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多摩高で勉強も野球も頑張ると決意した日 多摩高51期 森田慎吾

 
多摩高校(以下、多摩高)野球部51期主将 森田氏
 

多摩高時代は、1年の夏からレギュラーとして出場し、3年時は主将・キャッチャーとしてチームを牽引。慶應義塾大学体育会硬式野球部(以下、慶大野球部)を目指し、慶應義塾大学(以下、慶大)に現役合格。慶大野球部では、選手として神宮出場は叶わなかったものの、3年生から学生コーチとしてチーム運営に従事。最終学年は、春は一軍帯同コーチ、秋は二軍・新人監督としてチームを大いに支えた。卒業後は、丸紅に勤務。



多摩高で勉強も野球も頑張ると決意した日

高校進学の際、野球の強豪私立校への進学を考えなかったわけではありませんが、両親から、「野球だけではなく、勉強も両立できる環境に身を置いてほしい」というアドバイスもあり、地元では進学校であった多摩高を受験しました。

多摩高に進学が決まった後、入学前に開催されていた春大会の試合(2期上の49期)を見学に行ったのが、多摩高野球部のはじまりでした。

強豪校「横浜隼人」を相手に9-10の惜敗、多摩高側が5本のホームランを放つなどを目の当たりにし、少々調子に乗っていた自身の気持ちを引き締め直し、多摩高で野球も勉強も頑張ろうと決意した日でした。


 

多摩高野球部51期の仲間

51期は、マネージャーを含む18名が野球部に所属していました。たくさんの思い出がありますが、最後の夏の大会は3回戦で敗退したものの、1・2年時には歌えなかった校歌を全員で2回歌えたことも良い思い出です。
 

51期マネージャー手記 「生活の中心」 
https://www.tamadou.jp/baseball/1407/

卒業してからも会うことが多いメンバーですが、卒業して10年が経ち、18人全員が集まれる機会がありました。その際には大変恥ずかしながらも武蔵小杉駅前で多摩高校歌を大合唱しました。

これからも笑いあい、励ましあい、助けあいたいと想えるメンバーです。


 

慶大野球部への道

大学の最高峰でプレーすることを目指し、慶大で野球を続けたいと想うようになったのは、高校2年生で慶大野球部の練習会に参加したことがキッカケでした

高校2年生からは、上述のモチベーションが生まれたため、慶大の指定校推薦枠を狙うために、日々の授業・提出物・定期テストに一層注力しましたが、力及ばず、一般受験をすることとなりました。

ただ、慶大一筋に変わりなく、1本に絞り、その受験対策のみに集中することで現役合格することができました

 

「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉は嫌い

多摩高は、部活動に加えて、行事も盛んな学校です。

私は、野球部の主将に加えて、体育祭では夏組の団長(多摩高の体育祭では誕生日をもとに四季に分かれて競います)を務めました。私は「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉が嫌いです。

当時も、折角の人生なので、受験も部活動も行事も全部頑張りたい、そのために努力することは厭わないと考えていました。今でもその考えは変わりません。

部活動や行事は、受験勉強の妨げになるということで、敬遠されがちですが、

今、振り返ってみると部活動や行事に積極的に取り組んでいた人ほど、大学進学も含めて、その後も様々な面で自分の望みを叶えているように感じます。それが多摩高生らしさなのではないかと勝手に思っています。

 

慶大野球部での経験

大学の非常に高いレベルの野球に触れたり、体育会の厳しい環境に身を置くことができたのは、一生の宝であり、現在の自分を支えている経験であることは間違いありません。

特に「井の中の蛙大海を知らず」とは、まさに自分のことだと気付かされたことが大きかったと思います。

2年生の時までに良い成績が残せなかった私は、”このまま埋もれたくない”という想いが強くなり、3年生になる際に学生コーチに立候補し、監督・学年全員の承認を得た上で就任しました。

今までそれなりに上手いと思っていた野球が下手なんだという事実を受け入れることは非常に悔しく苦しい経験でした。

ただ、選手としては結果は残せませんでしたが、最終学年では、春は一軍帯同コーチ、秋は二軍・新人監督として、貴重な経験を積むことができました。

 

今回の早慶戦(2019/11/2)観戦について

現在、総合商社の丸紅に就職して、社会人7年目の終盤に差し掛かってきていますが、今の自分は、野球のおかげで、最高の仲間と出会い、たくさんの経験ができたことで作り上げられているんだなと実感することが多々あります。

