◇高校野球ファンとしての楽しみ
私も野球が好きで中学までは野球をやっていたので、今でもちょいちょい高校野球の試合を見に行きます。
桐光学園の好投手・松井佑樹(現・楽天)が3年夏の神奈川大会のことですが、準々決勝か準決勝で横浜高校と対戦した試合はちょっと胸騒ぎがしたので、横浜球場に行きました。理由は横浜高・渡辺元智監督のプライドです。こういつまでも松井佑樹に抑えられているはずはない、きっと秘策を持っているはず。案の定、横浜は松井祐樹を本塁打2本で仕留めました。
2015年、ひょっとしてこれが渡辺監督の最後の試合になるかもしれないと思って準決勝の対東海大相模戦を見に行きました。試合というより監督を見に行ったのです。試合中、ベンチにいる監督の仕草をじっと見ていました。
ベンチにいる監督の手指の動き(サイン)で守備の選手が位置を変えます。微調整までします。びっくりでした。
25年ほど前、3年半ほど仕事の関係で四国に勤務したことがあります。徳島県、香川県、小豆島の旅館、ドライブインなどで池田高校・蔦文也監督の色紙をよく見ました。練習試合などで立ち寄ったのでしょう。どの色紙にもきまって「わしは子供たちに大海を見せてやりたいんじゃ」と書いてあります。「大海」とは「甲子園」のことです。
ですから、監督の頭には常に甲子園があったのでしょう。池田は徳島県の小さな町ですが、大会が始まると、町は熱狂します。驚いたのは、町の中心部にスーパーのジャスコがありましたが、池田高校の試合が始まると、ジャスコの店内放送はNHKの中継放送に切り替わります。町中が応援していました。それもそのはず、池田高校へは中学から地元にいないと受験できないのです。ですから、大半は地元の子供たちです。
また、本来は40年も公立高校では監督は続けられません。定期異動があります。社会科の教諭でもあった蔦さんのために、県教育委員会は「池田高校→池田高校定時制→池田高校」と異動を繰り返したと聞きました。
そんなこともあって私は翌年、高松から船に乗って西宮の甲子園球場まで池田高校の試合を見に行ってきました。蔦監督が引退し、教え子の若い監督が指揮を執っていましたが、初めての甲子園球場で名物のカチワリを初めてすすりながら、これが蔦さんが言っていた「大海なんだ」と壮大な眺めは今でも鮮明に覚えています。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|14期|2019年10月21日更新
「野球部愛」に貫かれた恩人2人の半生
=宇田川彰OB会長と田中輝夫監督の思い出=
県立多摩高野球部の歴史、それに野球部OB・OGでつくるOB会の諸活動を語る上で特筆すべき人物は1期の宇田川彰(富士見中)と3期の田中輝夫(稲田中)の二人を挙げることに多くの関係者が納得するのではないだろうか。先年、二人とも61歳、68歳でそれぞれ他界されたが、性格や人柄は異にするものの「大の野球好き」という共通点があり、生前に野球部やOB会の活動を通じて世話になった同期や後輩諸兄にとってはいつまでも忘れることはできない青春時代の恩人であり、親しい仲間のような存在だ。
多摩高野球部への貢献ということでは、宇田川と田中の役回りは違っていた。川崎市南部出身の宇田川が昭和31年に新設の多摩高に入学し、野球部1期生で主将という立場から、卒業後に野球部OB会を立ち上げ、その会長として長くOB会有力者の立場から現役の野球部員や年齢の離れた後輩の面倒をよく見た人物だったのに対し、北部出身で3期生の主将だった田中は部草創期の野球部のけん引役として攻守に活躍したほか、国学院大学野球部を経て、後年は延べ30年近くにわたって高校野球指導者としてチームの指揮を執り、多くの球児を育てたことだろう。
宇田川と田中がこのように、多摩高野球部やOB会の諸活動に異常なまでの熱意を持って携わった理由としては、多くの後輩に対する面倒見の良さという本人たちの生来の性格に加えて、宇田川は川崎駅近くの有名商店街に立地する喫茶店の経営者兼マスター、田中が南武線久地駅前にあるスナック「ナイン」の経営者兼マスターという、職業で言えば自由業のように自分の時間を好きなことに割ける社会的立場にあったことも大いに関係している。
野球がメシよりも好きな二人は、社会人となってから、共に川崎の南部と北部を拠点にして早朝野球チームを結成し、多摩高野球部の後輩や野球好きの常連客らを集めて監督兼選手としても活躍した。二人とも夜遅くまで続く仕事であり、数時間足らずの睡眠で早朝に起き出し、ユニホーム姿でグラウンドに駆けつけるのである。普通の職業人にはとてもできない芸当だ。宇田川は口ひげと薄めのサングラス、香港帽にアロハシャツという独特のいで立ち、坊主頭で丸顔の田中はショートホープを手放さない愛煙家で、共に野球部仲間に接するときの物腰や口ぶりは終生変わらなかった。
宇田川には多摩高野球部OB会長としての活動のほかに、青山学院大出身らしく若い頃から親しんできたジャズの専門家としての「顔」もあり、経営する喫茶店「アケミ」(後にのれん分けで「あきら」)の常連もジャズ愛好家が多かった。宇田川のその方面での目覚ましい活躍ぶりは他に譲るとして、人を組織し、動かすプロデューサー的才能に優れていたことを物語る仕事の一つが、1980年代から2000年にかけて断続的に続いた県立川崎高と多摩高の両校野球部OBによるマラソン野球の開催だ。
マラソン野球は1981年9月、多摩高創立25周年を記念して初開催し、両校のOB約60人が参加して午前6時のプレーボールから午後5時まで計54イニングにわたり熱戦を繰り広げた。その後、1987年以降の中断期間を挟み、2000年3月には、両校野球部が長く世話になった川崎球場の閉鎖・解体を前に、「さよなら川崎球場」と銘打って日の出から日没までプレーする最後のマラソン野球を計画し、実行に移したのもOB会長だった宇田川の企画力のなせる技だった。
「マラソン野球で思い出”封印”」の見出しが付いた当時の地元紙の記事では、「高校生の時、プロが使う川崎球場に立つと、(ベース間などが)同じ距離のはずなのに大きく感じた。われわれにとって思い出深い球場だ」という宇田川のコメントが載っている。
「野球が心底好きだった」という半生を文字通り歩んだ宇田川と田中という傑出した二人のOBの情熱と野球愛があったらこその多摩高野球部への多大な貢献だった。多くの後輩たちにとっては「宇田川さん」「田中さん」が両先輩に対する呼び名だったが、親しい後輩や仲間はそれぞれ親しみを込めて、「あきらさん」「ていちゃん」とも呼んだ。二人は天国からきょうも、多摩高野球部の現役諸君の活動を温かく見守っているはずだ。(伊藤 努)
=宇田川彰OB会長と田中輝夫監督の思い出=
県立多摩高野球部の歴史、それに野球部OB・OGでつくるOB会の諸活動を語る上で特筆すべき人物は1期の宇田川彰(富士見中)と3期の田中輝夫(稲田中)の二人を挙げることに多くの関係者が納得するのではないだろうか。先年、二人とも61歳、68歳でそれぞれ他界されたが、性格や人柄は異にするものの「大の野球好き」という共通点があり、生前に野球部やOB会の活動を通じて世話になった同期や後輩諸兄にとってはいつまでも忘れることはできない青春時代の恩人であり、親しい仲間のような存在だ。
多摩高野球部への貢献ということでは、宇田川と田中の役回りは違っていた。川崎市南部出身の宇田川が昭和31年に新設の多摩高に入学し、野球部1期生で主将という立場から、卒業後に野球部OB会を立ち上げ、その会長として長くOB会有力者の立場から現役の野球部員や年齢の離れた後輩の面倒をよく見た人物だったのに対し、北部出身で3期生の主将だった田中は部草創期の野球部のけん引役として攻守に活躍したほか、国学院大学野球部を経て、後年は延べ30年近くにわたって高校野球指導者としてチームの指揮を執り、多くの球児を育てたことだろう。