今回は、その経験を得ることができた母校の多摩高現役選手とともに、母校の慶大の試合を観戦することができ、非常に感慨深く、改めて身の引き締まる想いでした。
 

多摩高への入学、野球部への入部を考えている後輩達、保護者の方々、ぜひご連絡ください。

https://www.tamadou.jp/baseball-contact/



 

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模擬講義@母校 多摩高野球部28期 小林至

多摩高野球部28期 小林至氏(東京大学→千葉ロッテ。現在は江戸川大学教授)に現役高校生向け特別講義をしていただきました。

久しぶりの母校訪問に在学当時の思い出を「小林至オフィシャルブログ」にコメントされていますので、こちらにシェアさせていただきます。
 
ここから—

2019.11.14、母校(神奈川県立多摩高校)で、出前授業を行いました。OBの大学教員による模擬講義という趣旨です。宿河原駅から高校までの道を歩いたのも、敷地内に入るのは、本当に久しぶり。もしかしたら、大学生のときに練習の手伝いに行って以来かも。
模擬講義、座談会、懇親会と参加しながら、当時を懐かしく思い出しました・・・

規則で縛ることのない自由な校風でした。制服はあるけど、着ないでもよし。授業はあるけれども、出ないでもよし。受験のための勉強したければ、予備校か塾にいきなさいというのが基本姿勢。学生にとっても、教員にとっても、楽園のようなところだったのだと思います。振り返るとなおさら、そう思います。
いまの学生は、制服もその下のシャツも、校則通りで、カリキュラムも受験を意識して、その対策の充実を打ち出したもので、大きく変化していました。父母の、子供への関心も高く、わたしが在籍していた頃のような、馬なり、気ままな学校運営はムリだそうな。時代ですね。

 

 昔が良かったというわけではありません。自由な校風と対照的に、県立の進学校とは思えない、部活動の厳しさ・・・・特に先輩後輩の厳しさとしごきは、いまは、先輩、後輩ともOB会など会う機会があれば、酒を酌み交わし、当時を思い出しての笑い話に昇華していますが、当時は、つらくてつらくて、野球部やめよう、でも、野球やりたいし、と毎日、憂鬱だったことを覚えています。
練習は年末年始を除いて毎日。特に1年のころは、朝は7:00に集合して、1時間半もの間、グラウンド整備と先輩の練習の手伝い、授業中は、先輩のグローブ 、スパイク磨きに、ボール縫い、ボール磨き、弁当、睡眠、そして昼休みの練習の手伝い・・・放課後は、チャイムと同時に教室を飛び出る必要あり。そこで遅れれば鉄拳制裁も含む、しごきあり。ボールがイレギュラーバウンドすれば、またしごき。機嫌を損ねたらまたしごき。そんな理不尽に悔しい思いをし、自分は絶対にそうはならないぞ、と心に誓いつつも、上級生になったとき、後輩にその理不尽を強いていなかったかというと、要反省というのが正直なところです。

 多摩高だけでなく、また野球部だけでなく、多くの運動部がそうだった時代。もちろん、みんながそうだから、時代だから、それで仕方がない、ということではなく、こういうのはなくなったほうがいい。いまは、そんな先輩・後輩の壁やしごきはまったくない、と現役野球部の後輩たち。プロに多数、輩出しているような野球名門校でも、昔のような、しごきを含む先輩後輩の理不尽はほとんどなくなっています。人間は進化していますね。

ここまで—

最後に、多摩高野球部応援ホームページの立ち上げ、運営に感謝いたします。
野球部OB会として、現役生へのさらなる支援の第一歩だと思います。



 

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多摩高1年生 OBの職場見学 厚生労働省(2019.11.14)


2年生に大学教授による講義が行われた11月14日、1年生は「大学・研究所・民間企業・官公庁など」11カ所から希望の場所を訪問し、知的好奇心を換起するとともに自らの将来像を探求するための契機とする「知の探訪」活動を行いました。 ここでも卒業生(厚生労働省勤務およびJAXA勤務)が学校に協力させていただきました。


以下、39期 山田大輔(厚生労働省勤務)からのレポートです。


令和元年11月14日県立多摩高校1年生の職場見学授業「知の探訪」にて、厚生労働省見学を希望した22人が訪問してくれました。

会議室では最初に、生徒一人一人から厚労省を訪問した理由について聞いてみると「中央官庁に興味がある」「生活に密着した仕事をしているが、具体的にどのようなことをしているのか知りたい」など話がありました。

まずは広報担当者より、「揺りかごから墓場まで」幅広い業務を行う厚生労働省の仕事内容について一通りの説明を行い、その後、生徒からの質問(「厚労省職員になるのは大変なのか」「どんな人が国家公務員に向いているのか」「おすすめの本は何か」など、予め送付されていた25問)に分かりやすく回答しました。

私からは、これまで経験してきた具体的なエピソードや自身の掲載された新聞記事などを交えて国家公務員の仕事のやりがいや面白さについて熱を込めて話をしました。

最後に、実際に18階にある私の仕事場まで足を運んでもらい、日常的な職場の雰囲気を味わってもらいました。生徒代表からは「お堅いイメージもあったが、とても楽しそうな雰囲気で仕事をしていた」という感想をもらいました。 

39期 山田大輔(厚生労働省勤務) 多摩高同窓会副会長、野球部、秋組団長






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早慶戦観戦 多摩高63期

早慶戦観戦 多摩高63期


2019/11/2 東京六大学野球、早慶戦を観戦しました。
多摩高1、2年生、OB会から東京六大学野球経験者、17期 中野(立教_主将)、51期 森田(慶應)も同行しました。

現役選手は、試合中にメモを取るなど熱心に観戦していました。
卒業後も大学野球で活躍してくれることを楽しみにしています。

試合は、森田の母校 慶大野球部が郡司選手の2打席連続本塁打を放つ活躍で3季ぶり37回目の優勝を決めました。
2019秋季リーグ戦 慶大優勝(3季ぶり37回目)


51期 森田(慶大野球部)の手記は、こちら
17期 中野(立教_主将)の手記は、こちら です。是非、ご覧ください。





多摩高51期 森田(多摩高→慶応義塾大学)




番外編 差し入れのお弁当

 
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県立多摩高校野球部応援ホームページを開設しました。


このホームページは、目指せ甲子園!をスローガンに、多摩高校野球部現役の応援とOB交流のために開設しました。
https://www.tamadou.jp/baseball/

また、多摩高への入学、野球部への入部を検討中の中学生の皆さん、保護者の皆さんに情報提供させていただきたいと考えております。
ぜひ、お問い合わせからご連絡ください。お待ちしています。

関係者のみなさま
記事、掲載内容は、徐々に増やしていきますので、お待ちください。
写真などもご提供いただけると助かります。
よろしくおねがいします。





 
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県立多摩高校野球部史(創部60周年記念事業)1期~20期

■ 神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業) 
  編集責任者 14期 伊藤 努

『白球追った青春の日々―狙え! 甲子園』
 神奈川県立多摩高等学校野球部OB会


【目次】
  【序文】 多摩高野球部部史の刊行に当たって  
     
  【1期~20期チーム紹介記&好選手紹介】  
     
1期 野球部創部当初は2カ月のグラウンド整備―多摩高1期
練習試合と公式戦18連敗も3年目はベスト16進出
稲垣隆祥
     
1期 法政二高打倒に闘志燃やした多摩高野球部草創期
力をつけた背景に選手の切磋琢磨と関係者の支援
 
     
2期 山岡校長自らの熱血指導、慶大野球部のコーチ支援
草取りと猛練習に明け暮れた日々の思い出―2期
大谷正勝
     
3期 全国優勝の法政二を追い詰めた夏の県大会―3期
田中主将を中心にしたチームワークと主戦・井口の好投
岡部 豊
     
4期 「不完全燃焼」に終わった高校野球部生活―4期チーム
対戦した県内強豪校にはプロ入りの好選手がぞろぞろ
荒木久雄
     
5期 実力ありながら夏の県大会2回戦で敗退―5期
好打者・小黒を中心にチームワークに磨き
小黒平二
 
     
5期 多摩高野球部随一の好打者・小黒平二
東都2部の農大、都市対抗野球でも活躍
 
     
6期 残ったのは4人、新入部員で活気づく
忘れられぬ川崎市長杯決勝での惜敗―6期
松村敬二
     
6期 僕ら野球部6期生時代のエピソードあれこれ 岡本義夫(旧姓田辺)
     