宇田川と田中がこのように、多摩高野球部やOB会の諸活動に異常なまでの熱意を持って携わった理由としては、多くの後輩に対する面倒見の良さという本人たちの生来の性格に加えて、宇田川は川崎駅近くの有名商店街に立地する喫茶店の経営者兼マスター、田中が南武線久地駅前にあるスナック「ナイン」の経営者兼マスターという、職業で言えば自由業のように自分の時間を好きなことに割ける社会的立場にあったことも大いに関係している。
野球がメシよりも好きな二人は、社会人となってから、共に川崎の南部と北部を拠点にして早朝野球チームを結成し、多摩高野球部の後輩や野球好きの常連客らを集めて監督兼選手としても活躍した。二人とも夜遅くまで続く仕事であり、数時間足らずの睡眠で早朝に起き出し、ユニホーム姿でグラウンドに駆けつけるのである。普通の職業人にはとてもできない芸当だ。宇田川は口ひげと薄めのサングラス、香港帽にアロハシャツという独特のいで立ち、坊主頭で丸顔の田中はショートホープを手放さない愛煙家で、共に野球部仲間に接するときの物腰や口ぶりは終生変わらなかった。
宇田川には多摩高野球部OB会長としての活動のほかに、青山学院大出身らしく若い頃から親しんできたジャズの専門家としての「顔」もあり、経営する喫茶店「アケミ」(後にのれん分けで「あきら」)の常連もジャズ愛好家が多かった。宇田川のその方面での目覚ましい活躍ぶりは他に譲るとして、人を組織し、動かすプロデューサー的才能に優れていたことを物語る仕事の一つが、1980年代から2000年にかけて断続的に続いた県立川崎高と多摩高の両校野球部OBによるマラソン野球の開催だ。
マラソン野球は1981年9月、多摩高創立25周年を記念して初開催し、両校のOB約60人が参加して午前6時のプレーボールから午後5時まで計54イニングにわたり熱戦を繰り広げた。その後、1987年以降の中断期間を挟み、2000年3月には、両校野球部が長く世話になった川崎球場の閉鎖・解体を前に、「さよなら川崎球場」と銘打って日の出から日没までプレーする最後のマラソン野球を計画し、実行に移したのもOB会長だった宇田川の企画力のなせる技だった。
「マラソン野球で思い出”封印”」の見出しが付いた当時の地元紙の記事では、「高校生の時、プロが使う川崎球場に立つと、(ベース間などが)同じ距離のはずなのに大きく感じた。われわれにとって思い出深い球場だ」という宇田川のコメントが載っている。
「野球が心底好きだった」という半生を文字通り歩んだ宇田川と田中という傑出した二人のOBの情熱と野球愛があったらこその多摩高野球部への多大な貢献だった。多くの後輩たちにとっては「宇田川さん」「田中さん」が両先輩に対する呼び名だったが、親しい後輩や仲間はそれぞれ親しみを込めて、「あきらさん」「ていちゃん」とも呼んだ。二人は天国からきょうも、多摩高野球部の現役諸君の活動を温かく見守っているはずだ。(伊藤 努)
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|20期|2019年10月21日更新
20期チームの戦績と陣容
昭和51年(1976年)秋季県大会
2回戦 多摩11対北陵6(7回日没コールド)=バッテリー川島―酒井
3回戦 多摩1対秦野6=バッテリー川島―酒井
昭和52年(1977年)春季県大会
3回戦 多摩0対横浜10(7回コールド)=バッテリー原・川島―鷹野
昭和52年(1977年)夏の県大会
2回戦 多摩2対松田5(延長12回)
メンバー 主将 鷹野肇
1番セカンド中島弘樹(渡田中)、2番ショート寺尾洋一(日吉中)、3番センター川島伸一(大師中)、4番ピッチャー原寿一(玉川中)、5番ファースト天野龍太(宮崎中)、6番サード酒井達朗(中野島中)、7番レフト杉田仁(菅生中)、8番キャッチャー鷹野肇(宮崎中)、9番ライト勝徹(西中原中)、代打要員・矢島昌明(中野島中)