7期 全盛時代の打倒・法政二高を目標に猛練習
伝説の山岡校長が直々の指導―7期チーム
牧田喜一
     
8期 大黒柱・中林を中心にチームワークが持ち味―8期
秋と春はベスト8、夏はベスト16進出の活躍
中林信雄
     
8期 多摩高野球部のナンバー1投手 中林信雄
胸元えぐるシュートと落ちるカーブが武器の剛球派
 
     
9期 9期チームの戦績と陣容紹介  
     
10期     準々決勝の武相戦、延長13回の惜敗―10期
岸・竹内の好バッテリーと三宮のキャプテンシー
三宮有治
     
11期 夏の大会で武相と因縁の対戦、翌日再試合に―11期
前年の8強入りで小島主将は甲子園見学
小島=鎌田=清
     
11期 「人生の岐路」で出会った立教大野球部の篠原監督 手島晴幸
     
12期 12期チーム、OBの田中監督が采配
公立強豪校の評判の裏で部員減
 
     
13期 岸監督の厳しい指導で夏の大会16強入り
練習・試合で声枯らした野球部生活―13期
小黒誠二
     
14期 野球部存続の危機に直面の14期チーム
5人の部員、応援組を得て秋・春の県大会出場
 
     
15期 15期チームの戦績と陣容紹介 峰野謙次
     
16期 夏の大会敗退時のすがすがしさ
トラブルもあった16期チーム回想
齋藤秋英
     
17期 「ないない尽くし」で県大会に連続出場
選抜優勝の横浜高相手に善戦―17期
中野宏勝
     
17期 立教大OBとしての大学野球の回顧録 中野宏勝
     
18期 18期チームの戦績と陣容紹介  
     
19期 のびのび多摩旋風、創部後初のベスト4に
仲間同士の信頼で大きな力を発揮―19期
佐藤純夫
     
19期 チーム仲間が背中押した「忘れられない一球」
ベスト4進出を決めた南高戦8回裏の攻防
大森正久
     
19期 「勝つことよりも負けない野球を!」
19期ベスト4の監督時代を振り返って
峰野謙次
     
19期 甲子園初出場に一役買った19期エース大森君の野球指導 伊藤努
     
20期 20期チームの戦績と陣容  
     
     
  「野球部愛」に貫かれた恩人2人の半生
宇田川彰OB会長と田中輝夫監督の思い出
伊藤 努
     
     
  【多摩高野球部歴代監督一覧】  
     
     
  【特別寄稿】
多摩高野球部「私設応援団」が見てきた高校野球
橘 眞次
     
     
  【閑話休題:グラウンドを離れて】  
     
     
  高校野球部後輩M君の人生大逆転  
     
     
  高校野球部のOB大会と母校の評判  
     
     
  高校野球部創部60年、大先輩への聞き語り  
     
     
  恩師に瓜二つの後輩を見ての驚き―人生の交錯  
     
     
  高校野球の女子マネージャーの今昔  
     
     
16期 神奈川県立多摩高校野球部部史「補遺」
野球部マネージャーの「気苦労」と「心意気」―16期=
澤田みち子
     
17期 50年後も記憶鮮烈な2年先輩15期チーム
=強豪に善戦、中身濃い4カ月の野球部生活=
太田伸彦
     
15期 秋の県大会、延長14回の死闘
=甲子園全国優勝の桐蔭学園に惜敗=
峰野謙次
     
  【編集後記】  

神奈川県立多摩高校野球部 部史 (創部60周年記念事業)より転載




 
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多摩高野球部 24期チームの足跡 多摩高24期


「3対2、横浜商工!」
 試合終了の挨拶をかわすや否や、3年生は言うまでもなく、1・2年生もまさに号泣して悔し涙にくれた。
 昭和55年7月15日、秦野球場での夏の大会。
 よもやの1回戦敗退の屈辱は、1・2年生の誰もが忘れられぬものとなった。

‥‥‥‥‥‥‥

 24期岩本雄一を主将に据えた新チームは、3期・田中輝夫新監督を迎え、校内夏合宿をはさんで約1カ月、気の入った基礎練習を積み重ね、みるみる鍛え上げられていった。
 雪辱に燃える新チームが、短期間で力をつけているのは誰の目から見ても明らかで、快進撃を予感させる頼もしさが感じられた。

 秋の川崎地区予選をなんなく3戦全勝で突破し、県大会へと駒を進める。

【地区予選結果】
・7‐4 百合ヶ丘
・6‐0 橘
・9‐0 柿生西

 県大会では、津久井戦を皮切りに、好投手・中川(後にドラフト3位でヤクルトへ)を攻略して強豪向上を破り、勝利を重ねていった
 結果、本校では初の秋の大会ベスト4という記録を残すこととなった。

【秋県大会結果】
◆1回戦
津久井 000 000 000|0
多摩高 220 300 01x|8

多摩は初回から全く津久井を寄せつけず快勝。斎藤は5死四球を出しただけの好投で、ノーヒットノーランを達成。「コントロールは悪かったが、スピードはあったし、カーブも良かった。7回頃から記録を意識した」(斎藤談)。

◆2回戦
多摩 002 001 001 2|6
向上 000 120 100 0|4

向上は、夏に全国制覇した横浜を4安打3失点に抑えた豪腕中川が健在。接戦に持ち込みたい多摩は3回、矢島の二塁打等で2点を先制し先手をとる。5回に逆転を許すも6回すかさず同点に追いつき、思惑通りの展開で試合は後半へ。7回1点のリードを許すも、9回に本山のスクイズで再び同点とする。延長10回に平田の二塁打で勝ち越し、続く山崎も三塁線を破り貴重な追加点をあげる。その裏、2死1・3塁と粘る向上をなんとか抑え逃げきった。

◆3回戦
多摩高 000 200 001|3
上溝南 000 000 000|0

連投の斎藤は前日の疲れと、3回に受けたピッチャーライターの右中指つき指のため、球威・制球ともに苦しんだものの要所を抑え零封した。打ちあぐねていた打線も4回に敵失から2点を先制し、9回にも3連打でだめ押しの1点を追加し勝利した。

◆準々決勝
多摩高 012 300 000|6
横須工 000 001 000|1

守備力の差がそのまま得点差に表れた試合。3回までに多摩は敵失に乗じて無安打で3点を取り、4回には4安打を集め3点を追加し早々に試合を決めた。県横須賀工も6回に1点を返したが、反撃もそこまで。これで多摩はベスト4進出を決めた。

◆準決勝
多摩高 112 000 000|4
日藤沢 132 101 34x|15

連投の斎藤には疲れが見られ、救援の平田も本来の力が出ず、強打の日藤打線に滅多打ちを浴びる。守備範囲の広い中堅・中島をもってしてもはるかに届かない打球が左中間・右中間の奥深くに飛び交う。5回を除く毎回安打の猛攻で大量15点を献上し大敗。
多摩も3回、菊本の二塁打等で同点に追いつくが、試合になったのはそこまでだった。

‥‥‥‥‥‥‥

「何だこの惨めな試合は!  負けるにも負け方があるだろう!」

 試合後、田中監督の声がロッカールームに響いた。
 不甲斐ない惨敗に悔しさと怒りで顔を紅潮させる田中監督の姿に、経験のない大敗に意気消沈した選手は悟った。
 関東大会、いや、その先の春の選抜に繋がる大事な試合を、一番強い気持ちで戦っていたのは、選手ではなく田中監督だった。
 ここでまた、チームは反省を胸に秘め、一丸となって新たなスタートラインに立った。

 さて、BクラスからAクラスの下に入りかけた我が多摩高野球部は、夏に向けて、いよいよいい加減な試合はできなくなってきたのである。
顧問 森田 利三
マネジャー 野村 由紀

※本文は1981年3月1日発行の図書館雑誌第11号に掲載された記事を修正したものである。
‥‥‥‥‥‥‥

 24期チームは、翌年夏の大会で第3シードを勝ち取る。4回戦で東海大相模に1‐4で敗れるまで、田中監督と共に強い気持ちで戦い続けた。
 無論、いい加減な試合などは決してなかった。


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岩本秋雄先生(享年88)を偲んで 多摩高14期 伊藤

母校の物理教師・岩本先生の型破り人生

 
誰でも経験することだろうが、人生も自身が中高年世代になると、これまでにお世話になったり、付き合いが深かったりした学生時代の恩師や職場の上司・同僚、友人の訃報に接することが多くなる。寂しいことだが、同時に人生の来し方を振り返る機会ともなる。最近も高校時代の友人、恩師が相次いで亡くなり、葬儀に参列するなどして故人の冥福を祈らせていただいた。