昭和51年(1976年)秋季県大会
2回戦 多摩11対北陵6(7回日没コールド)=バッテリー川島―酒井
3回戦 多摩1対秦野6=バッテリー川島―酒井
昭和52年(1977年)春季県大会
3回戦 多摩0対横浜10(7回コールド)=バッテリー原・川島―鷹野
昭和52年(1977年)夏の県大会
2回戦 多摩2対松田5(延長12回)
メンバー 主将 鷹野肇
1番セカンド中島弘樹(渡田中)、2番ショート寺尾洋一(日吉中)、3番センター川島伸一(大師中)、4番ピッチャー原寿一(玉川中)、5番ファースト天野龍太(宮崎中)、6番サード酒井達朗(中野島中)、7番レフト杉田仁(菅生中)、8番キャッチャー鷹野肇(宮崎中)、9番ライト勝徹(西中原中)、代打要員・矢島昌明(中野島中)
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

|19期|2019年10月21日更新
「勝つことよりも負けない野球を!」
=19期ベスト4の監督時代を振り返って=
=19期ベスト4の監督時代を振り返って=
(多摩高野球部15期 峰野謙次=19期監督)
母校の野球部監督の話を頂いたのは私が大学2年生のときでした。それまでは13期OBの小黒誠二さんが監督でした。就職活動の関係で監督を退任するということで、当時のOB会長の宇田川彰さん(1期)から是非、後任の監督を引き受けるよう話がありました。正直なところ、最初は乗り気ではありませんでした。自分にできるのか自信がなかったからです。何度も説得されるうちに、折れた形で引き受けることにしました。
1975年(昭和50年)8月の新チーム結成からみることになりましたが、初めてグラウンドに行って練習を見たとき、正直なところ唖然としました。メンバーが9人しかいないのは最初から分かっていたのですが、その力までは把握していませんでした。何せ、9人中外野に球を打ち返すことができるのが4人。残る5人は内野手の頭を越しません。投げる方も強肩といえる選手は誰一人いません。
最初に行ったのは選手の力量を知ることだと思い、遠投力と走力を調べることにしました。
80メートル投げたのが2人。70メートルが1人。あとは60メートル台。走力も鈍足と言っていいほどの選手が3人です。どう鍛え上げようか考えました。私は学生であり、アルバイトもしていましたので、毎日練習を見ることができません。それで結論を出したのは練習の中身の充実でした。
選手たちに指示した内容は、練習はこなしていてはダメで、毎日自分で課題を設けて自分で練習をやっていくこと。バットは振った数だけ力が付く。ベースランニングは力を抜かず走りきること。この3点を選手たちに機会あるごとに言いました。そして、私は現役のとき、内野手と投手を経験していましたので、できるだけ自分のプレーを見せて指導していたつもりです。
シート打撃も私が投げて打たせていました。また、年が近いので、選手からの質問や意見を言いやすい環境も作りました。そうしているうちに、選手たちは自分で考え、自分のできることを見いだし、選手間で話し合う、そんな良いチーム環境になっていました。
幸いにも秋季大会、春季大会とも県大会に出場することができるまでになりました。秋は武相、春は日大高と私立強豪校に当たり、負けましたが、力の差を知ることが後に大変役立ちました。選手たちは自分たちに足りないものを知り、後の練習に役立てました。自分たちで課題を作って練習していったのです。
後は夏本番の県大会に私がどうやって采配するか、残ることはそれだけでした。私自身、選手の力量や性格などを把握していたので、ある程度の戦術は持っていました。夏の初戦はサレジオ高校。2度対戦して2度とも快勝しています。が、私も選手も開幕試合ということで緊張があってか、地に足がついていませんでした。どうにか勝利しましたが、納得の試合ではありませんでした。