 そうしたお一人である高校時代の恩師の岩本秋雄先生(享年88)は母校の教え子の間では、型破りの教師として長く記憶されていくのではないだろうか。小太りで赤ら顔、ぎょろりとした大きな目にだみ声と書けば、容姿もユニークだった先生の人物像が少しは思い浮かべていただけるのではないか。

 筆者は高校在学中、岩本先生には物理の担当教員と硬式野球部の顧問としていろいろとお世話になったが、ご自宅がある神奈川県大和市で営まれた葬儀には、先生が二十数年にわたる母校在職中に何度か学級担任を持たれた年次の卒業生や野球部、生徒会のOBたちが多数、姿を見せ、遺族が手配した家族葬兼一般葬向けの会場には着席できず、焼香のための教え子の参列者は部屋の外にあるフロアいっぱいになっていた。

 ここでは、岩本先生の長い高校教師人生のごく一端を紹介したいが、校内ではいつも白衣姿だった物理教師としての本務のほかに、大学進学を目指す生徒に対する熱心な受験指導や、野球部以外にも生徒会や女子ソフトボールチームなどさまざまな部活の顧問としての活動など、単なる高校教師というよりも、卒業後もさまざまな機会を通じてアドバイスをいただける人生の師と言える存在だった。そうした教え子が何人もいる。

 物理の教師ということで、理系学部への進学を希望する生徒に対する指導は、教科書の学習は年間授業計画の半分の期間で早々と済ませ、入試問題の過去問などを解かせる実践的な方法で、理系学部への進学実績を上げることに大いに貢献した。その半面、物理が苦手な文系志望の生徒には、授業内容のレベルが高過ぎて、「岩本先生の授業はチンプンカンプン」という声も付きまとったが、豪放磊落な先生はそんな批判にはお構いなしに、分かりやすい授業を心掛けることはなかった。分からないことは「自分で勉強せよ」ということだろう。

 そんなわけで、筆者が所属していた野球部の諸先輩・後輩たちも、日々の練習が厳しいこともあってか、物理科目の成績評価はほとんどが10段階評価の「3」以下の評点に付く赤点だったが、必修の物理の単位取得に必要な3学期の成績だけは、学年末の試験対策を施してくれて、何とか「4」以上の評点を取ることができた。いわゆる下駄を履かせてもらい、それで進級できたわけである。

 受験指導は教室だけで終わらないのが岩本先生流だった。筆者の場合もそうだったが、先生が目を付けた(?)生徒に対しては、文系、理系を問わず、あるいは担任を持つクラスの生徒であろうとなかろうと、高校3年の秋になると、家庭訪問と称して夕刻・夜間の時間帯を見計らって生徒の自宅を訪ね、教え子の保護者(親)と進学について話し合うことを熱心にされていた。大事な用件が済むと、酒を酌み交わしながらの懇談に移るのが常のようだった。今から数十年前の時代環境だからこそ、あるいは岩本先生独特の人間関係構築のやり方が許された社会状況だったからこそ、問題なく行われていた家庭訪問なのだろうが、ほかの先生にはちょっと真似ができない指導方法ではないか。

 岩本先生は高校在職が21年目を迎えたときに、長男が同じ高校に入学したため、横浜市内に新設された県立高校に転任され、管理職である教頭に就いた。しかし、教室内外での生徒への直接指導と人間的交流を何よりも大事にされた先生らしく、しばらくして教師の職を辞し、前任高校で最初に担任を持った教え子の誘いで、この教え子が経営する企業の子会社幹部となった。岩本先生のお通夜の席で、母校野球部の主将もやった喪主の長男(56)は参列者へのあいさつで、「教師を定年前に辞めた父は昔の教え子の方の誘いで(子会社の経営者という)居場所を得ることができ、家族としては大変感謝しています」と謝辞を述べていた。

 晩年は長野、山梨両県の境にある八ヶ岳山麓に山荘を構え、悠々自適の生活だったが、教え子が訪ねてくると、夜遅くまでの酒盛りとなることが少なくなかったという。そんな思い出話を連絡してくれた教え子で、筆者の1年先輩の元公立高校教師のNさんは「巨星墜つ」と表現して、岩本先生の見事な教員人生を振り返っていた。(了)

14期 伊藤
 

 
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