しかし、試合を経験したことは大きく、2試合目からは落ち着いて采配することができました。野球勘も働くようになり、選手が試合ごとに成長しているのが手に取るように分かりました。そして、6試合も経験できるとは思ってもみませんでした。夏の大会中、選手に何度も言ったことは「格好のいいプレーは要らない。ちゃんと取ってちゃんと投げよう。勝つことよりも負けない野球をやろう。思いきりプレーしよう」。その3点でした。みんな、よくやったと思います。
最後に、準決勝の向上高との試合前にマスコミの取材をたくさん受けたのは、私には良い経験でした。
1975年(昭和50年)8月の新チーム結成からみることになりましたが、初めてグラウンドに行って練習を見たとき、正直なところ唖然としました。メンバーが9人しかいないのは最初から分かっていたのですが、その力までは把握していませんでした。何せ、9人中外野に球を打ち返すことができるのが4人。残る5人は内野手の頭を越しません。投げる方も強肩といえる選手は誰一人いません。
最初に行ったのは選手の力量を知ることだと思い、遠投力と走力を調べることにしました。
80メートル投げたのが2人。70メートルが1人。あとは60メートル台。走力も鈍足と言っていいほどの選手が3人です。どう鍛え上げようか考えました。私は学生であり、アルバイトもしていましたので、毎日練習を見ることができません。それで結論を出したのは練習の中身の充実でした。
選手たちに指示した内容は、練習はこなしていてはダメで、毎日自分で課題を設けて自分で練習をやっていくこと。バットは振った数だけ力が付く。ベースランニングは力を抜かず走りきること。この3点を選手たちに機会あるごとに言いました。そして、私は現役のとき、内野手と投手を経験していましたので、できるだけ自分のプレーを見せて指導していたつもりです。
シート打撃も私が投げて打たせていました。また、年が近いので、選手からの質問や意見を言いやすい環境も作りました。そうしているうちに、選手たちは自分で考え、自分のできることを見いだし、選手間で話し合う、そんな良いチーム環境になっていました。
幸いにも秋季大会、春季大会とも県大会に出場することができるまでになりました。秋は武相、春は日大高と私立強豪校に当たり、負けましたが、力の差を知ることが後に大変役立ちました。選手たちは自分たちに足りないものを知り、後の練習に役立てました。自分たちで課題を作って練習していったのです。
後は夏本番の県大会に私がどうやって采配するか、残ることはそれだけでした。私自身、選手の力量や性格などを把握していたので、ある程度の戦術は持っていました。夏の初戦はサレジオ高校。2度対戦して2度とも快勝しています。が、私も選手も開幕試合ということで緊張があってか、地に足がついていませんでした。どうにか勝利しましたが、納得の試合ではありませんでした。
しかし、試合を経験したことは大きく、2試合目からは落ち着いて采配することができました。野球勘も働くようになり、選手が試合ごとに成長しているのが手に取るように分かりました。そして、6試合も経験できるとは思ってもみませんでした。夏の大会中、選手に何度も言ったことは「格好のいいプレーは要らない。ちゃんと取ってちゃんと投げよう。勝つことよりも負けない野球をやろう。思いきりプレーしよう」。その3点でした。みんな、よくやったと思います。
最後に、準決勝の向上高との試合前にマスコミの取材をたくさん受けたのは、私には良い経験でした。
神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載

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